世界平和を
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大樹
すばらしき人生129
残暑厳しい日が続いております。今年は暑さのせいか熱中症で病院へ搬送された方が多くありました。水分や塩分を十分に補給し対策しないといけません。そして、エアコンは就寝時もつけた方が良いと思います。気づかないうちに熱中症になっている場合もあります。気をつけましょう。
地球温暖化の影響でしょうか、台風やゲリラ豪雨、線状降水帯と暴風雨が激しくなってきております。地球の自然が破壊され、地球全体がおかしくなってきております。人間一人ひとりが、きれいな地球を次世代へと繋ぐという気概を持たないといけないと思います。自分さえよければ良いという身勝手な考え方を捨てることです。
コロナ感染症がひとまず落ち着いてきており、ランクも五類に分類され、季節性インフルエンザと同等の扱いになりました。重症化リスクも減り、通常の日常を取り戻すことができました。人類の英知の結集がコロナ感染症を乗り越えたことと思っております。本当に良かったです。
先般、開催の盆施餓鬼先祖大法要会も無事に務めることができました。多くの信者さまのお参りには感謝しております。そして、八月十五日には水子地蔵尊供養会も開催されました。
今月は、秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭執り行わせていただきます。多くの信者の皆さまの、ご参拝をお待ちいたします。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。人間には持って生まれた性格の良し悪しがあります。みんな顔が違うように、性格はさまざまです。仕事を一生懸命にしようと思っている人、そうでない人。要するに、やる気のある人、ない人がおります。やる気があっても仕事ができない人、できる人といろいろです。
人を育てるには、相手の長所を伸ばすことです。入社四年目のHさんは、やる気満々の人物でした。しかし、仕事はなかなかうまくいかないものです。彼の欠点は何とか探したところ大きな問題はありませんでした。やる気があって取り組んでいるのですが、結果が出ないのはなぜなのか?
彼には、長所が見つからないのです。長所がないから伸ばしようがないのです。それでも人間一つくらいは長所があるはずです。いろいろと観察した結果、彼はとても明るい人間であることに気づきました。その性格を仕事に生かすような指導をしないといけないと考えたのです。
笑顔はどんなときにも味方してくれるのです。その長所を仕事で使えるよう、徹底的に鍛えたのです。仕事はそんなに難しく考えなくても、コミュニケーション能力を高めれば、大体はうまくいくものです。彼をそのようにして、一人前の営業マンに育てていったのです。
また、Tさんという一つ後輩の営業もおりました。彼は、仕事が何でもできてしまうという、器用な人間でした。私は彼の才能を理解し、生かすために香川県の国立K大学付属病院を担当させました。
彼は担当するや否や頭角を表しました。たった三か月で教授のI先生と仲が良くなり、懇意にしていただき当社に協力的に働いてくださいました。人と人との関係はどれだけ相手のことを理解し、認めることです。お互いがそれぞれできないと成立いたしません。
Tさんは、あの気難しいI先生の懐に入り実績を上げたのです。しかし、どんな人でも最初から何でもできるという人はおりません。彼は、先輩たちの背中を見て育ったのではないかと思います。ほとんどの人が、人がやっていることを真似てみるのです。それで自分に合っているかどうか考えて、間違っていたなら修正すればよいのです。
人間は、やる気があるように見えたほうが得なのです。しかし、人間のやる気は長続きしません。失いかけたやる気を奮い立たせて、それを仕事に生かすことができたなら必ず良い結果が生まれます。
人生プラス思考で行動することです。そして、自分の将来像を描くことです。将来の夢や希望に向かって仕事をすれば、きっと輝かしいものとなります。そうすれば、必ず成功へと繋がっていくのであります。
さて、仏教的に考えますと、たまるものには、計画的に意図的にためていくものと、自動的に勝手にたまるものがあります。また、後者はゴミであって、本質的には必要のないものです。
さらに、たとえ計画を立てて、意図的に努力したとしても、結局は逃げて行ってしまうこともあります。そうなると、何をためても無駄ということになってしまいがちですが、本当にそうなのか?何かいい方法はないでしょうか?
