世界平和を
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大樹
すばらしき人生128
今年も暑い夏がやってきました。寝苦しい熱帯夜は無理をせず、十分な水分補給が必要です。熱中症対策を万全にしないといけません。電気料金が高騰しておりますが、エアコンを適温に設定して夏を乗り越えたいと思っております。
日本では、旧暦の八月を葉月といいます。葉月の由来は諸説あります。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名であります。
今年も地球温暖化の影響と思われます、台風や竜巻、ゲリラ豪雨、線状降水帯など、国民の日常を脅かす災害が増えております。特に今年はスーパーエルニーニョといって例年と違い風水害の影響が最大級といわれております。南米の赤道付近の海水温が異常に高いことが原因とされております。十分警戒が必要です。
三年半と行事らしいことができずにおりましたが、教祖祭には多くの信者さまのご参拝をいただきましてありがとうございました。先月の盆施餓鬼先祖大法要会も通常開催ができたことに感謝しております。
来月は秋季彼岸先祖法要会です。予定通り開催させていただきますので、多くの信者さまのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。中でも静岡市はとても排他的なところでした。よそ者を受け入れることなく、仲間意識の強いところでした。私が赴任した当時は、そのような点で苦労しましたが、半年、一年と時間が経過するにつれ、徐々に仲間に入れてもらったという印象でした。
東海四県の中で最も糖尿病の患者様が多い、静岡S総合病院を担当させていただき、副院長のI先生には、いろいろご指導いただき、なんとか一人前になれたのであります。
当時、まだ課長だった私は、I先生のおかげで支店長まで昇進させていただいたことを、今でも感謝しております。当然、私も必死で仕事をさせていただいたことなど懐かしく思い出されます。
S総合病院は糖尿病の患者さんが多いということは、ビジネスチャンス(商機)も多くあるということです。I先生が私に期待することのすべてを実現することが大きな信頼へと繋がってまいります。
また、信頼は、失うときは、いとも簡単に失います。しかし、そうならないよう普段から信頼の積み重ねをしていかないと崩れてしまうものです。
最初の頃はプレイングマネジャー(課長と営業を兼任)でしたが、営業マンも毎年増えて私は課長職に専念することができるようになりました。そんなある年、広島から私より年配のWさんが静岡に配属になりました。
彼の第一印象は、性格的には悪い方ではないのですが、効率的には見えませんでした。そのため、県中心部ではなく東部を担当させることにしました。思った通り要領の悪い、非効率的で昔覚えた営業のやり方がしみ込んだ、とても鍛え替えのある人物でした。
私は、年上だからといっても遠慮する気はさらさらありませんでした。とにかく、仕上がりの悪い中古品を何とか新品に近い良いものへ改善しないと、課の目標達成は不可能になります。
人は褒めることで成長すると言われておりますが、彼は本当に褒めるところが見当たらない人物でした。どうしたら良いのか考えたあげく、若い新人に近いような営業とのブラザー制度をつくりました。それは、二人で大病院を担当することなのです。
そうすると、若い営業の活動を見て彼がモチベーション(やる気を出す)できたのです。彼は、自分の欠点に気づいたのです。自ら気づけば話は早いのです。「人の振り見て、我が振り直せ」という有名な言葉があるように、気づかなければ欠点は永遠に見えてこないのです。
人間は、その気にならなければ、嫌なことには目をつぶる。しかし、人を育てようとするならば、上から高圧的に教えるのではなく、さりげなく気づかせることの重要性を理解しなければいけません。こうして、Wさんは若い営業とブラザー制度によって、本来のWさんの力を発揮することができ、営業成績も上がったということでした。
仏教の立場で考えますと、勝手にたまってしまうものは本来、不必要なものです。努力しなくても自然とたまったものについて分析すると、たとえば、ゴミや汚染などは勝手にたまるものです。これは、ありがたくないものです。しかし、生きていると、どんどんいろんなものがたまっていくのです。
そもそも、たまったものとは、意図的にためたものか、勝手にたまったもの。意図的にためたものなら、それは仕方ありません。でも、勝手にたまったものは、実はとても危険なものです。
みなさんが普通に家で一週間ぐらい暮らしていると、勝手にたまっているものは何でしょうか?
