世界平和を
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大樹
すばらしき人生125
早いもので、もう五月がやってきました。月日は猛烈なスピードで流れてまいります。ゴールデンウィークもあり、海外、国内旅行で人の行き来が増えます。多い方で九連休取られる方もあります。円安が影響して海外からのインバウンドも見込め、日本経済に良い影響が出ると思います。
連休明けにコロナウイルスが二類から五類に変更となり、インフルエンザと同等の扱いになれば、普段と変わらない活動ができるようになります。多少の制限があったとしても、通常の日常が取り戻せるのであれば、喜ばしいことです。
私たちが、かつて体験したことのない、未知なるコロナウイルスと直面して、大変な三年半となりました。この経験があったから、新たなウイルスが出現しても対応できると思います。
人間の英知の結晶が勝利したものと思われます。どんなに苦境であっても、それを乗り越えない限り、未来は来ないのです。そういう意味でも今回のコロナワクチンや治療薬の開発が全世界的なレベルで進んだことの証となります。本当に良かったと思います。
先般、開催の釈尊降誕祭(花まつり)は、まだコロナの影響で読経と甘茶の振舞だけで開催をさせていただきました。六月開催予定の教祖祭は今までと違い弁当券の購入はありません。コロナが五類の状況に引き下げられれば、通常開催をさせていただきます。どうかご参拝の程、よろしくお願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしており、部下が十名おりました。私が赴任当時は静岡県を一人で担当しており、とても大変でしたが、市場調査など徹底的に行いターゲットの絞り込みと集中的に活動した結果、成長ホルモン剤は前年の十倍の売り上げとなり、インスリンもほぼ倍増できたため、課長に昇進することができました。それから毎年のように営業部員が増え営業活動にも支障をきたさないようになりました。どんな仕事でも同じです。いかに早く分析し、集中できるかです。要するに、「選択と集中」が大事なのです。
東部・中部・西部と広いエリアでした。新幹線の駅も六つあり距離を感じさせます。その中部の静岡市を担当していたHさんは、とても優秀で何でもできたスーパーマンでした。そんな彼と対照的なWさんは、どうにも使えない人でした。
Hさんが、仕事に対して自信をもって、楽しんで、喜んでできたのと対照的に、Wさんは、暗く、落ち込み、しょうがないからという、あきらめの境地で仕事をしておりました。
Hさんは、放っておいても自分の仕事はやり遂げます。問題はWさんを、いかに使いものにするかが大きな課題となりました。十名の中で一人でも脱落者が出ると目標を達成することは不可能です。
Wさんは、かなり年配なため、手取り足取り指導しても効果はありません。彼を、いかにその気にさせるかが重要なポイントです。まずは、彼の仕事の仕方を観察し、その中で良いところを見つけ、褒めることです。
人間、褒められて悪い気はしません。徹底的に褒めて、褒めちぎります。その上で、彼の弱点や欠点を刺激しないように指摘します。人間は意外と自分のことを知らないものです。
その短所を長所に変えないといけません。ものすごく大変な作業ですが、まずは、信頼関係の構築から始まります。そして、欠点や短所を自覚させることです。変に高圧的ではなく、フレンドリーな感じで、こころを開いて接することです。そうすれば、彼も、こころを開き信頼関係が深まります。
そうなれば、苦手であった医療機関の先生に対する攻略方法も伝授できるのです。山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と、有名な言葉があるように、相手のことを思い、良い営業マンになって欲しいと願うこころが無いと、人は成長しません。
私は、なんとか彼が普通の仕事ができるようにモチベーション(やる気)をあげ、楽しく、喜んで仕事ができるようにできたのです。どんな人でも不可能はありません。本気で育てようと思い、彼を信じていけば、必ず成就できるものであります。
さて、仏教的に考えますと、私たち人間は、「ためる」ことをなかなかやめることができません。それで、いろいろなモノがどんどん身の回りにたまっていくわけです。しかし、どうせたまるのなら、「ためることの倫理と道徳」があるとよいのではないでしょうか。ただ無作為にためるのではなくて、ちゃんと倫理と道徳を考えてためればよいことです。
具体的には「何を、何のために、どれくらいの量、どれくらいの期間ためればよいのか」を考えないといけません。
