世界平和を
HOME>大樹
大樹
すばらしき人生150
旧暦で六月を水無月と申します。水無月の由来には諸説ありますが、水無月の「無」は「の」を意味します。従って、水の月と解釈されます。梅雨の季節ですから雨が降らないと農作物にも大きな影響が出てしまいます。それが野菜の価格が上がるという悪循環をもたらします。
梅雨の季節に入りますが、雨の降り方に変化が出てきました。昔は、毎日のようにシトシトと降ったものでしたが、近年では空梅雨のようですが、降るときにはドカッと大量の雨が降ります。徐々に日本が亜熱帯化しているように感じられます。
また、一度に大量の雨が降るため、土砂災害など環境にも大きな影響が出ています。これも地球温暖化が関係しているように思われます。国民全体で取り組まなければいけない重要な案件だと思っております。
今月は教祖祭を開催します。今日、法公会があるのも教祖・杉山辰子先生のお陰です。感謝して努めたいと思います。当日、多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。私の元上司の部長によく言われたことは、「壁の花になるな」ということでした。営業マンが医局でただ立っているだけで、先生方の会話に入れずにいることを揶揄している言葉です。この言葉を教訓に部下の育成に努めました。
香川県で、とてもまじめで優秀なTさんという営業マンがいました。まだ入社四年目なのに機転が利く頭の良い人でした。K医科大学付属病院を担当しており、I教授から絶大なる信頼を得ておりました。
Tさんは、模範的な営業マンで、前向きで意欲的にアグレッシブ(積極的)な営業をするタイプでした。考えるというより即実行するタイプでした。ダメもとで当たって砕けろという考え方なのです。
新製品の早期採用や患者さまの獲得には、十分な力を発揮しておりました。そんなTさんを評価するときに、会社の規定ではS・A・B・Cの四ランクがありました。私は、彼に最高の評価のSをつけました。
S評価は全国で二名か、せいぜい三名というところです。それをTさんに評価を与えたのです。たちまち、社内で評判になり他の支店からオファーがあったのです。
彼は、東京の出身ですが関東方面への転勤を希望していたわけではありません。奥様がK医科大学付属病院のナースをされておりました。できれば、転勤しないで香川県で仕事をしたいという希望があったようです。
しかし、彼らには子供がいなかったため、不妊治療をしたくても香川県ではそのような高度な医療を提供できる施設はありませんでした。
丁度、そんなときタイミング良くTさんに転勤の話がきたのです。埼玉県の担当者として大きい市場を任せられることになったのです。彼は東京出身で実家にも近いし、大宮市ですから、奥様もかねてよりの希望で不妊治療ができるという可能性が出てきたのです。
彼は、香川県で学んだ活動を大都市の大宮で発揮することができるのです。私は、彼に思う存分やりなさいと彼を奮起させたのです。
彼が、大市場を任されるようになったのは、香川県という、小さな市場でコツコツ頑張って努力して勝ち取った成果なのです。そのやり方を、その情熱を忌憚なく発揮することが、香川県で一緒に仕事をしていた人たちへの恩返しになるのです。
人間、一にも、二にも、三にも努力です。努力は決して裏切りません。そんな自分を信じていくことがとても重要であると思っております。
さて、仏教的に物事を考えますと、私たちはいつでも忙しいのに、あれもやりたい、これもやりたいと別な人生プログラムを組んで、実行できなくて困っているのです。
介護をしなくてはいけない人が家にいるのに、どこかで友だちと喫茶店で二〜三時間でも世間話をしたいなど、別な計画を立ててしまうのです。それは時間的に不可能です。実行できない計画は妄想なのです。
そういうふうに行動計画の中で、私たちに実行できない妄想が入り込んできて、人生を台無しにしてしまいます。だから、介護しなくてはいけない人が現れてきたら、それが自分の人生プログラムで、ほかに時間はないのです。
頭で余計な妄想をするプログラムを消せば、すごく気持ちいいですし、自分に必要な時間が取れます。自分個人にどうしてもやらなくてはいけないことが現れてきたら、きちんと時間が取れます。
それから、介護することだけで精いっぱいであっても、仏教的には良いのです。他人のお世話をすること自体が修行だからです。
