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世界平和を
大樹
すばらしき人生118
 行楽のシーズンがやって参りましたが、いまだ新型コロナの終息も見られず、こころから行楽気分を楽しむこともできない状況となっております。新型コロナとの先の見えない戦いは、いつまで続くのでしょうか。新型コロナの新たな株がいつ感染拡大をするのか、第八波はやってくるのか、誰も先のことはわかりません。

 新型コロナウイルスと共存していく社会になるのか、人類の英知が勝り終息へと持っていけるのか、本当の智慧が試されることでしょう。

 最近、日本においては地球温暖化の影響と思われる台風の巨大化、暴風雨の激化、竜巻や雷、雹などの活動が激しくなっております。海外に目をやれば、干ばつや酷暑の影響で山火事も増えております。地球全体が大きく変動しているように思われます。どれを取り上げても、温暖化による影響と思われます。

 一日でも早く温室効果ガス(二酸化炭素)を抑制しないと、今後、もっと気温が上昇し、台風や暴風雨ももっと激しくなります。干ばつも広範囲に発生することも予測できます。人間一人ひとりがこの問題を真剣に考えないといけません。

 自然の法則から見れば、人間がつくり出したものが、環境にはとても良くないものであったということです。私たちはこの地球を守り、永遠に継続できるように、環境の整備をする義務があります。自分の地球は自分で守るという気概が必要なのです。

 私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。部下は全員で二十名でした。愛媛県東部を担当していたMさんは入社七年目でした。仕事の成績は、良くもなく悪くもなく普通でした。

 営業に向いているかどうか微妙はところでした。彼の性格はまじめで正直なのですが、少し暗いところもありました。入社した当時と比較したわけではないので、本当のところはよくわかりませんが、脱皮しないと良くなっていかないと思いました。

 彼は私立M大学の薬学部卒でした。たぶん、国家試験に合格できなかったので就職して営業をしてきたものと思われます。当時の合格率は九割弱でした。そんな彼が、薬剤師国家試験に合格したとの話を聞きました。「それは良かった」と褒めたのですが、彼は会社を辞めさせて欲しいという相談でした。彼の目標は薬剤師になるということでした。最終目標が達成されたのですから、当然のことと思います。当時は売り手市場で引く手もあまたでしたので、就職先はたくさんありました。

 そんなに簡単に国家資格に合格できるものではありません。おそらく彼は仕事が終わってからも、コツコツと試験勉強をしていたのでしょう。おそらく毎年試験にエントリーして六年間合格できなかったのではないかと思われます。新卒の合格率は高いのですが、既卒の場合はかなり低くなります。浪人ではなく、働きながら勉強するということは、並大抵のことではありません。

 毎日、毎日、仕事と勉強とを両立させることは、なかなかできません。彼の努力の成果が合格といった形で成就したのです。

 努力は必ず報われるということを実証したのです。どんなことでも諦めずに自分の立てた目標に向かって、努力、努力、また努力です。人間の成功の陰には、ひたむきな努力がないと成功などできないのです。

 私が四国に赴任して一年ぐらいで会社を辞めた徳島のO課長も薬剤師でした。彼は会社を辞めて、すぐに調剤薬局を開業したのです。その彼の経営している調剤薬局に勤務するということでした。

 自己実現をするためには、たゆまぬ努力と夢を諦めない強い精神力が必要なのです。成功者は見えないところで必ず努力をしているのであります。

 さて、仏教的に考えますと、誰にとっても死は怖いものですが、死を乗り越えるということは、生を乗り越えるということでもあります。死があるから生がある。生と死とは同一の事柄なのです。

 生きる戦いに終止符を打ち、生滅の流れを断つこと、解脱・涅槃に達することが死を乗り越える唯一の道だとお釈迦さまは説かれました。

「この世も、あの世も、乗り越える」というのは、お釈迦さまの言葉です。お釈迦さまは、「不死」という言葉も使われております。人の死とは、端的に言えば体が壊れて機能しなくなることです。

 他人の死を見て、自分も死ぬのは怖いと思います。しかし、生きるものが最も嫌いで、最大の恐怖を感じる現象は、他人ではなく自分自身の死です。この世の中すべての生きとし生けるものは、生きたいと願っております。

 仏教では、人を殺せばどんな罪が現れるか、「因果の法則」を教えております。それは、人を殺したら殺されるということではなく、人に与えた恐怖感が、自分にずっと迫ってくるということです。

「殺生してはならない」というのは、生命にとって最高に嫌なことだからです。その代わりに「慈しみなさい」というのは、生命にとって最高の喜びだからです。

 誰でも親切にされるととても嬉しくなります。ものをくれることよりも、自分に対して親切な気持ちを抱いている、自分のことを本当に心配しているということが嬉しいのです。他人を仲間にしてあげる、差別の壁を消してあげる、それは生命が期待する最高のものを与えることになります。それは、ものをあげるよりずっと価値のあることです。

 では、なぜ死ぬのが怖いのでしょうか。私たちは、「死ぬのが怖いとは当たり前」ということで終わってしまいがちですが、それでは駄目です。「なぜ怖いのか」、それを知る必要があります。皆、死ぬ恐怖感だけはありますが、その理由は誰も知りません。

