世界平和を
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大樹
すばらしき人生132
もう十二月になりました。一年は本当に早く過ぎてしまうものです。今年を振り返りますと、気候変動の大きな年でした。名古屋では三十度を超す真夏日が九十一日間もありました。ほぼ三か月が真夏日ということになります。これは全国的にも同様の傾向となっております。雹、竜巻、ゲリラ豪雨、線状降水帯と私たちの生活に甚大な影響が出ております。これも、すべて地球温暖化によるものと思われます。
また、世界に目をやれば、ヨーロッパではロシアとウクライナの戦争や中東ではイスラエルとパレスチナの宗教戦争があります。二十一世紀になった、今、なぜ戦争や紛争が起きるのか疑問に思います。国対国という小さな問題を考えるのではなく、大きな視野に立って、地球規模の問題を各国で解決するよう努力することがとても重要です。
先般の立教五十年祭は多くの信者さまのご参拝ありがとうございました。あらためて、半世紀続けられたのも皆さまのお陰です。本当にありがとうございました。今月は、開祖祭です。法公先生十三回忌でございます。多くのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。東海四県でも糖尿病患者さまが一番多い施設が静岡S総合病院です。患者さまが三千名以上おられ、糖尿病がご専門のI先生は病院の副院長で、糖尿病協会の会長もされており大変お世話になりました。
私が担当になった当初は、インスリンの注射器が古いタイプの製剤をたくさん使っておられました。昭和三年生まれの先生は、プライドもありなかなか従来の処方を新しい製剤にしようとは、考えておられませんでした。
この難局を乗り切るためには、いろんなことが考えられますが、私は、先生に直訴しないといけないと思いました。そこで先生に面会し「新製品への切り替えをお願いします。どうか私を男にしてください」と申し上げたのです。
それから、堰を切ったように旧製品から新製品への切り替えを積極的に行っていただき、胸襟を開いて話ができるようになったのです。
私どもでは、注射器の説明をする専門のインストラクターがおりましたので、外来訪問日が月、木の二日でそれぞれ一時間程度でした。週に十数例の患者さまの注射器を新しいものに切り替えていただきました。
これを三年間継続していただき、二千例の患者さまの新製品への切り替えが完了し、当院におけるシェア(市場占有率)も五十五%から約九十%まで増やすことができたのです。先生には大変お世話になり、あらためて感謝をしております。
先生と信頼関係を築く意味でも、年に一度開催の糖尿病学会への随行も五年間させていただきました。一番初めが山形県でした。天童温泉に宿泊し先生と同じ部屋で過ごしました。私は、緊張のあまりか寝不足でした。信頼を築くということは、お互いに尊重し合って理解していくことです。尊重なくして信頼はあり得ません。
そして、それを継続的にしないと、信頼が崩れるときは早いものです。築くには時間と労力がかかりますが、失うときは瞬間です。何時たりとも気が抜けないのが現状です。
私が、課長に昇進し、静岡S総合病院をHさんに任せました。彼は、「目から鼻に抜ける」タイプで、とても賢い営業マンでした。彼は自分のやるべき仕事を知っております。中堅社員で三十代のバリバリです。私が教えることは何もありません。
そういうチームリーダーのような存在が一人でもいると、仕事はうまくいきます。性格は明るく、粘り強く対応できるタイプです。計画さえ与えれば、自分で考え、行動を起こし、結果を出すのです。
しかし、人間というのは、そうじゃないのです。失敗から学ぶことの繰り返しで、成長するのです。最初からテキパキできる人は、だれ一人といないのです。日ごろの鍛錬や努力の結果徐々に成長していくのです。
Hさんもそうして、失敗から学び、それを繰り返して、今のその仕事につながったのです。「為せば成る 為さねばならぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という有名な言葉があるように、努力して、努力して、努力すれば必ず成就できるものなのであります。
さて、仏教的な視点で見ると私たちは、「生きていたい」という存在欲があります。生きるために、絶えず努力をします。しかし、命はとてもはかないものです。だから、お金に頼り、家に頼り、服に頼り、薬に頼るのです。何かに頼らなければ、死んでしまいます。