ゴミです。結構ゴミがたまるのです。お弁当を買ってきても、中身はそれほど多くないのに、箱はやたらと大きい。ペットボトルのお茶を買ってきて、中身を飲んでしまっても、大きなペットボトルはそのまま残ってしまう。
結局、一週間もすれば、大量にゴミがたまってしまうのです。ここで覚えておいてほしいのは、物質の場合、自動的にたまるものは、本来はいらないものです。
物質だけでなく、こころにも、自動的にたまるものと、意図的にためていくものがあります。こころに勝手にたまるものとは、怒り、嫉妬、落ち込み、後悔などの、いわゆるマイナス的な感情、つまり悪感情です。
勇気や明るさなどは、自然にはたまりません。優しさや理性も、自動的にはたまらないものです。でも、欲や怒りは、勝手にたまるものなのです。
たとえば、人に何かを言われて、嫌な気持ちになったとします。こころに怒りが現れたのです。
言われた後も、ずっとそのことについて考えてしまいます。そうすると、なおさら怒りが大きくなっていきます。こころに勝手に怒りがたまっていくのです。やがて、その人を見ただけでも怒りがこみ上げるようになります。最終的にその人に危害を加えようという気持ちを抱くまで怒りがこころにたまってしまうことになります。
人間は誰しも、嫌なことをしつこく覚えて、思い出したりして、マイナスの感情をどんどん膨張させてしまうのです。
怒り、憎しみ、落ち込みといったものは人間にとって良くないもので、要らないもの、つまりゴミなのです。
悪感情という「こころのゴミ」をためるのは毒を飲むようなもので、まず自分自身を破壊し、そして周囲にも破壊をもたらす原因を作ってしまいます。
家にゴミがたまることに、言い訳をしてもよいのでしょうか?「だって、人間が住んでいるのだから、ゴミがたまるのは、仕方がない」と言い訳するかもしれません。そんな言い訳をしたら、社会からは、「家をきれいにしないのは、だらしないからだ」「この人はゴミを正しく出していない」と批判を浴びるはずです。
ですから、こころにゴミがたまることについても、「場合によっては、怒ることもあります」などと言い訳をしないでほしいのです。こころを決して「ゴミ屋敷」にしないでほしいのです。
人間は「ため込み」から逃げられないのです。これは物質の世界だけでなく、こころや精神の世界についても同じことが言えます。
精神の場合も、必ず感情や記憶などがたまります。これはもう避けられません。こころというのは、「たまる」を基本とする方式で動いているからです。
私たちは気づいていませんが、いろいろな体験をして、脳に入ってくる情報は脳が記憶します。そして、脳が記憶したものがこころに影響を与えるのです。「覚えていない」というかもしれませんが、自分の見たものは、全部脳が記録しているのです。聞いたものも全部記録します。
なぜならこころは、何かを見たり聞いたりするたびに、変化するからです。次に何かを見たり聞いたりするときは、前に変化したこころが反応します。
私たちが何かを「覚えていない」という場合、「そのデータがこころから完全に消えた」という意味ではありません。自分の過去の経験を呼び起こすことができないだけです。
すべての過去の経験を思い出していたら、生きてはいられません。今の瞬間を生きるために必要なのは、わずかなデータだけです。ですから私たちには、思い出せない記憶が無数にあります。思い出す必要がない記憶も無数にあります。
しかし、こころは瞬間、瞬間に変化するから、自分が犯した罪の結果から逃げることは決してできないのです。要するに、生きているうえで瞬間、瞬間に行う行為によって脳が変化し、こころも変化するのです。
「今、人の命を奪ったから、次の瞬間自分の命も亡くなる」というならば、話は簡単でわかりやすいのですが、実際には「火に触れたら火傷する」などのように、瞬間に結果を出す行為もあるし、時間がたってから、条件が揃ってから、結果を出す行為もあります。
行為と結果の流れには、私たちが世間的に考える時間の流れは関係ないのです。つまり、これは業の問題で、業とは「行為に結果がある」ということです。
仏教では時間という単語を使わないで、「条件」という言葉を使います。「結果を出すためには、条件が揃わなくてはいけない」と理解すれば、時間という概念を無視することができます。
