《追 憶11   開祖 榊原大菩薩


【自分以上の自分はなく自分以下の自分もない


 過日、『芥川賞』を取った『荒川満』という人の『幸福論』という本を読んでおりましたら、その中に、こんな詩が載(の)っておりました。
 『憧(あこが)れと諦めの狭間(はざま)を ゆらゆら揺れながら 夢を追い続けて行く いつまでもどこまでも それが人生・・・』
 人間というものは、憧れと諦めの狭間(はざま)をゆらゆら揺れながら、夢をいつまでもどこまでも追い続けて行くのが人生なんだ、と言っているのです。そして、次のところにありますのが、
 『夢を見つけること その夢を追い続けること いつまでもどこまでも それが幸福・・・』とあります。幸福というものは、いつまでもどこまでも、夢を見つけて追い続けて諦(あきら)めてはいけない、ということなのです。
 『そして臨終(りんじゅう)をどんな気持ちで迎えよう これまで辿(たど)って来た人生の何もかもが あぁ何と懐かしい そう思えるような思い出作りのために生きる』と書いてありました。
 人間は死ぬ時がきて、あの時は嬉しかったなぁとか、あの人が私を大事にしてくれたとか、あの時は本当に素晴らしかったとかいう良い思い出、美しい思い出、そういう思い出作りのために、今日を良い一日になるように生きて行こうということを『幸福論』の中で言ってみえるのです。
 この本の後書きで言っていることは、
 『日本人は幸福であるが、幸福である顔をしていない。それは幸福の哲学を持っていないからだ』
 日本人は経済に恵まれて、素晴らしく幸福になったけれども、それが不思議と幸福な顔をしていない。それは、金に恵まれ物に恵まれ過ぎて、幸福のありがたみが分からなくなっているからではないかと言ってみえます。
 幸福の哲学とは何かといいますと、私は良い宗教を持つことだと思います。人生は、幸福に慣(な)れてしまえば当り前のことなのです。やがては不足に変わってしまうのです。どれだけ幸せだといわれても、慣(な)れてしまえば当り前。それは、いつか不足になるのであります。ですから新宗連では『少欲知足(ちそく)の哲学』を提唱(ていしょう)されております。それは今日一日を足ることを知って喜ぶ哲学を持たなければ駄目であるという意味でありまして、そうしませんと、どこまで行っても切りがありません。
 過日、『新宗連』の全国総会が九州の筑紫野(ちくしの)市でございまして、私も出席させていただきましたが、『太宰府(だざいふ)』の近くでございました。私は、ここまで来たなら一度、天神様を拝んで来なければいけないと思いまして、お参りに行ったわけであります。
 菅原道真(みちざね)は素晴らしい人だなぁと思います。この人は学者であり政治家でありまして、そうして藤原時代の実力者、藤原の時平を押さえて醍醐天皇の覚え目出度く右大臣に任命された方であります。左大臣・藤原の時平の右翼に立って右大臣・菅原道真といわれたのです。それが妬(ねた)まれることになって、遂に、九州の太宰府に、名目は一地方長官ですが島流しになってしまったのです。そこで、庭の梅の木に、
 『東(こ)ち風吹かば 匂(にお)い起こせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな』と有名な歌を書いて残しました。あれは梅の木に言ったのではなく、自分に対して言われたのだと思います。それは、春が来たならば、主(あるじ)はいなくても春を忘れず希望を持って、花を咲かせなくてはいけないということです。
 そして、太宰府に行っても藤原氏を恨まなければ天皇も恨まなかった。天皇から貰った官衣を床の間に飾って、毎日、敬って合掌されたといわれております。
 そして、月を見て、
 「あの満月の月に、どんなに雲が掛かってもいつかは晴れる時がくる。それと同じように、私の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)もいつか晴れる時がくる。私は怒りもなく、憎しみもない」と言って、三年間の歳月を送られたのであります。そうして五十八才で亡くなってしまわれたのです。それから『藤原一族』は良いことがない。悪いことばかり起きてきたのです。
 それで、藤原道真を島流しにしたり粗末にしたということの罰(ばち)が当ったに違いないといって、遂に、藤原氏は菅原道真を太政大臣に推薦(すいせん)し、天皇が正一位を贈(おく)られたのであります。そして、京都北野の地に天神様としてお祀りをされたのであります。
 そして、一条天皇が、この北野天満宮に行幸して参詣されるというまでになったのであります。
