世界平和を
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大樹
すばらしき人生131
十一月を旧暦で霜月といいます。霜が降りるような季節になるということです。ほんの少し前までは、暑い日が続きましたが、一転し冬になりました。秋が短いのはとても残念に思います。
今年は台風が多く発生するといわれておりましたが、意外と少ないという印象です。風水害の被害が少なくなるということは、とてもありがたいことです。しかし、地球温暖化の傾向は少しも変わりません。そもそも人口が増えているということは、それだけでも二酸化炭素は増加します。それ以上に樹木の植林や伐採を減らさないと、環境は悪化するばかりです。人間一人ひとりが危機感をもって対応しないと、地球の将来が危ぶまれます。ゴミの分別をしっかりと行い、二酸化炭素産生の削減に注力しなければいけません。
十一月十二日(日)は法公会立教五十年祭です。半世紀続けられたのも、信者の皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。行事は読経、ご詠歌、法話を開催します。恐縮ですが、来賓挨拶、演芸、和太鼓、餅投げは実施しません。多くの信者さまのご参拝をお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。私は、三十三歳で転職し製薬会社に入りました。最初の赴任地が静岡県で二年後に課長に昇進して、その七年後に四国の支店長に昇進しました。そして、四年後の四十七歳のときに本社に入り各支店を管轄する部署に配属になりました。
四国にいたときのことです。Hさんという課長が高知県を担当しておりました。彼は、とても優秀で、課長のやるべき仕事を理解しておりました。しかし、少し背伸びをして、自分の仕事を無理してやっていたような印象もありました。
彼は、国立K医科大学病院を担当しインスリンや成長ホルモンの実績を上げておりました。小児科のA先生は、私たちに無理難題を押し付けることで有名な先生でした。しかし、そのおかげで成長ホルモンの実績はぐんぐん伸びたのです。
そんなHさんにも欠点はあるのです。せっかちというか焦り症というか、そういう雑な部分もありました。人間だから誰にも短所はあります。ただ、致命的な短所でなければ問題はありません。しかし、自分の短所を理解しそれをクリアしていくことができなければ、タダの欠点で終わってしまうのです。
私は、彼にあまり高望みしすぎないよう忠告しました。身の丈の仕事を百パーセントになるよう落ち着いて取り組むように指導したのです。それが功を奏したのか、落ち着きのある性格へと変わっていったのです。
そして、統廃合があり、彼は愛媛県と高知県の二つのエリアの担当課長に昇進したのです。このエリアは距離があり、移動時間もかかる、とても過酷なエリアでした。しかし、彼は、辛抱強く耐えていたのです。
そんな中、私は東京本社に転勤になりました。きっと彼ならできるという確信があったので不安はありませんでした。
その一年後、彼は会社を辞めてしまったのです。やはり、彼にとって移動の問題が足かせとなったのだろうと思いました。残念ですが、糖尿病の競合他社に再就職したとのことを聞きました。過酷な労働条件が優秀な人材を放出したということです。
それから四年が経ちました。私が本社で会議をしていたとき偶然彼に会ったのです。私は彼を引き留めて聞きました。そしたら「復職しました」と彼が答え、また一緒に仕事ができることになって会社としても、個人的にも良かったと思ったのです。
復職は簡単にできるのですが、以前よりも厳しい仕事が待っているのです。彼は、成長ホルモン専門の営業になり頑張っておりました。しばらくして課長に昇進し関西六県の担当課長になったのです。私は彼に会い、「おめでとう、良かったね」と声を掛けました。
その後、数年が経ち会社の方針に変化がありました。成長ホルモンの納入価格が検討され、安い施設とは取引をしないという強烈な指示が出たのです。彼の担当先の施設で問題のA小児科クリニックがありました。その施設の院長は、かつて彼が国立K医科大学病院の気分屋のA先生でした。つくづく縁とは不思議なものだと思いました。
ただ問題なのは、そこは年間弊社製剤を五億円購入しております。彼のミッション(使命)は、その施設と取引をやめることなのです。なんと理不尽なことでしょうか。これは彼にとって最大のピンチであり、悩みの原因なのです。取引をやめると五億円の売り上げを失うことです。たとえ会社の指示としても担当者はたまりません。
その結果については、私が会社を辞めたので詳細は分かりませんが、きっと彼なら会社の方針に従って成功させたことと思っております。