こころに精神的なエネルギーや感情をためないような生き方は不可能です。だからこそ、こころの世界には、とことん気をつけないといけません。こころを大切にしなくてはいけません。なぜなら、私たちはモノではなくて、こころで生きているからです。幸福はこころが感じるものです。物質が与えるものではありません。
「金があれば幸せだ」といっても、「金が欲しい」というこころがなければ、その人にとって金はただの金属です。
そういうわけで、私たちはこころを大事にしなければいけない。「怒りや憎しみがたまって、はたして幸福だろうか?」「怒りや憎しみがたまったら、人格が破壊されてしまって、どう猛な獣に『退化』してしまうのではないか?」と、そうなりたくなければ、悪感情をためずに、善の感情と仲良くするのです。
人間のこころには、怒り、嫉妬、欲などのマイナスの感情(悪感情)が、実は初めから備わっているのです。つまり、人間そのものに通常備わっているのです。しかし、良いことをすると、善の感情はちゃんとたまっていきます。周りの人々にすごく優しく対応していると自分の精神によい宝物がたまっていきます。従って、道徳を尊び、悪をやめて、善をためるような生き方をすることがとても重要なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の強い力を信じることの重要性を説かれました。信心の大きさに功徳の違いがあるとのことです。妙法を深く信じて、信じて、信心して唱えるときに大きな功徳があると言われました。
そして、常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮な事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』三徳の実践がとても大事なところです。この教えは自らが実践して、自らを高めることを説いております。自分を高めることは自分にしかできないということです。
三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。この法華経は、人を幸せにしたら必ずその功徳で自分も幸せをいただけると教えております。三徳の実践をして人格を高め、努力精進することで〝すばらしき人生〞へと導いていただけるのであります。
合 掌
日本では、旧暦の八月を葉月といいます。葉月の由来は諸説あります。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名であります。
今年も地球温暖化の影響と思われます、台風や竜巻、ゲリラ豪雨、線状降水帯など、国民の日常を脅かす災害が増えております。特に今年はスーパーエルニーニョといって例年と違い風水害の影響が最大級といわれております。南米の赤道付近の海水温が異常に高いことが原因とされております。十分警戒が必要です。
三年半と行事らしいことができずにおりましたが、教祖祭には多くの信者さまのご参拝をいただきましてありがとうございました。先月の盆施餓鬼先祖大法要会も通常開催ができたことに感謝しております。
来月は秋季彼岸先祖法要会です。予定通り開催させていただきますので、多くの信者さまのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。中でも静岡市はとても排他的なところでした。よそ者を受け入れることなく、仲間意識の強いところでした。私が赴任した当時は、そのような点で苦労しましたが、半年、一年と時間が経過するにつれ、徐々に仲間に入れてもらったという印象でした。
東海四県の中で最も糖尿病の患者様が多い、静岡S総合病院を担当させていただき、副院長のI先生には、いろいろご指導いただき、なんとか一人前になれたのであります。
当時、まだ課長だった私は、I先生のおかげで支店長まで昇進させていただいたことを、今でも感謝しております。当然、私も必死で仕事をさせていただいたことなど懐かしく思い出されます。
S総合病院は糖尿病の患者さんが多いということは、ビジネスチャンス(商機)も多くあるということです。I先生が私に期待することのすべてを実現することが大きな信頼へと繋がってまいります。
また、信頼は、失うときは、いとも簡単に失います。しかし、そうならないよう普段から信頼の積み重ねをしていかないと崩れてしまうものです。
最初の頃はプレイングマネジャー(課長と営業を兼任)でしたが、営業マンも毎年増えて私は課長職に専念することができるようになりました。そんなある年、広島から私より年配のWさんが静岡に配属になりました。