さらに、精神的な力にも頼らなければならないのです。頼って、頼って、頼り続けるのです。でも、それらが持っているエネルギーも、使ったらそれで終わりになってしまうので、「ためなくてはならない」ことになります。
たとえば、ご飯は食べたら消えますから、また他の食べ物を探さなければいけない。お金は使ったら減るので、またお金を貯めなければいけない。この循環には終わりがありません。なぜなら、命はもろいものだからです。はかないものだからです。
はかないものだったら、放っておけばよいでしょう。でも放っておけません。人間には存在欲があるからです。階段で転んでも死ぬ命です。それでも、存在欲があるので、頑張ってしまうのです。つまり、存在欲がある限り、苦は終わりません。
結局、ためることは。どう見ても束縛なのです。財産があって、運転手付きの高級車に乗るようになるのは、幸せかもしれませんが、束縛にもなるのです。電車で行くよりは楽しいかもしれませんが、でも、自分が使っている乗り物に対する束縛が生まれるのです。
なぜ、ためることをやめられないのかというと、生きていきたいという存在欲があるからなのです。そこで、「生きることは、生死の流れだ」と、捉えてみるのです。
ひとつ現れるとひとつ消え、ひとつ消えるとひとつ現れる。体の中では常にこういうことが起こっているのです。この瞬間も、自分の体の中では、ものすごい数の細胞が死んでいます。そこで、「存在欲など、要らないのだ」と気づくと、執着がなくなり、ためる必要がそこでなくなるのです。
これは人間の頭で理解できる世界ではありませんが、意図的にためることも、自動的にたまることも消えてしまうのです。そこでお釈迦さまは「ためることをやめて、捨てましょう」そうすると幸福になりますよ。
何かを捨てる(手放す)ことで、一時的にでも、それにふさわしい幸福に達するのです。ためることの代わりに、捨てることを実践してみる。面白いことに、捨てていくと前向きな力が勝手にたまっていくのです。ためる必要はありません。たまっていくのです。執着を捨てるとすべての善がそこに揃ってくるのです。
存在欲が強ければ強いほど、何か幸せになることがあるでしょうか?結局、存在欲があると生きづらくなるだけではないでしょうか。あまりにも物事を心配して、物事をためて、いくつも抱えてしまうと、生きづらくなってしまうのではないでしょうか。「仕事こそ私の命。これより大事なものは何もない」とあまりにも強く執着してしまったら、ほかのことが何もできず、最終的には仕事さえできなくなってしまうこともあります。ですから、存在欲は生きる上では邪魔なものなのです。
存在とは、宇宙の法則です。存在というものはどうにもならないものです。たとえば、太陽は存在していますが、それはずっと燃え続けています。つまり、ずっと死んでいっているのです。太陽が死んでいく過程で太陽が活動している、と言ってもよいのです。そして、死んでいく太陽に頼って地球は公転しています。それに頼って私たちは生きています。死がなければ、生は成り立たないということです。
ですから、宇宙全体的に考えれば、モノであろうが、こころであろうが、死んでいく過程を存在というのです。「変わらない私がいる」というのは、正しい理性的な言葉ではありません。
生まれたての赤ちゃんには、「生きていたい」という存在欲がどれくらいあるでしょうか?「頑張らなくちゃ」という存在欲があるでしょうか?それらは何もありません。しかし、人間が一番元気に生きることができるのは、赤ちゃんのときでしょう。
成長するにつれ、「私は頑張らなくては」という気持ちがじわじわと入ってきて、その子供の人生が逆に苦しくなっていきます。「幼稚園に行かなくては」「小学校に行かなくては」「勉強をしなければ」となるたびに、そこから苦しみが生まれてくる。つまり、生きづらくなってしまうのです。
でも、存在欲があるか否かに関係なく、生命そのものは流れます。川が流れるために、何も一生懸命頑張らなくてもよいのです。とにかく存在欲を控えて、控えていくと、幸福に生きられる。たとえば、病院に行って医者にガンだと診断されたとします。普通なら、ものすごいショックを受けてしまいます。しかし、存在欲が控えめな人だったら、「ああ、ガンになったのか。この年なら別に不思議なことはない。まあ、どうせいずれは死ななければならない」となる。
ショックを受けようが、落ち着いていようが、医者のガンに対する処置は同じですから、どう受け止めようが、結果は同じなのです。むしろ、落ち込んでしまった人の方が、治療結果も悪くなるものなのです。