自分の目の前で、一日一日と死へ向かって進んでいる姿を見れば、生きることは、いかに虚しいのかと見えてくるのです。若いときは元気で威張った態度でいた人が、いまはどうなったかと、結局は誰もがすべてを捨ててあっけなく惨めに消えていくのだと、そういうふうに観察していくと、それでも人はこんなに弱い身体であっても生きていたいという存在欲があることが見えてきます。そうすると「人生とは何か?」と観察できます。
それで身体が不自由で弱い人は、わがままを言ったり、怒ったりいろいろとするのです。そのときも自分は怒らないで「本人には何もできないのに、なぜ自我を出すのでしょうか?」と観察する。そのとき、「ああ、なるほど、何もできないからこそ、希望通りにいかないからこそ、苦しんでいるのだな」と、そのようにこころの働きが見事に見えてくるのです。
だから、寝たきりのおじいさん、おばあさんであっても、ニコニコしていると自分もすごく気持ちよくて、お世話するときに、「本当に申し訳ないね、迷惑ばかりかけて」と言われると、疲れも飛んで行ってしまいます。
介護を受ける方が必ずそのように言う保証はありません。しかし、身体が弱くなって不自由になったら、そのようにしてあげてください。そうすると新しい雰囲気・人間関係が生まれてくるのです。すべては人間関係です。寝たきりであろうがなかろうが、人間関係は人間関係なのです。
そういうことで、自分には一瞬の暇がなくて、外へ出る暇もない、遊びに行く暇もない、介護以外にほかに何かをする暇がない、ただ付きっきりで面倒を見なくてはいけない状態になっても「これは修行の場である」「いま道場にいる」「いま修行をしている」ということで、こころにチェックを入れる方法を学んで、修行として介護をしてみてください。
信じられないほど人格が向上するはずです。だから、いくらこの世でお金を儲けても、やがて捨てます。それは徳にはなりません。いくら地位や名誉があっても、死ぬときはすべて捨てていくのです。
しかし、この場合は人格そのものが成長するので、自分が持っていけるものがいっぱいあります。ですから、面倒を見るだけで他に何一つできなくても、全然損をすることはありません。ものすごい徳を積んでいるのです。
お釈迦さまは、「病人を見ることは、私(釈迦)をじきじきに面倒見ることと同じである」と教えられております。「誰かが病人の面倒を見ているとしたら、その人は私自身(釈迦)のお世話をしているのです」と。
看病する、または介護するチャンスが現れたら、それはお釈迦さま自身に会える稀な機会であること、この上ない幸福な出来事であると、理解してみましょう。
お釈迦さまに会うことができたら、その人は究極の幸福に達します。もし「如来のお世話をしているのだ」という気持ちで介護をすれば、ただちにこころは幸福で満たされます。どれくらい幸福を感じるのか、どれくらい智慧を開発して解脱に近づけるか、ということ
は、私たちのアプローチ(取り組み)しだいです。
要するに、「介護を受ける方はお釈迦さまの化身である」と素直に思えば、結果は満点です。「お釈迦さまに、『介護は私自身の面倒を見ることである』と説かれても、この人をお釈迦さまとして見るのは無理だ。それでも頑張らなくては」という気持ちになると、幸福
度はその程度になります。
お釈迦さまが説かれたからといって、皆さんがたちまちその気持ちになれるとは思えません。しかし、無理をしてでもお釈迦さまの説かれたようなアプローチをしたほうが、看病する方々が幸福に満たされることは間違いありません。
なぜ、お釈迦さまに会うことが究極の幸福になるのでしょうか?お釈迦さまは、人格を向上させること、こころを育てること、こころの汚れを落とすこと、智慧を開発すること、解脱に達して一切の苦しみを乗り越えることを教えて指導するのです。
私たちは、誰でもしてしまう間違いがあります。本人が認知症になっても、私たちは本人が変わっていない、変わって欲しくない、という気持ちを持っていることです。たとえば、昔と同じように立派な母親であってほしいという希望があります。これが問題なのです。
もう昔のお母さまではないのです。人間の人格というものは、知識(記憶)のレベルで決まります。前の知識は忘れてしまったのですから、見てほしいのは今いる人なのです。今どのレベルで理解能力がある生命体なのかということです。
わかりやすく言いますと、いろんなものを忘れても、ある一部分は憶えているのです。この一部の記憶でその人の年齢が決まるのです。
