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世界平和を
大樹
すばらしき人生120
 十二月を師走と申しまして、あっという間に通り過ぎてしまいます。令和四年もあとわずかです。今年も相変わらずコロナで始まりコロナで終わった年でした。一年間行事ができずに辛い思いをしましたが、来年こそはコロナが終息して平穏な日常が取り戻せるようになることを期待しております。

 現在十一月中旬の時点で、コロナの第八波が来ているのではないかという、専門家の意見もあります。この冬場は注意が必要です。感染しないよう感染防止対策を行わないといけないと思います。また、南半球でインフルエンザが流行しているというニュースもあり、どちらの対策も必要となります。

 日本だけでなく世界に目をやれば、地球温暖化により気候変動も激しくなり、ヨーロッパのグリーンランドの氷河が溶けているようです。本来永久凍土のはずなのに、温室効果ガス(二酸化炭素)がもたらす悪影響が各地に出ております。ロシアとウクライナの戦争によりエネルギーが不足し価格が上昇し、私たちの生活にも影響が出ております。早く終戦しないと世界中の経済に影響が出ます。

 二十一世紀になってもまだ戦争を起こす国があるとは想像しがたいことです。早く平和な世の中になるよう、こころから祈るばかりです。

 先般の立教四十九年祭はコロナの影響で読経のみの開催とさせていただきました。今月開催の開祖祭、法公先生十二回忌もコロナの影響で、読経のみの開催となります。コロナ感染状況を踏まえますと、元旦祭も読経のみとさせていただく予定です。短冊引きはマスク・検温・消毒をしていただき、昨年同様に一日は十二時から観音さまの前で引いていただくこととなります。悪しからずご了承賜りますようお願いいたします。

 私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしておりました。製品は主にインスリンと成長ホルモンでした。S総合病院の小児科の医長のM先生にはとても感謝しております。小人症の患者さまを二十名ほど診ておられていました。成長ホルモンは一例年間三百万円ほどの薬代がかかります。二十例で六千万円年間使用します。

 私どもの製品は三倍の濃度の製品でしたので、注射液量は三分の一で済みます。体重一キロ当たり何単位というふうになっており体重が多くなった患者さまは、必然的に注射量の少ない弊社製品が選ばれます。

 最終的に競合他社は一、二例となり、ほとんどの患者さまの処方をいただきました。注射液量が少ないということは患者さまの負担の軽減につながるのです。

 私がどんな活動をしたかといえば、外来に成長曲線のチラシを置き患者発掘のお手伝いをさせていただきました。また、外来で患者さまが退屈しないようにディズニーの絵本、当時全十八巻だったと思うのですが、提供させていただきました。

 私たちにできることは、正しい情報の提供と、安全性有効性の情報提供と、患者発掘のお手伝いぐらいしかありません。その行動が先生の目指すところと合致すれば、売り上げは必ず上がるのです。

 S総合病院の患者さまのお母さんには何度となく会いました。外来で先生との面会待ちをしていると、子どもさん当時小学六年生の付き添いで外来診療を受診しておられ、話をする機会がありました。子どもさんはサッカー少年で、どうしても背を伸ばして選手になりたいという希望を持たれておりました。背を伸ばすには、成長ホルモン治療しか他に方法はありません。

 中学三年の時に背が百六十八センチまで伸びました。お母さんは辛かったけどあきらめずに治療を続けられたことで背が伸びたことを喜んでおられました。そして、息子さんは、サッカー部に入り活躍することができたこと、本当に感謝しておりますと、私の前で号泣されたのです。

 病気が治るということは、世間の視野が広がるということです。病気で思い悩むよりも、治療してこころから喜んで取り組むことがとても重要です。何よりも前向きに生きられることの素晴らしさを実感できたのではないでしょうか。また一つ将来の目標を達成できるという夢が叶えられたのであります。

 さて、生きることは、苦であるとお釈迦さまは説かれました。苦から逃げても、残念ながら楽には達しません。理由は、ひとつの苦から別の苦へと逃げることになるからです。逃げたと思っても、またそこから逃げなくてはなりません。

 では、苦から逃げるということはどういうことでしょうか。例えば、立っていると苦しいけれど、座れば楽になると思うでしょう。でも座ることだって苦しいのです。長時間座っていると腰が痛くなって、だるくなって、血液の流れも悪くなり、体調が悪かったら大変なことになります。長時間飛行機の中で座っていたら、エコノミー症候群にもなってしまいますし、苦しくなります。座り続けても、立ち続けても苦しいのです。

 どちらにしても私たちは、苦から苦へと逃げます。逃げても逃げても苦へ逃げるのです。私たちにとってそれが生きることです。

 苦から苦へと逃げていると、そのたびに苦の量は増えていきます。子どもが味わう苦は、小学生になると上がります。小学生の苦しみはたいしたことはありませんが、中学生になると苦しみの量がさらに増えます。なんとかそれに慣れてきて、高校に入ると苦しみの量がさらに増えます。私たちが感じている苦の量は日ごとに増えていきます。

 人は、毎日生きる苦しみは減るのではなく、増えているということを実感しております。年齢を重ねるごとに、苦はますます耐え難いものになっていくということは、誰にでも想像できます。だから、誰でも年を重ねることは嫌だと思うのです。