彼の第一印象は、性格的には悪い方ではないのですが、効率的には見えませんでした。そのため、県中心部ではなく東部を担当させることにしました。思った通り要領の悪い、非効率的で昔覚えた営業のやり方がしみ込んだ、とても鍛え替えのある人物でした。
私は、年上だからといっても遠慮する気はさらさらありませんでした。とにかく、仕上がりの悪い中古品を何とか新品に近い良いものへ改善しないと、課の目標達成は不可能になります。
人は褒めることで成長すると言われておりますが、彼は本当に褒めるところが見当たらない人物でした。どうしたら良いのか考えたあげく、若い新人に近いような営業とのブラザー制度をつくりました。それは、二人で大病院を担当することなのです。
そうすると、若い営業の活動を見て彼がモチベーション(やる気を出す)できたのです。彼は、自分の欠点に気づいたのです。自ら気づけば話は早いのです。「人の振り見て、我が振り直せ」という有名な言葉があるように、気づかなければ欠点は永遠に見えてこないのです。
人間は、その気にならなければ、嫌なことには目をつぶる。しかし、人を育てようとするならば、上から高圧的に教えるのではなく、さりげなく気づかせることの重要性を理解しなければいけません。こうして、Wさんは若い営業とブラザー制度によって、本来のWさんの力を発揮することができ、営業成績も上がったということでした。
仏教の立場で考えますと、勝手にたまってしまうものは本来、不必要なものです。努力しなくても自然とたまったものについて分析すると、たとえば、ゴミや汚染などは勝手にたまるものです。これは、ありがたくないものです。しかし、生きていると、どんどんいろんなものがたまっていくのです。
そもそも、たまったものとは、意図的にためたものか、勝手にたまったもの。意図的にためたものなら、それは仕方ありません。でも、勝手にたまったものは、実はとても危険なものです。
みなさんが普通に家で一週間ぐらい暮らしていると、勝手にたまっているものは何でしょうか?
ゴミです。結構ゴミがたまるのです。お弁当を買ってきても、中身はそれほど多くないのに、箱はやたらと大きい。ペットボトルのお茶を買ってきて、中身を飲んでしまっても、大きなペットボトルはそのまま残ってしまう。
結局、一週間もすれば、大量にゴミがたまってしまうのです。ここで覚えておいてほしいのは、物質の場合、自動的にたまるものは、本来はいらないものです。
物質だけでなく、こころにも、自動的にたまるものと、意図的にためていくものがあります。こころに勝手にたまるものとは、怒り、嫉妬、落ち込み、後悔などの、いわゆるマイナス的な感情、つまり悪感情です。
勇気や明るさなどは、自然にはたまりません。優しさや理性も、自動的にはたまらないものです。でも、欲や怒りは、勝手にたまるものなのです。
たとえば、人に何かを言われて、嫌な気持ちになったとします。こころに怒りが現れたのです。
言われた後も、ずっとそのことについて考えてしまいます。そうすると、なおさら怒りが大きくなっていきます。こころに勝手に怒りがたまっていくのです。やがて、その人を見ただけでも怒りがこみ上げるようになります。最終的にその人に危害を加えようという気持ちを抱くまで怒りがこころにたまってしまうことになります。
人間は誰しも、嫌なことをしつこく覚えて、思い出したりして、マイナスの感情をどんどん膨張させてしまうのです。
怒り、憎しみ、落ち込みといったものは人間にとって良くないもので、要らないもの、つまりゴミなのです。
悪感情という「こころのゴミ」をためるのは毒を飲むようなもので、まず自分自身を破壊し、そして周囲にも破壊をもたらす原因を作ってしまいます。
家にゴミがたまることに、言い訳をしてもよいのでしょうか?「だって、人間が住んでいるのだから、ゴミがたまるのは、仕方がない」と言い訳するかもしれません。そんな言い訳をしたら、社会からは、「家をきれいにしないのは、だらしないからだ」「この人はゴミを正しく出していない」と批判を浴びるはずです。
ですから、こころにゴミがたまることについても、「場合によっては、怒ることもあります」などと言い訳をしないでほしいのです。こころを決して「ゴミ屋敷」にしないでほしいのです。
人間は「ため込み」から逃げられないのです。これは物質の世界だけでなく、こころや精神の世界についても同じことが言えます。
