PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生134
 一月の後半から二月初旬が、一年で一番寒い時期ではないでしょうか。しかし、今年も暖冬ということで、昔のような寒くてしょうがないということはありません。

 旧暦では如月といい、二月でもまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)をさらに着る月であるから「更衣着(きさらぎ)」といわれております。

 今年は元旦に能登半島で震度七の大地震があり、新年早々甚大な被害が出ました。帰省中に地震にまきこまれた方や、津波、土砂による被害も多く出ました。日本は地震が多発する国であり、気になるのは大きな地震の発生間隔が短くなっているように感じられます。

 怖いものの象徴として、「地震、雷、火事、おやじ」といわれておりますが、やはり地震が最初にあるように、防ぎようがないから怖いという印象であると思います。

 今年、十一月にアメリカの大統領選挙があります。だれが大統領になるかによって世界情勢は大きく変化します。日本もその影響は大きいと思います。また国内に目をやれば、衆院解散総選挙もあるかもしれません。七月の都知事選もあり、日本の政治にも変化があるかもしれません。真に国民のための国民の代表として成果を出してほしいと思います。

 元旦祭には多くの信者の皆さまにお参りをいただきありがとうございました。今年一年が皆さまにとって幸多い年になるよう祈念します。今月は節分厄除祈願祭を開催します。多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げます。

 私がサラリーマンのときでした。新卒で医薬品流通会社に就職しました。昭和五十三年入社で、平成二年に転職しました。転職理由は子供が双子で一度にお金がたくさん必要となります。そこで、このままこの会社で働いても、子供たちを養っていくのは無理があると考えていた矢先に、元同僚だったKさんに、ある病院で偶然会ったのです。

 Kさんは、製薬会社に転職し、私に転職を促したのです。私の給料を見積もると、五百万円はくだらないと言われ、面接することとなりました。私は、子供がまだ二歳なので、一大決意とともにKさんのことを信用することにしました。

 この会社で失敗したら、もう後はないという断腸の思いで覚悟を決めたのです。そして、面接には副社長のEさんと、本部長のHさんと面談しました。本部長は私を東京で働かせたい意向があったのですが、私は、地元の名古屋を希望しました。その希望が叶って名古屋営業部の管轄で静岡県担当になったのです。

 給料は私の想像以上で、年間六百万円をいただきました。ただ、流通業から製薬メーカーに転職することは、かなりハードルが高くなります。今までは、薬剤師の先生が仕事相手でしたが、今度は医者が相手になります。豊富な知識や経験がないと落ちこぼれてしまうのです。

 しかし、実際にMR(医薬品情報提供者)になってみると、思ったより難しい世界ではないことに気づきました。昔のお医者さんは威張って、権威のあるところを見せたがるのですが、現在のお医者さんはサラリーマンなのです。普通の世間話でいいのです。

 問題は、最初の取り組み方です。違う世界に入り、絶体絶命と思い必死にもがいて与えられた目標を達成することだけを考えるのです。そして、良い上司に恵まれることです。私の場合、上司のNさんは私にいつもこう言うのです。「ダメもとでやってこい」と、私は、この言葉にずいぶん励まされました。失敗してもいいからやりなさい。ということなので自分の納得できるように、やらせていただいたことに今でも感謝しております。

 人間、環境が変われば、不思議なくらいの力が湧いてきます。顧客は、常にその人の目の本気度を見ております。本気で立ち上がったなら、できない仕事などありません。それぐらいの覚悟を持つことが極めて重要なのであります。

 さて、仏教は、こう説きます。信仰があれば優柔不断が消えます。嘘であっても、信じるなら優柔不断はなくなります。

 すべての宗教は「永遠の天国があります」と言います。私たちには存在欲があるから、天国に行きたくて、その各宗教が教える決まりを大事に守ります。しかし、死後、永遠の天国が保証されているなら、何も食べずに断食したほうがいいはずです。そうすれば、早く天国に行って究極の幸福を永遠に享受できるのです。

 私たちは、健康になるよう、ある程度食事制限をしながら、この世で命を伸ばすべきでしょうか?なぜ天国に行くことをできるだけ後回しにするのでしょうか?

 宗教は「永遠の天国」という理由で存在欲を拡大しようとしますが、現実的にいえば、いまの原始脳がいまの肉体を維持したいだけです。原始脳は、永遠の天国なんかはわかりません。それは、大脳でさえ理解できない概念です。

 「自分たちが教える宗教を信仰しない者は、永遠の地獄に堕ちます」と宗教家はこのように言います。そして、信仰する人々に向けて、やってはいけないことを制限します。宗教を信仰する人々は永遠の地獄を恐れて、その禁止行為を守るのです。

 各宗教の禁止行為を見ると、一般常識的な道徳を語っているように見えます。人に危害を加えないこと、嘘をついてはならないこと、欲張ってはならないこと、などなどです。

 しかし、道徳を守ることが今の命を確実にささえてくれるという明確な保証がないから、みんな隠れて道徳を破る。そこで宗教家は、道徳を守らせるために「永遠の地獄」という概念をつくるのです。

 永遠の地獄に陥るという概念も、証明することができません。それぞれの宗教が説く「地獄に墜ちる罪」は同じではありません。罪を犯した人は確実に永遠の地獄に堕ちるというのが事実であるならば、すべての宗教が同じ罪のリストを作らないといけないはずです。