さて、仏教的に考えますと、人間は結局、財産だけではなく、何でもためて、ためて、ためこんでいくのです。しかし、実を言うと、大きな視野に立って考えると、善でも悪でも、何をためこんでも結局は同じことです。
まず悪の場合から考えますと、悪をためたら、極端に不幸になる。しかし、かつての悪を犯したことの結果であるという理解がないので、また悪の循環に陥ることになります。
私たちは悪の結果を受けると、「これは、昔、自分勝手に悪いことをした結果だから仕方がない」とは思わないのです。「なんで私が不幸になったのか」と腹を立てるのです。いつでもそういうパターンなのです。だから、悪がなくならないのです。
悪によって不幸になる。不幸になったら、「なんて私はこんな目に遭わなければいけないのだ」といって、さらに悪感情を起こす。「これはあなたの過去の業だ」などと言われたら、また逆切れして怒るのです。
では、善をためていった場合は、どうでしょうか? 仏教では、人間を含むあらゆる生命は輪廻転生を繰り返していると説いております。生命は死ぬと、その業に応じて、天界、人間界、畜生界、餓鬼界、地獄界という五界のいずれかに生まれ変わり、解脱に至るまで、それが延々と繰り返されるのです。
ですから、善をためたよい人間は、死んだら、その業に応じてふつうは、天界に生まれ変わります。天界に生まれたら、「ああなるほど、人間世界でこういう善行為をしたから、今、天界にいるのだ」とわかるのです。
自分が過去(過去世)に善を行ったことには気づきません。善を行う人は幸福になりますが、天界以外では、自分が過去に善を行ったことには気づかないのです。そういう人は、赤ちゃんのときからかなり幸福な環境で生きています。豊かな家庭に生まれても、調子に乗って生きていて、善業の力が消えたら、結局、不幸に陥ってしまうのです。しっかり人生を管理していないからです。
このことを仏教的に詳しく説明すると、その人が「豊かな家庭に生まれるよい業を持っていた」のは確かなのです。よい業を持っていたから、自動的に豊かな環境に生まれるのです。しかし、過去世の業を使っていると、どんどん減ってしまいます。要するに、豊かな家庭に生まれたからといって、何もしなくてよいわけではないのです。今、生きている自分が、自分の人生の宿題をやって、徳を積んでいかなければいけないのです。
悪循環ならば、こころにもともと入っていますから、放っておけば、どんどん悪がたまります。悪がたまると、善業は顔を出せなくなってしまうのです。
豊かな家庭に生まれても、家に財産があっても、一人ひとりが頑張って努力して生きていかなければいけないのは、こういう理由なのです。
人生は自分で管理しなければいけないし、業も自分で管理しなければいけません。ここでいう「管理」とは、「理性を使うこと」を意味します。理性は、ずっと自分の身を護ってくれるものなのです。
また、仮に過去世の善行為を知っていても、天界で新たな善行為をすることは難しいのです。たとえば、天界の神々は、「自分は、過去世で善行為をした果報で天界にいるのだ」と知っています。
しかし、天界の神々だから、今は善行為をできません。なので、過去世の善行為を知っていても役に立ちません。「昔、私はお年寄りを助けてあげた。だから、今は天界にいるのだ」と知っていて、「では、これから良いことをしよう」と言っても、それはできないのです。
天界には、善行為をできる環境がありません。天界にいる生命は皆、各自の善業のおかげで幸福に生活しているだけです。
人を助ける善行為を考えても、助けてもらいたいと悩んでいる神はいません。施し(布施)をしようと思っても、貧困で悩んでいる神はいません。そして、善行為をして天に生まれる生命は皆、仏教徒というわけではありません。天界には、人間界ほどの自由はないのです。
自分の善業が与える、幸福の範囲を超えられません。他の神々の幸福を嫉妬して、天から落ちてしまう神々もいるようです。とにかく、天界は善を行える環境ではないのです。なので、過去の善行為の果報が尽きるまでいて、また輪廻に戻らなければいけないのです。
「人間の世界にはいくらでも貧乏な人がいるのだから、神々は、そういう貧乏な人間を助ければいいのに」と思う人もいるかもしれませんが、それも不可能です。生命として次元が違うのです。
そういうわけで、何をためても結局、結果は同じです。ためる世界に、執着する価値はありません。私たちは、「ためる世界」を丸ごと乗り越えなければいけないのです。
では、どうすれば「ためる世界」を乗り越えることができるでしょうか? それはまず、財産を使うことです。財産を「使う」とは、財産から「離れる」ことです。人は財産を使うときに、幸福を感じるのです。使った財産は、もう自分のものではありません。自分は、それを〝捨ててしまった〞のです。