実はとても簡単ないい方法があります。それは、「ためたら使う」ことです。結局ためた財産などは、適切に使わなくてはならないのです。適切に使わないと、使用期限が切れて、他人のものや無駄なものになってしまうことがあるのです。
「使用期限」とは前回触れた豆腐の例で触れた「消費期限」ではありません。もっと幅広い意味です。業の使用期限もこのなかに入ります。
業の使用期限というのは、宇宙の法則または生命の法則です。私たちのこころには無限の能力がありますが、こころは肉体の中で活動しなくてはいけないのです。
肉体の能力には厳しい制限がかかっているので、こころは自分の力を十分発揮できません。いくら強力な善業を持って生まれても、身体が衰退していくと業は活動できなくなります。
寿命業は一つの例です。人間として生まれるとき、その業に寿命を管理する力も入っています。一万年以上使っても、寿命の業は残っているはずです。しかし、人の命は肉体の働きに依存しているのです。遺伝子は、ほぼ百年程度で活動できなくなります。要するに、人間の寿命は長くても百年程度なのです。
眼・耳・鼻・舌・身の感じる能力は、業の管理です。しかし、世間一般の誘惑に負けてみたり「眼耳鼻舌身」を使うと、肉体的な「眼耳鼻舌身」が早く衰えたり壊れてしまったりするのです。死ぬ瞬間まで「眼耳鼻舌身」が正しく働くエネルギーを業が持っているのです。肉体の使い方によっては制限されてしまうのです。
たとえば、ある金持ちのお年寄りが、億単位の金額を払って有名な絵画を買ったとしましょう。彼に良い業があったから、珍しい品物が買えたのです。絵画は何百年でも人を楽しませる能力があるのです。
しかし、絵画の持ち主が五年で亡くなったならば、その人に絵画を楽しめる時間は五年以下になります。絵画が何百年もつからといって、持ち主は何百年も生きることはできません。ここで、絵画の持ち主の寿命によって制限されたと理解してください。
このたとえに、気をつけなくてはいけないポイントがあります。持ち主が亡くなっても、絵画は他人の手に入るので、絵画の力は続くのです。しかし業は、徹底的に個人が所有する力です。他人に相続させることは不可能です。業にいくら力があっても、その力は肉体の力で制限されます。人間が汚れたこころで悪行為をするから、善業に力を発揮することができないのです。
大富豪で健康な身体を持って生まれた人がいたとしましょう。健康なだけでなく、容姿も端麗なのです。世界的にも名前が知られている。この幸福すべて業が与えているのです。
しかし、その人が何かの事件に巻き込まれて殺人を犯したとしましょう。その悪行為をした時点から、その人の善業は仕事ができなくなります。善業の使用期限が切れたのです。業の使用期限は個人の生き方によって管理されているのです。
業やモノには、使用期限だけでなく、「使用する機会」という問題があります。子宝に恵まれる業があっても、年齢制限があります。使用する機会がなくなったら、使用期限があっても使えなくなってしまうのです。
仏典にこのようなエピソードがあります。強力な善業を持って生まれた一組の男女がいました。それぞれの生家は大富豪で、あふれるほどの財産に恵まれていました。
二つの家の両親は、子供たちに勉強などの苦労をさせなくても不幸になるはずがないと思って、なんの教育も施さずにいたのです。やがて富豪同士縁組で二人は結婚しますが、夫婦ともお金の使い方を知らなかったので、両親が死んで間もないうちにすべての財産を失い、そろって貧乏になったのです。
お釈迦さまは、この貧乏な夫婦について、このように語られました。この二人が俗世間的な知識能力を得たならば、この国一の長者として生活できたはずです。財産を捨てて出家したら、完全たる解脱に達するほどの業を持っていたのです。しかし、生き方を間違って、富豪になるチャンスも、聖者になるチャンスも失ったのです。
ためたものは、使ってこそ価値があると理解しましょう。使用期限があるうちに使ったほうが良いのです。適切に使わなかったら、それらが他人のものになったり、処分されたりします。親が亡くなったら、子供は親が大事にためた高価な品物を遺品処分してしまうのです。それは親不孝な行為ではなく、親の宝物は子供たちには使用できないからなのです。
自分の善業も、使用期限のうちに、使い機会を逃さず、使わなくてはいけないのです。業は他人のものにはなりません。使えなかったら業は無効になります。つまり、意図的に努力してためたもののことをありがたく感じるのは、ためたものを使っているときであり、ためたものが役に立つときなのです。
ためたものは、慈しみで管理した方が良いのです。会社で給料を支払うときも、従業員に感謝することです。社員も、会社で雇ってくれて、ありがとうございます。という慈しみのこころになることです。「この給料をもらえたことは、本当にありがたいことなのだ。このお金で私は自分の家族をみんな幸福にします」というふうになって、道徳はしっかりと守られます。
これまで世間では、「資源は何でも無限にある」という考えでやってきました。しかし、仏教的な立場では、物事は無限ではなく、「無常」であると捉えます。無常とは、「全ての現象は、瞬間、瞬間、同じスピードで変化している」という真理です。
仏教的にいえば、ペットボトルも、桜の花も、川の水も、富士山も、今、この瞬間においても同じスピードで変化し続けているのであって、同じ状態のままいつまでも存在することはあり得ません。あらゆる現象は、変化し続けているからです。
たとえば、今ゴミであっても、「ゴミ」という状態もまた、一時的なものに過ぎません。発想を変えると、ゴミも単なるゴミではなくなります。すべてが循環するのです。正しく物事をためる人間であるならば、「無常」という真理に則って、勝手にたまる物事を再利用する方法を考えないといけないのです。
お釈迦さまは、この法華経で真理を説かれました。この世の中が自分の思うようにならないことは常にある。辛いことや、嫌なことは山ほどあります。それを乗り越えるには、仏のこころを生きることなのです。どんなことがあっても揺るぎない強いこころになることです。それが幸福に生きるということなのです。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を深く信ずることの重要性を説いておられます。深く、深く信じるときに見えてまいります。私たちは、生きる目的を探しております。妙法を信心するときにそれが解ってまいります。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。常に妙法を唱えていれば護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。これは実践しないと意味がありません。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。人間誰もが持っている「慈しみ」のこころです。慈しみを育てることがとても重要です。慈しみを育てるには、人格を育てることです。人格を高めて、人のためになることが自然とできるようにならないといけません。そうなれば、必ず〝すばらしき人生〞となっていけるのであります。
合 掌
地球温暖化の影響でしょうか、台風やゲリラ豪雨、線状降水帯と暴風雨が激しくなってきております。地球の自然が破壊され、地球全体がおかしくなってきております。人間一人ひとりが、きれいな地球を次世代へと繋ぐという気概を持たないといけないと思います。自分さえよければ良いという身勝手な考え方を捨てることです。
コロナ感染症がひとまず落ち着いてきており、ランクも五類に分類され、季節性インフルエンザと同等の扱いになりました。重症化リスクも減り、通常の日常を取り戻すことができました。人類の英知の結集がコロナ感染症を乗り越えたことと思っております。本当に良かったです。
先般、開催の盆施餓鬼先祖大法要会も無事に務めることができました。多くの信者さまのお参りには感謝しております。そして、八月十五日には水子地蔵尊供養会も開催されました。
今月は、秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭執り行わせていただきます。多くの信者の皆さまの、ご参拝をお待ちいたします。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。人間には持って生まれた性格の良し悪しがあります。みんな顔が違うように、性格はさまざまです。仕事を一生懸命にしようと思っている人、そうでない人。要するに、やる気のある人、ない人がおります。やる気があっても仕事ができない人、できる人といろいろです。
人を育てるには、相手の長所を伸ばすことです。入社四年目のHさんは、やる気満々の人物でした。しかし、仕事はなかなかうまくいかないものです。彼の欠点は何とか探したところ大きな問題はありませんでした。やる気があって取り組んでいるのですが、結果が出ないのはなぜなのか?