存在欲がいくらか役に立つのは、本当に死を目の当たりにしたときです。たとえば、雪山で遭難したときです。そういうときに、「あきらめないで、頑張るぞ!」となると、その人の頭に生き抜くためのいいアイデアが浮かんできたりして、「じゃあ、こうすればいいのだ」と工夫して、無事に生還できることになります。つまり、極端に目の前に死が迫った場合には、存在欲がいくらか役に立つ場合もあります。
大事なのは、存在欲を捨てることです。これは高次元の智慧の観点からいっている、具体的な、科学的なことです。存在欲を持つよりは、明るく「いつ死んでも気にするものか」という気持ちでいた方が良いのです。
仏教は、新しい大胆な道を教えます。死ぬときは、「さようなら」「お世話になりました」という感じで死んでくださいと。執着を捨てていれば、そういえるでしょう。仏教は、「やり残したことは何もない」という精神状態まで人を育てるのです。
ためる世界を乗り越え、捨てることを実行し続けると、必要なすべてのプラスのエネルギーが揃います。そこで、そのエネルギーと、「一切の現象は無常である」とする仏教の智慧を使って、今度は、存在欲を捨てるのです。存在欲を捨てることが、最大の「捨てる」行為なのです。
その結果として、究極の幸福を得られます。こうなるとその人は、悟りを開いた聖者なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。深く信じないと、私たちには、何も見えてきません。深く、深く信じるときに、初めて真理が見えてまいります。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れると仰せです。そして、大難が小難に小難が無難へと罪障消滅できると説かれました。常に妙法を唱えていれば、何時でも、何処でも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。自らが実践して行動しない限り、運命は変わりません。運命を開花させるために、三徳の実践があるのです。中でも慈悲の功徳は絶大です。まずは自分に正直になり、素直なこころで、慈悲を尽くすことです。見返りを求めないで、こころの底から他人の幸せを願うことです。そのこころになって初めて人格が向上するのです。
感謝の気持ちも常に持っていないといけません。どんなことが起ころうとも、なったことを喜びなさいと法公先生は説かれました。善いことがあれば、素直に喜び感謝することです。また、善くないことが起きた場合は、私には、こんな罪があったと反省し、それが解ったこと対し感謝することです。そして、同じ過ちを繰り返さないことが重要です。前向きに、ひたすら努力精進をして〝すばらしき人生〞へと歩んでいってください。
合 掌
また、世界に目をやれば、ヨーロッパではロシアとウクライナの戦争や中東ではイスラエルとパレスチナの宗教戦争があります。二十一世紀になった、今、なぜ戦争や紛争が起きるのか疑問に思います。国対国という小さな問題を考えるのではなく、大きな視野に立って、地球規模の問題を各国で解決するよう努力することがとても重要です。
先般の立教五十年祭は多くの信者さまのご参拝ありがとうございました。あらためて、半世紀続けられたのも皆さまのお陰です。本当にありがとうございました。今月は、開祖祭です。法公先生十三回忌でございます。多くのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。東海四県でも糖尿病患者さまが一番多い施設が静岡S総合病院です。患者さまが三千名以上おられ、糖尿病がご専門のI先生は病院の副院長で、糖尿病協会の会長もされており大変お世話になりました。
私が担当になった当初は、インスリンの注射器が古いタイプの製剤をたくさん使っておられました。昭和三年生まれの先生は、プライドもありなかなか従来の処方を新しい製剤にしようとは、考えておられませんでした。
この難局を乗り切るためには、いろんなことが考えられますが、私は、先生に直訴しないといけないと思いました。そこで先生に面会し「新製品への切り替えをお願いします。どうか私を男にしてください」と申し上げたのです。
それから、堰を切ったように旧製品から新製品への切り替えを積極的に行っていただき、胸襟を開いて話ができるようになったのです。
私どもでは、注射器の説明をする専門のインストラクターがおりましたので、外来訪問日が月、木の二日でそれぞれ一時間程度でした。週に十数例の患者さまの注射器を新しいものに切り替えていただきました。
これを三年間継続していただき、二千例の患者さまの新製品への切り替えが完了し、当院におけるシェア(市場占有率)も五十五%から約九十%まで増やすことができたのです。先生には大変お世話になり、あらためて感謝をしております。
