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大樹
すばらしき人生133
新年あけましておめでとうございます。令和六年が皆さまにとって善き年になりますよう祈念いたします。
動物の中でも人間に与えられた最大のメリットは選ぶ権利があるということです。良い環境にいれば良い人間になれます。逆に悪い環境にいると悪い人間になってしまいます。どんな教育を受けるのか、どんな家に住むのか、いかに良い人間と付き合うことができるのか、それらは、すべて自分で選べるということです。
この法華経を理解して、実践して、人のためになることが、宗教の教えであります。少しでも良い人間になることを目指して精進することです。
今年も暖冬という予想が出ております。ということは、夏がさらに暑くなるということも考えられます。一年の平均気温は年々上昇しております。このままいったら地球はいったいどうなるのでしょうか。温暖化対策をしっかりやらないといけないと思います。
昨年は十一月に立教五十年祭を開催し、十二月には法公先生十三回忌の開祖祭が開催されました。多くの信者の皆さまにご参拝をしていただき、ありがとうございました。一月は元旦祭が開催されます。通常通り法話と短冊引きがございます。多くの信者の皆さまのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。部下が十二名で、中堅社員のKさんは、好き嫌いの激しい人間でした。好きな先生には、とことん仕事ができ信頼も厚かったのですが、興味のない先生にはとても淡泊でした。
私は、彼の欠点である感情の起伏が激しいところを改善するようにと、指導にもその点に着目しておりました。会社というのは、金太郎あめのような営業マンを育てようとしております。要するに、だれが担当しても過不足なくできるようにすることが売り上げを伸ばす秘訣です。極端に偏った性分ですと、担当者が代わったときに、とても苦労するからです。
彼の性分を変えるようなプログラムを考え、まず、すべての人間は平等であるということを、わかるまで説得しました。仕事を趣味で行ってはいけないのです。「木を見て森を見ず」ではいけないことを納得させ、報(報告)・連(連絡)・相(相談)の徹底を図りました。
中堅社員になると、意外と基本的なことは、省くようになります。そういった部分から初心に立ち返るよう、自分自身を見つめ直すことが重要なのです。
二年ほど経ちました。Kさんは、なんとか人並みの営業マンになりました。どの施設を担当しても、無難に営業ができるようになり、売り上げにも貢献できるようになったのです。
もう一人問題児がおりました。Hさんというとても、ねくらでマイナス思考の営業マンでした。彼が一人この支店にいると全体が暗くなるようなイメージを与える印象でした。おそらく彼は、仕事に自信がなかったのです。これは、早急に人間改革をしないと支店が成長するどころか、弱体化してしまう恐れがあったのです。
一人の人間の与える影響は大きいと思います。まず、彼がなぜ、そんなに暗いのか、生活習慣を情報共有しないといけないと考えました。彼の趣味を聞くと、特別趣味はないということでした。
私は、彼が仕事以外で生きがいを感じるような、趣味を探したらどうかと提案しました。彼は、勉強ができる方でしたので、トーエック(英検)でもしたらどうか勧めました。私たちの会社は、いわゆる外資系なので、彼を前向きにするには、自信をつけさせることが重要と考えたのです。
一年ほどで、平均点の六百点まで到達したようで、八百点、九百点を目指して頑張るようにと励ましました。やがて、まずまずの営業マンに育ったのです。
どんな仕事でも楽しく、前向きにしなければいけません。人間一人のモチベーション(やる気)により、周りの人に与える影響は大きいものです。個の力が全体を動かします。いかに、一枚岩になれるかが、成功と失敗の分岐点であると思っております。
さて、仏教的に見ますと「やめる」「やめない」という判断は脳の指令による現象です。脳はどのように仕事をしているのか、知った方が納得しやすいと思います。やめたい、やめられないは、存在欲、つまり「生きていきたい」という気持ちの問題です。私たちは、存在欲を支えてくれることなら自然に行います。しかし、その存在欲の衝動も、すべての生命に平等に働くものではありません。個人差があります。その差によって、個人が自然に行うことも変わっていくのです。
脳を大きく分けると、大脳と原始脳という二つで構成されております。大脳は生まれてから開発していくものです。原始脳は生まれる以前から自分の仕事ができるよう備わっております。従って、すべての生き物は生まれた瞬間から存在欲(「生きていたい」という気持ち)も、恐怖感(「怖い」という気持ち)も備えているのです。
