世界平和を
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大樹
すばらしき人生149
日本では、旧暦五月を皐月と呼び、現在では新暦五月の別名としても用いています。「さつき」は、この月は田植えをする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものであるといわれております。
大型連休のゴールデンウィークもあり、海外や国内旅行で多くの方が出かけられます。長い方では十一連休になります。よく学び、よく遊びで満喫されたり、充電されたり人それぞれですが、良い仕事をするためにも頭をリセットすることがとても大事であると思います。
アメリカ合衆国で二期目のトランプ政権が発足して、世界中でいろんな問題が発生しております。どの国もトランプ関税で右往左往しております。今後、日本の経済がどうなるのか、全く予測不可能な状況となりました。政府の智慧のある対応が望まれるところです。そして、もう一つの懸念は、トランプ大統領は地球温暖化に興味がない点です。地球規模で考えないといけない大事なテーマを反古にしているように見えます。世界一の国がリーダーシップのもと取り組むべき重大な課題だと思います。
先月、釈尊降誕祭にお参りをいただきありがとうございました。花まつりということで甘茶の接待をさせていただきました。来月には教祖祭を開催いたします。多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。県下で二番目に糖尿病の患者さまを診ておられる県立S総合病院があります。そこに専門医のI先生が内科の医局長という役職でおられました。
S総合病院を攻略しないと成績は上がりません。今までやってきたことを継続するのでは意味がありません。発想の転換が必要なのです。
私は、いろいろと考えても解決策が見当たりません。必死にもがき、考えに考えた末、何とか解決できる方法を見つけました。私には双子の子供がおり、小学校四年生でした。I先生の子供さんも小学校四年生という情報は以前より掴んでおりました。先生の子供さんの通っている学区に引っ越しすることが一番良い方法と考えたのです。
そこで、I先生の子供さんが通っている安東小学校の学区に移動することにしました。一学年は四クラスです。私の子供は二人です。同じクラスになる確率は五割です。
先生の子供さんはMちゃんといって、見事に長女が同じクラスに入れたのです。私は、娘に「Mちゃんと友達になりなさい」と言いました。そして、しばらくしてお友達になり先生のご自宅に遊びに行くようになりました。
戦術として、子供を使うことはあまり良くないことですが、売り上げを上げる一番の近道は、子供同士が友達になり、そこからビジネスへと展開していくことが大事であると痛感しました。
おかげさまで売り上げに貢献できたことが、会社にとって結果的には良かったことであったと思います。
「立っている者は親でも使え」ということわざがあるように、使えるものは、手段を択ばずに即実践することが、極めて重要だと思っております。
さて、仏教では感情的になるのではなく、慈しみのこころになることを推奨しております。「ああ、こんなことをやっちゃうと不幸になってしまうのに」とか、「あなたが不幸になったら私が困ります」などと諭せば、それは慈しみの言葉なのです。
たとえば「こんな点数を取っちゃうと、お母さんも本当に悲しいな」とか、「○○ちゃんが勉強すれば、お母さんも嬉しくて楽しいのに」とだけ言えば、子供は「お母さんが喜ぶのだったら、ちょっと頑張っちゃおうかな」と思うのです。
「どうして、あなたは〜」というのは、自分の自我を出していることにほかなりません。私があなたの幸福を希望している。だからそのとおりになってほしい。これはあまりにも恐ろしい自我の押しつけです。世の中では自我は通じません。
自我というものは存在しないのです。ただ、さまざまな現象が変化しているだけです。さまざまな現象が組み合わさって、新たな現象が生まれるのです。決して変わらないという自我という代物はありません。
こころが変わっていく過程で、さまざまな変化を一束にまとめたくなるのです。それが「私」という概念です。それから、その「私」という概念が、私たちを押さえて支配するのです。それが自我の錯覚です。
