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大樹
すばらしき人生143
十一月は旧暦で霜月と呼び、新暦の別名でも用いております。「霜月」は文字通り霜が降りる月の意味であります。先月までは暑い日もありましたが、さすがに十一月は秋と冬のさかいの季節であり、寒い日もありますが、しばらくは過ごしやすいと思っております。
今年の台風は、進路予測が難しかったです。例年の通過パターンとは異なっておりました。海水面の温度の上昇により、上陸する直前まで勢力が衰えませんでした。また、偏西風まで届かず、台風が迷走することもありました。そして、例年と違ったコースを通るようになったことも今後の参考となるでしょう。
いずれにせよ、地球温暖化がもたらす現象と思われます。過ごしやすい日常が取り戻せるよう頑張らないといけません。地球は生き物です。生かすも殺すも人間次第です。そのことを肝に銘じて対策を取っていくことが極めて重要だと思います。
今月は立教五十一年祭を開催させていただきます。半世紀、法公会を存続させていただいたのも、信者の皆さまのお陰であります。感謝しております。十一月十日には、多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。静岡S総合病院を担当していたときに、小児科のM先生は、下垂体性小人症の治療をされておられました。患者数は十名程度でした。
先生に面会し、成長ホルモンの治療について意見をいただきました。ほとんどが成長ホルモンの部分欠損という症例でした。私は先生にこの治療に関する、テーマや目的など聞き取り調査をさせていただきました。
先生のお考えは、成長ホルモンは治療成績もよく、確実に背が伸びることを患者さまが、説に望んでいるところです。先生は、それを理解しているので、できるだけ背を伸ばせてあげたいという気持ちでおられました。
ただ問題なのは、週六回の注射です。ほぼ毎日の注射が患者さまの負担になるかと言えば、それが一番の問題になります。毎日の注射は痛みを伴います。できるだけ軽減したいのは患者さまの本音です。
注射液量は体重により決められます。そこで、体重の多い患者さまをターゲットに攻略する作戦を練りました。
弊社の製品には通常の四倍の濃度の製品もあります。これを体重の多い患者さまに使用してもらえれば、注射液量が四分の一になり、注射時の痛みの軽減になります。このことをM先生に訴求し、理解していただき、痛みの軽減になれば患者さまの負担も減るということで、積極的に切り替えをしていただく確約を取りました。
先生はもっと患者さまを増やし、治療の幅を広げたいというお考えでしたので、外来に成長曲線の患者さま向けのチラシを置き、患者発掘のお手伝いをしました。また、外来待合室にディズニーの絵本も常備させていただき、少しでも患者さまが病院でリラックスできるようにと思い提供しました。
これまで弊社の患者さまは、たったの二例でした。残り八例が他社製品でした。まずは、患者を増やすことを念頭に活動していきました。確定診断をする場合、四種類の負荷試験があります。その中で治療への確率の高い負荷試験を提案させていただき、その後、半年かけて新規患者さまが十例増えました。全部で二十例になったところで、M先生に体重の多い患者さまから順次、弊社製品への切り替えを依頼し了承していただきました。先生は治療が必要な患者さまが増え、医療で貢献できることに満足をされておりました。最終的に弊社製品の患者さまが十八例、他社二例という結果になりました。
M先生が目指す医療に、共感し、共有し、どのように実現していくのかを提案することが、私たちの大事な仕事です。そのお手伝いをどのようにできるかが、私たちに求められる大きなスキル(能力)なのです。そのための惜しみない努力を継続することが大きな成果につながると信じております。
さて、仏教的に考えますと、人の癖というものは、反射的に行動してしまいます。「その行為行動をしていいのか?」と考えることはしません。
癖は先入観になります。先入観とは、データを調べる前に判断して結果を出すことです。脳に悪い癖がついたら、「やるのは当たり前」という気持ちになるのです。やっていることが善いことか悪いことかおかまいなしで、何の躊躇のないままに行動をしてしまいます。
本人は「ついやってしまった。癖でやってしまった」などの言い訳をしますが、やったことは悪いことです。「癖が悪行為にならないよう気をつけるべきだ」と、前章で述べましたが、癖が先入観になると、気をつけることができなくなるのです。