 死ぬのはなぜ怖いのか、仏教では、その原因を明確に解明しております。他の哲学者たちは、そこをまったく解明しておりません。ですからどんな哲学を学んでも、この死を和らげてくれることはないのです。哲学者であれ誰であれ、死の恐怖を取り除くことはできません。この死に対する恐怖感を取り除いてあげたいと思うならば、まず、「死ぬのは怖い」と思う原因を見つけなければならないのです。

「死ぬのが怖い」ということは、すなわち「生きるのは好き」ということです。これはそれほど難しいことではありません。

「生きることは快楽だ」と思っているから、死ぬのが怖いと思うのです。これが、死を恐れる原因のひとつです。生きることが快楽だったら、死ぬことは嫌です。その快楽をもたらす自分の肉体は、最高の宝物だと思ってしまう。だからそれが壊れるのは嫌なのです。

 死を恐れるもう一つの原因は、自分が執着している財産、地位や名誉から離れるのが嫌だということです。お金も十分あるし、好きな人々もいるし、家族もいるとなると、こうしたものは捨てたくありません。だから死ぬのが怖いのです。

 人は死んで骨になってお墓に埋葬された後でさえ、財産を管理したがるのです。死んでも財産は捨てたくないという執着です。死ぬことでずべてを失うと思っているから、死がさらに恐怖になるのです。

 無知で愚かで生きている、肉体に物事に強烈に執着しているからこそ、死は怖いのです。これが仏教の結論です。死が怖いというのも、こころの汚れ、不善なのです。死ぬのだけは嫌だ、怖いというのは、こころが汚れている証拠なのです。

 人間にも他の生命にも、死の恐怖というものは存在しますが、人間には妄想できるという特別な能力があります。

 この限りない死の恐怖感には耐えられないということで、人間は、極楽浄土、永遠、パラダイス、天国などの決して変わらない境地を妄想して、安心し納得するのです。

 私たち人間が考えることのほとんどは、根拠がありません。根拠なく考えることは妄想です。たとえば、あの人に嫌われているといっても、必ずしも確かめたわけではありません。よく調べてみるとたいていは本人がその人のことを嫌っているのに、相手が自分を嫌っているとすり替えています。でも、そのことは認めたくありません。

 最初に会った時に嫌な人だと思ってしまうと、たとえば仕事上のことで何か注意されても、たとえそれが助言であっても、相手はわざといじめていると思ってしまいます。ほとんどの場合、私たちは、妄想で判断しています。したがって、人間関係もこじれてうまくいきませんし、コミュニケーションも成り立ちません。

 多くの人々は、苦しいからといって、さらに妄想の世界に閉じこもり、脱出することもできなくなってしまうのです。死についても同じです。死ぬことが怖いから何か幻覚を作ってそこへ逃げ込む。しかし、それでは解決できません。死というものを真正面から受け止めて、それまでの人生をどう生きるのかということを考えないといけないのです。

 私たちには、たくさんの執着があります。地球全体を自分のものと思い、宇宙まで自分のものにしようとしています。人間の場合はあまりにも執着がありすぎるので、死ぬのが怖くて、死ぬに死ねないのです。捨てようと思っても捨てきれなくて持っているのです。

 そして、現代人の苦しみは、人間関係や会社での嫌な出来事や、自分が気に入っている仕事に就けないこと、希望の大学に入れなかったことなど、いくらでもあります。それで引きこもりでもなければ、学校にも行けないし、卒業もできません。仕事に就いたとしても当然何もできませんから、先輩から怒鳴られたり、文句を言われたりします。それに耐えられなくなることもあるでしょう。これらの苦しみの根源は、自我(エゴ)です。そのうえ、この苦しみを、同じように自我、執着によって補っていくのですから、ますます悲惨なことになります。人間はわざと自分で、苦しみを作って生きているのです。

 仏教はこう説きます。理性で考えれば、天国を創った人々は早く死んだほうがいいのに、なぜ、一分、一秒でもこの世に長くいたいと思うのでしょうか。それは、「死後は永遠なり」という保証がまったくないからです。

 しかし、仏教は一分、一秒でも長生きしなさいと明言しております。なぜでしょうか。徳を積むこと、善行為をすること、こころ清らかにすること、これは人間でなければできないからです。ですから、「命を粗末にしないで、しっかりとこころを清らかにするようにしなさい」「一分でも長生きができるように食事をコントロールして、しっかり生きてみなさい」と説くのです。

 長生きを祝福する権利があるのは仏教だけです。もし他の宗教で長生きを祈願したならば、その人が天国に行く道を阻むことになります。天国で幸福になることを遅らせることは、罪になります。

 仏教は、「死んだらどうなるのかわかりません。地獄に堕ちるかもしれませんので、一分でも長生きをしましょう」「その一分でも善行為、善いことをしましょう」ということを教えているのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じることの尊さを説かれました。深く、深く信じる時に大きな功徳があると仰せです。信心する力が強いほど功徳も大きくなるのです。

 常住坐臥いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えると、不慮の事故や災難から免れることができると言われました。

 ただ、妙法を深く信じるだけでは、意味がありません。実践して始めて価値があるのです。妙法を深く信じた上で、『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。

 三徳の中でも慈悲の実践がとても重要です。私たちのこころが育てば人格が向上します。人額が向上すれば慈悲のこころが育ちます。自分のためだけに生きている人生を、人のためになる人生へと高めることがとても大事なのです。

 慈悲のこころを育てて、日々の生活を善い方向へと変えていくことが、〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのです。


合 掌
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