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世界平和を
大樹
すばらしき人生121
 新年あけましておめでとうございます。昨年もコロナに始まって、コロナで終わった年でした。今年こそ良い年になって欲しいと強く願っております。

 新型コロナウイルスが発生して四年目となります。変異するたびに弱毒化されてきており、死者も減っております。今年は終息に向かうという見立ても出てきました。厚労省では現在の二類から五類への分類見直しも検討されております。五類になればインフルエンザと同じ扱いになりますが、逆に自己負担が発生するようになる模様です。しかし、今までのような行動制限もなくなり、活動がしやすくなります。早く普通の暮らしが取り戻せるようになって欲しいと思っております。

 令和五年のスローガンは、『寛容と融和』です。今年一年、大きなこころで、すべてに対し調和のとれた行動をとることが大切です。そして、周りの人のために『慈悲』を尽くすことがとても大事です。

 世界中で気候変動による被害が出ております。私たちがこの世の中で、共存共栄するためには、地球温暖化対策を真剣に考えないといけません。海洋ゴミの問題も自分さえよければいいという身勝手な思考により引き起こされた大変な問題です。

 人間一人ひとり地球の将来を考えて、自分ができることを、実行し、すべての生きるものが安心して暮らせる環境を築くことが極めて重要であると思います。

 コロナの影響で先般の開祖祭・榊原法公先生十二回忌の法要会は、読経のみの開催とさせていただきました。元旦祭も昨年同様に法話を中止させていただき、短冊も観音さまの前で引いていただきます。ご迷惑をおかけしますが、どうか宜しくお願いいたします。

 私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしておりました。部下が十名おりました。私が、静岡に赴任して三年目のことです。Aさんという新人が配属されてきました。

Aさんは臨床検査の大学を専攻されました。技術系ということで、営業が向いているのか、どうかまったく見当もつきませんでした。

 営業というのは、傾聴力が問われます。聞き上手にならないと相手のニーズ(要求)に答えることができません。話し上手は、聞き上手と言いまして、まずは、相手の言うことをしっかりと聞くことです。そこから営業は始まるのです。

 彼は、本来なら病院か検査会社で働くのが良かったのですが、なぜか製薬会社の営業職で入社しました。性格も明るく良いのですが、商談をするという面では今ひとつでした。私が担当していた沼津市のN市民病院を彼に引き継ぎました。

 臨床検査の勉強をしてきたので、医学薬学の知識もある方でしたが、会話が上手にできないのが欠点でした。あがり症というか口下手というか、あまり営業には向いていないような感がありました。

 そうして、一年が過ぎようとした時に、彼は、突然、会社の企業理念が正しくないと言い出したのです。その当時、私たちが一生懸命に考えて作ったものを完全否定するようになっていたのです。何か会社に不満があるのか、人間関係が良くないのかはわかりませんが、大変なことになりました。

 私は、課長として責任を持って彼と面談し、問題点の洗い出しをしましたが、会社が嫌になった理由がよくわかりませんでした。朝までファミリーレストランで話をしましたが、結局、今の自分がやりたい仕事ではないという理由で会社を辞めることとなりました。

 この世の中は、現実と理想のギャップが大きいのも事実ですが、本当にやりたいことが何かということも、明確ではないのも事実です。やりたい仕事ができ、給料をもらい充実した人生をおくれるのは、ほんの一握りしかいません。世の中は自分が思うようには、ならないようにできております。

 縁があって、会社に就職したのであれば、覚悟を決め、その縁を生かし自分の与えられた道はこれしかないと思って、邁進することです。あきらめずに努力して、自分を磨き、この仕事を究めることが、とても重要なことなのであります。

 さて、仏教では、悟りには、ふたつのさとりがあると説かれております。一番目は「悟り」で二番目に「覚り」があります。二番目の覚りは、仏教の言葉です。「悟り」は一般的に覚ったことを意味しますが、「覚り」は理解能力、智慧にかかわるものです。

 覚者とは、解脱に達した人だから覚者なのです。私たちは解脱を目指して、正しい生き方をすることが望ましいのです。

 因果の法則の中で、輪廻転生をさせる主な原因は、無明であるとお釈迦さまは説かれました。智慧で無明を破ることで、苦を連続させる原因が無くなります。無明を破ることで、その人に生死の流れが無くなるのです。生死を司る無知、無明というものを消してしまうと、どこかにまた生まれるのではなく、生死そのものを超えてしまうのです。つまり、苦しみから脱出したことになるのです。

 無常たる現象を客観的に観察することで、ありのままの事実を発見できます。これが智慧というものです。無明を破るためには、智慧が必要です。智慧というのは、「ありのままに観察すること」です。

 死に苛まれないためには、物事は無常なので執着しないようにすることです。執着してもすぐに消えますから、執着しないようにするのです。

 たとえ煩悩があっても、無明があっても、仏教がわかっった時点から、幸福にならなくてはいけません。とにかく無執着になることです。

 また、死に苛まれないためには、欲、怒り、嫉妬などは無常の現象の中では成り立たないと理解することです。「何か欲が生まれても、それは変わるから欲ばらなくていい」「何かに怒っても、それは変わるのだからなぜ怒る」と、欲、怒り、嫉妬などは成り立たないと理解するのです。 