先生と信頼関係を築く意味でも、年に一度開催の糖尿病学会への随行も五年間させていただきました。一番初めが山形県でした。天童温泉に宿泊し先生と同じ部屋で過ごしました。私は、緊張のあまりか寝不足でした。信頼を築くということは、お互いに尊重し合って理解していくことです。尊重なくして信頼はあり得ません。
そして、それを継続的にしないと、信頼が崩れるときは早いものです。築くには時間と労力がかかりますが、失うときは瞬間です。何時たりとも気が抜けないのが現状です。
私が、課長に昇進し、静岡S総合病院をHさんに任せました。彼は、「目から鼻に抜ける」タイプで、とても賢い営業マンでした。彼は自分のやるべき仕事を知っております。中堅社員で三十代のバリバリです。私が教えることは何もありません。
そういうチームリーダーのような存在が一人でもいると、仕事はうまくいきます。性格は明るく、粘り強く対応できるタイプです。計画さえ与えれば、自分で考え、行動を起こし、結果を出すのです。
しかし、人間というのは、そうじゃないのです。失敗から学ぶことの繰り返しで、成長するのです。最初からテキパキできる人は、だれ一人といないのです。日ごろの鍛錬や努力の結果徐々に成長していくのです。
Hさんもそうして、失敗から学び、それを繰り返して、今のその仕事につながったのです。「為せば成る 為さねばならぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という有名な言葉があるように、努力して、努力して、努力すれば必ず成就できるものなのであります。
さて、仏教的な視点で見ると私たちは、「生きていたい」という存在欲があります。生きるために、絶えず努力をします。しかし、命はとてもはかないものです。だから、お金に頼り、家に頼り、服に頼り、薬に頼るのです。何かに頼らなければ、死んでしまいます。
さらに、精神的な力にも頼らなければならないのです。頼って、頼って、頼り続けるのです。でも、それらが持っているエネルギーも、使ったらそれで終わりになってしまうので、「ためなくてはならない」ことになります。
たとえば、ご飯は食べたら消えますから、また他の食べ物を探さなければいけない。お金は使ったら減るので、またお金を貯めなければいけない。この循環には終わりがありません。なぜなら、命はもろいものだからです。はかないものだからです。
はかないものだったら、放っておけばよいでしょう。でも放っておけません。人間には存在欲があるからです。階段で転んでも死ぬ命です。それでも、存在欲があるので、頑張ってしまうのです。つまり、存在欲がある限り、苦は終わりません。
結局、ためることは。どう見ても束縛なのです。財産があって、運転手付きの高級車に乗るようになるのは、幸せかもしれませんが、束縛にもなるのです。電車で行くよりは楽しいかもしれませんが、でも、自分が使っている乗り物に対する束縛が生まれるのです。
なぜ、ためることをやめられないのかというと、生きていきたいという存在欲があるからなのです。そこで、「生きることは、生死の流れだ」と、捉えてみるのです。
ひとつ現れるとひとつ消え、ひとつ消えるとひとつ現れる。体の中では常にこういうことが起こっているのです。この瞬間も、自分の体の中では、ものすごい数の細胞が死んでいます。そこで、「存在欲など、要らないのだ」と気づくと、執着がなくなり、ためる必要がそこでなくなるのです。
これは人間の頭で理解できる世界ではありませんが、意図的にためることも、自動的にたまることも消えてしまうのです。そこでお釈迦さまは「ためることをやめて、捨てましょう」そうすると幸福になりますよ。
何かを捨てる(手放す)ことで、一時的にでも、それにふさわしい幸福に達するのです。ためることの代わりに、捨てることを実践してみる。面白いことに、捨てていくと前向きな力が勝手にたまっていくのです。ためる必要はありません。たまっていくのです。執着を捨てるとすべての善がそこに揃ってくるのです。
存在欲が強ければ強いほど、何か幸せになることがあるでしょうか?結局、存在欲があると生きづらくなるだけではないでしょうか。あまりにも物事を心配して、物事をためて、いくつも抱えてしまうと、生きづらくなってしまうのではないでしょうか。「仕事こそ私の命。これより大事なものは何もない」とあまりにも強く執着してしまったら、ほかのことが何もできず、最終的には仕事さえできなくなってしまうこともあります。ですから、存在欲は生きる上では邪魔なものなのです。
