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世界平和を
大樹
すばらしき人生146
 二月を旧暦で如月と申します。現在では新暦二月の別名としても用いています。由来は、二月でもまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)をさらに着る月であることから「衣更着(きさらぎ)」という意味もあるそうです。しばらく寒い日が続きますがお体を大切にしてください。

 年が明け一ヶ月が過ぎました。何もしなくても一日は過ぎていきます。今年年初に引いた短冊を目標に一年を過ごせたら必ず善い年になります。よく短冊は当たるものといわれております。今年の生きる目標として精進することが大事と思います。

 アメリカ大統領にトランプ氏が再選されました。相変わらずアメリカファーストで以前と変わらない様子です。この四年間は彼に振り回されてしまうこととなります。トランプ不景気といわれるかもしれません。しかし、仏教的に考えると彼が思い描いているようにはならないと思います。この世の中は、共存共栄の世界です。一国だけ良ければそれで済む問題ではありません。どこかの国に厳しく対応すれば、必ずその反動があり、自国の不利益にもなりかねません。

 いまだ戦争が終わらない状況にあります。つまらない見栄を捨てて、全世界の人々が幸せになることを願い、国と国が手を携えて未来に進まなければいけません。世界平和の元年になれるよう、国のトップには正しい見識とリーダーシップをお願いしたいと思っております。

 元旦祭には多くの信者の皆さまのお参りをいただきありがとうございました。今月は節分厄除祈願祭がございます。厄払いをして今年一年の無病息災を願うことがとても大事です。皆さまのご参詣をお待ち申し上げます。

 私がサラリーマンのときでした。私が四国に赴任したのが平成十一年四月でした。私たちは、家族四人で四国八十八ヶ所霊場を回りました。一番札所の霊山寺から八十八番札所の大窪寺まで一年かけて巡礼しました。大変でしたがとても良い思い出になりました。

 当時、私は四国の支店長をしておりました。部下のSさんは、成績は普通で特別良くもなければ悪くもありませんでした。見た感じ、元気がなく、とても存在感の薄い人でした。よくこんな人間が営業をしているものだと驚きました。

 まず、彼のことをもっと深く観察し、短所の洗い出しに挑戦しました。覇気のない理由に着目しました。彼は、出世欲はあるのです。しかし、それを表に出さないのは、理由があったのです。前任の支店長に認められずにいたため、それでやる気をなくしていたようです。

 確かに、一見すると成績が良くならない雰囲気もありました。しかし、上司に認められなくても、自分の仕事は、楽しく、喜んで取り組むべきと思いますが、どこかでさじを投げてしまったのでしょう。

 まずは、彼の人間改革に取り組まないと、運命共同体である支店が沈没してしまいます。そこで、彼のモチベーション(やる気)を上げることを考えました。第一番目に、仕事が自分に合っているか?第二に、仕事を楽しんでいるか?第三に、出世欲はあるか?というふうに、最初は、細かく分析して仕事とは何であるかを認識してもらう。第二に、営業の楽しさを経験し理解してもらう。第三に、将来の展望(夢)を語る場所を提供する。

 彼は、一生懸命努力しました。すると自ら将来の夢実現のために、今やらなくてはいけないこと、将来やらなくてはいけないことが分かってきたのです。その結果、彼は、楽しんで喜んで仕事ができるようになったのです。人を引き付ける魅力もできました。楽しく仕事ができれば必ず結果はついてくるものです。このように彼は、人間改革を実行できたのです。人間、本気で立ち上がれば、不可能という文字は消滅するのです。

 さて、仏教の視点から考えると、物欲を減らすためにはどうしたら良いか?という質問に、こう回答します。物欲というのは、自分が刺激を求めているだけなのです。ただ、「見たい、聞きたい、触りたい」という、それだけのことなのです。

 正しく見るための方法はあります。まず、何かを欲しくなった時点で、「これが私に本当に必要なのか」とその利点を見る。「なぜ私はこれが欲しくなったのか。これが私にどういう喜びを与えてくれるのか」と観察する。喜びはすべて「見る、聞く、嗅ぐ、なめる、触る」という五欲の世界の中にあります。それがどのような喜びを与えてくれるのかを観察する。

 次に「これを得るのはどれくらい迷惑か」と欠点を見る。「欲しい」と思っただけで自分のものにならないのだから得るための苦労もあります。やっと得ても維持する苦労もあります。

 実際は何一つ「自分のもの」にはなりません。高価なスーツを買っても、スーツはスーツの勝手で変化していきます。それは自分の気持ちとは、まったく関係ありません。自分の自由にはならないのです。ただ、苦労してお金を払って買っただけです。

 まあ、そのスーツを着るときには、それなりの感触があったり、見栄もあったり、そういう特別感はあります。しかし、利点と短所を比べてみたらどうでしょうか?