 何としてでも生きてやるというのではなく、まだ死んでいないから死ぬ瞬間まで、気楽に、楽しく、穏やかに、明るく生きることが望ましいのです。

 後悔すること、批判を受けること、良心が傷つくことになる行為をすべてやめます。また、喜び、充実感を味わえる行為をします。そうすれば、生きることは苦しくても楽しいものになります。「今日は疲れた。でも善いことをした」ということで楽しくなるのです。これらを実行すれば、死の恐怖もなくなります。

 人の最終目標は「解脱」にあるとお釈迦さまは説かれました。皆誰にでも、執着があります。執着は煩悩、束縛でもあります。私たちは、自分が住んでいる家、使っている品物、さまざまなものに執着しております。執着しているかいないかは、それが壊れたり、盗まれたり、人に使われたりした時に、嫌な気分になるかどうかで分かります。この嫌な気分こそ、執着がある証拠です。

 執着は私たちによくあることですが、執着は束縛です。執着があると自由がなくなります。煩悩に束縛されているがゆえに自由になりたいのに、自由になれません。幸福になりたいのに幸福にはなれません。苦しみたくはないのに、苦しみからは逃れられません。

 私たちの手かせ、足かせになっている束縛、煩悩、執着を断ち切って、自由になることが「解脱」なのです。

 「苦しみ」からの解脱を理解することです。生きる苦しみ、束縛、執着、こころの汚れなどは、誰もが経験済みです。確かに生きることは苦しみです。歳を重ねると、今まで好きだったことをやめなくてはなりません。食べることでも、歳を重ねると食べられないものも多くなります。それは、楽しいことではありません。

 財産は離れていくし、子どもも離れていくし、知識、能力もなくなってしまいます。何人であろうとも、死ぬときはただの老人です。生きることの苦しいこと、虚しいこと、すべて捨てなくてはならないこと、何も私のものにはならないことは避けられません。

 しかし、私たちは、「私のもの」「私のもの」と思っております。これが足かせになって苦しくてたまりません。なぜお嫁さんとお姑さんが喧嘩をするのでしょうか。お姑さんは長い間自分が守ってきた家だから、家は自分のものだと思っています。そこに別の家から人が入ってくると、それで嫌な気持ちが生まれます。お嫁さんはライバルになり、家の平和がなくなるのです。もちろん例外もあるでしょう。

 別の事例では、漁師の家のお姑さんがお嫁さんの料理の味付けを褒めて、料理のことは全部任せていると言っていました。お嫁さんにも立場があって、「ああ、この家は幸せなんだろう」と思いました。しかし、お嫁さんを娘のようにかわいがってあげたくても、お嫁さんの態度が悪かったらできません。結局、どうなるかは自分だけでは決められないのです。

 それを「私のもの」と考えるから、大変な苦しみをつくることになります。それは束縛、執着です。そうゆうことがよくわかって、なんとかして束縛を捨てることが「解脱」です。解脱とは苦しみがないことを指すのです。

 人生とは、何かを得るのではなく、ただ捨てることだけなのです。たとえば、生まれつき病気を持った人がいたとします。生まれつきですから、その人にとって病気は、普通の生き方です。健康な人を見てはじめて、この人にある自由が自分にないと気づくのです。

 しかし、健康になったら何かを得られるでしょうか。健康になっても何にも得られません。その人が考えるべきなのは、病気を治すということです。健康ではなく、病気のことを考えるべきなのです。何かを得ようとするのではなく、優秀な医者の指導によって、その人は病気を捨てるのです。

 この場合「捨てる」という言葉が重要です。何かを捨てる、病を捨てる、病を捨てたことが健康です。何かを得たわけではありません。病を捨てたのです。この論理をよく考えて見てください。何も得てはいませんが、何かを捨てたのです。ただそれだけです。しかし、その状態が、その人にとってこの上ない幸福の状態なのです。

 このたとえで、解脱の世界の説明はできると思います。解脱したら何かが得られるのかといえば、何も得られません。生まれつき病気の人は病気を捨てる、捨てた代わりに何かを得たわけではありません。解脱も同じことです。

 生きることは苦しみであることをありのままに理解すると、この苦しみ、この病を何とかしたいという希望、意欲が起こります。仏教を学ぶと、生きることは苦であると散々いわれます。仏教は、それを真理へと導いてくれるのです。そうすると、この嫌な苦しみを捨てたいという意欲が生まれてきます。

 あとは、お釈迦さまの教えに従って、自分の病、苦しみを捨てるのです。その代わりに何かを得ようとはしない、ただ捨てるだけなのです。

 私たちが、仏のこころを生きることがとても大事です。生きていればいろんな苦難もあります。しかし、妙法を根本とするならば乗り越えられない苦難はないとお釈迦さまは説かれました。

 教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じるこころの強さによって功徳が違うと言われました。妙法には不思議な力があります。目には見えないけど大きな力があるのです。深く信じる、そのこころが大事なのです。深く信じると、見えてくるものがあります。お釈迦さまの智慧を体験し、ものごとをありのままに観ることです。

 教祖さまは、常住坐臥いついかなるときも、「妙法蓮華経」の五文字を唱えると、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。信じる者こそ救われるということです。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても重要なところです。この法華経を頭では理解しているが、実践までいかないのは、理解していないのと同じことです。三徳の中でも、慈悲の功徳は絶大です。人に善いことをする、そして、その人が喜んでいる姿を見て、自分も素直に喜べること、これが本当の慈悲です。

 慈悲のこころに目覚めれば、人格が高まります。そうすれば、おのずと自分の魂が磨かれていきます。精進すれば、必ず〝すばらしき人生〞へと導いていただけるのであります。


  合 掌
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