これは倫理と道徳の問題です。「何をためるのか?」と問われたとき、「何でもいい」というのでは答えになりません。「何のためにためる?」と問われたとき、「よくわかりません」というのも答えになりません。
たとえば、皆さんがある人とこういうやりとりをしたとします。「何をためる?」「何でもいいのです」「何のためにためるの?」「わかりません。でも何かの役に立つかもしれません」「どれくらいためるの?」「あればあるほどいいのです」「どれくらいの期間ためるの?」「わかりませんが、できるだけ長く」と、これでは、何の倫理も道徳もありません。
なぜこういう問題が出てくるのかといえば、それは、やはり私たちに未来がわからず不安だからなのです。
そこで、何を、どれだけ、どれほどの期間ということを考えないといけません。明確な答えでなくても構いません。ためるときのために一応持っていたほうがいいのです。
最も重要なのは「何のために」、つまり、ためる目的・理由です。たとえば、貯金というのは、「これは海外旅行用に」「家やマンションを買う際の頭金に」「子供の教育資金に」といったように、本来、貯めたお金をどう使うか、何のために貯めるのかという目的を本人が知っているべきものです。
ところが、「とにかくためておく」という発想になると、かなり危険です。なぜなら未来像がないし、使い道を考えていないからです。これは、かなり危険な問題が起きるケースです。
まず、目的の「なぜためるのか」をはっきりさせる。そうすると、その次に「どれくらい」「いつまで」もおのずとはっきりしてくるのです。目的があるなしでは、大変な違いなのです。ためることはよいけれども、まず目的をはっきりさせなさいということです。
たとえば、若い人がお金を貯めるためだといって、毎日、二百円、三百円のラーメンばかりを食べて食事をすませていたとします。「なぜ、そんなに無理してお金を貯めるの?」と聞かれると、こう答えます。「車を買いたいです」
それならば、「ご飯もろくに食べないで、それでいいのか」と別に文句を言う必要はありません。なぜなら、その若者にとっては、「貯める目的」がしかりできているからです。そうすると、「貯める金額」「貯める期間」もおのずとできてくるのです。
最近よく言われる「老後の蓄え」にも同じことがいえます。この場合は、「蓄える目的」がはっきりしております。「老後の生活のため」です。「蓄える期間は」は、ふつうは「定年まで」ということで、一応はっきりしております。
問題は「蓄える金額」ですが、これは、どこかの高齢者向けのマンションに入ろうという計画を立てていれば、その入居金や利用料に見合った金額になるでしょう。あるいは、「自分の寿命はどれくらいかな?」と考えて、それだったらこんなものなのかな、というふうに計画を練ることになるはずです。
無目的ではなく「何のため」という目的をはっきりさせておくことが大切なのです。中途半端とか曖昧を好む日本人は、そのことが原因でため込みを誘導してしまいます。
中途半端にご飯を食べることはできません。曖昧なままでは品物を買えません。たとえば、レストランでメニューを見たら十種類ぐらいの料理が並んでいる。店員に「ご注文はなんでしょうか?」と言われる。
自分の考えは曖昧で別にどれでもいいのだけど、「早く注文してください」と言われて、適当に何かを注文してしまう。すると、後になって「ああ、あれも食べたかった、これも食べたかった」となる。中途半端ではうまく生きていられないのです。
朝ごはんを食べるにしても、「今朝のご飯は失敗したから、もう一回やり直しをしましょう」ということはしないでしょう。
つまり、私たちは実際に生きていくうえで、はっきりと道を決めなくてはならないのです。もちろん、決める場合、選択肢はいくつかあります。それでも、ひとつに決めなくてはいけません。
中途半端だと人生はうまくいかないし、精神的にいつも悩んだり、いら立ったりしてストレスがたまります。しかし、勘違いしないでほしいのは、自分の人生と直接関係ない場合は、曖昧であってもどうってことないのです。
たとえば、「今後の選挙でどの党の候補に投票する」と言われて、「ろくな党がないから、どうするか決めていない」となっても、一向に構わないのです。また、「神様を信じますか、信じませんか?」と聞かれたとときには、こころが少し曖昧で中途半端になることがあります。
「『信じない』とは言いたくないし、『信じている』とも言いたくない」「『信じません』とまで言う勇気はないけれど、かといって『信じています』という勇気もない」。
