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世界平和を
大樹
すばらしき人生135
 春を感じる季節になりました。三月を旧暦で弥生といいます。月を通して卒業式や送別会が行われ、出会いと別れの時期でもあります。今年も暖冬ということで、桜も早めに開花するといわれております。地球温暖化の影響により先月関東で雪が降ったとき、雪と雷(雷雪)が発生しました。日本海側では時々発生しているようですが、太平洋側では非常に珍しいことだそうです。これも海水温が高いためにできた現象と思われます。

 二酸化炭素を大幅に削減しないと、私たちの住む環境が悪くなります。世界規模で人間一人ひとりが真剣に考えて温暖化対策を本気で行わないと、将来、私たちが住める場所はなくなってしまいます。すべての人々に対する思いやりが大切ではないでしょうか。

 一月の元旦祭と二月に入り節分厄除祈願祭には多くの信者の皆さまにご参拝をいただきありがとうございました。釈尊涅槃会も無事執り行われ、通常の日常が取り戻せたことに感謝しております。行事ができることは、当たり前ではなく、ありがたいことだと新型コロナウイルスの蔓延によって気づかされたと改めて思っております。しかし、まだ完全に安心できるわけでは無いので、終息宣言が出るまで感染予防対策を継続的に実施しないといけないと思います。

 私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。四国は四県ですが、日本一面積の狭い県が香川県です。その香川県はK課長と部下三名で構成されておりました。K課長は優秀ではない人でした。管理職はできが悪くても、部下が優秀なら問題はありません。

 彼には、優秀なNさんという営業部員がいました。まだ三年目なのですが、彼は自分のやるべき仕事を理解しております。Nさんには先輩のYさんとSさんがいました。彼らもほぼほぼ、自分のやる仕事を理解しておりました。

 上司があまり良くなくても、売り上げは上がります。部下さえきちんと仕事をすれば、間違いなく上がるものです。ただ、部下から見ればこんな上司にはなりたくないと思うかもしれません。そして、営業の最前線で戦っている部下への士気が下がることもあるかもしれません。

 そうならないように、普通の会社は会社としてのビジョン(将来の展望)があり、支店の中でも共通のビジョンがないとだめなのです。全員が同じゴールを目指し高い目標にチャレンジしなければ、組織とはいいません。それは、ただの個人商店の店員ということになってしまいます。個人、個人がそれぞれのやり方で、それぞれの手法でチャレンジしても、共通のビジョンがないと会社の組織とは呼べないのです。

 昔の営業は先輩の背中を見て育つ、とよくいいましたが、それには何のロジック(論理)もありません。私はこのように考えます。まずはコミュニケーションです。そして、部下のやりたいこと、将来像などのヒヤリング(聞き取り調査)を行います。そして、一度本人のやり方で仕事をさせます。しばらく様子を見て、問題があれば解決方法を指摘するのです。

 失敗する人は改善すべき点がたくさんあります。まずは、基本の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を磨くことを勧めます。

 失敗する人に共通することは、第六感が弱い点です。いわゆる「直感」です。この世の中は、チャンスがたくさんあるにもかかわらず、直感が鈍っているとチャンスがチャンスと思わずに、取り逃がしてしまうことです。

 常に、そういうアンテナを張りめぐらすことが成功へのチャンスをつかみ取ることなのです。そう簡単には直感を磨くことはできませんが、それを意識して行動すると自然と身についてくるものです。

 成熟した会社というものは、風通しがよく、本社の指示が支店まで届き、そして、課、個人というように一貫した指示が通る会社です。

 しかし、どんな会社や組織にも抵抗勢力というものはつきものです。ただ、反対することに労力を使い、肝心な仕事がおろそかになっては、本末転倒です。だから、共通のビジョンを理解し実行することによって、継続的に目標達成をすることが可能となっていくのです。

 さて、仏教は「考えることのない原始脳の感情で判断してはいけない」といいます。人間は感情で判断してしまいますが、感情の判断は間違いなのです。「感情でも正しい判断はできるのではないか?」と、異論を唱える人がいるかもしれませんが、それは、その人が目先の結果を見て正しいと決めるだけです。感情で行う判断は表面的にはどのように見えても、根本的に間違っています。

 怒ったら人を殴ります。怒ったら人に怒鳴ります。やっている本人は、正しいことをしていると思っています。殴ったり怒鳴ったりの行動は大脳の指示で行うので、要は大脳が判断したことになります。しかし、判断したりするために参照したデータは、自分の怒りです。怒りは思考能力のない原始脳の信号です。だから、なぜ殴ったのかと殴った人に聞いてみると「だって私は怒ったのだから」などという答えが返ってくるのです。これは屁理屈です。怒ったら人を殴ってもよいという理屈は成り立ちません。仏教は決して感情や気持ちで判断してはいけないと教えているのです。

 生きるためには、何から何まで判断して行動しなくてはいけません。そのときに人々がよりどころとするのは存在欲と恐怖感です。これはとても危険なことです。だから、人々はいくら努力してもいっこうに幸福になれません。人生は連続して起こる失敗の流れと、その結果として生まれる悩み、苦しみによって構成されているのです。

 私たちが理解できないのは、原始脳は自分の存在のみを気にするので、他人の命など関係ありません。外に広大な世界が存在することすら、原始脳は知りません。

 大脳を使って物事を勉強すれば「命は自分勝手だけでは成り立たない」という事実を簡単に理解できます。しかし、原始脳は、客観的なデータに合わせて生き方を調整することはしたくないのです。自分が生き続けることだけを気にします。そこで、人間には世間に関する知識があるにもかかわらず、自分の都合のみを考えて判断してしまうのです。