自我の問題は、修行すると発見できます。しかし、修行が完成するまで不幸でいることがいいわけではありません。無理にでも、自我が存在しないと仮定して生きたほうがよいのです。自我が存在ということに、納得がいかなくても結構です。自我を張る気持ちが起きるたびに、それを抑えることです。
あの人は○○したほうが幸せになると思って、その人にアドバイスをすれば、気持ちよくそれを受け入れてくれると思っても、世の中に人のアドバイスを気持ちよく受け入れる人間は見当たりません。
親子関係を見れば明らかです。親ほど子供の幸せを願うものは存在しません。それは子供たちも知っています。しかし、子供たちがやることといえば、いかにして親に逆らおうかと、さまざまな対策を考えることです。それで危険な道に走る子供たちも現れます。
なぜ、このような残念な結果になるのでしょうか?それは、子供の幸福を願う気持ちが、子供に対する強い愛着と合体しているからです。
愛着は自我の錯覚からおこる現象です。言葉を変えれば、愛着とは「私のもの」という意味です。子供に対して愛着が現れると、子供が「私のもの」になります。子供は自立するために頑張っていますが、自分の命がお母さんの持っているカバンのように所有物にされているとわかったら、強烈に反発します。親を敵だと思ってしまうのです。
こうして愛着が強い親子関係は、敵同士の人間関係になります。慈しみはそうではありません。心配する気持ちも美しいものです。
「他者とは自由に生きる人間である」という前提を受け入れるなら、本当の慈しみが現れてきます。とはいえ、親として子供に対する愛着を捨てて、慈しみのみを抱くことは難しいことです。慈しみと愛着が癒着しているわけで、どんな母親も、しつけには失敗してしまいます。
子供にアドバイスをしても、何回も何回も繰り返し言われることだから、子供は「お母さんは、私がやるべきことを言っているのだ」と知っています。言われなくてもやらなくてはいけないことだと知っています。それなのに、親に反発するのです。
子供は、本当は親に反発しているのではないし、親のことが大好きです。ただ、自分は誰の所有物でもないから、それに反撃する気持ちが自然の流れで起きてしまうのです。
子供の反発する気持ちを引き起こすのは、親の愛着の感情です。その感情は戒めなくてはなりません。
考えるべきポイントはまだあります。子供は自立しようと頑張っていますが、不安の多い社会に生きているため、自分の希望通りに物事はいかないという嫌な経験を味わっては、自信を無くしてしまうのです。
そんなとき、無条件で味方になってくれるのは両親です。親に反発する前に、ときどき甘えたい気持ちで寄ってきます。甘えさせていいのです。そういうときに限って、愛着はそれほど悪さをしないのです。ですから、子供が落ち込んだら「愛情」。普通にいるときは「慈しみ」のこころでいることです。
母親にとって、子供に対する愛着を慈しみから切り離すことは難しいので、自分の精神修行だと思って、自分の人格向上のためだと思って、慈悲の実践をするのです。子供のために慈悲の実践をしてはいけません。
精神的に、徐々に成長していくと、わが子のことも慈しみで観ることができるようになります。わが子も他人の子も、それほど変わりがないように感じてきます。
毎日、子供にアドバイスをする場合は、自我の錯覚が割り込まないように、愛着が割り込まないように、気をつけてください。
それでも、人間だから失敗します。怒りたくないが怒ってしまうこともあります。それはそんなに気にする必要はありません。気軽に頑張ればいいのです。失敗したことに気づいて、何かを学び取ったほうがよいのです。
ここで、介護のことに触れたいと思います。介護のことでみんなが困っていることは「介護が問題だ」と思っていることが問題なのです。だから余計難しくなってしまうのです。
料理をしたり洗濯をしたり、それとは別に余分な仕事を加えられた。自分はいまの仕事で精一杯なのに、一つ新たに増えた。そう思う、その思考のせいで大変なのです。
それは余分な労力なので、当然疲れます。その思考が間違っているのです。この妄想のせいで、他人のお世話をすることが大変なことになってしまう。ですから、妄想を捨ててしまえばいいのです。
人間は一日二十四時間でできる範囲のことしかできません。だから、いくら私たちが忙しいとかあれこれ言ってもそれは妄想であって、自分の身体でできないことはできないのです。介護も日常の一環であると理解しましょう。人間は誰だって毎日忙しい。そのように毎日していることとして、「毎日忙しい、これが人生だ」と、思ったほうが正しいのです。