この「生きていたい」という存在欲と、「死にたくない」という恐怖感は、原始脳が作りだす信号です。すべての生き物に同じく機能することから、原始脳は「ケモノ脳」と名づけることができます。
原始脳だけでは「生きる」ことはできません。大脳が必要です。大脳でものを見て、聞いて、感じて、判断して、身体を動かして、仕事をして、料理を作って、服をデザインして、あれこれ「生きる」ことをやらなくてはいけません。
「生きる」ことは大脳の仕事ですが、呼吸など生きることに必要な機能については自動的に起こるように脳が配線されています。脳はさほど困ることはありません。それ以外にもある「生きる」という仕事はほとんど大脳が行っております。
その大脳に、原始脳から存在欲と恐怖心という信号が入り、その信号によって大脳は動きます。「やめる、やめない」を決めるのは大脳の判断ですが、裏で糸を引いているのは原始脳です。
生まれてきた人間は「どのように生きるべきか?」ということを他から教えてもらいます。やるべきことも、やってはいけないことも、他から教わるのです。「人間の最初の師匠は親である」と、お釈迦さまは説かれました。
しかし、何も知らない子供を心配して、安全に生きる方法を教えてあげても、子供は素直に聞いてくれません。反発するのです。「おもちゃをくれたお婆さんに、ありがとうと言いなさい」とうながしても、子供は「いや」と言うことがあります。
では、人間は大人になれば素直になるかというと、そんなことはありません。善し悪しを学んで実行することもありません。私たちは、世間が言うことを上辺で聞いているだけです。その理由は原始脳にあります。原始脳の指令で、大脳が働いているからです。原始脳は存在欲と恐怖感の信号しか出しません。
「目上の人の話に耳を傾けなさい、それがあなたのためになる」という信号は、原始脳は出しません。世間からいただくどのような指導であっても、人間が原始脳の指令で大脳を動かしている限り、響くことはありません。このことが、存在欲を支えて恐怖感を抑えるものと理解したら、耳を傾ける気持ちにも、実行する気持ちにもなるというだけです。
「人間の生き方の主導権は、原始脳が握っている」ということが納得できない人もいます。この世には、戦争をして死ぬ軍人もいるし、自爆テロという行為を起こして死ぬ人もいます。それらは脳の正常な機能を壊すことで起こる現象です。俗にいう洗脳やマインドコントロールをされているからです。
この場合、人間を洗脳しようとする人たちは、脳の論理をつかさどる部位に話しかけずに、代わりに感情をかきたてます。感情のもとは存在欲と恐怖心です。これらには「信じさせる」という働きがあり、論理的思考と客観的に自分で調べて納得する機能を停止させます。つまり、原始脳の存在欲と恐怖心を刺激する情報を入れることで、人はいわれたことを信じるようになるのです。
命に直接的な危険がない場合、「やめたいのだけど、ちょっとやめられない」という葛藤が起こります。やめたいものは間接的に命には必要ではないが、それほど危険でもない場合です。
たとえば、タバコを吸っている人が「禁煙したほうがいいな」と思うとしましょう。しかし、タバコを吸ったらガンになったり病気になったりするけど、だれもがそうなるわけでもないし、自分は大丈夫だろうと思って、優柔不断になってしまうのです。もしタバコを一本吸ったらただちに死ぬといわれたら、絶対に吸いません。このように、命に「間接的に」関係する場合は「やめたいけどやめられない」ということになります。
たとえば、嘘をつくことはよくありません。もし、発覚したら自分の立場がなくなります。嘘つきというレッテルをはられます。しかし、「嘘をついてもそんなに命に危険があるだろうか」という疑問があるから、優柔不断になるのです。
ここで、私たちの「精神的な弱み」が現れてくるのです。命に直接危険であるものに対しては、だれもが優柔不断ではありません。間接的に命に影響するものに対しては、けっこう優柔不断です。
「人を助ける」のは良いことです。「平和でいること」も良いことです。これらは命を支えてくれますが、どちらも間接的なことです。ご飯を食べたらおいしくて、健康になりました、というふうな直接的なことではありません。
「人を助けましょう」と言っても、「それは素晴らしいことですけど、ちょっと今は忙しくてごめんなさい」と言って、しないのです。
