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世界平和を
大樹
すばらしき人生122
 二月を如月と申しまして、いわれは幾つかありますが、まだ寒さが残っているため、衣(きぬ)を更に着る月であるため「衣更着(きさらぎ)」という説もあります。日本では一番寒い時期です。寒さに負けないよう精進することです。

 新型コロナの第八波も正月をはさみ人流が増えたこともあり、増加傾向にあります。まだまだ収まることのない状況にあり、感染防止に力を入れなければいけないと思います。ただ、デルタ株と比較しますとオミクロン株は死者も減り、重症化率も減ってきております。

 現在、厚労省ではコロナの感染症法上の位置づけについて、現在の二類から季節性インフルエンザと同等の五類に下げることを専門家と議論しております。五類相当にランクが下がれば、行事も以前のようにできると思います。第八波が落ち着いたところが、ランク引き下げの分岐点であると思っております。

 今は真冬ですが少し暖かくなってくれば、次第に患者も減ってくると思います。そうなればランク引き下げも十分ありえると思います。私たちとしては、そういう気持ちで願うばかりです。

 令和五年元旦祭は読経のみの開催でした。短冊は観音さま前で分散して引いていただき、ご協力ありがとうございました。今月開催の節分厄除祈願祭もコロナの影響で読経のみの開催とさせていただきます。今月十五日に開催します釈尊涅槃会は通常開催とさせていただきます。参拝はできますのでお参り下さい。

 私が、サラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。支店は香川県高松市にあり四県にそれぞれ課長がおりました。私と課長を含め総勢二十名が担当しておりました。

 とにかく四国は面積のわりにアクセス(交通手段)が悪いところでした。徳島へはディーゼルの列車で一時間、高知も同じく一時間半、愛媛は二時間と移動するだけで、時間を費やしてしまいます。

 そんな中、愛媛の松山事務所のM課長は、とても頭がよく仕事をバリバリとこなすタイプの人でした。不思議なことにE大学病院は糖尿病をご専門にする教室が二つありました。大学病院では専門教室は一教室というのが一般的です。

 M課長の仕事は担当者と同行して糖尿病専門内科、小児科、臨床検査部、薬剤部に定期訪問し情報提供することでした。また、愛媛県の糖尿病基幹病院や小児内分泌ご専門の病院やクリニックへ担当者と同行訪問することです。

 仕事を見て指導し現場でのトレーニングをしないといけないのです。そういう点では他に秀でるところがありました。新入社員となれば仕事しようと思ってもどうしたらよいのか解りません。だから、方法を教えないとできないのです。

 担当者がそんなにできなくても、課長がしっかりとしていれば、仕事は前に進んでいくものです。それでも、どうしようもなくダメな部下もおりますが、熱心に、優しく、教えてあげれば何とかできるようになります。つまり地道な努力が必要なのです。

 四国は不便なところですので、医者を集めた研究会・講演会・勉強会が数多くありました。松山は年間二十開催しておりました。

 以前、松山で内分泌がご専門の糖尿病研究会がありました。座長はE大学の糖尿病内科の教授先生でした。その先生と懇意にされておられる札幌にあるS医科大学の糖尿病ご専門のK教授先生に講演依頼をされ、それを受けて松山で開催されることとなりました。

 松山は道後温泉でも有名ですが、とくに道後の坊ちゃん湯はあの有名な夏目漱石も入られた有名な温泉です。

 講演会が夜六時に開催されます。道後温泉でも有名な温泉旅館を用意させていただきました。先生はチェックインしてから講演会会場に見えて会が始まりました。講演会も終わり、立食パーティーに入り食事をとりながら歓談していただきました。

 翌朝、先生より電話があり、とても激怒されておりました。M課長と旅館との打ち合わせがよくありませんでした。会社で支払いをするということが、旅館の担当者に伝わっていなかったということです。先生は自腹で清算されました。こんなことは普通ありません。当然、会社が清算するのが常識です。その怒りを私が聞いて謝ったということです。

 M課長のように優秀で頭もよい人間でもこんな凡ミスがあるのだと思いました。私は、札幌の支店長に連絡を取り後のフォローを依頼しました。そして、私は愛媛の名産品とおわび状を添えK教授あてに送付をしました。

 つくづく、なぜ彼はこんな単純ミスをしたのかと考えてみると、彼は優秀であるがゆえ、少し天狗になっていたのでしょう。過信はいけません。もう一度、初心に戻り反省することがとても大事であります。

 さて、仏教では、生きることはこころの回転、転回と言います。悩み、苦しみはこころにあります。体にあるのではありません。物質(肉体)はこころが使用する道具に過ぎないのです。私たちに悩み、苦しみがあるといっても、それはこころにあるものです。たとえば、立っていて苦しいといっても、それは肉体の苦しみではありません。苦しいのは感覚です。たとえば、座るとその感覚が無くなって、楽だと感じます。人に叩かれて痛いというのも、感覚が痛いのです。だから、麻酔注射で痛みの感覚を麻痺させたら、叩かれても痛くはありません。このように、苦しいと思う感覚はこころにあるのです。

 叩かれた時にあるのは、感覚の痛みだけですが、私たちは、叩かれると貪・瞋・痴の炎を燃やします。「なんで私のことを」と思うのは、自分のことを高く評価している、欲(貪)です。「こいつは何様のつもりだ」と相手に対して怒るのは、怒り(瞋)の炎です。「なんでもいいから仕返しをしたい」と思うと、愚痴(痴)も必ず働きます。だから、叩かれた時の何百倍もの精神的な苦しみになるのです。