 髪型や体型や自分の身体に服を合わせないといけない。他の持ち物もその服に合わせて必要になる。服を着ていく場所もいる。結局、服の奴隷になっています。そういう欠点を利点から引き算すると、価値があるのかどうか。

 それから「それがなくなったら、本当に私は困るだろうか」と考えてみる。それぐらいで、おおよそ不必要な物欲は消えます。

 次に「物にやられない、自由なこころ」ということも考えてみましょう。たとえば、「この服はカッコいい。着たらカッコよく見えるだろう。しかし、私はいらない。こんなところで見栄を張らなくても、私は自分の人格で生きる。ブランドバッグ、イタリア製のスーツ、高級車などの陰には隠れないのだ」と、物に頼らない生き方を考えてみましょう。

 そういうふうに、項目ごとに考えた方がいいのです。そこをきちんと考えていないから、欲が管理できないのです。

 以上のことを検証して、それでも買ったほうがいいのであれば買えばいいし、買わなくてもいいのであれば買わなければいいのです。きちんと検証せず、すぐに感情に走って買うと悔やむことになります。

 中にはどうしても自分の手に入らないものがたくさんありますが、その場合は「自分には何の関係もない」とあっさりあきらめて、それで終わる。「悔しい」とか「欲しかった」などと思う必要はありません。物欲にはこのような態度で接することが望ましいのです。

 「私はお酒が好きでやめられず、飲みすぎてしまいます。どうしたらやめられますか」という事例があります。私に適量のお酒という意味を教えてください。酔わないくらいの量はどれくらいでしょうか?誰も答えられないでしょう。

 このように、私たちは曖昧で中途半端に生きています。しかし、実際には曖昧・中途半端では生きていられません。

 車を運転するときは適当でいいでしょうか?いいえ、しっかりと運転しなければいけません。だから、人生も曖昧・中途半端ではなく、しっかり明確に行わなくてはいけないのです。ここで理解してほしいことは、人生に適当とか、そこそこということは成り立たないということです。

 「適当、そこそこ」とごまかしているものを、はっきりさせないといけません。質問の答えとしては直接的な回答ではないかもしれませんが、「人生をどう生きるべきか?」ということを、お釈迦さまがしっかりと教えています。

 世の中は曖昧でいい加減で「こうではないか」「こうだと思います」というように生きています。だから、ぐちゃぐちゃになっているのです。何一つ真面目ではありません。真面目でなければうまくいくはずがありません。

 しっかり行動すると、はっきり結果が出るのです。そうすると世の中から失望ということが消えます。

 たとえば、世の中は平和がいいと思います。すべての人類は平和が好きです。ですが、歴史上一度たりとも平和な世界はなかったのです。これは、どういうことでしょうか?

 やはり何でもいい加減、適当だからです。だから、平和がないのです。お釈迦さまの教えを聞いてみてください。すぐに世界全体が平和になります。

 人類だけではなく、地球に棲んでいるすべての生命が平和になります。お釈迦さまは、きちんと教えています。個人が「オレはえらい」と自我を張ることが問題です。だから、個人の個性、個人が個人であることをしっかりと守りつつ、自我を張らないことが平和の道なのです。

 あなたは個人として生きる権利がある、私は個人として生きる権利がある。私はあなたの生きる権利は侵害しませんし、あなたも私が生きる権利を侵害しません。そして、私は私の個性を守って楽に生きられるように、あなたに協力してほしい。私も同じようにできることがあればしてあげる。

 そうすると生き方は、はっきりしています。それが平和な生き方なのです。政治も要りません、経済学も宗教も何も要りません。神様や信仰も何一つ要りません。人間一人ひとりが自分の命に責任をもって生きるだけです。

 そのように、しっかりと生きて、誰でも期待・希望する幸福を目指して生きる道をお釈迦さまは教えているのです。

 次にお酒の問題ですが、酒というのは、人間が幸福になる能力を奪うものです。酒は細胞に対して毒です。

 仏教でなぜお酒を禁止しているかというと、理性を失うからです。正しい判断ができなくなるからなのです。

 お酒を飲むか飲まないかということは、それは個人の自由です。仏教では飲むとどうなるかということを説明しております。

 たとえば、日本社会がお酒を飲む社会であるからといっても、真理を変えることはできません。真理とは法則です。たとえば、ある個人が地震は怖いからといって、地震を止めることはできません。地震は自然の法則で起こるのですから、自分で地震から身を守ればいいのです。

 法則を変えることは不可能ですから、私たちは法則に自分の生き方を合わせなくてはいけません。しかし、仏教では個人の自由を認めますから、お酒を飲むか飲まないかは個人で判断しなくてはいけないのです。

 一般的に「酒は百薬の長」といわれていますが、それは仏説ではありません。世の中のことは理性に基づいて判断してください。お酒のアルコールもそうですが、中毒になるものは何であっても良くないのです。物質的に病みつきになるものは何であれ、良くありません。

 酒の量にしても適当ということは成り立ちません。なぜかというと、毒・危険というものは、「少しならいい」というわけにはいかないからです。お酒は肉体だけではなく精神にも影響を与えるのです。依存することにもなります。依存するものは良くありません。

 依存するのがなぜ悪いのかというと、依存とは自立の反対だからです。仏教の解脱の意味は何でしょうか。完全たる自由です。完全たる自由を目指すなら、依存は一番の敵なのです。

 教祖・杉山辰子先生は、妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。まずは、この教えを深く信じることです。信じて、信じて、信心すると何かを感じるのです。深く信じていくときに真理に目覚めるのです。

 常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えるときに功徳があるのです。唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると、教祖さまは仰せです。要するに妙法を唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。中でも慈悲の功徳は絶大であると説かれております。慈悲とは慈しみのことです。慈しみのこころを育てることです。具体的には、「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方が喜んでいる姿を見て、素直にこころの底から喜べるか」どうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。

 一つでも多く、慈しみのこころを育て、〝すばらしき人生〞へと高めていただきたいと思っております。

  合 掌

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