こういった信仰とか正義とか、私たちの世界で余計に交わされているどうでもいい話は、曖昧であっても一向にかまいません。そもそも、神が存在しようとしまいと、この私は存在しているわけです。
逆に、こういう事柄に対しては、原理主義であるよりは、曖昧のほうが良いのです。しかし、「疲れているから朝寝坊したい。でも、会社にも行きたい」というようなケースでは、曖昧であることはいけないことです。
朝寝坊すると決めたら、会社に電話して、遅刻(欠勤)することを連絡しなければなりません。そうすればその人は、とりあえず会社の就業規則に違反せず、不幸にならずにすみまます。
ところが、ここを曖昧にして、眠いのだけれど会社に行き、結局、会社で寝ている。一応は出勤したけれど、眠いから仕事がはかどらない。これではダメです。あるいは、無断欠勤でその日を一日休んでしまう。これも最悪です。
そういうことで、人生においては、いろいろありますが「はっきりさせる」という態度が、どうしても必要になってくるのであります。
「因果の二法」を語る法華経は、何の因縁もなく、良いこと、悪いことが起きるのではないと説いております。結果には必ず原因があるのです。嫌なこと辛いことが起きたとしたら、私には、このような宿業があると思うことが大事です。その宿業を打破しない限り、同じ問題がまた起こります。
それを解決するためには、私たちは、「仏のこころを生きる」ことが大切であります。仏のこころとは、何があっても揺るがない。何があっても怒らない。何があっても許すという、仏の強いこころになることが大切です。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じる信心の強さにより功徳の大きさが変わると説かれました。妙法を深く信じることです。信じて、信じて、信心していくときに人間は目覚めるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えるときに大きな功徳があり、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。中でも慈悲の功徳は絶大です。功徳というものは、決して他人から与えられるものではありません。自分の善行為の行動により、自然を湧き出てくるものです。
私たちは、慈悲の実践を行い「慈しみのこころ」を育てることにより、人格を高める努力・精進すれば、必ず〝すばらしき人生〞へと導いていただけるのであります。
合 掌
連休明けにコロナウイルスが二類から五類に変更となり、インフルエンザと同等の扱いになれば、普段と変わらない活動ができるようになります。多少の制限があったとしても、通常の日常が取り戻せるのであれば、喜ばしいことです。
私たちが、かつて体験したことのない、未知なるコロナウイルスと直面して、大変な三年半となりました。この経験があったから、新たなウイルスが出現しても対応できると思います。
人間の英知の結晶が勝利したものと思われます。どんなに苦境であっても、それを乗り越えない限り、未来は来ないのです。そういう意味でも今回のコロナワクチンや治療薬の開発が全世界的なレベルで進んだことの証となります。本当に良かったと思います。
先般、開催の釈尊降誕祭(花まつり)は、まだコロナの影響で読経と甘茶の振舞だけで開催をさせていただきました。六月開催予定の教祖祭は今までと違い弁当券の購入はありません。コロナが五類の状況に引き下げられれば、通常開催をさせていただきます。どうかご参拝の程、よろしくお願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしており、部下が十名おりました。私が赴任当時は静岡県を一人で担当しており、とても大変でしたが、市場調査など徹底的に行いターゲットの絞り込みと集中的に活動した結果、成長ホルモン剤は前年の十倍の売り上げとなり、インスリンもほぼ倍増できたため、課長に昇進することができました。それから毎年のように営業部員が増え営業活動にも支障をきたさないようになりました。どんな仕事でも同じです。いかに早く分析し、集中できるかです。要するに、「選択と集中」が大事なのです。
東部・中部・西部と広いエリアでした。新幹線の駅も六つあり距離を感じさせます。その中部の静岡市を担当していたHさんは、とても優秀で何でもできたスーパーマンでした。そんな彼と対照的なWさんは、どうにも使えない人でした。
Hさんが、仕事に対して自信をもって、楽しんで、喜んでできたのと対照的に、Wさんは、暗く、落ち込み、しょうがないからという、あきらめの境地で仕事をしておりました。