高級レストランに行って、一万円を払ってご飯を食べたなら、その一万円は、もう自分のものではありません。他人のものです。しかし、一万円を使った代わりに、おいしそうな料理がテーブルに並べられます。そのとき、みなさんはちょっといい気分になるでしょう。財産を使う、つまり財産が離れることで、幸福を感じたわけです。
でも、ずっとそのまま料理を眺めたままでいるのでしょうか? いいえ、ご飯は、食べなくては幸せを感じられません。でも、ここで少し考えてみてください。ご飯を食べるということは、実は、ご飯を捨てていることなのです。
といっても、ゴミ箱に捨てているわけではありません。私たちは食べることで、ご飯を体内に捨てているのです。ご飯を食べるとは、ご飯を有効的に捨てていることなのです。そうすることによって、幸福を感じるのです。これが「ためこみ」を乗り越える道なのです。
だから、捨てることは幸せです。人に優しくするには、こころを安らかにするには、怒りや憎しみの感情を捨てなければいけません。これでわかるはすです。捨てた分、人は幸せになるのです。
ためることは暗くて、何の意味もありません。いくらためていっても、使わない限り(捨てない限り)、得るものは何もないのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じることの重要性を説かれました。人間は深く、深く信じるときに見えてくるものがあります。それは、真理に目覚めることです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法の力の偉大さを感じます。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。自分を高めていくことを、実践することに大きな意味があります。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。人に善いことをする、人の喜ぶことを率先して行うことで、功徳となり幸福をいただけるのです。
お釈迦さまは、私たちが「今を生きている」という意味を理解することが大事と説かれました。生きる意味を教えてくれるのが、この尊い法華経なのです。
善行為は善業を呼び込むカギとなります。善い行いをしていると、徐々にこころが清らかに、きれいになってまいります。そうすると智慧が現れ、すなおに物事をありのままに見ることができます。そうなると人格も高まり〝すばらしき人生〞への階段を昇ることになるでしょう。
合 掌
今年は台風が多く発生するといわれておりましたが、意外と少ないという印象です。風水害の被害が少なくなるということは、とてもありがたいことです。しかし、地球温暖化の傾向は少しも変わりません。そもそも人口が増えているということは、それだけでも二酸化炭素は増加します。それ以上に樹木の植林や伐採を減らさないと、環境は悪化するばかりです。人間一人ひとりが危機感をもって対応しないと、地球の将来が危ぶまれます。ゴミの分別をしっかりと行い、二酸化炭素産生の削減に注力しなければいけません。
十一月十二日(日)は法公会立教五十年祭です。半世紀続けられたのも、信者の皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。行事は読経、ご詠歌、法話を開催します。恐縮ですが、来賓挨拶、演芸、和太鼓、餅投げは実施しません。多くの信者さまのご参拝をお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。私は、三十三歳で転職し製薬会社に入りました。最初の赴任地が静岡県で二年後に課長に昇進して、その七年後に四国の支店長に昇進しました。そして、四年後の四十七歳のときに本社に入り各支店を管轄する部署に配属になりました。
四国にいたときのことです。Hさんという課長が高知県を担当しておりました。彼は、とても優秀で、課長のやるべき仕事を理解しておりました。しかし、少し背伸びをして、自分の仕事を無理してやっていたような印象もありました。
彼は、国立K医科大学病院を担当しインスリンや成長ホルモンの実績を上げておりました。小児科のA先生は、私たちに無理難題を押し付けることで有名な先生でした。しかし、そのおかげで成長ホルモンの実績はぐんぐん伸びたのです。
そんなHさんにも欠点はあるのです。せっかちというか焦り症というか、そういう雑な部分もありました。人間だから誰にも短所はあります。ただ、致命的な短所でなければ問題はありません。しかし、自分の短所を理解しそれをクリアしていくことができなければ、タダの欠点で終わってしまうのです。
私は、彼にあまり高望みしすぎないよう忠告しました。身の丈の仕事を百パーセントになるよう落ち着いて取り組むように指導したのです。それが功を奏したのか、落ち着きのある性格へと変わっていったのです。