だから、先入観に気をつけましょう。調べてみれば、私たちにはたくさんの先入観を持っていることを発見します。
客観的に物事を調べる癖、行動をする前に結果を考える癖、世の中の常識を参照にする癖、善悪の判断をする癖を身につけなくてはいけません。それで先入観が制御されます。この新たな癖が身につくと、やめるべきことはやめ、行うべきことができるようになります。
私たちは、五根の刺激に依存しております。眼・耳・鼻・舌・身という五根が機能しないと生きていられません。
しかし、その刺激に依存することは問題です。生きるためにものを見る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れるのは普通です。しかし、刺激を受けて快楽を感じるために、見る・聴くなどを追うことは問題です。刺激になれば、やってはいけないことをやったり、やらなくてはいけないことをやらなかったりするのです。
子供は、勉強をしなくてはいけないのにゲームに夢中になりますが、それは依存です。
「やめられない」という言葉は、「五根の刺激に依存している」という意味です。タバコをやめられない、酒をやめられない、などなど、やめられないものは結構あるものです。これは依存症です。
依存の中には、無視できる依存もあります。朝起きてすぐ新聞を読まなくては気が済まない、朝コーヒーを一杯飲まなくては目が覚めない。ふとんに入って音楽を聴かないと寝つけない。などなどの依存は大きな問題を引き起こしません。しかし、ネットに依存して仕事をさぼってしまえば大きな問題です。
五根とは、刺激を受けて快楽を感じるための道具ではありません。五根とは、生きるために欠かせないデータを取り入れる窓口なのです。
大脳の使い方を間違えると、大脳が依存症に罹ります。それは癖とは違う現象で、精神病理の世界に見られる現象でもあります。
たとえば、ある人が「周りが自分の悪口を言っている」と思うとしましょう。その妄想を繰り返し回転させると、他人の話やしぐさなどすべては、自分の悪口を言っていると脳が判断するようになります。
すると客観的なデータを調べて判断する機能が壊れます。データを処理する過程で脳の依存症が働きだして、決まっている判断のみを出すのです。この場合は、人が咳払いしても、自分の悪口を言っていると判断してしまいます。
このような病に罹らなくても、私たちの脳の中にも多かれ少なかれ、何か依存症がある。そのときは「悪いとわかっていても、やめられなかった。やってしまった」という結果になります。
やらなくてはいけないことについても、けっこうやる気が起きず、後回しにしてしまいます。「あとでやるからいいや」という気持ちには注意する必要があります。
脳も病気になります。といっても風邪をひいたり、脳炎になったりすることではありません。それはお医者さまが治してくれます。依存症こそが脳の手強い病気で、医療では治りません。お釈迦さまが説かれた、こころをチェックする方法を実践して治さなくてはいけないのです。
人は感情のままに生きていたいものです。欲しいものを追い求めたり、嫌なものを避けたりしたいのです。
刺激になる、楽しくなる、興奮できると思ったら、そちらに走る。「楽しければいいじゃない」という哲学もつくる。それは原始脳中心に生きる生き方です。しかし、現実はそうではありません。
たまに遊んで、気を休めるのはかまいません。でも、遊ぶことが、人生ではありません。生きるためには、やりたいことも、やりたくないことも、どちらもやらなくてはいけないのです。寝たいのに、寝ないでがんばらなくてはいけないこともあります。
原始脳の刺激だけを中心にして生きる人々には、これができません。いつも感情に負けて、喜怒哀楽だけを目指して生きようとします。その人々は、やってはいけないことをやってしまいます。「やめたい」と口先では言いますが、やめる気もやめられる力も、持っていません。
生きていきたいと思うのは原始脳かもしれませんが、実際に人を生かしてくれるのは大脳です。原始脳の感情より、大脳の理解能力を重視すれば、やるべきことはやれる。やめるべきことはやめられる。曖昧さがなくなるのです。
「やるべきこと・やめるべきこと」について、十分理解していない場合もあります。大脳が納得しないと、なかなか実行には進みません。
私たちは、物事を良く学んで、理解して自分で納得できるように努力すべきです。それは個人の宿題です。人に「やるべきこと・やめるべきこと」を教えるときも、その人を納得させる義務があります。ただ言っただけでは、相手の脳が反応してくれません。「納得した生き方」をすべきという、自分の宿題をやれば「やめたいけれど、やめられない」という曖昧さが消えます。