存在とは、宇宙の法則です。存在というものはどうにもならないものです。たとえば、太陽は存在していますが、それはずっと燃え続けています。つまり、ずっと死んでいっているのです。太陽が死んでいく過程で太陽が活動している、と言ってもよいのです。そして、死んでいく太陽に頼って地球は公転しています。それに頼って私たちは生きています。死がなければ、生は成り立たないということです。
ですから、宇宙全体的に考えれば、モノであろうが、こころであろうが、死んでいく過程を存在というのです。「変わらない私がいる」というのは、正しい理性的な言葉ではありません。
生まれたての赤ちゃんには、「生きていたい」という存在欲がどれくらいあるでしょうか?「頑張らなくちゃ」という存在欲があるでしょうか?それらは何もありません。しかし、人間が一番元気に生きることができるのは、赤ちゃんのときでしょう。
成長するにつれ、「私は頑張らなくては」という気持ちがじわじわと入ってきて、その子供の人生が逆に苦しくなっていきます。「幼稚園に行かなくては」「小学校に行かなくては」「勉強をしなければ」となるたびに、そこから苦しみが生まれてくる。つまり、生きづらくなってしまうのです。
でも、存在欲があるか否かに関係なく、生命そのものは流れます。川が流れるために、何も一生懸命頑張らなくてもよいのです。とにかく存在欲を控えて、控えていくと、幸福に生きられる。たとえば、病院に行って医者にガンだと診断されたとします。普通なら、ものすごいショックを受けてしまいます。しかし、存在欲が控えめな人だったら、「ああ、ガンになったのか。この年なら別に不思議なことはない。まあ、どうせいずれは死ななければならない」となる。
ショックを受けようが、落ち着いていようが、医者のガンに対する処置は同じですから、どう受け止めようが、結果は同じなのです。むしろ、落ち込んでしまった人の方が、治療結果も悪くなるものなのです。
存在欲がいくらか役に立つのは、本当に死を目の当たりにしたときです。たとえば、雪山で遭難したときです。そういうときに、「あきらめないで、頑張るぞ!」となると、その人の頭に生き抜くためのいいアイデアが浮かんできたりして、「じゃあ、こうすればいいのだ」と工夫して、無事に生還できることになります。つまり、極端に目の前に死が迫った場合には、存在欲がいくらか役に立つ場合もあります。
大事なのは、存在欲を捨てることです。これは高次元の智慧の観点からいっている、具体的な、科学的なことです。存在欲を持つよりは、明るく「いつ死んでも気にするものか」という気持ちでいた方が良いのです。
仏教は、新しい大胆な道を教えます。死ぬときは、「さようなら」「お世話になりました」という感じで死んでくださいと。執着を捨てていれば、そういえるでしょう。仏教は、「やり残したことは何もない」という精神状態まで人を育てるのです。
ためる世界を乗り越え、捨てることを実行し続けると、必要なすべてのプラスのエネルギーが揃います。そこで、そのエネルギーと、「一切の現象は無常である」とする仏教の智慧を使って、今度は、存在欲を捨てるのです。存在欲を捨てることが、最大の「捨てる」行為なのです。
その結果として、究極の幸福を得られます。こうなるとその人は、悟りを開いた聖者なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。深く信じないと、私たちには、何も見えてきません。深く、深く信じるときに、初めて真理が見えてまいります。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れると仰せです。そして、大難が小難に小難が無難へと罪障消滅できると説かれました。常に妙法を唱えていれば、何時でも、何処でも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。自らが実践して行動しない限り、運命は変わりません。運命を開花させるために、三徳の実践があるのです。中でも慈悲の功徳は絶大です。まずは自分に正直になり、素直なこころで、慈悲を尽くすことです。見返りを求めないで、こころの底から他人の幸せを願うことです。そのこころになって初めて人格が向上するのです。
感謝の気持ちも常に持っていないといけません。どんなことが起ころうとも、なったことを喜びなさいと法公先生は説かれました。善いことがあれば、素直に喜び感謝することです。また、善くないことが起きた場合は、私には、こんな罪があったと反省し、それが解ったこと対し感謝することです。そして、同じ過ちを繰り返さないことが重要です。前向きに、ひたすら努力精進をして〝すばらしき人生〞へと歩んでいってください。
合 掌
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