 たとえば、「会社で横領してはいけない」と知識では知っていても、生き続けたいという原始脳の衝動が凶暴なので、横領してしまうのです。ここで大事なことは、みんな自分の都合で生きようとしますが、生きるということは「私」の都合で成り立つものではないのです。

 自分が生きていたいから、自分の会社が儲かりたいからといって、ライバル会社を陥れようとする行為はどうでしょうか?世間は「会社の利益のために行った行為なので、正しい業務だ」とは理解してくれません。

 ライバル会社の存在を脅かす行為なので、世間の立場から見れば、それは犯罪です。高い金額を弁償することになります。儲けようとしたところ、逆に業務停止にもなりかねません。それで全部終わってしまうのです。

 このように私たちは、人生が台無しになることを結構やってしまいます。その理由は、感情で判断しているからです。私たちが生きることは、自分の都合で成り立たないのだと理解しなくてはいけません。世間は因果の法則によって成り立っているからです。

 たとえば、空気が汚れたとしましょう。すると、いくら生きていたくても生きられません。身体は感じなくても、放射能で被爆すると細胞が壊れます。

 命が成り立つためには、世間とうまく調和しなくてはいけない。自分の勝手な判断で生きようとすれば、その人は因果の法則によって潰れてしまいます。ここでいう世間とは、人間、他の生命と自然環境を表します。

 生きるためには、当然、私一人の努力が欠かせませんが、「私一人の努力」とは、原始脳の感情に身を任すことではありません。個人が因果の法則に合わせて世間との調和を保つことが「私一人の努力」なのです。

 幸福に生きたいと思う人は、「大自然の因果関係」と「人間社会の決まり」と「他の生命との因果関係」の三つは、すべて「調和」という一言でまとめられます。物事を観察してみれは、だれでも発見できる当たり前のことです。

 生きる上では自分のエゴ、自分の感情、自分のわがままなどは、何一つ通用しないのです。この事実を「生きているのではない、生かされているのだ」と表現しますが、「生かされている」という言葉は、仏教では正しくありません。「因果の法則によって命が成り立っている」というのが正しい言い方です。

 判断するときは、感情ではなく客観的なデータに基づきましょう。怒り、嫉妬で判断しない。欲で判断しない。存在欲からくる感情「私は生きていたい、私はお金を儲けたい、私は人気者になりたい」などの目的があるときでも、判断は客観的なデータに基づいて行うべきです。そうすれば成功する確率も高くなります。

 幸福に生きるためには、感情の誘惑に負けず、客観的なデータに基づいて判断することが必要です。しかし、客観的なデータに基づいて判断する能力は、生まれるときにはついていないので、自分で育てなくてはなりません。

 人間は、より楽に生きるために、さまざまなことを学び、習得してきました。人間と他の生命の違いは、学ぶか学ばないかという点に尽きます。他の生命も、それなりに物事を学んで安全に生きようとしていますが、人間ほどたくさん学ぶことはしません。人間社会が築いた文化(知識も含む)を学ぶことで、人間らしい人間になるのです。

 では、お釈迦さまが言われた「学ぶことがない一般の人々」とは、いったい誰のことでしょうか?私たちは、みんないろいろ学んでいます。現代を生きる人間みんなに、学びがあるのです。

 しかし、私たちが学び続ける理由ですが、一つ目は存在欲です。人は生きていたいのです。できるだけ快適に、楽に生きていたいのです。それで、学び続けるのです。

 二つ目は恐怖感です。存在を脅かすものを克服しなくてはいけないのです。それで医学も進歩したのです。

 大事なことは、人は原始脳の衝動で学びます。客観的な事実を発見することなく、ただ存在欲と恐怖感に必要なデータのみ発見して学ぶのです。

 科学は人を生かすことと殺すことの両方向に進歩しましたが、「生きるとは何か?」「生きる目的はあるのか?」「正しい生き方、間違った生き方はあるのか?」「何を目指して生きるべきか?」などなど科学では発見することはできません。

 存在欲と恐怖感のために学び続けることがあっても、その結果として知識人になっても、お釈迦さまの立場から見れば、物事をありのままに見ない、判断しない、「学ぶことがない一般の人々」ということになるのです。

 物事をありのままに見るためには、感情に支配されないように、冷静に判断できる力を身につけることです。そして、常に平常心で何事にもとらわれない、無執着なこころ、いわゆるこころが「空」の状態まで高めることなのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法の力の偉大さを説かれました。人は、この妙法を深く、深く信じるときに真理に目覚めるのです。

 常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。そして大難が小難に小難が無難へと罪障を消滅することができるのです。常に妙法を信じて唱えていれば護られるということです。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても重要です。人間すべてに備わる『仏性』を信じて、三徳を実践することです。まずは慈悲のこころを育てることです。慈しみを育てるということは、具体的には「見返りを求めず、人に善いことをして差し上げる。そして、相手が喜んでいる姿を見て、素直にこころから喜べるかどうか」です。そうなれば、慈しみのこころが善い方向へと育っていくのです。

 こころが育てば人格も向上していきます。三徳の実践を積極的に努力・精進することで、必ず〝すばらしき人生〞へと高めることができるのであります。


   合 掌

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