たとえば、本人が三十代の記憶をしているなら、本人はその三十代だった世界にいるのです。そのとき、あなた(子供)が生まれていなかったら、あなたは息子・娘ではないのです。
たとえば、二十代まで戻ったら、子供が顔を見せても「あなた誰?」と訊くのです。それに驚く必要はありません。それは冗談にとって「私たちは隣に住んでいる知り合いですから仲良くしましょう」と言えばいい。自分の名前を紹介して、憶えてくださいと頼めばよいのです。
そのようにして、認知症になった方々の新しい人生に、私たちが合わせなくてはいけません。といっても、家族の感情もありますから、これは結構難しいことです。子供や家族にとっては、お母さまやお父さまですから。
「母親に、このようなからかった態度をとっていいのか?」という気持ちも起こるかもしれませんが、それはからかっているわけではありません。正しく看病する方法なのであります。
三大煩悩の貪・瞋・痴を少しでも減らしていくことが重要です。私たちは、煩悩に支配されない生き方をしなければなりません。それには、感情に流されず冷静に平常心で生きることなのです。
法公会のホームページにこう書いてあります。「自分のためだけに生きる者は、現在はあっても未来はない」「人のために生きる者は、いまはなくとも未来がある」とあります。私たちが、本気で人のためになる人生を選択したとすれば、必ず世界平和へと繋がってまいります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心することです。信心に徹すれば真理に目覚めるのです。そして、「妙法蓮華経」の五文字を唱えるとき功徳が現れるのです。
常住坐臥いついかなるときも妙法を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。教祖さまは三徳の中でも慈悲の功徳は絶大であると説いておられます。慈悲とは慈しみのことです。慈しみのこころを育てることがとても重要となります。
具体的に言いますと「見返りを求めず 人さまに善いことをして差し上げる その方の喜んでいる姿を見て 素直にこころの底から喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たちも慈しみを育てて人格を高め〝すばらしき人生〞に向かって努力・精進してまいりたいと思っております。
合 掌
梅雨の季節に入りますが、雨の降り方に変化が出てきました。昔は、毎日のようにシトシトと降ったものでしたが、近年では空梅雨のようですが、降るときにはドカッと大量の雨が降ります。徐々に日本が亜熱帯化しているように感じられます。
また、一度に大量の雨が降るため、土砂災害など環境にも大きな影響が出ています。これも地球温暖化が関係しているように思われます。国民全体で取り組まなければいけない重要な案件だと思っております。
今月は教祖祭を開催します。今日、法公会があるのも教祖・杉山辰子先生のお陰です。感謝して努めたいと思います。当日、多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。私の元上司の部長によく言われたことは、「壁の花になるな」ということでした。営業マンが医局でただ立っているだけで、先生方の会話に入れずにいることを揶揄している言葉です。この言葉を教訓に部下の育成に努めました。
香川県で、とてもまじめで優秀なTさんという営業マンがいました。まだ入社四年目なのに機転が利く頭の良い人でした。K医科大学付属病院を担当しており、I教授から絶大なる信頼を得ておりました。
Tさんは、模範的な営業マンで、前向きで意欲的にアグレッシブ(積極的)な営業をするタイプでした。考えるというより即実行するタイプでした。ダメもとで当たって砕けろという考え方なのです。
新製品の早期採用や患者さまの獲得には、十分な力を発揮しておりました。そんなTさんを評価するときに、会社の規定ではS・A・B・Cの四ランクがありました。私は、彼に最高の評価のSをつけました。
S評価は全国で二名か、せいぜい三名というところです。それをTさんに評価を与えたのです。たちまち、社内で評判になり他の支店からオファーがあったのです。
彼は、東京の出身ですが関東方面への転勤を希望していたわけではありません。奥様がK医科大学付属病院のナースをされておりました。できれば、転勤しないで香川県で仕事をしたいという希望があったようです。