また、当たり前ですが、家族がいるならみんな順番に体が壊れて寝たきりになって亡くなります。これが人生のプログラムなのです。このプログラムに「別にどうということはない」と普通にしていればいいのです。
たとえば、新しく子供が産まれたら、日常生活は変わりますが、それはみんな当たり前のことだとやっております。何も文句は言いません。介護も同じことです。新しく子供が生まれたら頑張れるのに、なぜ他人が病気になって、自分のことを自分でできなくなったら「ああ、大変だ」と思うのでしょうか。介護も同じ考えて見れば、すごく楽になると思います。考え方一つで大きく変わるのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの大切さを説かれました。信じて、信じて、信心して唱えるときに功徳があると仰せです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を信じて唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事です。中でも慈悲の功徳は絶大であると説かれております。慈悲とは慈しみのこころを育てるということです。具体的には、「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方の喜んでいる姿を見て、こころの底から素直に喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たちが慈しみのこころを育てることにより、多くの人が幸せになりますようにと、願う気持ちを持つことが大事です。
人間は、すべて己のこころが考え、実行します。善いこころなら善の方向へ、悪いこころなら悪の方向へと行動します。こころ一つで良くもなれば、悪くもなる。だから、お釈迦さまはこころのあり様を説かれました。
そして、「どういう人間になったのか?」ではなく「どういう生き方をしたか?」ということがとても大事と仰せです。人のためになる人生を目指して、慈しみを育てて、人格を高め精進することです。
私たちも綺麗で、清らかなこころを育てることです。そうすれば、徐々に智慧が現れてくると、お釈迦さまは説かれました。清らかなこころを育てて〝すばらしき人生〞へと高めていただきたいと思っております。
合 掌
大型連休のゴールデンウィークもあり、海外や国内旅行で多くの方が出かけられます。長い方では十一連休になります。よく学び、よく遊びで満喫されたり、充電されたり人それぞれですが、良い仕事をするためにも頭をリセットすることがとても大事であると思います。
アメリカ合衆国で二期目のトランプ政権が発足して、世界中でいろんな問題が発生しております。どの国もトランプ関税で右往左往しております。今後、日本の経済がどうなるのか、全く予測不可能な状況となりました。政府の智慧のある対応が望まれるところです。そして、もう一つの懸念は、トランプ大統領は地球温暖化に興味がない点です。地球規模で考えないといけない大事なテーマを反古にしているように見えます。世界一の国がリーダーシップのもと取り組むべき重大な課題だと思います。
先月、釈尊降誕祭にお参りをいただきありがとうございました。花まつりということで甘茶の接待をさせていただきました。来月には教祖祭を開催いたします。多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。県下で二番目に糖尿病の患者さまを診ておられる県立S総合病院があります。そこに専門医のI先生が内科の医局長という役職でおられました。
S総合病院を攻略しないと成績は上がりません。今までやってきたことを継続するのでは意味がありません。発想の転換が必要なのです。
私は、いろいろと考えても解決策が見当たりません。必死にもがき、考えに考えた末、何とか解決できる方法を見つけました。私には双子の子供がおり、小学校四年生でした。I先生の子供さんも小学校四年生という情報は以前より掴んでおりました。先生の子供さんの通っている学区に引っ越しすることが一番良い方法と考えたのです。
そこで、I先生の子供さんが通っている安東小学校の学区に移動することにしました。一学年は四クラスです。私の子供は二人です。同じクラスになる確率は五割です。