 ここで何が言いたいかというと、「永遠」という概念が成り立たないものだからです。すべての物事は、流動的で変化するから存在しているのです。だから、もしかしたら「天国」はあるかもしれません。「地獄」もあるかもしれません。しかし、けっして永遠ではないのです。

 「生きることは、存在欲と恐怖感の衝動によって成り立つ現象である」という事実を誰も理解しておりません。「生きることには何か別の目的があるのだ」と勘違いしているのです。ですから、洗脳やマインドコントロールが可能になっているのです。

 存在欲と恐怖感をかきたてる言葉をかけると、人は洗脳されます。簡単にマインドコントロールされてしまいます。

 一般的に、人がやりたがらないことをやらせるためには、その人を洗脳するか、マインドコントロールするか、どちらかをしなくてはなりません。

 たとえば、人は死にたくはありません。戦争に参加して死ぬのは嫌です。しかし、政権を握っている人々は、自分の権力を誇示するために戦争をしたくなります。そこで、政府は「国のために命を捧げることは名誉だ。戦って死ねば永遠の命をいただくのだ」と盛んに宣伝します。

 すると若者たちは、英雄という勲章をもらった戦死者たちに「格好良い生きざまだ」とあこがれを抱くようになるのです。洗脳されて「価値のある生き方」を選ぶことも、存在欲の衝動なのです。

 商売の世界でも同じことです。人々はさまざまな品物を開発して、売り出します。しかし顧客は、進んで買おうとはしません。この世はほとんどいらない品物、命に直接関係ないものであふれております。そこで、コマーシャルなどでマインドコントロールしなくてはいけないのです。

 このように、気づいていないだけで、私たちは日々激しくマインドコントロールされています。だから生きるということは、かなり複雑にならざるを得ません。

 やらなくてはならないことが、たくさんあるのです。買わなくてはいけないものも、キリなくあります。やりたいと思うことも、たくさんあります。生きることで激しくストレスがたまり、悩みが絶えません。

 客観的に見れば、私たちの日常で行っている複雑な生き方は、命に直接関係ないものだと発見できます。やりたいと思っていることをやらなくても、命に何も脅威もないケースは無数にあります。しかし、洗脳とマインドコントロールをされているので、どうにもならないのです。

 人は、ときにはカッとなって、もう我を忘れてしまって、何かをやってしまうことがあります。しかし、仏教的には、そのような場合でも「判断して行っている」と考えます。ただ単に手を上げただけでも、「上げたい」という意思があって、脳に「上げなさい」という司令があって手を上げているのです。

 精神を病んだ人々が犯罪を起こしてしまう。そこで裁判で精神鑑定などをして、無罪にしてしまうことがあります。どこかの施設に入れることを決めます。しかし、仏教から見ればそんなことはあり得ません。頭の機能は正常ではないかもしれません。それはわかります。しかし、その人は正常でない頭で判断して罪を犯したのです。それは、仏教的には、罪を犯してないわけではないのです。

 次に仏教では、感情、気持ちで判断してはいけないと教えています。なぜなら、感情でする判断はいつも間違っているからです。お釈迦さまは、感情とか気持ちという単語は使わずに、経典の中では「煩悩」という言葉を使われます。現代的には、それは「感情」という言葉になります。

 では、なぜ感情でする判断は間違っているのでしょうか?この感情や煩悩をつかさどっているのは「原始脳」だからです。怒り、嫉妬、憎しみは、大脳にもあります。というより、原始脳が持っている感情に、大脳が感染しているのです。大脳の回路は生まれてから徐々に成長していきますが、脳細胞は全部、原始脳と繋がっている状態なので、回路を作ることはありません。

 この原始脳には思考能力はありません。あるのは生きていたいという存在欲と、死にたくないという恐怖感だけです。生きていきたいとは死にたくないということですから、いつでも存在欲と恐怖感が一緒になっているのです。それが枝分かれして、さまざまな感情が生まれます。

 恐怖感は、怒りになったり、嫉妬になったり、落ち込みになったり、後悔になったり、人を軽蔑したり、などです。存在欲は傲慢になったり、自分を大きく見せようとしたりします。いずれも客観的なデータに基づいたものではありません。従いまして、感情や気持ちに支配されないことがとても重要なことなのです。

 教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じることの重要性を説かれました。深く、深く信じるときに人間は真理に目覚めるのです。信じて、信じて、信心して妙法蓮華経の五文字を唱えることが重要です。常住坐臥いついかなるときも、妙法を唱えていると、不慮の事故や災難から免れると仰せです。

 三徳『慈悲』『誠』『堪忍』の実践がとても大事です。実践して初めて功徳になるのです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。見返りを求めずに人に善いことをして差し上げること。すなわち、無欲になり素直なこころで、相手の喜ぶ顔を見て、こころの底から喜べるかどうかです。これができたら、本当の意味で慈しみのこころになれるのです。

 私たちは常に人格を高める努力が必要です。人格が高まれば、自然と慈しみのこころになり、すべてをありのままに見て、理解することができるのです。欲もなく、怒りもなく、愚痴もなく、理想的な生き方を実践することで、〝すばらしき人生〞へと高めていくことができるのであります。


  合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス