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世界平和を
大樹
すばらしき人生124
 四月に入り気温も上昇し過ごしやすい季節となりました。旧暦では卯月と言いまして、卯の花が咲く月というのが定説です。

 新年度、新学期、新入社員とすべて四月がスタートの月です。人生をやり直すのも、ちょうど良い機会かもしれません。世の中は、どんなに頑張っても、希望通りにはならないことが山ほどあります。もう一度、仕切り直して、夢に向かい再チャレンジするのも良いでしょう。夢や希望があれば、必ず成就できます。

 新型コロナもひと段落したようにも思えますが、正式に二類から五類に引き下げられるのが、五月八日と聞いております。そうなればインフルエンザと同等の扱いになり、通常の日常が取り戻せるかもしれません。早くなってほしいと強く期待しております。

 三月に開催の春季彼岸先祖法要会はコロナの影響で法話・参拝を中止させていただきました。私たち宣教師全員で信者さまのご先祖さまのご供養をさせていただきました。

 コロナが、このままの状態で五類になれば、六月開催の教祖祭より法話・参拝も通常通りできるようになると思います。どうか多くの信者さまのご来会をお待ち申し上げます。抽選会は中止とさせていただきます。お弁当もお持ち帰りしていただきます。どうかよろしくお願いいたします。

 私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしており、高知県はH課長とF営業部員の二人で担当しておりました。H課長はとても優秀で主に高知市を中心に担当しておりました。もう一人の営業部員が、その他の施設を担当して、東西に長い高知県の全体をカバーしておりました。

 K医科大学病院も高知市内にあり課長が担当しておりました。その病院のI薬剤部長は名物男と称され、とても気難しい先生でしたが、彼の努力により円滑に活動できるようになりました。

 小児科は成長ホルモンご専門のA先生が百名の患者さまを診ておられ、H課長は付きっきりで外来に張り付いていました。患者さまの生活の質の向上のために、通常の注射器から使い捨ての注射器(ディスポーザブル)に変更する作業をしておりました。

 A先生もとても気難しく、担当者泣かせの先生でした。しかし、課長は根気よく、先生に嫌われないよう充分に配慮し活動しておりました。

 そんな彼に根負けしたのか、上手に持ち上げてその気にさせたのです。人間いろんなタイプがありますが、わがままな人ほど扱いやすいものです。わがままであるということは、自分の弱点をさらけ出しているということです。なので、攻め方さえ考えれば、如何ようにでもなるということです。

 A先生の患者さまが百例ということは、年間の売り上げは三億円となります。最重要顧客であるのは間違いありません。全力でケアするのも当然です。

 そんな中、A先生が開業されることとなりました。岡山県で開業されているS小児科医院の先生がご高齢のため、後を引き継がれることとなりました。そのS小児科医院には成長ホルモンの患者さまが百五十例おられました。日本でも五本の指に入る成長ホルモンご専門のクリニックなのです。

 早速、私は会社の上司に報告し、対策を検討した結果、彼を岡山に転勤させ、S小児科医院を担当させたらどうかと提案しました。A先生からこれほど信頼され、期待されているのだから同然のことと考えました。そして、その結果、辞令がおり転勤となりました。

 H課長は、一にも二にも努力する人でした。人間誰しも最初から仕事ができる人はおりません。仕事ができる人間になるためには、努力することしかありません。仕事ができないのであるならば人の二倍努力することです。

 成功するには、一パーセントの才能と九十九パーセントの努力です。努力は決して嘘をつきません。努力は必ず報われます。H課長も貴重な体験ができたのではないでしょうか。このように、成功体験を積み上げることによって、人間は更なる成長をするものであります。

 さて、仏教的に世の中を見ますと常に人間は未来について知りたい存在なのです。そのため手相や人相など、いろいろな占いがあります。「私はいつどんな人と結婚するのか」「今年の運勢はどうか」「自分はいくつまで生きられるのか」というように未来について知りたがります。占いサイトを見たり、占いの本を買い集めたり、占い師のところに相談に行ったりします。

 でも、私たちは、占いを頭ごなしに否定したくはありません。誰にでも満たされていない願望や劣等感、不安があって未来を知りたいと望んでいます。だから、いろいろと考えるのです。

 「もしかすると、あの占いは何か当たっているかもしれない」「しっかり勉強すれば、正しく占うことができるかもしれない」と、こんな風に考えて、迷信(占い)を壊さずに、とにかく生かしてあげているのです。

 世の中でいくら科学が発展しても占いがなくならないのは、このように私たちが生かしてあげているからなのです。

 人間には未来がわかりません。それで未来の予言をしてくれそうな占いが、ありがたく感じられるのです。

 もっとも「未来」は、私たちにとってまるっきり真っ暗闇というわけではありません。「一定して流れるもの」については、ある程度の推測・予測ができるのです。

 ここで「一定して流れるのも」というのは、言い換えれば、何らかの法則にのっとって現在から未来に向け変化していると考えられます。よくテレビで「明日は雨です」「週末は晴れです」などと天気予報を出しております。これは未来のことをある程度予測していっているわけですから、確かに未来についてまるっきり真っ暗闇というわけではないのです。

