PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生117
 九月に入ると朝夕の気温が少し下がり過ごしやすくなってきておりますが、まだまだ残暑厳しい日もあります。今年は各地で大雨の被害が出ました。線状降水帯といって、同じ場所で連続的に雨が降り続きます。河川の氾濫や土砂災害など、想像を絶する被害となりました。

 地球温暖化がもたらす脅威とも考えられます。国民一人ひとりの意識改革が必要ではないでしょうか。人類がともに共存していくうえで、欠かせないことと思います。

 新型コロナの感染も第七波の襲撃により多くの方が感染されました。以前のデルタ株と比べれば、重症化も低下し恐怖心も少なくなりますが、まだまだ、どのような変異が起こるのか誰にもわかりません。このまま終息へと向かってくれるのが一番良いことですが、予断を許さないのも現実です。しっかりと感染防止対策をしましょう。

 今月開催の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭はコロナ第七波の影響で法話・参拝を中止させていただきます。読経のみの開催となりますが、宣教師一同で追善供養をさせていただきます。十一月の立教四十九年祭は何とか開催したいと思います。どうか宜しくお願いいたします。

 私がサラリーマンの時でした。名古屋の医薬品流通会社で働いていた時のことです。流通会社は利益が少なく、薄利多売な商売です。利益をたった一パーセントとれば良いのです。医薬品は公定価格なので利益の取りすぎは良くありません。

 一パーセントの利益を生むために必死になり努力をしているのです。それに比較しますと、医薬品メーカーは利益が三十パーセント前後もあります。流通業の数十倍の利益なのです。給料が違うのもうなずけます。

 そんな低賃金ではありましたが、流通業としてのプライドはありました。仕事は病院担当と開業医担当で分かれておりました。開業医担当者は自分が売りたい医薬品を販売することができ、それなりに楽しんで仕事ができたと思います。しかし、病院担当の私は、売り込む医薬品の選択はできなかったけれど、売り上げ面で会社への貢献ができたのです。

 そんな頃、私は県立S病院という精神科専門病院を担当しておりました。薬剤部長のT先生と懇意にさせていただき、それなりに満足して仕事をしておりました。ある日、部長先生から白衣を着なさいと言われ、病院の調剤業務のお手伝いをさせていただきました。

 人というのは白衣を着ると何か別人のようになった気分になります。少しでの先生方のお手伝いができることに喜びを感じるようになりました。そして、先生の信頼を得たことが、大きな自信へと変わっていくのです。

 そんなある日、精神科でとても重要な新薬が発売となりました。S製薬の製品です。私は、どうしても新製品の帳合をとりたいと思いメーカーと交渉しましたが、とても難しい状況でした。そこで、T薬剤部長さんにお願いして、S製薬の担当者に弊社へ帳合をつけるようにと助言していただく約束をいただきました。

 公務員のT先生が私のために、ほんのわずか一ミリでも動いてくれたことに、とても感謝しております。本来だったら別の会社になるところを大逆転で帳合をいただきました。そのことは今でも感謝しても、しきれない思いでいっぱいです。

 人間、真面目にコツコツと仕事をすれば、必ず良い結果に繋がるものです。努力は嘘をつきません。死ぬ気になって努力した人は必ず報われるという証なのであります。

 さて、真理を語る仏教は、人生には四つの激流があると説いております。この激流は、凡夫には知ることができないような本当の激流です。

 まず、第一に欲の激流です。欲とは眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官に触れる、色・声・香・味・蝕という対象に対する愛着です。見えるものがあります。聞こえる音があります。鼻で嗅ぐ匂いがあります。舌で感じる味があります。体に触れるものがあります。それら対して愛着が生まれるのです。

 もう一度、明確にしましょう。生きることは刺激を受けることです。刺激は五つの感覚器官に、五つの対象が触れて起こります。眼に、耳に、鼻に、舌に、身体に触れる。そこで刺激が生まれるのです。

 期待してもしなくても、感覚器官に情報が触れることは、避けられません。だから、そんなに要求しなくても、刺激は自然に生まれるのです。

 刺激は要求しなくてもずっと触れています。眼がある限り見えます。耳がある限り聞こえます。身体がある限り感じます。たとえ嫌でも、刺激はこころに起きています。それなのに、こころは無知だから、刺激が欲しい、刺激が欲しいと叫びます。

 そんなに叫ばなくても自然にあります。しかし、無知な人は、そこから生まれる刺激に執着します。愛着を抱くのです。そこが問題なのです。

 眼に見えるものは見えたで、どうにもなりません。眼があるから見えるだけなのですが、見えると、「なんてきれいなのでしょう」「私はそれが好きです」「欲しいです」とそこから離れなくなって駄目になってしまいます。それを愛着といいます。

 眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官に、色・声・香・味・蝕という対象が触れた途端に愛着が生まれます。その欲が生まれることは余計なのです。欲というものは、この余計に生まれる感情です。余計なのは眼ではないし、眼に見える美しいものでもありません。あるいは、耳でもないし、耳に触れる美しい音楽でもありません。感覚器官に情報が触れたら生まれる愛着なのです。それを欲というのです。

 愛着を抱くと、そこから離れられなくなります。「あれが欲しい」と思ったら、もう離れられません。対象に依存し、対象の奴隷になるのです。従って、生命はいつでも対象に依存して、奴隷になって生きています。たとえば、マイホームを買ったら、その家のために生きている囚人になります。高級車を買ったら、喜んでその車に使える使用人になるのです。このように、ものに執着すると、そこで奴隷になってしまいます。見えることが問題などではなく、その見えるものに愛着を抱き、執着することが問題なのです。