先生の子供さんはMちゃんといって、見事に長女が同じクラスに入れたのです。私は、娘に「Mちゃんと友達になりなさい」と言いました。そして、しばらくしてお友達になり先生のご自宅に遊びに行くようになりました。
戦術として、子供を使うことはあまり良くないことですが、売り上げを上げる一番の近道は、子供同士が友達になり、そこからビジネスへと展開していくことが大事であると痛感しました。
おかげさまで売り上げに貢献できたことが、会社にとって結果的には良かったことであったと思います。
「立っている者は親でも使え」ということわざがあるように、使えるものは、手段を択ばずに即実践することが、極めて重要だと思っております。
さて、仏教では感情的になるのではなく、慈しみのこころになることを推奨しております。「ああ、こんなことをやっちゃうと不幸になってしまうのに」とか、「あなたが不幸になったら私が困ります」などと諭せば、それは慈しみの言葉なのです。
たとえば「こんな点数を取っちゃうと、お母さんも本当に悲しいな」とか、「○○ちゃんが勉強すれば、お母さんも嬉しくて楽しいのに」とだけ言えば、子供は「お母さんが喜ぶのだったら、ちょっと頑張っちゃおうかな」と思うのです。
「どうして、あなたは〜」というのは、自分の自我を出していることにほかなりません。私があなたの幸福を希望している。だからそのとおりになってほしい。これはあまりにも恐ろしい自我の押しつけです。世の中では自我は通じません。
自我というものは存在しないのです。ただ、さまざまな現象が変化しているだけです。さまざまな現象が組み合わさって、新たな現象が生まれるのです。決して変わらないという自我という代物はありません。
こころが変わっていく過程で、さまざまな変化を一束にまとめたくなるのです。それが「私」という概念です。それから、その「私」という概念が、私たちを押さえて支配するのです。それが自我の錯覚です。
自我の問題は、修行すると発見できます。しかし、修行が完成するまで不幸でいることがいいわけではありません。無理にでも、自我が存在しないと仮定して生きたほうがよいのです。自我が存在ということに、納得がいかなくても結構です。自我を張る気持ちが起きるたびに、それを抑えることです。
あの人は○○したほうが幸せになると思って、その人にアドバイスをすれば、気持ちよくそれを受け入れてくれると思っても、世の中に人のアドバイスを気持ちよく受け入れる人間は見当たりません。
親子関係を見れば明らかです。親ほど子供の幸せを願うものは存在しません。それは子供たちも知っています。しかし、子供たちがやることといえば、いかにして親に逆らおうかと、さまざまな対策を考えることです。それで危険な道に走る子供たちも現れます。
なぜ、このような残念な結果になるのでしょうか?それは、子供の幸福を願う気持ちが、子供に対する強い愛着と合体しているからです。
愛着は自我の錯覚からおこる現象です。言葉を変えれば、愛着とは「私のもの」という意味です。子供に対して愛着が現れると、子供が「私のもの」になります。子供は自立するために頑張っていますが、自分の命がお母さんの持っているカバンのように所有物にされているとわかったら、強烈に反発します。親を敵だと思ってしまうのです。
こうして愛着が強い親子関係は、敵同士の人間関係になります。慈しみはそうではありません。心配する気持ちも美しいものです。
「他者とは自由に生きる人間である」という前提を受け入れるなら、本当の慈しみが現れてきます。とはいえ、親として子供に対する愛着を捨てて、慈しみのみを抱くことは難しいことです。慈しみと愛着が癒着しているわけで、どんな母親も、しつけには失敗してしまいます。
子供にアドバイスをしても、何回も何回も繰り返し言われることだから、子供は「お母さんは、私がやるべきことを言っているのだ」と知っています。言われなくてもやらなくてはいけないことだと知っています。それなのに、親に反発するのです。
子供は、本当は親に反発しているのではないし、親のことが大好きです。ただ、自分は誰の所有物でもないから、それに反撃する気持ちが自然の流れで起きてしまうのです。
子供の反発する気持ちを引き起こすのは、親の愛着の感情です。その感情は戒めなくてはなりません。
考えるべきポイントはまだあります。子供は自立しようと頑張っていますが、不安の多い社会に生きているため、自分の希望通りに物事はいかないという嫌な経験を味わっては、自信を無くしてしまうのです。