 では、「明日、雨が降るか降らないか」「明後日、暴風雨になるかならないか」はどうやって予測するのでしょうか。

 雲にはどんな種類があるのか、気圧と雲の関係はどうなのか、大気の流れはどうなっているのかなど、気象学をしっかり勉強して、データを調べて、科学的に予測しているのです。

 つまり、物事の因果法則や因果関係を勉強して、ある程度わかれば、予測することができるのです。「この低気圧で、こんな風に雲がたまっているのだから、おそらくこの時間になると、この地域で雷雨になるでしょう」と言うことができるのです。このように未来の予測は、完璧に不可能とは言えないのです。

 因縁(因果の法則)ですべてを説明する仏教の立場から考えても、「一定して流れるものについては、その未来をある程度は推測・予測できる」と言えます。しかし、それは未来に対する予言でも、占いでもありません。天気予報はある程度まで的中しますが、それはあくまで推測・予測であって、外れることもあり、決して予言ではないのです。

 では、推測・予測と予言はどう違うのでしょうか。具体的には、「生まれた赤ちゃんが将来大人になる」。すごい「予言」です。全然どうといったことありません。こんなこと私が言ったからといって、いくらなんでも私を予言者扱いにはしないでしょう。

 つまり、これは可能性を言っているだけで、確実なことではないのです。今日生まれた赤ちゃんが大人になることは、決して確実とは言えません。しかし、その可能性はあります。これは法則に沿った推理です。

 私たちは人間の法則を知っております。つまり、毎日毎日どんな程度で変化するのか、毎年どんな風に人間が成長するのかを知っているのです。「この赤ちゃんも、あと二十年ぐらい経つと結構立派な大人になる」と言えるわけですが、それでも、これは推測です。予言ではありません。だから、推測・予測と予言を区別する必要があるのです。

 従って、「一定して流れるのも」については、ある程度の推測はできますが、未来に対する予言にはなりません。未来を完璧に知ることは不可能なのです。

 そして、未来を知ることができないから、つまり、未来への心配をなくすことができないから、どうしても「ためる」という生き方が現れることになるのです。

 そうすると、次に出てくるのが、「では、何をためればいいのか?」という問題です。人間は未来と違って過去についてはすでに知っております。過去について、後悔することはあっても、「心配」することはありません。

 従って、人間は知っている「過去」のために何かモノをためておくことはしません。「これは将来のために必要だろう」ということで、いつでも「未来」「将来」のためにためるのです。

 たとえば、「過去」のことを研究する考古学者は、遺跡を発掘して遺物を見つけたら、ちゃんときれいにほこりを落として、綿を巻いて、丁寧に箱に入れて保管します。これは古いものをためているのです。では、何のためなのか。

 それは、「持ち帰って実験室で研究できるように」「学会で発表できるように」と、結局、「将来」のためなのです。こうして人間は将来のためにためていくのです。

 もう過去は死んでしまったのですから、過去に対してはどうすることもできません。何かをすることができるのは、あくまで将来に対してです。

 しかし、人間には将来のことはわかりません。ですから、「将来のために準備しても、何をためて良いのかわからないから、何でもいいからため込んでみる」という生き方が現れるのです。

 そもそも、人間というのは変な生き物です。何でもいいから、ためておこうと考えてしまう。このように、ため込むこと、蓄えることというのは誰でもやっていることです。

 それは無意味なことですと言っても、人間はためることをやめません。なぜなら、未来を知らないからです。
「ためる」ことによって往々にしてトラブルが起こりますが、「ためる」という行為自体は、必ずしも悪いことではありません。トラブルが起ころうと起こるまいと、勝手にやればいいのです。いろいろなものをため込んで生きたければ、それはそれでいいのです。

 結局、どんな人間でも、生きていると、いろんなモノがたまっていくのです。どこに住んでいても、モノがたまっていくのです。これは避けられません。

 人間は「ためこみ」から逃れることはできません。そして、「ためること」それ自体を必ずしも悪いことと決めつけることはできないのであります。

 教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じることの重要性を説かれました。深く、深く信じる時に人は目覚めるのです。妙法を信じることはとても大事です。

 常住坐臥いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。そうすれば大難が小難に小難が無難へと罪障を消滅できるのです。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事です。実践すれば自然と智慧が現れる善い方向へと足が向いていきます。

 教祖さまの有名な語録に「悲しむ人はこころからな慰め労り、飢えた人には食を与え、寒さに震える人には衣服を施す等、人の喜ぶこと、人の便利を図ることは、他人が見ておろうと見ていないとに拘わらず、一生懸命に実行せられて陰徳を積んでください。必ず陽報は子宝となってあらわれます」と、慈悲の功徳の大事さを説かれました。

 三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。他人に施しをしたら、それ以上の功徳があるのです。困っている人には、率先して助けてあげることがとても重要なのです。

 私たちも教祖さまを見習って、徳を一つひとつ積む努力が必要です。そして、こころを育てて人格を高め〝すばらしき人生〞へとなるように生きることが、とても大事であるのです。


  合 掌
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