 そこで恨みが生まれます。私たちは、恨みを持つことを美徳だと思っております。事故や事件で人が亡くなるものなら、その犯人を永久に恨み、憎しみ、「この判決には納得がいかない」「死刑にするべきだ」くらい言わないと、まともな人間だとは認められません。しかし、こんなのは美徳ではありません。恨みを持つことは、地獄への道です。

 人が殺されて死んだのだから、それはそれで終了しなくてはいけないのです。それは殺された人の業であって、寿命であって、残された人には関係ありません。一人ひとりが別の生命だからです。

 物質に依存して苦しむのもこころです。カバンが欲しい、服が欲しいと悩んでいるのはこころです。どんなカバンを持とうと、どんな服装をしようと体には関係ありません。いいカバンを持って、きれいな服を着て舞い上がっているのはこころです。

 こころとは知る機能です。この知る機能は、残念ながら物事をありのままに知るのではなく、データを捏造して、幻覚をつくります。カバンを見る時も、ブランドの名前があるか無いかを見ます。格好悪いカバンであっても、そこで決めます。これは、明らかにデータの捏造です。従って、知は常に誤知になります。この病気は人間誰にでもあります。知る機能はあるのですが、その知る機能が誤知になっているのです。

 仏教はその病気を治そうとしています。「知るならば、はっきり知りなさい」「謝って知るなかれ」と、このように仏教の道は明確です。

 人々の認識機能、知る機能が誤知になっているから、その誤知を正知に戻すだけのことです。仏教が教えるのは、ただそれだけです。言い換えれば、仏教は、誤知が正知になるように、成長させる方法を教える教えです。

 知識とは何でしょうか。知識と智慧が同じものであると思われる方もおられますが、まるで違います。知識とは誤知から生まれるものです。知識とは現象について知ることです。それは主観です。主観ですから人によって変わります。知識は発展するもので、私たちの知識はいつも発展途上です。ということは、いつでも不完全で、いつでも中途半端です。だから、知識では何一つ解決できません。

 智慧とは、真理を知ることです。言い換えれば、「知り尽くす」ということです。たとえば、「地球は丸い」と、発見したらそれで終わりです。それ以上することはありません。地球が丸いというのは、形としては真理です。真理というのは答えが一つなのです。ですからそれを知ったら終わりです。

 智慧が完成したら、それ以上知るべきことはありません。人格も必ず変わります。智慧は苦しみをなくす能力です。知者には苦しみがありませんし、他人にも苦しみを与えることもありません。これは智慧の特色です。知者は他人の苦しみをなくすように努めます。智慧でこころの煩悩が無くなる、解脱に達します。智慧とは煩悩を切る、あの鎖を切る刃物です。これが知識と智慧の違いです。

 仏教がめざす最終境地は涅槃に到達することです。仏教は、一切の現象を炎にたとえております。物質に関しては、すべての物質は「変化しつつあること」「停止していないこと」「一時的であること」「瞬間だけの存在であること」などを意味します。

 たとえば太陽も、常に光を放ち続け、大量の素粒子を放ち続け、常に変化し続けています。地球も同様です。すべての物質は変化し続け、止まることはありません。光の速度で変化します。

 こころの場合も、無常であって、常に変化し続けています。ただ、こころの場合はそれだけではありません。こころは、貪・瞋・痴という三つの炎で燃えて苦しんでいると、お釈迦さまは説かれました。こころの場合の炎、「瞬間、瞬間、変化すること」「貪・瞋・痴で燃えていること」の二つです。そして、この炎が消えることが涅槃です。

 皆さまもご存じの通り、炎というのは常に変化するものです。変わらなければ炎は成り立ちません。「一切は炎である」と理解して下さい。物質の場合は、無常という変化する炎だけですが、こころの場合は二重の炎です。無常という炎と、欲、怒り、愚痴という貪・瞋・痴の炎で、二重で燃えております。私たちのこころは瞬間で変わります。こころはあちらに走ったり、、こちらに走ったりして、一ヵ所に止まってくれません。その上、怒りが出たら最悪です。

 解脱に達した人は、涅槃に達したともいいます。炎が消えた状態になったということです。こころの煩悩が完全に消えた覚者になったのです。

 しかし、私たちは、まだ生きておりますので、体があります。その体が無常という炎で燃えています。こころも同じく変化します。物質的な体も、こころも、無常の法則によって変化しつつあるのです。

 涅槃に達するということは、煩悩も、無常の物質(肉体)も、こころも消えた状態なのです。涅槃というのは覚りのこと、こころにある貪・瞋・痴の炎が消えることです。しかし、それでも体はあります。その体は無常です。

 体はまだ燃えております。私たちの場合は死んでも、こころの炎は続いています。物質(肉体)の炎は止まっても、こころの炎は続くのです。こころの炎の燃料(欲、怒り、愚痴)は、こころの中にあるからです。物質(肉体)の燃料は食べ物や空気です。死んだら燃料は供給できません。体は再生できません。しかし、こころの炎の燃料はこころ自体にありますから消えません。輪廻はこうしたことで続くのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法を強く信じることの重要性を説かれました。深く、深く信心すれば、見えてくるものがあります。私たちが、善き方向に進めるよう導いていただけます。

 常住坐臥いついかなる時も、妙法を唱えることがとても大事です。そうすれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。こころの中でも良いので、唱えることを習慣にしないといけません。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践もとても重要です。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。この法華経は、「人を幸せにしたら、その功徳で必ず幸せをいただける」と説かれております。そういう人格者を目指して日々精進すれば〝すばらしき人生〞へと昇っていけるのであります。


  合 掌

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