人生とは、決して楽に進むものではありません。苦労するようにできております。生まれたときから、やりたくないことをやらなくてはいけないのです。
たとえば、子供は幼稚園に行きたくはありません。お母さんと一緒にいたいのです。しかし、泣きながら幼稚園に行く。幼稚園になれたら、すぐ小学校に行かなくてはいけません。怖くて緊張するので、行きたくはないにもかかわらずです。
嫌々でも小学校に行きます。ときどきおなかを壊したり、高熱を出したりもします。こういうと、大人より子供のほうが苦労に耐えているみたいですね。
大事なのは、死ぬまでこのパターンは変わらないということです。社会人になっても、やりたくないことをやらなくてはいけません。退職したら、激しい孤独感に襲われて落ち込む人がいますが、もう会社に行くことはできません。最後に病気になって倒れたら、医療行為など痛くて嫌なことをいっぱいされるのです。それが人生です。
快楽自体は悪くはありませんが、「快楽を追い求めること」は成り立ちません。その現実を理解して納得すれば、「やめたいだけど、やめられない」という問題を乗り越えることができます。大脳の理解能力を上げましょう。生きることの本当の姿(苦であること)を認識しましょう。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じることの重要性を説かれました。深く、深く信じるときに見えてまいります。私たちが普段探し求めている真理を発見できるのです。ありがたい教えです。信心して信心することが、私たちを明るい未来に導いてくれるのです。
常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。慈悲とは慈しみのこころを育てることです。どうしたら慈しみのこころを育てられるか、それは、具体的には「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方が喜んでいる姿を見て、素直にこころの底から喜べるか」ということです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
人に幸せを与える、それが人生にとって最大の喜びとなります。自分を高めようと努力すれば必ず〝すばらしき人生〞となるでしょう。
合 掌
今年の台風は、進路予測が難しかったです。例年の通過パターンとは異なっておりました。海水面の温度の上昇により、上陸する直前まで勢力が衰えませんでした。また、偏西風まで届かず、台風が迷走することもありました。そして、例年と違ったコースを通るようになったことも今後の参考となるでしょう。
いずれにせよ、地球温暖化がもたらす現象と思われます。過ごしやすい日常が取り戻せるよう頑張らないといけません。地球は生き物です。生かすも殺すも人間次第です。そのことを肝に銘じて対策を取っていくことが極めて重要だと思います。
今月は立教五十一年祭を開催させていただきます。半世紀、法公会を存続させていただいたのも、信者の皆さまのお陰であります。感謝しております。十一月十日には、多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。静岡S総合病院を担当していたときに、小児科のM先生は、下垂体性小人症の治療をされておられました。患者数は十名程度でした。
先生に面会し、成長ホルモンの治療について意見をいただきました。ほとんどが成長ホルモンの部分欠損という症例でした。私は先生にこの治療に関する、テーマや目的など聞き取り調査をさせていただきました。
先生のお考えは、成長ホルモンは治療成績もよく、確実に背が伸びることを患者さまが、説に望んでいるところです。先生は、それを理解しているので、できるだけ背を伸ばせてあげたいという気持ちでおられました。
ただ問題なのは、週六回の注射です。ほぼ毎日の注射が患者さまの負担になるかと言えば、それが一番の問題になります。毎日の注射は痛みを伴います。できるだけ軽減したいのは患者さまの本音です。
注射液量は体重により決められます。そこで、体重の多い患者さまをターゲットに攻略する作戦を練りました。
弊社の製品には通常の四倍の濃度の製品もあります。これを体重の多い患者さまに使用してもらえれば、注射液量が四分の一になり、注射時の痛みの軽減になります。このことをM先生に訴求し、理解していただき、痛みの軽減になれば患者さまの負担も減るということで、積極的に切り替えをしていただく確約を取りました。