そして、統廃合があり、彼は愛媛県と高知県の二つのエリアの担当課長に昇進したのです。このエリアは距離があり、移動時間もかかる、とても過酷なエリアでした。しかし、彼は、辛抱強く耐えていたのです。
そんな中、私は東京本社に転勤になりました。きっと彼ならできるという確信があったので不安はありませんでした。
その一年後、彼は会社を辞めてしまったのです。やはり、彼にとって移動の問題が足かせとなったのだろうと思いました。残念ですが、糖尿病の競合他社に再就職したとのことを聞きました。過酷な労働条件が優秀な人材を放出したということです。
それから四年が経ちました。私が本社で会議をしていたとき偶然彼に会ったのです。私は彼を引き留めて聞きました。そしたら「復職しました」と彼が答え、また一緒に仕事ができることになって会社としても、個人的にも良かったと思ったのです。
復職は簡単にできるのですが、以前よりも厳しい仕事が待っているのです。彼は、成長ホルモン専門の営業になり頑張っておりました。しばらくして課長に昇進し関西六県の担当課長になったのです。私は彼に会い、「おめでとう、良かったね」と声を掛けました。
その後、数年が経ち会社の方針に変化がありました。成長ホルモンの納入価格が検討され、安い施設とは取引をしないという強烈な指示が出たのです。彼の担当先の施設で問題のA小児科クリニックがありました。その施設の院長は、かつて彼が国立K医科大学病院の気分屋のA先生でした。つくづく縁とは不思議なものだと思いました。
ただ問題なのは、そこは年間弊社製剤を五億円購入しております。彼のミッション(使命)は、その施設と取引をやめることなのです。なんと理不尽なことでしょうか。これは彼にとって最大のピンチであり、悩みの原因なのです。取引をやめると五億円の売り上げを失うことです。たとえ会社の指示としても担当者はたまりません。
その結果については、私が会社を辞めたので詳細は分かりませんが、きっと彼なら会社の方針に従って成功させたことと思っております。
さて、仏教的に考えますと、人間は結局、財産だけではなく、何でもためて、ためて、ためこんでいくのです。しかし、実を言うと、大きな視野に立って考えると、善でも悪でも、何をためこんでも結局は同じことです。
まず悪の場合から考えますと、悪をためたら、極端に不幸になる。しかし、かつての悪を犯したことの結果であるという理解がないので、また悪の循環に陥ることになります。
私たちは悪の結果を受けると、「これは、昔、自分勝手に悪いことをした結果だから仕方がない」とは思わないのです。「なんで私が不幸になったのか」と腹を立てるのです。いつでもそういうパターンなのです。だから、悪がなくならないのです。
悪によって不幸になる。不幸になったら、「なんて私はこんな目に遭わなければいけないのだ」といって、さらに悪感情を起こす。「これはあなたの過去の業だ」などと言われたら、また逆切れして怒るのです。
では、善をためていった場合は、どうでしょうか? 仏教では、人間を含むあらゆる生命は輪廻転生を繰り返していると説いております。生命は死ぬと、その業に応じて、天界、人間界、畜生界、餓鬼界、地獄界という五界のいずれかに生まれ変わり、解脱に至るまで、それが延々と繰り返されるのです。
ですから、善をためたよい人間は、死んだら、その業に応じてふつうは、天界に生まれ変わります。天界に生まれたら、「ああなるほど、人間世界でこういう善行為をしたから、今、天界にいるのだ」とわかるのです。
自分が過去(過去世)に善を行ったことには気づきません。善を行う人は幸福になりますが、天界以外では、自分が過去に善を行ったことには気づかないのです。そういう人は、赤ちゃんのときからかなり幸福な環境で生きています。豊かな家庭に生まれても、調子に乗って生きていて、善業の力が消えたら、結局、不幸に陥ってしまうのです。しっかり人生を管理していないからです。
このことを仏教的に詳しく説明すると、その人が「豊かな家庭に生まれるよい業を持っていた」のは確かなのです。よい業を持っていたから、自動的に豊かな環境に生まれるのです。しかし、過去世の業を使っていると、どんどん減ってしまいます。要するに、豊かな家庭に生まれたからといって、何もしなくてよいわけではないのです。今、生きている自分が、自分の人生の宿題をやって、徳を積んでいかなければいけないのです。
悪循環ならば、こころにもともと入っていますから、放っておけば、どんどん悪がたまります。悪がたまると、善業は顔を出せなくなってしまうのです。
豊かな家庭に生まれても、家に財産があっても、一人ひとりが頑張って努力して生きていかなければいけないのは、こういう理由なのです。