Hさんは、放っておいても自分の仕事はやり遂げます。問題はWさんを、いかに使いものにするかが大きな課題となりました。十名の中で一人でも脱落者が出ると目標を達成することは不可能です。
Wさんは、かなり年配なため、手取り足取り指導しても効果はありません。彼を、いかにその気にさせるかが重要なポイントです。まずは、彼の仕事の仕方を観察し、その中で良いところを見つけ、褒めることです。
人間、褒められて悪い気はしません。徹底的に褒めて、褒めちぎります。その上で、彼の弱点や欠点を刺激しないように指摘します。人間は意外と自分のことを知らないものです。
その短所を長所に変えないといけません。ものすごく大変な作業ですが、まずは、信頼関係の構築から始まります。そして、欠点や短所を自覚させることです。変に高圧的ではなく、フレンドリーな感じで、こころを開いて接することです。そうすれば、彼も、こころを開き信頼関係が深まります。
そうなれば、苦手であった医療機関の先生に対する攻略方法も伝授できるのです。山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と、有名な言葉があるように、相手のことを思い、良い営業マンになって欲しいと願うこころが無いと、人は成長しません。
私は、なんとか彼が普通の仕事ができるようにモチベーション(やる気)をあげ、楽しく、喜んで仕事ができるようにできたのです。どんな人でも不可能はありません。本気で育てようと思い、彼を信じていけば、必ず成就できるものであります。
さて、仏教的に考えますと、私たち人間は、「ためる」ことをなかなかやめることができません。それで、いろいろなモノがどんどん身の回りにたまっていくわけです。しかし、どうせたまるのなら、「ためることの倫理と道徳」があるとよいのではないでしょうか。ただ無作為にためるのではなくて、ちゃんと倫理と道徳を考えてためればよいことです。
具体的には「何を、何のために、どれくらいの量、どれくらいの期間ためればよいのか」を考えないといけません。
これは倫理と道徳の問題です。「何をためるのか?」と問われたとき、「何でもいい」というのでは答えになりません。「何のためにためる?」と問われたとき、「よくわかりません」というのも答えになりません。
たとえば、皆さんがある人とこういうやりとりをしたとします。「何をためる?」「何でもいいのです」「何のためにためるの?」「わかりません。でも何かの役に立つかもしれません」「どれくらいためるの?」「あればあるほどいいのです」「どれくらいの期間ためるの?」「わかりませんが、できるだけ長く」と、これでは、何の倫理も道徳もありません。
なぜこういう問題が出てくるのかといえば、それは、やはり私たちに未来がわからず不安だからなのです。
そこで、何を、どれだけ、どれほどの期間ということを考えないといけません。明確な答えでなくても構いません。ためるときのために一応持っていたほうがいいのです。
最も重要なのは「何のために」、つまり、ためる目的・理由です。たとえば、貯金というのは、「これは海外旅行用に」「家やマンションを買う際の頭金に」「子供の教育資金に」といったように、本来、貯めたお金をどう使うか、何のために貯めるのかという目的を本人が知っているべきものです。
ところが、「とにかくためておく」という発想になると、かなり危険です。なぜなら未来像がないし、使い道を考えていないからです。これは、かなり危険な問題が起きるケースです。
まず、目的の「なぜためるのか」をはっきりさせる。そうすると、その次に「どれくらい」「いつまで」もおのずとはっきりしてくるのです。目的があるなしでは、大変な違いなのです。ためることはよいけれども、まず目的をはっきりさせなさいということです。
たとえば、若い人がお金を貯めるためだといって、毎日、二百円、三百円のラーメンばかりを食べて食事をすませていたとします。「なぜ、そんなに無理してお金を貯めるの?」と聞かれると、こう答えます。「車を買いたいです」
それならば、「ご飯もろくに食べないで、それでいいのか」と別に文句を言う必要はありません。なぜなら、その若者にとっては、「貯める目的」がしかりできているからです。そうすると、「貯める金額」「貯める期間」もおのずとできてくるのです。
最近よく言われる「老後の蓄え」にも同じことがいえます。この場合は、「蓄える目的」がはっきりしております。「老後の生活のため」です。「蓄える期間は」は、ふつうは「定年まで」ということで、一応はっきりしております。