先生はもっと患者さまを増やし、治療の幅を広げたいというお考えでしたので、外来に成長曲線の患者さま向けのチラシを置き、患者発掘のお手伝いをしました。また、外来待合室にディズニーの絵本も常備させていただき、少しでも患者さまが病院でリラックスできるようにと思い提供しました。
これまで弊社の患者さまは、たったの二例でした。残り八例が他社製品でした。まずは、患者を増やすことを念頭に活動していきました。確定診断をする場合、四種類の負荷試験があります。その中で治療への確率の高い負荷試験を提案させていただき、その後、半年かけて新規患者さまが十例増えました。全部で二十例になったところで、M先生に体重の多い患者さまから順次、弊社製品への切り替えを依頼し了承していただきました。先生は治療が必要な患者さまが増え、医療で貢献できることに満足をされておりました。最終的に弊社製品の患者さまが十八例、他社二例という結果になりました。
M先生が目指す医療に、共感し、共有し、どのように実現していくのかを提案することが、私たちの大事な仕事です。そのお手伝いをどのようにできるかが、私たちに求められる大きなスキル(能力)なのです。そのための惜しみない努力を継続することが大きな成果につながると信じております。
さて、仏教的に考えますと、人の癖というものは、反射的に行動してしまいます。「その行為行動をしていいのか?」と考えることはしません。
癖は先入観になります。先入観とは、データを調べる前に判断して結果を出すことです。脳に悪い癖がついたら、「やるのは当たり前」という気持ちになるのです。やっていることが善いことか悪いことかおかまいなしで、何の躊躇のないままに行動をしてしまいます。
本人は「ついやってしまった。癖でやってしまった」などの言い訳をしますが、やったことは悪いことです。「癖が悪行為にならないよう気をつけるべきだ」と、前章で述べましたが、癖が先入観になると、気をつけることができなくなるのです。
だから、先入観に気をつけましょう。調べてみれば、私たちにはたくさんの先入観を持っていることを発見します。
客観的に物事を調べる癖、行動をする前に結果を考える癖、世の中の常識を参照にする癖、善悪の判断をする癖を身につけなくてはいけません。それで先入観が制御されます。この新たな癖が身につくと、やめるべきことはやめ、行うべきことができるようになります。
私たちは、五根の刺激に依存しております。眼・耳・鼻・舌・身という五根が機能しないと生きていられません。
しかし、その刺激に依存することは問題です。生きるためにものを見る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れるのは普通です。しかし、刺激を受けて快楽を感じるために、見る・聴くなどを追うことは問題です。刺激になれば、やってはいけないことをやったり、やらなくてはいけないことをやらなかったりするのです。
子供は、勉強をしなくてはいけないのにゲームに夢中になりますが、それは依存です。
「やめられない」という言葉は、「五根の刺激に依存している」という意味です。タバコをやめられない、酒をやめられない、などなど、やめられないものは結構あるものです。これは依存症です。
依存の中には、無視できる依存もあります。朝起きてすぐ新聞を読まなくては気が済まない、朝コーヒーを一杯飲まなくては目が覚めない。ふとんに入って音楽を聴かないと寝つけない。などなどの依存は大きな問題を引き起こしません。しかし、ネットに依存して仕事をさぼってしまえば大きな問題です。
五根とは、刺激を受けて快楽を感じるための道具ではありません。五根とは、生きるために欠かせないデータを取り入れる窓口なのです。
大脳の使い方を間違えると、大脳が依存症に罹ります。それは癖とは違う現象で、精神病理の世界に見られる現象でもあります。
たとえば、ある人が「周りが自分の悪口を言っている」と思うとしましょう。その妄想を繰り返し回転させると、他人の話やしぐさなどすべては、自分の悪口を言っていると脳が判断するようになります。
すると客観的なデータを調べて判断する機能が壊れます。データを処理する過程で脳の依存症が働きだして、決まっている判断のみを出すのです。この場合は、人が咳払いしても、自分の悪口を言っていると判断してしまいます。
このような病に罹らなくても、私たちの脳の中にも多かれ少なかれ、何か依存症がある。そのときは「悪いとわかっていても、やめられなかった。やってしまった」という結果になります。
やらなくてはいけないことについても、けっこうやる気が起きず、後回しにしてしまいます。「あとでやるからいいや」という気持ちには注意する必要があります。
脳も病気になります。といっても風邪をひいたり、脳炎になったりすることではありません。それはお医者さまが治してくれます。依存症こそが脳の手強い病気で、医療では治りません。お釈迦さまが説かれた、こころをチェックする方法を実践して治さなくてはいけないのです。
人は感情のままに生きていたいものです。欲しいものを追い求めたり、嫌なものを避けたりしたいのです。
刺激になる、楽しくなる、興奮できると思ったら、そちらに走る。「楽しければいいじゃない」という哲学もつくる。それは原始脳中心に生きる生き方です。しかし、現実はそうではありません。
たまに遊んで、気を休めるのはかまいません。でも、遊ぶことが、人生ではありません。生きるためには、やりたいことも、やりたくないことも、どちらもやらなくてはいけないのです。寝たいのに、寝ないでがんばらなくてはいけないこともあります。
原始脳の刺激だけを中心にして生きる人々には、これができません。いつも感情に負けて、喜怒哀楽だけを目指して生きようとします。その人々は、やってはいけないことをやってしまいます。「やめたい」と口先では言いますが、やめる気もやめられる力も、持っていません。
生きていきたいと思うのは原始脳かもしれませんが、実際に人を生かしてくれるのは大脳です。原始脳の感情より、大脳の理解能力を重視すれば、やるべきことはやれる。やめるべきことはやめられる。曖昧さがなくなるのです。
「やるべきこと・やめるべきこと」について、十分理解していない場合もあります。大脳が納得しないと、なかなか実行には進みません。
私たちは、物事を良く学んで、理解して自分で納得できるように努力すべきです。それは個人の宿題です。人に「やるべきこと・やめるべきこと」を教えるときも、その人を納得させる義務があります。ただ言っただけでは、相手の脳が反応してくれません。「納得した生き方」をすべきという、自分の宿題をやれば「やめたいけれど、やめられない」という曖昧さが消えます。
人生とは、決して楽に進むものではありません。苦労するようにできております。生まれたときから、やりたくないことをやらなくてはいけないのです。
たとえば、子供は幼稚園に行きたくはありません。お母さんと一緒にいたいのです。しかし、泣きながら幼稚園に行く。幼稚園になれたら、すぐ小学校に行かなくてはいけません。怖くて緊張するので、行きたくはないにもかかわらずです。
嫌々でも小学校に行きます。ときどきおなかを壊したり、高熱を出したりもします。こういうと、大人より子供のほうが苦労に耐えているみたいですね。
大事なのは、死ぬまでこのパターンは変わらないということです。社会人になっても、やりたくないことをやらなくてはいけません。退職したら、激しい孤独感に襲われて落ち込む人がいますが、もう会社に行くことはできません。最後に病気になって倒れたら、医療行為など痛くて嫌なことをいっぱいされるのです。それが人生です。
快楽自体は悪くはありませんが、「快楽を追い求めること」は成り立ちません。その現実を理解して納得すれば、「やめたいだけど、やめられない」という問題を乗り越えることができます。大脳の理解能力を上げましょう。生きることの本当の姿(苦であること)を認識しましょう。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じることの重要性を説かれました。深く、深く信じるときに見えてまいります。私たちが普段探し求めている真理を発見できるのです。ありがたい教えです。信心して信心することが、私たちを明るい未来に導いてくれるのです。
常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。慈悲とは慈しみのこころを育てることです。どうしたら慈しみのこころを育てられるか、それは、具体的には「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方が喜んでいる姿を見て、素直にこころの底から喜べるか」ということです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
人に幸せを与える、それが人生にとって最大の喜びとなります。自分を高めようと努力すれば必ず〝すばらしき人生〞となるでしょう。
合 掌
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