人生は自分で管理しなければいけないし、業も自分で管理しなければいけません。ここでいう「管理」とは、「理性を使うこと」を意味します。理性は、ずっと自分の身を護ってくれるものなのです。
また、仮に過去世の善行為を知っていても、天界で新たな善行為をすることは難しいのです。たとえば、天界の神々は、「自分は、過去世で善行為をした果報で天界にいるのだ」と知っています。
しかし、天界の神々だから、今は善行為をできません。なので、過去世の善行為を知っていても役に立ちません。「昔、私はお年寄りを助けてあげた。だから、今は天界にいるのだ」と知っていて、「では、これから良いことをしよう」と言っても、それはできないのです。
天界には、善行為をできる環境がありません。天界にいる生命は皆、各自の善業のおかげで幸福に生活しているだけです。
人を助ける善行為を考えても、助けてもらいたいと悩んでいる神はいません。施し(布施)をしようと思っても、貧困で悩んでいる神はいません。そして、善行為をして天に生まれる生命は皆、仏教徒というわけではありません。天界には、人間界ほどの自由はないのです。
自分の善業が与える、幸福の範囲を超えられません。他の神々の幸福を嫉妬して、天から落ちてしまう神々もいるようです。とにかく、天界は善を行える環境ではないのです。なので、過去の善行為の果報が尽きるまでいて、また輪廻に戻らなければいけないのです。
「人間の世界にはいくらでも貧乏な人がいるのだから、神々は、そういう貧乏な人間を助ければいいのに」と思う人もいるかもしれませんが、それも不可能です。生命として次元が違うのです。
そういうわけで、何をためても結局、結果は同じです。ためる世界に、執着する価値はありません。私たちは、「ためる世界」を丸ごと乗り越えなければいけないのです。
では、どうすれば「ためる世界」を乗り越えることができるでしょうか? それはまず、財産を使うことです。財産を「使う」とは、財産から「離れる」ことです。人は財産を使うときに、幸福を感じるのです。使った財産は、もう自分のものではありません。自分は、それを〝捨ててしまった〞のです。
高級レストランに行って、一万円を払ってご飯を食べたなら、その一万円は、もう自分のものではありません。他人のものです。しかし、一万円を使った代わりに、おいしそうな料理がテーブルに並べられます。そのとき、みなさんはちょっといい気分になるでしょう。財産を使う、つまり財産が離れることで、幸福を感じたわけです。
でも、ずっとそのまま料理を眺めたままでいるのでしょうか? いいえ、ご飯は、食べなくては幸せを感じられません。でも、ここで少し考えてみてください。ご飯を食べるということは、実は、ご飯を捨てていることなのです。
といっても、ゴミ箱に捨てているわけではありません。私たちは食べることで、ご飯を体内に捨てているのです。ご飯を食べるとは、ご飯を有効的に捨てていることなのです。そうすることによって、幸福を感じるのです。これが「ためこみ」を乗り越える道なのです。
だから、捨てることは幸せです。人に優しくするには、こころを安らかにするには、怒りや憎しみの感情を捨てなければいけません。これでわかるはすです。捨てた分、人は幸せになるのです。
ためることは暗くて、何の意味もありません。いくらためていっても、使わない限り(捨てない限り)、得るものは何もないのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じることの重要性を説かれました。人間は深く、深く信じるときに見えてくるものがあります。それは、真理に目覚めることです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法の力の偉大さを感じます。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践も大事なところです。自分を高めていくことを、実践することに大きな意味があります。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。人に善いことをする、人の喜ぶことを率先して行うことで、功徳となり幸福をいただけるのです。
お釈迦さまは、私たちが「今を生きている」という意味を理解することが大事と説かれました。生きる意味を教えてくれるのが、この尊い法華経なのです。
善行為は善業を呼び込むカギとなります。善い行いをしていると、徐々にこころが清らかに、きれいになってまいります。そうすると智慧が現れ、すなおに物事をありのままに見ることができます。そうなると人格も高まり〝すばらしき人生〞への階段を昇ることになるでしょう。
合 掌
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