やめたいがやめられないことも、実行できないことも、実行したほうがいい、やめたほうが正しいと知っていても、実行力が現れてこないこともあります。このような場合、行為と存在欲、恐怖感との関係が本人には明確ではありません。「やめたいのだけど、なかなかやめられない」という場合、私たちは頭でよく理解していません。存在欲にも恐怖感にも、直接関係ないと思っているのです。
たとえば、原子力発電は電気を作ってくれます。しかし、放射能はとても危険です。原発事故が起きたら、大惨事になります。原発事故の危険を考える人は、原発反対です。
しかし、「原発を中止にします」という提案が出ると、それに反対する。そのときはエネルギーがたらなくなったら生きられないと思うのです。そうやって結論に達しないまま、曖昧な態度で終わるのです。そうなる理由は、原発が生きることを支えてくれるか、命に危険なのか、明確なことがいえないからです。
このように、命に危険なのかがはっきりしない場合、人間は曖昧・優柔不断になります。たとえば、ダムを造ってほしいと運動する人々もいて、ダムを造るべきではないと反対する人々もいるのです。これも存在欲と恐怖感の綱引きです。
このように、人の存在欲と恐怖感が明確でない場合、命を支えてくれることも、危険であることもはっきりしないので曖昧、優柔不断になるのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じて、信じて、信心することの大事さを説かれました。人間は深く信じることにより、いろんなことが理解できる智慧が現れてくるのです。人間生きていれば、辛いこと、悲しいことは山ほどあります。どんな苦境にあろうとも、妙法を信じることこそ大事です。妙法を根本とするならば乗り越えられない苦難はありません。
そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難を免れることができると仰せです。常に妙法を唱えていれば護られるということです。
三徳『慈悲』『誠』『堪忍』の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。素直なこころで見返りを求めないで、人に善いことをして差し上げることです。そして、その人が喜ぶ姿を見て、こころから喜べるかどうかです。この法華経は人を幸せにしたら、その功徳で幸せをいただけると説かれております。
私たちも、常に人のためになることを、考え、実践することで〝すばらしき人生〞へと高めてまいりましょう。
合 掌
動物の中でも人間に与えられた最大のメリットは選ぶ権利があるということです。良い環境にいれば良い人間になれます。逆に悪い環境にいると悪い人間になってしまいます。どんな教育を受けるのか、どんな家に住むのか、いかに良い人間と付き合うことができるのか、それらは、すべて自分で選べるということです。
この法華経を理解して、実践して、人のためになることが、宗教の教えであります。少しでも良い人間になることを目指して精進することです。
今年も暖冬という予想が出ております。ということは、夏がさらに暑くなるということも考えられます。一年の平均気温は年々上昇しております。このままいったら地球はいったいどうなるのでしょうか。温暖化対策をしっかりやらないといけないと思います。
昨年は十一月に立教五十年祭を開催し、十二月には法公先生十三回忌の開祖祭が開催されました。多くの信者の皆さまにご参拝をしていただき、ありがとうございました。一月は元旦祭が開催されます。通常通り法話と短冊引きがございます。多くの信者の皆さまのご参拝をお待ちしております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。部下が十二名で、中堅社員のKさんは、好き嫌いの激しい人間でした。好きな先生には、とことん仕事ができ信頼も厚かったのですが、興味のない先生にはとても淡泊でした。
私は、彼の欠点である感情の起伏が激しいところを改善するようにと、指導にもその点に着目しておりました。会社というのは、金太郎あめのような営業マンを育てようとしております。要するに、だれが担当しても過不足なくできるようにすることが売り上げを伸ばす秘訣です。極端に偏った性分ですと、担当者が代わったときに、とても苦労するからです。
彼の性分を変えるようなプログラムを考え、まず、すべての人間は平等であるということを、わかるまで説得しました。仕事を趣味で行ってはいけないのです。「木を見て森を見ず」ではいけないことを納得させ、報(報告)・連(連絡)・相(相談)の徹底を図りました。
中堅社員になると、意外と基本的なことは、省くようになります。そういった部分から初心に立ち返るよう、自分自身を見つめ直すことが重要なのです。
二年ほど経ちました。Kさんは、なんとか人並みの営業マンになりました。どの施設を担当しても、無難に営業ができるようになり、売り上げにも貢献できるようになったのです。
もう一人問題児がおりました。Hさんというとても、ねくらでマイナス思考の営業マンでした。彼が一人この支店にいると全体が暗くなるようなイメージを与える印象でした。おそらく彼は、仕事に自信がなかったのです。これは、早急に人間改革をしないと支店が成長するどころか、弱体化してしまう恐れがあったのです。
一人の人間の与える影響は大きいと思います。まず、彼がなぜ、そんなに暗いのか、生活習慣を情報共有しないといけないと考えました。彼の趣味を聞くと、特別趣味はないということでした。
私は、彼が仕事以外で生きがいを感じるような、趣味を探したらどうかと提案しました。彼は、勉強ができる方でしたので、トーエック(英検)でもしたらどうか勧めました。私たちの会社は、いわゆる外資系なので、彼を前向きにするには、自信をつけさせることが重要と考えたのです。
一年ほどで、平均点の六百点まで到達したようで、八百点、九百点を目指して頑張るようにと励ましました。やがて、まずまずの営業マンに育ったのです。
どんな仕事でも楽しく、前向きにしなければいけません。人間一人のモチベーション(やる気)により、周りの人に与える影響は大きいものです。個の力が全体を動かします。いかに、一枚岩になれるかが、成功と失敗の分岐点であると思っております。
さて、仏教的に見ますと「やめる」「やめない」という判断は脳の指令による現象です。脳はどのように仕事をしているのか、知った方が納得しやすいと思います。やめたい、やめられないは、存在欲、つまり「生きていきたい」という気持ちの問題です。私たちは、存在欲を支えてくれることなら自然に行います。しかし、その存在欲の衝動も、すべての生命に平等に働くものではありません。個人差があります。その差によって、個人が自然に行うことも変わっていくのです。
脳を大きく分けると、大脳と原始脳という二つで構成されております。大脳は生まれてから開発していくものです。原始脳は生まれる以前から自分の仕事ができるよう備わっております。従って、すべての生き物は生まれた瞬間から存在欲(「生きていたい」という気持ち)も、恐怖感(「怖い」という気持ち)も備えているのです。
この「生きていたい」という存在欲と、「死にたくない」という恐怖感は、原始脳が作りだす信号です。すべての生き物に同じく機能することから、原始脳は「ケモノ脳」と名づけることができます。
原始脳だけでは「生きる」ことはできません。大脳が必要です。大脳でものを見て、聞いて、感じて、判断して、身体を動かして、仕事をして、料理を作って、服をデザインして、あれこれ「生きる」ことをやらなくてはいけません。
「生きる」ことは大脳の仕事ですが、呼吸など生きることに必要な機能については自動的に起こるように脳が配線されています。脳はさほど困ることはありません。それ以外にもある「生きる」という仕事はほとんど大脳が行っております。
その大脳に、原始脳から存在欲と恐怖心という信号が入り、その信号によって大脳は動きます。「やめる、やめない」を決めるのは大脳の判断ですが、裏で糸を引いているのは原始脳です。
生まれてきた人間は「どのように生きるべきか?」ということを他から教えてもらいます。やるべきことも、やってはいけないことも、他から教わるのです。「人間の最初の師匠は親である」と、お釈迦さまは説かれました。
しかし、何も知らない子供を心配して、安全に生きる方法を教えてあげても、子供は素直に聞いてくれません。反発するのです。「おもちゃをくれたお婆さんに、ありがとうと言いなさい」とうながしても、子供は「いや」と言うことがあります。
では、人間は大人になれば素直になるかというと、そんなことはありません。善し悪しを学んで実行することもありません。私たちは、世間が言うことを上辺で聞いているだけです。その理由は原始脳にあります。原始脳の指令で、大脳が働いているからです。原始脳は存在欲と恐怖感の信号しか出しません。
「目上の人の話に耳を傾けなさい、それがあなたのためになる」という信号は、原始脳は出しません。世間からいただくどのような指導であっても、人間が原始脳の指令で大脳を動かしている限り、響くことはありません。このことが、存在欲を支えて恐怖感を抑えるものと理解したら、耳を傾ける気持ちにも、実行する気持ちにもなるというだけです。
「人間の生き方の主導権は、原始脳が握っている」ということが納得できない人もいます。この世には、戦争をして死ぬ軍人もいるし、自爆テロという行為を起こして死ぬ人もいます。それらは脳の正常な機能を壊すことで起こる現象です。俗にいう洗脳やマインドコントロールをされているからです。