 健康を維持しようと、健康に良いといわれる食べ物を探しても、それはかえって苦しいだけです。値段は高いし、おいしくはないし、空腹感にも耐えなくてはなりません。そのおかげで、病気にならないで済むかもしれませんが、苦しみの収支を考えれば赤字です。反対に好きなものを食べて、病気になって寿命が短くなったとしても、その分おいしいものを食べていたのですから、苦しみにたいした差はないのです。

「夏だろうが、冬だろうが、晴れの日だろうが、雨の日だろうが、毎日四キロのジョギングをしているから、心臓が強くて、血圧も正常です」と胸を張る人もいるでしょう。確かにそのとおりなのですが、では、あなたの毎日のあの苦しみはいったい何だったのでしょうか。ということです。

「将来幸福になろう」というのは、苦しみに対して起こる単なる「夢」です。苦が増していくことは、日々経験済みです。

 人は、この限りなり苦は嫌がります。「死は怖いものだ」と思う原因もここにあります。人は、観念、概念、妄想で日々、増していく苦を「死は怖いものだ」と置き換えて、納得しているだけです。なぜなら、誰も、死とは何なのかを知らないからです。

 実際は、毎日が苦しいのです。この苦しみは、日増しにどんどん増えていきます。今日より明日、明日より明後日のほうが苦しいのです。歳を重ねれば、重ねるほど苦は増します。この苦しみの実感が、妄想を使って「死ぬのは怖い」と言わせるのです。

 本当に怖いのは、死ぬことではなくて、日々増していくこの「苦しみ」です。だから、「死は怖い」ではなく、「生きることは増加する苦である」と発見したほうがいいのです。

「生きることは増加する苦である」と思ったら、生に対する無知、執着が消えて落ち着きます。「だったら楽にしていよう」と思えるようになります。そして、何としてでも健康でいたい、何としてでも長生きしたいといった、執着が消えていくのです。

 生と死を同一現象として理解してはじめて、「仏教的な不死とは何か」を理解することができます。

 現象はすべて消滅の波です。一時間前の私は、今の自分ではありません。「私」とは頭で、概念で、現象をまとめて理解するために使う、言語、音に過ぎません。同じ言葉を使っていても、その中身は変化しているのです。

 一時間前の私と今の私の関係は、一本の流れであったということだけです。一本の流れということは、中身は変化していくのです。

 この流れの変化は、因縁によって起こります。因縁で現れて因縁で消えるのです。生命は、生きる上で、常に因縁を変えていきます。言い換えれば、生きるということは、因縁を変えることです。ですから今の現象から次の現象に変わる場合には、自己責任ということが成り立ちます。

 例えば、お腹が空いたという現証が生まれたとします。私はその因縁を変えるのです。お腹が空いたのはお腹の中に何も入っていないからです。何かを食べるということは、因縁を変えたということです。変えたから空腹感は消えました。空腹の苦しみから逃げたと思っても、新たな苦しみが生まれますが、それも自己責任です。自分が因縁を変えたのだからです。

 呼吸することも因縁を変えること、ものを見たり、歩いたりすることも因縁を変えること、立ったり座ったりすることも因縁を変えること、食べたり飲んだり、寝たり起きたりすることも因縁を変えることです。このように、私たちは、絶えず因縁を変えているのです。

 これによって、結果も変わっていきます。自分が因縁を変えているのですから、その結果は自己責任になります。

 生は死になり、死は生になる流れですから、肉体の死、肉体が壊れることで、すべてが終わるわけではありません。これが因果の法則です。生が死になるなら、死が生になります。それなのに、なぜ、死ですべてが終わると思い込んでいるのでしょうか。死は次の生、これが順番なのです。

 肉体は感覚があるために常に変わりつつ、流れるものです。そういっても、肉体には耐えられる苦に限界があります。死ぬということは本当に苦しいことです。なぜなら、その瞬間に、耐えられない苦しみを経験するからです。そして、限界を超えたところで、身体が壊れて終わるのです。

 しかし、仏教で言う生死とはずっと続きます。執着、煩悩、悩み、憂いなどはこころの苦しみです。このように、こころにも苦しみがあります。こころとは知る、感じる機能です。そのエネルギーは肉体の死で無にならないので、途切れることのない生死の流れになります。肉体が壊れると、別な場所でまた生死の流れが続きます。肉体という組織は壊れても、仏教で言う生死の流れは続いているのです。こころという働き、感覚の働きは、ずっと続いているのです。その中で、嫉妬、憎しみ、憂い、悲しみが満杯に溜まっているのですから、猛烈なエネルギーです。だから、生死の流れが続いてしまうのです。生死の流れを停止させたり、中止させたりすることはできません。

 この止まることのない生死の流れを輪廻と言います。こころの因縁を見出したお釈迦さまは、輪廻の原因は無明だと説かれたのです。この無明をたたき割って、解脱を目指す道がお釈迦さまの教えなのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法には不思議な力があると言われました。深く信じる時に人は、目覚めるのです。そして、信心の力が強いほど功徳も大きくなると言われました。

 常住坐臥いついなかる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。

『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践が大事なところです。この法華経を理解し三徳を実践したならば、人生は大きく変わります。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。人のためになることを、率先して行う。人が喜んでいるのを見て、その姿を見て喜びを得ることができるように、自分を成長させなくてはなりません。

「自分のために生きる人生は、現在はあっても未来はない」「人のために生きる人生は、現在はなくとも未来がある」。慈悲のこころを育てれば人格が高まります。人格が高まれば、必ず〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのです。

                      
 合 掌
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