そんなとき、無条件で味方になってくれるのは両親です。親に反発する前に、ときどき甘えたい気持ちで寄ってきます。甘えさせていいのです。そういうときに限って、愛着はそれほど悪さをしないのです。ですから、子供が落ち込んだら「愛情」。普通にいるときは「慈しみ」のこころでいることです。
母親にとって、子供に対する愛着を慈しみから切り離すことは難しいので、自分の精神修行だと思って、自分の人格向上のためだと思って、慈悲の実践をするのです。子供のために慈悲の実践をしてはいけません。
精神的に、徐々に成長していくと、わが子のことも慈しみで観ることができるようになります。わが子も他人の子も、それほど変わりがないように感じてきます。
毎日、子供にアドバイスをする場合は、自我の錯覚が割り込まないように、愛着が割り込まないように、気をつけてください。
それでも、人間だから失敗します。怒りたくないが怒ってしまうこともあります。それはそんなに気にする必要はありません。気軽に頑張ればいいのです。失敗したことに気づいて、何かを学び取ったほうがよいのです。
ここで、介護のことに触れたいと思います。介護のことでみんなが困っていることは「介護が問題だ」と思っていることが問題なのです。だから余計難しくなってしまうのです。
料理をしたり洗濯をしたり、それとは別に余分な仕事を加えられた。自分はいまの仕事で精一杯なのに、一つ新たに増えた。そう思う、その思考のせいで大変なのです。
それは余分な労力なので、当然疲れます。その思考が間違っているのです。この妄想のせいで、他人のお世話をすることが大変なことになってしまう。ですから、妄想を捨ててしまえばいいのです。
人間は一日二十四時間でできる範囲のことしかできません。だから、いくら私たちが忙しいとかあれこれ言ってもそれは妄想であって、自分の身体でできないことはできないのです。介護も日常の一環であると理解しましょう。人間は誰だって毎日忙しい。そのように毎日していることとして、「毎日忙しい、これが人生だ」と、思ったほうが正しいのです。
また、当たり前ですが、家族がいるならみんな順番に体が壊れて寝たきりになって亡くなります。これが人生のプログラムなのです。このプログラムに「別にどうということはない」と普通にしていればいいのです。
たとえば、新しく子供が産まれたら、日常生活は変わりますが、それはみんな当たり前のことだとやっております。何も文句は言いません。介護も同じことです。新しく子供が生まれたら頑張れるのに、なぜ他人が病気になって、自分のことを自分でできなくなったら「ああ、大変だ」と思うのでしょうか。介護も同じ考えて見れば、すごく楽になると思います。考え方一つで大きく変わるのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの大切さを説かれました。信じて、信じて、信心して唱えるときに功徳があると仰せです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を信じて唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事です。中でも慈悲の功徳は絶大であると説かれております。慈悲とは慈しみのこころを育てるということです。具体的には、「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方の喜んでいる姿を見て、こころの底から素直に喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たちが慈しみのこころを育てることにより、多くの人が幸せになりますようにと、願う気持ちを持つことが大事です。
人間は、すべて己のこころが考え、実行します。善いこころなら善の方向へ、悪いこころなら悪の方向へと行動します。こころ一つで良くもなれば、悪くもなる。だから、お釈迦さまはこころのあり様を説かれました。
そして、「どういう人間になったのか?」ではなく「どういう生き方をしたか?」ということがとても大事と仰せです。人のためになる人生を目指して、慈しみを育てて、人格を高め精進することです。
私たちも綺麗で、清らかなこころを育てることです。そうすれば、徐々に智慧が現れてくると、お釈迦さまは説かれました。清らかなこころを育てて〝すばらしき人生〞へと高めていただきたいと思っております。
合 掌
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