 こういうことがありまして、菅原道真は名誉を回復することができました。それから一千年後の今日に至るまで、文学とか進学とか、筆の神様として大繁盛しているのであります。
 私はお参りをしましてビックリしました。修学旅行や一般の参詣で、大祭のように毎日が賑(にぎ)わっているのであります。私はその姿を見て、恐らく菅原道真が九州に流されるということがなかったら、こんなに流行(はや)る神様にはなれなかっただろうと思いました。
 菅原道真は、身に覚えのない罪を着させられても堪忍をしました。流されても恨まなかった、怒らなかったというところに、それから一千年の永い間、人々から神として敬われる資格がその時できたのであります。だから、堪忍という徳は大きいですよ。
 バークという作家が『忍耐は力以上のものを我々に授けてくれる』と言っています。
 忍耐をするということは、力のない人に力以上の力を授けてくれる道なのだ。五しかない力が十になり二十になるのは、忍耐をした力だということを知らなくてはいけません。これを人は、「俺を馬鹿にしている」と言って怒ってしまうから、逆に五の力が一になってしまうのです。怒るから逆に不幸になってしまうのです。だから、藤原道真のように忍耐力を持たなくてはいけません。
 「俺は正しい、皆が間違っている」ということを言ってはいけません。
 「俺は間違っていない」ということは、他人を罪人に落とすことになりますから、自分が正しいなんていうことは言わない方が良い。黙って堪忍している方が、やがて世間の人が、
 「あの人は本当に立派な良く耐えた人である」と言って、その人の価値を何倍にも何十倍にもして評価してくれる時がくるのであります。
 話は変わりますが、一万円札の福沢諭吉が言っていますが、
 「少年の時代から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の体に触(ふ)れたことはない」
 これは怒って人を叩(たた)いたことがないということなのです。拳骨(げんこつ)で人を叩(たた)く人は一万円札を持つ資格がないと思って下さい。絶対に怒ってはいけないということなのであります。
 九州には鹿児島から西郷隆盛という人が出ています。西南戦争で最後は官軍に負けてしまったのですが、西郷さんは最後が不味(まず)かったですね。
 『人を相手にせず、天を相手にせよ』と言ったのは西郷さんなのです。
 『天を相手にして人事を尽くして人を咎(とが)めず我が誠の至らざるを尋ぬるべし』と言った。それは、天を相手にして人を咎(とが)めてはいけない。天を相手にして人が悪いと思うな。そして、もしうまい具合にいかなかったら、自分の誠の足らないことを良く考えて反省をしなさいと言ってみえるのであります。
 そうおっしゃったのですけれども、この人の人生の一番最後に『人を相手にせず』と言った人が、人を相手にしたのが不味(まず)かったなぁと思いました。最後にきて西郷さんは自分の言った思想通りにいかなかった。それは、自分の教えている生徒達が先に兵を挙(あ)げてしまったために、見殺しにできないという同情すべきところが沢山あるのです。
 もとはといえば西郷さんが征韓論(せいかんろん)に敗れた時に、怒ったことから始まっているのであります。大久保利通一派との争いに敗れて、
 「俺はもう、お手伝いをしません」と言って、明治政府に見切りをつけて身を引いてしまったのです。ここで怒らなかったら良かったけれども、人相からいったら西郷さんほど徳のある人はいないけれども、怒ったばかりに運命が主流からはずれてしまったのです。このようなことを思いますと、
 『忍耐は宝である』ということを考えていただいて、生きていくことが大事であります。
ですから、
 『理に従えば裕(ゆたか)なり』と言って、最後に人間は感情に走って理に反する行動にいってしまうのですが、常に仏様が喜んで下さるか、天地自然の法則に添っているのか、ということを一日に二度も三度も自らを振り返るということが大事だと思います。
 とにかく怒ってはいけません。良いふうに悟らなければいけません。
 『自分以上の自分もなく自分以下の自分もない』
 自分の幸せも自分以上の幸せは来ないし、自分以下の不幸(ふしあわ)せも来ません。自分の価値に応じた人が集まって来る。嫁と姑も夫婦もみな、点数が似ているのだ。だから、自分以上の亭主もなければ自分以下の女房もない。だから『いつも自分の徳と価値だけの人生しかない』と思って、自分の徳を高める努力をすることが大切ではないかと思うのであります。

合 掌