精神の場合も、必ず感情や記憶などがたまります。これはもう避けられません。こころというのは、「たまる」を基本とする方式で動いているからです。
私たちは気づいていませんが、いろいろな体験をして、脳に入ってくる情報は脳が記憶します。そして、脳が記憶したものがこころに影響を与えるのです。「覚えていない」というかもしれませんが、自分の見たものは、全部脳が記録しているのです。聞いたものも全部記録します。
なぜならこころは、何かを見たり聞いたりするたびに、変化するからです。次に何かを見たり聞いたりするときは、前に変化したこころが反応します。
私たちが何かを「覚えていない」という場合、「そのデータがこころから完全に消えた」という意味ではありません。自分の過去の経験を呼び起こすことができないだけです。
すべての過去の経験を思い出していたら、生きてはいられません。今の瞬間を生きるために必要なのは、わずかなデータだけです。ですから私たちには、思い出せない記憶が無数にあります。思い出す必要がない記憶も無数にあります。
しかし、こころは瞬間、瞬間に変化するから、自分が犯した罪の結果から逃げることは決してできないのです。要するに、生きているうえで瞬間、瞬間に行う行為によって脳が変化し、こころも変化するのです。
「今、人の命を奪ったから、次の瞬間自分の命も亡くなる」というならば、話は簡単でわかりやすいのですが、実際には「火に触れたら火傷する」などのように、瞬間に結果を出す行為もあるし、時間がたってから、条件が揃ってから、結果を出す行為もあります。
行為と結果の流れには、私たちが世間的に考える時間の流れは関係ないのです。つまり、これは業の問題で、業とは「行為に結果がある」ということです。
仏教では時間という単語を使わないで、「条件」という言葉を使います。「結果を出すためには、条件が揃わなくてはいけない」と理解すれば、時間という概念を無視することができます。
こころに精神的なエネルギーや感情をためないような生き方は不可能です。だからこそ、こころの世界には、とことん気をつけないといけません。こころを大切にしなくてはいけません。なぜなら、私たちはモノではなくて、こころで生きているからです。幸福はこころが感じるものです。物質が与えるものではありません。
「金があれば幸せだ」といっても、「金が欲しい」というこころがなければ、その人にとって金はただの金属です。
そういうわけで、私たちはこころを大事にしなければいけない。「怒りや憎しみがたまって、はたして幸福だろうか?」「怒りや憎しみがたまったら、人格が破壊されてしまって、どう猛な獣に『退化』してしまうのではないか?」と、そうなりたくなければ、悪感情をためずに、善の感情と仲良くするのです。
人間のこころには、怒り、嫉妬、欲などのマイナスの感情(悪感情)が、実は初めから備わっているのです。つまり、人間そのものに通常備わっているのです。しかし、良いことをすると、善の感情はちゃんとたまっていきます。周りの人々にすごく優しく対応していると自分の精神によい宝物がたまっていきます。従って、道徳を尊び、悪をやめて、善をためるような生き方をすることがとても重要なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の強い力を信じることの重要性を説かれました。信心の大きさに功徳の違いがあるとのことです。妙法を深く信じて、信じて、信心して唱えるときに大きな功徳があると言われました。
そして、常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮な事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』三徳の実践がとても大事なところです。この教えは自らが実践して、自らを高めることを説いております。自分を高めることは自分にしかできないということです。
三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。この法華経は、人を幸せにしたら必ずその功徳で自分も幸せをいただけると教えております。三徳の実践をして人格を高め、努力精進することで〝すばらしき人生〞へと導いていただけるのであります。
合 掌
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