しかし、彼らには子供がいなかったため、不妊治療をしたくても香川県ではそのような高度な医療を提供できる施設はありませんでした。
丁度、そんなときタイミング良くTさんに転勤の話がきたのです。埼玉県の担当者として大きい市場を任せられることになったのです。彼は東京出身で実家にも近いし、大宮市ですから、奥様もかねてよりの希望で不妊治療ができるという可能性が出てきたのです。
彼は、香川県で学んだ活動を大都市の大宮で発揮することができるのです。私は、彼に思う存分やりなさいと彼を奮起させたのです。
彼が、大市場を任されるようになったのは、香川県という、小さな市場でコツコツ頑張って努力して勝ち取った成果なのです。そのやり方を、その情熱を忌憚なく発揮することが、香川県で一緒に仕事をしていた人たちへの恩返しになるのです。
人間、一にも、二にも、三にも努力です。努力は決して裏切りません。そんな自分を信じていくことがとても重要であると思っております。
さて、仏教的に物事を考えますと、私たちはいつでも忙しいのに、あれもやりたい、これもやりたいと別な人生プログラムを組んで、実行できなくて困っているのです。
介護をしなくてはいけない人が家にいるのに、どこかで友だちと喫茶店で二〜三時間でも世間話をしたいなど、別な計画を立ててしまうのです。それは時間的に不可能です。実行できない計画は妄想なのです。
そういうふうに行動計画の中で、私たちに実行できない妄想が入り込んできて、人生を台無しにしてしまいます。だから、介護しなくてはいけない人が現れてきたら、それが自分の人生プログラムで、ほかに時間はないのです。
頭で余計な妄想をするプログラムを消せば、すごく気持ちいいですし、自分に必要な時間が取れます。自分個人にどうしてもやらなくてはいけないことが現れてきたら、きちんと時間が取れます。
それから、介護することだけで精いっぱいであっても、仏教的には良いのです。他人のお世話をすること自体が修行だからです。
自分の目の前で、一日一日と死へ向かって進んでいる姿を見れば、生きることは、いかに虚しいのかと見えてくるのです。若いときは元気で威張った態度でいた人が、いまはどうなったかと、結局は誰もがすべてを捨ててあっけなく惨めに消えていくのだと、そういうふうに観察していくと、それでも人はこんなに弱い身体であっても生きていたいという存在欲があることが見えてきます。そうすると「人生とは何か?」と観察できます。
それで身体が不自由で弱い人は、わがままを言ったり、怒ったりいろいろとするのです。そのときも自分は怒らないで「本人には何もできないのに、なぜ自我を出すのでしょうか?」と観察する。そのとき、「ああ、なるほど、何もできないからこそ、希望通りにいかないからこそ、苦しんでいるのだな」と、そのようにこころの働きが見事に見えてくるのです。
だから、寝たきりのおじいさん、おばあさんであっても、ニコニコしていると自分もすごく気持ちよくて、お世話するときに、「本当に申し訳ないね、迷惑ばかりかけて」と言われると、疲れも飛んで行ってしまいます。
介護を受ける方が必ずそのように言う保証はありません。しかし、身体が弱くなって不自由になったら、そのようにしてあげてください。そうすると新しい雰囲気・人間関係が生まれてくるのです。すべては人間関係です。寝たきりであろうがなかろうが、人間関係は人間関係なのです。
そういうことで、自分には一瞬の暇がなくて、外へ出る暇もない、遊びに行く暇もない、介護以外にほかに何かをする暇がない、ただ付きっきりで面倒を見なくてはいけない状態になっても「これは修行の場である」「いま道場にいる」「いま修行をしている」ということで、こころにチェックを入れる方法を学んで、修行として介護をしてみてください。
信じられないほど人格が向上するはずです。だから、いくらこの世でお金を儲けても、やがて捨てます。それは徳にはなりません。いくら地位や名誉があっても、死ぬときはすべて捨てていくのです。
しかし、この場合は人格そのものが成長するので、自分が持っていけるものがいっぱいあります。ですから、面倒を見るだけで他に何一つできなくても、全然損をすることはありません。ものすごい徳を積んでいるのです。
お釈迦さまは、「病人を見ることは、私(釈迦)をじきじきに面倒見ることと同じである」と教えられております。「誰かが病人の面倒を見ているとしたら、その人は私自身(釈迦)のお世話をしているのです」と。
看病する、または介護するチャンスが現れたら、それはお釈迦さま自身に会える稀な機会であること、この上ない幸福な出来事であると、理解してみましょう。