問題は「蓄える金額」ですが、これは、どこかの高齢者向けのマンションに入ろうという計画を立てていれば、その入居金や利用料に見合った金額になるでしょう。あるいは、「自分の寿命はどれくらいかな?」と考えて、それだったらこんなものなのかな、というふうに計画を練ることになるはずです。
無目的ではなく「何のため」という目的をはっきりさせておくことが大切なのです。中途半端とか曖昧を好む日本人は、そのことが原因でため込みを誘導してしまいます。
中途半端にご飯を食べることはできません。曖昧なままでは品物を買えません。たとえば、レストランでメニューを見たら十種類ぐらいの料理が並んでいる。店員に「ご注文はなんでしょうか?」と言われる。
自分の考えは曖昧で別にどれでもいいのだけど、「早く注文してください」と言われて、適当に何かを注文してしまう。すると、後になって「ああ、あれも食べたかった、これも食べたかった」となる。中途半端ではうまく生きていられないのです。
朝ごはんを食べるにしても、「今朝のご飯は失敗したから、もう一回やり直しをしましょう」ということはしないでしょう。
つまり、私たちは実際に生きていくうえで、はっきりと道を決めなくてはならないのです。もちろん、決める場合、選択肢はいくつかあります。それでも、ひとつに決めなくてはいけません。
中途半端だと人生はうまくいかないし、精神的にいつも悩んだり、いら立ったりしてストレスがたまります。しかし、勘違いしないでほしいのは、自分の人生と直接関係ない場合は、曖昧であってもどうってことないのです。
たとえば、「今後の選挙でどの党の候補に投票する」と言われて、「ろくな党がないから、どうするか決めていない」となっても、一向に構わないのです。また、「神様を信じますか、信じませんか?」と聞かれたとときには、こころが少し曖昧で中途半端になることがあります。
「『信じない』とは言いたくないし、『信じている』とも言いたくない」「『信じません』とまで言う勇気はないけれど、かといって『信じています』という勇気もない」。
こういった信仰とか正義とか、私たちの世界で余計に交わされているどうでもいい話は、曖昧であっても一向にかまいません。そもそも、神が存在しようとしまいと、この私は存在しているわけです。
逆に、こういう事柄に対しては、原理主義であるよりは、曖昧のほうが良いのです。しかし、「疲れているから朝寝坊したい。でも、会社にも行きたい」というようなケースでは、曖昧であることはいけないことです。
朝寝坊すると決めたら、会社に電話して、遅刻(欠勤)することを連絡しなければなりません。そうすればその人は、とりあえず会社の就業規則に違反せず、不幸にならずにすみまます。
ところが、ここを曖昧にして、眠いのだけれど会社に行き、結局、会社で寝ている。一応は出勤したけれど、眠いから仕事がはかどらない。これではダメです。あるいは、無断欠勤でその日を一日休んでしまう。これも最悪です。
そういうことで、人生においては、いろいろありますが「はっきりさせる」という態度が、どうしても必要になってくるのであります。
「因果の二法」を語る法華経は、何の因縁もなく、良いこと、悪いことが起きるのではないと説いております。結果には必ず原因があるのです。嫌なこと辛いことが起きたとしたら、私には、このような宿業があると思うことが大事です。その宿業を打破しない限り、同じ問題がまた起こります。
それを解決するためには、私たちは、「仏のこころを生きる」ことが大切であります。仏のこころとは、何があっても揺るがない。何があっても怒らない。何があっても許すという、仏の強いこころになることが大切です。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じる信心の強さにより功徳の大きさが変わると説かれました。妙法を深く信じることです。信じて、信じて、信心していくときに人間は目覚めるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えるときに大きな功徳があり、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。中でも慈悲の功徳は絶大です。功徳というものは、決して他人から与えられるものではありません。自分の善行為の行動により、自然を湧き出てくるものです。
私たちは、慈悲の実践を行い「慈しみのこころ」を育てることにより、人格を高める努力・精進すれば、必ず〝すばらしき人生〞へと導いていただけるのであります。
合 掌
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