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世界平和を
大樹
すばらしき人生119
 今年も残すところ、あと二ヶ月となりました。十一月は秋と冬の境目の季節です。また、旧暦では霜月といい、文字通り霜が降る月とされております。日本には四季があり、それぞれの季節を楽しむことができますが、最近は春と秋が異常に短く感じられます。

 今年は九月の時点で台風十八号まで発生しましたが、海水温が高いため、まだこれからも発生する恐れがあると思われます。今年も伊勢湾台風級の大きな台風がありました。家屋が風の影響で倒壊したり、いろんな被害も出ました。私たちが地球温暖化を止めないと、さらなる甚大な台風の被害にあうかもしれません。

 新型コロナの第七波も収まって参りました。ただ、これから冬場を迎えます。南半球ではインフルエンザが大流行しているそうです。私たちはコロナとインフルと両方注意しながら行動しないといけません。また、新たな変異があり第八波ということも十分考えられます。早く終息して平穏な日常がとりもどせるよう、いましっかりと頑張らないといけないと思います。

 先般の秋季彼岸先祖法要会はコロナのため参拝を中止させていただきました。今月開催の立教四十九年祭もコロナの影響で参拝を中止させていただきます。併せて、来賓挨拶、演芸、餅投げを中止させていただきます。読経のみの開催とさせていただきます。悪しからずご了承賜りますようお願いいたします。

 私がサラリーマンの時でした。大学を卒業して医薬品流通会社に入社しました。夢と希望をもって仕事をしておりました。最初に給料をもらった時のあの感激はいまでも忘れません。

 当時は銀行振込でなく、現金支給でした。給料はそんなに高くありませんでしたが、初任給で両親にプレゼントした記憶があります。大したものではありませんでしたが、喜んでもらいました。

 前にも記させていただきましたが、入社二年目に大変は出来事が起こりました。名古屋のC総合病院を担当していた時のことです。当病院では医薬品の入札が年二回ありました。私は、H社、B社、S社の三メーカーの製品を納めていたのですが、秋の入札で他社から攻撃を受け、二メーカーの売り上げを取られてしまうという、大失態を犯しました。そこから私の人生は奈落の底に落ちてしまったのです。月一千万円ですので、年間一億二千万円の売り上げが無くなったのです。

 結果、一メーカーのS社のみの帳合となり、月百万円の売り上げまでに落としてしまったのです。私は、会社に対して申し訳ない気持ちで一杯でした。皆、口に出しては言いませんが、陰口を言われているとか、白い眼で見られているように感じました。

 私は、思い悩み会社を辞めようかとも考えましたが、この失敗体験を何か別の成功体験をつくり、跳ね返さなければいけないと考えを新たにしたのです。

 失敗から逃げることは簡単ですが、そのまま転職しても何もできない人間に成り下がってしまうと思い、「命までは取られない」という覚悟を決め、重圧に負けないよう努力をしようと思ったのです。

 人に何を言われようが、自分の決めた道を前進するのみです。とにかく会社で一番を目指し努力することです。いかに自分を信じられるか、いかに高い目標を立てられるか、そういう緊張感を常に持ち続けることができるかが勝敗に大きく起因するのです。

 私は、何とか挽回でき「やり遂げた」という達成感を持ち立ち直ったのです。最後まであきらめない、不屈の精神を持つことが極めて重要であると思うのであります。

 さて、仏教には、「死観」という概念があります。それは、生と死は同じものであるという考え方です。

 仏教は無常を語ります。一切の現象は止まることなく、ずっと変化し続けております。その動きのスピードはすべての現象において同じです。

 「何かが無くなる」とは、「何かが生まれる」ことです。「何かが生まれる」とは、「何かが無くなる」ということです。

 今の瞬間に、新しい現象が生まれているのです。つまり、「何かが無くなった」瞬間に「何かが生まれている」ということです。

 今の現象が消えて次の現象になるスピードは、かなり速いものです。変化の速さを理解したければ光の速度を想像してみてください。光の速さは常に一定です。物質ならば、素粒子のレベルで考えればわかります。目の前の机を見ると変化していないように見えますが、机も素粒子からできていて、その素粒子は大変なスピードで別の素粒子に変化しています。それを、机という世間的な見方で見るから、変化を感じられないだけです。

 私たちは、この世で生を受けた瞬間から変化しつつ、成長することを喜んできました。しかし、成長とはおかしな言葉です。「すくすく成長している」「良かった、良かった」と言って、「一歳の誕生日のお祝いをしましょう」「十歳のお誕生日をお祝いしましょう」とお祝いまでしましたが、ある時期までそうやって喜んでいたのに、いつの間にかその変化を嫌なものだと感じて、老いと呼ぶようになるのです。

 二十歳の誕生日は喜んだのに、六十五歳の誕生日は嫌だから、できれば延期したいと思うようになります。六十五歳になると体が急に衰えるから十年ぐらいは延期したいと思っても、それはできません。変化のスピードが皆同じだからです。

 このように、生まれた瞬間からずっと同じスピードで変化して死で終わるだけのことです。死は何でもない当たり前の出来事です。

 瞬間、瞬間が死です。死ななければ新しいものは生まれません。赤ちゃんが成長しなければ子どもにはなりません。赤ちゃんが成長しなかったら若者にはなりません。

 皆、「せっかく生きていたのに死んでしまった」「もう終わりだ」と思っているようですが、それで終わりということではありません。現象が限りなく変化し続けているだけです。生があれば死がある。死があれば生があります。肉体に死があったならば次に必ず生があるのです。