彼には、長所が見つからないのです。長所がないから伸ばしようがないのです。それでも人間一つくらいは長所があるはずです。いろいろと観察した結果、彼はとても明るい人間であることに気づきました。その性格を仕事に生かすような指導をしないといけないと考えたのです。
笑顔はどんなときにも味方してくれるのです。その長所を仕事で使えるよう、徹底的に鍛えたのです。仕事はそんなに難しく考えなくても、コミュニケーション能力を高めれば、大体はうまくいくものです。彼をそのようにして、一人前の営業マンに育てていったのです。
また、Tさんという一つ後輩の営業もおりました。彼は、仕事が何でもできてしまうという、器用な人間でした。私は彼の才能を理解し、生かすために香川県の国立K大学付属病院を担当させました。
彼は担当するや否や頭角を表しました。たった三か月で教授のI先生と仲が良くなり、懇意にしていただき当社に協力的に働いてくださいました。人と人との関係はどれだけ相手のことを理解し、認めることです。お互いがそれぞれできないと成立いたしません。
Tさんは、あの気難しいI先生の懐に入り実績を上げたのです。しかし、どんな人でも最初から何でもできるという人はおりません。彼は、先輩たちの背中を見て育ったのではないかと思います。ほとんどの人が、人がやっていることを真似てみるのです。それで自分に合っているかどうか考えて、間違っていたなら修正すればよいのです。
人間は、やる気があるように見えたほうが得なのです。しかし、人間のやる気は長続きしません。失いかけたやる気を奮い立たせて、それを仕事に生かすことができたなら必ず良い結果が生まれます。
人生プラス思考で行動することです。そして、自分の将来像を描くことです。将来の夢や希望に向かって仕事をすれば、きっと輝かしいものとなります。そうすれば、必ず成功へと繋がっていくのであります。
さて、仏教的に考えますと、たまるものには、計画的に意図的にためていくものと、自動的に勝手にたまるものがあります。また、後者はゴミであって、本質的には必要のないものです。
さらに、たとえ計画を立てて、意図的に努力したとしても、結局は逃げて行ってしまうこともあります。そうなると、何をためても無駄ということになってしまいがちですが、本当にそうなのか?何かいい方法はないでしょうか?
実はとても簡単ないい方法があります。それは、「ためたら使う」ことです。結局ためた財産などは、適切に使わなくてはならないのです。適切に使わないと、使用期限が切れて、他人のものや無駄なものになってしまうことがあるのです。
「使用期限」とは前回触れた豆腐の例で触れた「消費期限」ではありません。もっと幅広い意味です。業の使用期限もこのなかに入ります。
業の使用期限というのは、宇宙の法則または生命の法則です。私たちのこころには無限の能力がありますが、こころは肉体の中で活動しなくてはいけないのです。
肉体の能力には厳しい制限がかかっているので、こころは自分の力を十分発揮できません。いくら強力な善業を持って生まれても、身体が衰退していくと業は活動できなくなります。
寿命業は一つの例です。人間として生まれるとき、その業に寿命を管理する力も入っています。一万年以上使っても、寿命の業は残っているはずです。しかし、人の命は肉体の働きに依存しているのです。遺伝子は、ほぼ百年程度で活動できなくなります。要するに、人間の寿命は長くても百年程度なのです。
眼・耳・鼻・舌・身の感じる能力は、業の管理です。しかし、世間一般の誘惑に負けてみたり「眼耳鼻舌身」を使うと、肉体的な「眼耳鼻舌身」が早く衰えたり壊れてしまったりするのです。死ぬ瞬間まで「眼耳鼻舌身」が正しく働くエネルギーを業が持っているのです。肉体の使い方によっては制限されてしまうのです。
たとえば、ある金持ちのお年寄りが、億単位の金額を払って有名な絵画を買ったとしましょう。彼に良い業があったから、珍しい品物が買えたのです。絵画は何百年でも人を楽しませる能力があるのです。
しかし、絵画の持ち主が五年で亡くなったならば、その人に絵画を楽しめる時間は五年以下になります。絵画が何百年もつからといって、持ち主は何百年も生きることはできません。ここで、絵画の持ち主の寿命によって制限されたと理解してください。
このたとえに、気をつけなくてはいけないポイントがあります。持ち主が亡くなっても、絵画は他人の手に入るので、絵画の力は続くのです。しかし業は、徹底的に個人が所有する力です。他人に相続させることは不可能です。業にいくら力があっても、その力は肉体の力で制限されます。人間が汚れたこころで悪行為をするから、善業に力を発揮することができないのです。
大富豪で健康な身体を持って生まれた人がいたとしましょう。健康なだけでなく、容姿も端麗なのです。世界的にも名前が知られている。この幸福すべて業が与えているのです。