この場合、人間を洗脳しようとする人たちは、脳の論理をつかさどる部位に話しかけずに、代わりに感情をかきたてます。感情のもとは存在欲と恐怖心です。これらには「信じさせる」という働きがあり、論理的思考と客観的に自分で調べて納得する機能を停止させます。つまり、原始脳の存在欲と恐怖心を刺激する情報を入れることで、人はいわれたことを信じるようになるのです。
命に直接的な危険がない場合、「やめたいのだけど、ちょっとやめられない」という葛藤が起こります。やめたいものは間接的に命には必要ではないが、それほど危険でもない場合です。
たとえば、タバコを吸っている人が「禁煙したほうがいいな」と思うとしましょう。しかし、タバコを吸ったらガンになったり病気になったりするけど、だれもがそうなるわけでもないし、自分は大丈夫だろうと思って、優柔不断になってしまうのです。もしタバコを一本吸ったらただちに死ぬといわれたら、絶対に吸いません。このように、命に「間接的に」関係する場合は「やめたいけどやめられない」ということになります。
たとえば、嘘をつくことはよくありません。もし、発覚したら自分の立場がなくなります。嘘つきというレッテルをはられます。しかし、「嘘をついてもそんなに命に危険があるだろうか」という疑問があるから、優柔不断になるのです。
ここで、私たちの「精神的な弱み」が現れてくるのです。命に直接危険であるものに対しては、だれもが優柔不断ではありません。間接的に命に影響するものに対しては、けっこう優柔不断です。
「人を助ける」のは良いことです。「平和でいること」も良いことです。これらは命を支えてくれますが、どちらも間接的なことです。ご飯を食べたらおいしくて、健康になりました、というふうな直接的なことではありません。
「人を助けましょう」と言っても、「それは素晴らしいことですけど、ちょっと今は忙しくてごめんなさい」と言って、しないのです。
やめたいがやめられないことも、実行できないことも、実行したほうがいい、やめたほうが正しいと知っていても、実行力が現れてこないこともあります。このような場合、行為と存在欲、恐怖感との関係が本人には明確ではありません。「やめたいのだけど、なかなかやめられない」という場合、私たちは頭でよく理解していません。存在欲にも恐怖感にも、直接関係ないと思っているのです。
たとえば、原子力発電は電気を作ってくれます。しかし、放射能はとても危険です。原発事故が起きたら、大惨事になります。原発事故の危険を考える人は、原発反対です。
しかし、「原発を中止にします」という提案が出ると、それに反対する。そのときはエネルギーがたらなくなったら生きられないと思うのです。そうやって結論に達しないまま、曖昧な態度で終わるのです。そうなる理由は、原発が生きることを支えてくれるか、命に危険なのか、明確なことがいえないからです。
このように、命に危険なのかがはっきりしない場合、人間は曖昧・優柔不断になります。たとえば、ダムを造ってほしいと運動する人々もいて、ダムを造るべきではないと反対する人々もいるのです。これも存在欲と恐怖感の綱引きです。
このように、人の存在欲と恐怖感が明確でない場合、命を支えてくれることも、危険であることもはっきりしないので曖昧、優柔不断になるのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じて、信じて、信心することの大事さを説かれました。人間は深く信じることにより、いろんなことが理解できる智慧が現れてくるのです。人間生きていれば、辛いこと、悲しいことは山ほどあります。どんな苦境にあろうとも、妙法を信じることこそ大事です。妙法を根本とするならば乗り越えられない苦難はありません。
そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難を免れることができると仰せです。常に妙法を唱えていれば護られるということです。
三徳『慈悲』『誠』『堪忍』の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。素直なこころで見返りを求めないで、人に善いことをして差し上げることです。そして、その人が喜ぶ姿を見て、こころから喜べるかどうかです。この法華経は人を幸せにしたら、その功徳で幸せをいただけると説かれております。
私たちも、常に人のためになることを、考え、実践することで〝すばらしき人生〞へと高めてまいりましょう。
合 掌
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