 瞬間的に絶えず起こる現象の変化を観察することができるなら、現象が変わっていくこと、ひとつの現象の死は新しい現象の生であることを、なんの不思議もなく発見できます。

 輪廻転生を説く仏教は、「生死は同じものである」と説いております。死は生と同じことで、ごく当たり前の避けられないものなのです。

 では、なぜ、このごく当たり前の出来事である死を怖がるのでしょうか。その理由に、執着、欲、エゴがありますが、もっと深く考えてみると、命とは感覚のことであり、身体は常に変化する物体(物質)です。生きているというのは、その物体(物質)に、違った働きである感覚が流れていくことです。私たちは常に、眼・耳・鼻・舌・身・意で対象を感じています。生きるとは、何も不思議なものではありません。眼で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身体で感じ、意で考えるということです。

 そこで感じる感覚は「苦」です。たとえば、長い時間動かないでいると、感覚が苦であることがわかります。ある姿勢でじっと動かないでいると、どんどん苦しくなっていきます。見るものについても同じです。「これはきれいだ」と思っていても、「じっと見続けていると苦しくなります。激しく変化しているものでいえば呼吸でしょう。この呼吸を少しでも止めてみたら、感覚が苦であることがよくわかります。

 苦が耐えられる程度のものならば、人間は生き続けられますが、苦に耐えられなくなった時に、人は死にます。言い換えれば、人は苦に耐えられる限り生きているのです。

 生きるということは、限りなく苦を別の苦に変えることです。たとえば、お腹が空くのは苦です。それを食べるという苦しみに変えるのです。

 仏教では、感覚を(楽・苦・不苦不楽)の三つに分ける場合があります。これは相対的な立場で理解する必要があります。不苦不楽の感覚を定めれば、それより上の感覚は楽になり、下の感覚が苦になります。ですが、本当はすべてが苦なのです。

 私たちが二十四時間味わっているのは、苦しみだけです。そんなことを言っても楽しい時間があるのではないかという疑問も生まれます。しかし、それは相対的なものです。「普通」の感覚を定めておいて、それより上の感覚なら楽しいし、下の感覚なら苦しいとするだけのことで、楽しいか苦しいかは自分で定めた基準次第なのです。

 「百万円あればまあまあだ」と思う人にとっては、十万円だったら足りなくて人生は苦しいものです。これが五百万円だったら楽しい、幸福だと思います。従って、苦しみ、楽しみを決めるのは、それぞれの「普通」「まあまあ」という基準です。それはいくらでも変えられるものです。

 一般の人が「人生は苦しい」と思うのは、その人の「まあまあ」の基準があまりにも髙すぎるのです。このように、幸福、不幸は自分が決める基準で成り立つものなのです。

 不苦不楽の基準は、できるだけ下の方に設定したほうが良いのです。そのほうが人生は楽なのです。

 お釈迦さまは、弟子たちの「普通」の基準を一番下まで下げ、「なんとかお腹に入れる食べ物があればそれで十分」「服は人が捨てた布切れで十分」というふうに教えておられます。

 このように、お釈迦さまは、苦・楽・不苦不楽という人生の感覚がある中で、不苦不楽の基準をできるだけ下げることを推奨されておられます。

 それに対して世間の人々は、「普通」の基準を上げようとしています。しかし、上へ上へと考えればきりがありません。俗に言う「楽」は、相対的な概念で、人の主観によって変わるものです。仮に私が「楽だ、楽しい」と思っても、同じことが他の人には「つまらない、苦しい」と感じられる場合もあります。

 しかし、感覚は本来、苦です。感覚は、苦・楽・不苦不楽の三つに分けられますが、「基本的に感覚は苦に属するものです」と、お釈迦さまは説かれているのです。

 苦は絶えることなく経験をしています。お母さんのお腹の中にいる時も苦しいし、生まれる時も苦しいし、生まれてからも瞬間、瞬間が苦しいのです。それを強烈に味わっております。

 しかし、普段はそれを忘れています。どの瞬間も苦しんでいるので、かえって気がつかないのです。

 どんな生命も、生きている限りいつも、いつも苦を感じています。それがあまりにも毎日のことだから、無知が働くのです。

 時には耐えがたい苦を感じることもあるでしょう。病気やけがなど、普段の苦しみの上に、さらに高波が押し寄せる時です。この時、人は「苦しい」と感じます。しかし、決してそれだけが苦ではないのです。

 生きていると、どの瞬間も苦です。従って、「いかに苦から逃げるか」ということが、とても重要となってくるのです。

 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心して行けば必ず成就すると言われました。そして、妙法蓮華経の五文字を唱える時に大きな功徳があると仰せです。

 確信をもって妙法を信心して妙法を唱える時に大きな、大きな功徳があるのです。常住坐臥いついかなる時も妙法を唱えると、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。常に妙法を唱えるように心掛けることがとても大事であります。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても重要です。私たちがこの世に生を受けたのは、自分の人格を高めるという重要な仕事があるからです。何のために人格向上をさせるのかと言えば、こころを清らかに、きれいにしなければ人格は向上しないということです。

 教祖さまがご推奨の三徳の実践をすることが、とても大事です。私たちが、三徳の実践をしていけば、良い人生へと宿命転換ができるのです。その結果、必ず〝すばらしき人生〞へと導いてくれるのであります。


 合 掌
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