お釈迦さまに会うことができたら、その人は究極の幸福に達します。もし「如来のお世話をしているのだ」という気持ちで介護をすれば、ただちにこころは幸福で満たされます。どれくらい幸福を感じるのか、どれくらい智慧を開発して解脱に近づけるか、ということ
は、私たちのアプローチ(取り組み)しだいです。
要するに、「介護を受ける方はお釈迦さまの化身である」と素直に思えば、結果は満点です。「お釈迦さまに、『介護は私自身の面倒を見ることである』と説かれても、この人をお釈迦さまとして見るのは無理だ。それでも頑張らなくては」という気持ちになると、幸福
度はその程度になります。
お釈迦さまが説かれたからといって、皆さんがたちまちその気持ちになれるとは思えません。しかし、無理をしてでもお釈迦さまの説かれたようなアプローチをしたほうが、看病する方々が幸福に満たされることは間違いありません。
なぜ、お釈迦さまに会うことが究極の幸福になるのでしょうか?お釈迦さまは、人格を向上させること、こころを育てること、こころの汚れを落とすこと、智慧を開発すること、解脱に達して一切の苦しみを乗り越えることを教えて指導するのです。
私たちは、誰でもしてしまう間違いがあります。本人が認知症になっても、私たちは本人が変わっていない、変わって欲しくない、という気持ちを持っていることです。たとえば、昔と同じように立派な母親であってほしいという希望があります。これが問題なのです。
もう昔のお母さまではないのです。人間の人格というものは、知識(記憶)のレベルで決まります。前の知識は忘れてしまったのですから、見てほしいのは今いる人なのです。今どのレベルで理解能力がある生命体なのかということです。
わかりやすく言いますと、いろんなものを忘れても、ある一部分は憶えているのです。この一部の記憶でその人の年齢が決まるのです。
たとえば、本人が三十代の記憶をしているなら、本人はその三十代だった世界にいるのです。そのとき、あなた(子供)が生まれていなかったら、あなたは息子・娘ではないのです。
たとえば、二十代まで戻ったら、子供が顔を見せても「あなた誰?」と訊くのです。それに驚く必要はありません。それは冗談にとって「私たちは隣に住んでいる知り合いですから仲良くしましょう」と言えばいい。自分の名前を紹介して、憶えてくださいと頼めばよいのです。
そのようにして、認知症になった方々の新しい人生に、私たちが合わせなくてはいけません。といっても、家族の感情もありますから、これは結構難しいことです。子供や家族にとっては、お母さまやお父さまですから。
「母親に、このようなからかった態度をとっていいのか?」という気持ちも起こるかもしれませんが、それはからかっているわけではありません。正しく看病する方法なのであります。
三大煩悩の貪・瞋・痴を少しでも減らしていくことが重要です。私たちは、煩悩に支配されない生き方をしなければなりません。それには、感情に流されず冷静に平常心で生きることなのです。
法公会のホームページにこう書いてあります。「自分のためだけに生きる者は、現在はあっても未来はない」「人のために生きる者は、いまはなくとも未来がある」とあります。私たちが、本気で人のためになる人生を選択したとすれば、必ず世界平和へと繋がってまいります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心することです。信心に徹すれば真理に目覚めるのです。そして、「妙法蓮華経」の五文字を唱えるとき功徳が現れるのです。
常住坐臥いついかなるときも妙法を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。教祖さまは三徳の中でも慈悲の功徳は絶大であると説いておられます。慈悲とは慈しみのことです。慈しみのこころを育てることがとても重要となります。
具体的に言いますと「見返りを求めず 人さまに善いことをして差し上げる その方の喜んでいる姿を見て 素直にこころの底から喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たちも慈しみを育てて人格を高め〝すばらしき人生〞に向かって努力・精進してまいりたいと思っております。
合 掌
ACCESS
交通アクセス
Copyright(c) Houkoukai All Rights Reserved.