しかし、その人が何かの事件に巻き込まれて殺人を犯したとしましょう。その悪行為をした時点から、その人の善業は仕事ができなくなります。善業の使用期限が切れたのです。業の使用期限は個人の生き方によって管理されているのです。
業やモノには、使用期限だけでなく、「使用する機会」という問題があります。子宝に恵まれる業があっても、年齢制限があります。使用する機会がなくなったら、使用期限があっても使えなくなってしまうのです。
仏典にこのようなエピソードがあります。強力な善業を持って生まれた一組の男女がいました。それぞれの生家は大富豪で、あふれるほどの財産に恵まれていました。
二つの家の両親は、子供たちに勉強などの苦労をさせなくても不幸になるはずがないと思って、なんの教育も施さずにいたのです。やがて富豪同士縁組で二人は結婚しますが、夫婦ともお金の使い方を知らなかったので、両親が死んで間もないうちにすべての財産を失い、そろって貧乏になったのです。
お釈迦さまは、この貧乏な夫婦について、このように語られました。この二人が俗世間的な知識能力を得たならば、この国一の長者として生活できたはずです。財産を捨てて出家したら、完全たる解脱に達するほどの業を持っていたのです。しかし、生き方を間違って、富豪になるチャンスも、聖者になるチャンスも失ったのです。
ためたものは、使ってこそ価値があると理解しましょう。使用期限があるうちに使ったほうが良いのです。適切に使わなかったら、それらが他人のものになったり、処分されたりします。親が亡くなったら、子供は親が大事にためた高価な品物を遺品処分してしまうのです。それは親不孝な行為ではなく、親の宝物は子供たちには使用できないからなのです。
自分の善業も、使用期限のうちに、使い機会を逃さず、使わなくてはいけないのです。業は他人のものにはなりません。使えなかったら業は無効になります。つまり、意図的に努力してためたもののことをありがたく感じるのは、ためたものを使っているときであり、ためたものが役に立つときなのです。
ためたものは、慈しみで管理した方が良いのです。会社で給料を支払うときも、従業員に感謝することです。社員も、会社で雇ってくれて、ありがとうございます。という慈しみのこころになることです。「この給料をもらえたことは、本当にありがたいことなのだ。このお金で私は自分の家族をみんな幸福にします」というふうになって、道徳はしっかりと守られます。
これまで世間では、「資源は何でも無限にある」という考えでやってきました。しかし、仏教的な立場では、物事は無限ではなく、「無常」であると捉えます。無常とは、「全ての現象は、瞬間、瞬間、同じスピードで変化している」という真理です。
仏教的にいえば、ペットボトルも、桜の花も、川の水も、富士山も、今、この瞬間においても同じスピードで変化し続けているのであって、同じ状態のままいつまでも存在することはあり得ません。あらゆる現象は、変化し続けているからです。
たとえば、今ゴミであっても、「ゴミ」という状態もまた、一時的なものに過ぎません。発想を変えると、ゴミも単なるゴミではなくなります。すべてが循環するのです。正しく物事をためる人間であるならば、「無常」という真理に則って、勝手にたまる物事を再利用する方法を考えないといけないのです。
お釈迦さまは、この法華経で真理を説かれました。この世の中が自分の思うようにならないことは常にある。辛いことや、嫌なことは山ほどあります。それを乗り越えるには、仏のこころを生きることなのです。どんなことがあっても揺るぎない強いこころになることです。それが幸福に生きるということなのです。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を深く信ずることの重要性を説いておられます。深く、深く信じるときに見えてまいります。私たちは、生きる目的を探しております。妙法を信心するときにそれが解ってまいります。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。常に妙法を唱えていれば護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。これは実践しないと意味がありません。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。人間誰もが持っている「慈しみ」のこころです。慈しみを育てることがとても重要です。慈しみを育てるには、人格を育てることです。人格を高めて、人のためになることが自然とできるようにならないといけません。そうなれば、必ず〝すばらしき人生〞となっていけるのであります。
合 掌
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