 生命は感覚器官からの刺激を求めることで生きています。他の生き方はありません。色・声・香・味・蝕に生命は流されております。これが本物の激流です。

 私たちは、眼に、耳に入る情報を遮断することはできません。眼や耳などが機能しないように脳細胞を完全に壊したとしたら、果たして生きていると言えるでしょうか。だから、この「欲の激流」は、逃げたくても逃げられない本当の激流なのです。

 生きるためには眼・耳・鼻・舌・身でいつでも刺激を受けなくてはいけないのです。それが自然の法則です。お釈迦さまがおっしゃっていることは、「眼が見えないようにしなさい」「耳が聞こえないようにしなさい」ということではありません。「愛着が生まれないように気をつけなさい」ということです。眼で見るけども愛着が生まれないように、音を聞くけれども愛着が生まれないように、ということです。

 人には、生き続けたい、死にたくはない、という渇愛があります。これは、欲の激流から生まれる副産物です。

 たとえば、何かを見ても、これで十分に見たとは満足しません。見尽くすことはできないので、何を見ても、もっと良いものは無いかという不満が限りなく生まれます。眼は不完全、見えるものも不完全だからです。

 たとえ美しい絵画があったとしても、これは光が見せてくれているものですから、光に影響されます。光とは関係なく美しく見える。光から独立しているなら良いのですが、常に光に依存しています。たとえば、絵画を近くからよく見ると、べだべた絵の具を塗ってあって、あまり気持ちのいいものではありません。その時、私にはそう見えたのです。しかし、適切な距離で見直してみると、結構良い感じがしました。絵画にしてみても、光の当たり具合で変わってしまう。つまり、光に依存しているのです。

 それを見る眼も同じく不完全です。このように、不完全なもの同士がお互いに情報交換しても、その情報は不完全です。従って、何かを見ても足りない、何かを聞いても足りないという欲求が生まれます。それが渇愛です。

 人間は、解脱することではなく、生き続けることを期待するのです。渇愛があるから生きたい、生き続けたいのです。このように、生命の唯一の希望は生き続けることなのです。

 生命は、「生きていたい」「死にたくない」という感情の激流に流されて生きております。それでも死は避けられないと知ると、天国に行っても永遠になりたいとまで思います。「生きていたい」という激流は、並大抵のものではありません。これが本当の激流の二番目、「存続の激流」なのです。

 生きることは認識することです。認識すると概念が起こります。この概念というものは、あくまでも個人の主観です。普遍的な真理ではありません。私の概念と他人の概念は一致しません。しかも、私が認識する世界を別な方法で認識することはできません。私に見える世界は、私にしか見えない世界で、その世界は変えられないのです。

 私は私だけの認識世界を持っております。私は、「私」という殻をつくっているのです。それが、私にとって「正しい」ことです。自分の世界は誰にでもあります。これは自分の殻です。この殻の中で、私は自分の世界が正しいと思っています。同じように、他の人々も自分の世界が正しいと思っています。他の見解は成り立ちません。そこで「私は知る、故に私は正しい」という生き方をします。これが人類のあるがままの生きる哲学なのです。

 このように、生命はありのままの事実を知らないし、知りえません。「自分」という角度から見た世界観、人生観のみを持っているのです。これを真理の立場、ありのままの立場からは、「見解」といいます。

 たとえば、私が見た花は、私が見た私の見解であって、本来の花の姿ではありません。同じようにミツバチに見える花は、ミツバチの見解です。このように、生命の持つ認識のことを見解というのです。

 生きものは見解で生きている、見解で生かされている、これも強烈な「見解の激流」です。見るだけでも、聴くだけでも見解が生まれます。この見解によって、生き方が定まってしまいます。だから、私たちは見解で定められた生き方をしているのです。

 こころを清らかにしようとする人は、この流れにも逆らわなくてはなりません。これは大変難しいことです。見解という激流は、とても恐ろしく、耐えがたく、乗り越えがたい激流です。

 四番目に「無明の激流」があります。無明とは、ありのままに事実を認識しないことです。ありのままに事実を認識しないと真理は発見できません。真理だと思うすべてのものは、主観、見解に過ぎません。真理とは存在に対する真理、すなわち四聖諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)のことです。真理はこの四つに集約されています。四聖諦とは、一切の見解を破り、ありのままに情報を観察するとき発見する真理のことです。

 この四つの激流を乗り越える方法として「八正道」(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)の修行が必要なのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法を信じる功徳を説かれました。信心が強いほど功徳も大きいと言われました。そして、常住坐臥いついかなる時も、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。

『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても重要なところです。三徳の中でも慈悲がとても重要となります。慈悲を育てるためには、こころを育てないといけません。こころが育てば、人格が向上します。人格が高まれば慈悲のこころが育つのです。

 人に善いことをすることで、善いことをしたと脳にフードバックされます。ひとつの善が、さらに、もう一つの善に繋がるのです。善いことをすればこころが徐々に浄化され、こころの汚れが無くなっていきます。そうすると、もっと善いことをしようとこころが言います。

 私たちは、積徳の人生を歩まないといけません。功徳を積み人に喜んでもらい、さらに徳を積むことで〝すばらしき人生〞への階段を昇りたいと思っております。


合 掌
一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス