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世界平和を
大樹
すばらしき人生136
 四月を卯月と呼び、その由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(うにはなづき)」を略したものというのが定説となっています。また、新年度のスタートです。できなかったことや、やらなかったことにチャレンジする転換期でもあります。今までの自分をリセットして新たな発見に出合えるよう期待したいと思います。

 今年十一月に行われるアメリカの大統領選挙に注目が集まっております。日本にとってはバイデンかトランプのどちらが大統領になっても厳しい状況は変わりません。日本のGDP(国内総生産)もドイツに抜かれて四位となりました。

 かつては半導体の分野では世界一という時期もありましたが、現在建設中の熊本県菊陽町に台湾の半導体メーカーの工場が誘致され、さらに増やしていくという計画もあります。半導体が景気の押し上げになれるよう期待しています。これからが、本当の日本の底力を見せつけるときではないでしょうか。

 先般の春季彼岸先祖法要会には多くの信者の皆さまにお参りをいただきありがとうございました。先祖への感謝と供養は決して忘れてはならないことです。困ったときには、必ずご先祖さまが護ってくださいます。今月は釈尊降誕祭(花まつり)が執り行われます。読経、法話も開催します。また甘茶の接待もあります。どうか皆さまのお参りをお待ち申し上げます。

 私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。私には、十名の部下がおりました。皆それぞれの個性があり、性格から仕事ぶりまでさまざまです。優秀なHさんは、何でも器用にでき売り上げを大きく伸ばしたのですが、問題はあまり優秀ではないWさんをどのように育てるか、その育て方によって、課の命運を大きく左右します。

 Wさんは私より一つ年上で、指導するにも一筋縄ではいきませんでした。どうしても私より年上であるということが弊害になったのです。彼は、いつも上から目線で私を見ておりました。

 彼は、自分がしている仕事に満足して、それに甘んじて、もっと自分を磨こうという気概がなかったように感じられました。もっと努力して成績を上げよう、他の模範になれるよう頑張ろうと思う気持ちがなかったのです。

 私は非常に悩みました。そういったバックグランド(背景)を持った人間を、どうやって優秀な人材に育てるのか?どういうアドバイスをしたら素直に聞いてくれるのか?私はこの問題を解決すべき対策を真剣に考えました。

 彼は、広島県出身で転勤して静岡県東部の担当になりました。サラリーマンは移動先が希望どおりにならないことが常であります。上司に嫌われると、遠方まで転勤を命ぜられます。それが嫌なら会社を辞めざるを得ません。そんなことで、辞めさせたい社員にはそういう手法を使う上司もいます。

 彼は、心情的には静岡の果てまで飛ばされたという思いがあったのでしょう。そのような不満があったから十分に力を発揮できなかったと思います。

 まず、指導するにあたって、第一段階として、彼の立場に立って考え、理解し、とにかく褒めることです。そして、彼のすべてを肯定することです。肯定することによって、上司が認めてくれたと思うのです。互いの信頼関係をつくるのが、最初の第一歩です。

 次に、信頼関係ができたと感じたとき、いろんな問題を質問して、回答をさせます。正しい回答なら、それでよいと言いますが、間違った答えでしたら、もう一度考えさせます。それで正しい答えが導き出せたら、現場で実践をさせます。

 次に、正しい話法を教えるのです。「話し上手は聞き上手」といいます。相手の話をよく聞くこと、そして、相手を理解することです。すなわち傾聴力を高める指導をしました。

 次に、話法で大事なのは、雑学知識を増やすことです。受け売りの会話ではダメです。薬学の専門知識は当然ないといけませんが、雑学知識も勉強しないといけません。ピンチのときには、必ず役に立ちます。

 思考、分析、話法、知識さえそろえば、あとはその人の人間性です。いかに魅力のある人間になれるか。人に秀でる何かがあるかどうかという見込みが立てば、ようやく第一線で戦えるのです。Wさんも本当の意味での普通の営業マンになれたのです。

 世の中にはいろんなタイプの先生がおられます。先生が怒るか、笑顔になるかは、アクション(行動)を起こさないと分かりません。その先生の表情を見極める方法を伝授したのです。

 仕事とは勝負の世界です。勝つか負けるかの勝負なのです。先生が、怒る寸前まで突っ込んだ話ができるかどうか。できれば勝ちです。それができるかできないかによって、成功者になれるか失敗者になってしまうかの分岐点なのであります。

 さて、仏教用語である、「ありのまま」という言葉を、多くの人が軽く受け取っております。自分に見えるように、自分が感じるように、自分の素直な判断のまま、という意味だと誤解しています。そのままの自分が「ありのままの自分」だと思っているようです。

 しかし、それは違います。そのままの自分とは、存在欲と恐怖感に操られているロボットのような存在です。ありのままに観るとは、主観と感情を使わず、客観的なデータで事実を発見することです。

 世間は物事をありのままに観てはいけません。存在欲と恐怖感の衝動で学んでいるだけです。したがって、世間は知識的にも技術的にも発展しましたが、楽になるはずの人生は、さらに複雑になっています。

 一つの問題を解決すると同時に、新たな問題をたくさん作ります。なので、欲がなくなるどころか強くなるし、怒りも拡大するのです。何の役にも立たない知識で頭がいっぱいなので、無知が強くなります。これは情報化社会の問題でしょう。

 情報化社会というなら、みんな正しい情報をたくさん持っていて、知識レベルが上がるはずですが、結果はみんながネット情報に依存することになっています。さらに、誰もが何の責任も問われず、自分の主観的な情報を世間に向けてまき散らしております。

 現代社会は問題を解決したのではなく、新たな問題をたくさん作っただけでした。このす。自分に見えるように、自分が感じるように、自分の素直な判断のまま、という意味だと誤解しています。そのままの自分が「ありのままの自分」だと思っているようです。

 しかし、それは違います。そのままの自分とは、存在欲と恐怖感に操られているロボットのような存在です。ありのままに観るとは、主観と感情を使わず、客観的なデータで事実を発見することです。

 世間は物事をありのままに観てはいけません。存在欲と恐怖感の衝動で学んでいるだけです。したがって、世間は知識的にも技術的にも発展しましたが、楽になるはずの人生は、さらに複雑になっています。

 一つの問題を解決すると同時に、新たな問題をたくさん作ります。なので、欲がなくなるどころか強くなるし、怒りも拡大するのです。何の役にも立たない知識で頭がいっぱいなので、無知が強くなります。これは情報化社会の問題でしょう。

 情報化社会というなら、みんな正しい情報をたくさん持っていて、知識レベルが上がるはずですが、結果はみんながネット情報に依存することになっています。さらに、誰もが何の責任も問われず、自分の主観的な情報を世間に向けてまき散らしております。

 現代社会は問題を解決したのではなく、新たな問題をたくさん作っただけでした。この令は、生きていたい、死にたくない、という二つです。

 人間がやっているのは、ザルで水をくむようなことといえます。客観的に物事を観ようと真剣に思うのであれば、原始脳を抑え、大脳を自由にさせる工夫が必要です。

 仏教とは、その方法を教える実践体系です。論理と実践方法を詳しく説いているのです。お釈迦さまの時代には「脳」という概念はなかったので、お釈迦さまは、脳という言葉は使っておりません。原始脳も大脳もその他の細胞も生かしている、根本的なエネルギーを「こころ」というのです。

 幸福に生きるためには、「原始脳の働きを抑えるべきです」といっても、それは簡単にできることではありません。巧みに進まなくてはいけないのです。肉体を維持するためには、原始脳が必要です。大脳が原始脳の奴隷になっているのは、原始脳にはそれなりの力があるからです。幸福になるためには、大脳を興奮させることもせず、脅かすこともせず、巧みな態度をとる必要があります。

 原始脳の指令は「生きていたい、死にたくない」ということです。それを一歩進めて「幸福になる」という新しい目的をつくってあげましょう。気をつけてほしいのは、けっして「幸福に長生きする」という目的をつくらないことです。

 生きていたいという存在欲を微妙に変えましょう。「幸福になる」とは「どうせ生きているなら、幸福になろう」という意味です。生きていたい、死にたくない、という気持ちは、気にするほどの問題ではないと措いておくのです。

 生きているなら、幸福に生きる。死ぬときが来たら幸福に死ぬ。だから「幸福になる」という目的をつくるのです。これをスタートに、幸福になる道を発見しましょう。「今まで幸福になれなかったのはなぜだろうか?」と、今まで歩んできた生き方を観察することから始まります。

 ありのままに、客観的に考えましょう。何度もいうように「私は生きていたい」というのが人間の本能ですが、客観的に見れば「いつか必ず死ぬ」ことがわかります。その事実を、私たちは原始脳の指令で無視しています。ないことにしようとして、死という言葉さえも日常生活では使いません。なんだか、人が死ぬことは大きな問題だと思っているようです。

 ある人はこう言うかもしれません。「いいえ、私は人が死ぬということは事実であると認めます」では、その人に聞きます。「あなたは死にたいのですか?あなたは自身の死を笑顔で受けとめられますか?」

 人間は嘘つきですから、「はい、そうです」と言うかもしれません。自分のこころに聞いてみてください。「死ぬなんて楽しいな」と思う人は誰一人としていないでしょう。

 しかし、大事なことは理性に基づいて「生きるものは誰だって死を迎えなくてはいけない」という事実を素直に認められるところまで、こころを育てないといけないのです。幸福になりたいという目的があれば、できることです。なぜなら「死ぬのは嫌だ」と思うたびに、人は不幸になるからです。あり得ないことを期待するのは、無知もいいところです。

 たとえて言えば「太陽が昇って欲しくない。沈んでほしくない」と思って、その目的のために努力するようなものです。人は不可能なことに挑戦すべきではないのです。死を認めると、人生は結構おもしろいのです。

 恐怖感は「死ぬのが怖い」という気持ちから現れます。すべての恐怖感の基は「死ぬのが怖い」ということなのです。インフルエンザに罹るのも怖いでしょう。それは「死ぬのが怖い」からなのです。「いつかは必ず死ぬ」と思えば、別に怖がったり怯えたりすることはないでしょう。それが解れば、こころはしっかりします。だから、物事をありのままに観る必要があるのです。

 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心すれば智慧が現れ、真理に目覚めるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。要するに、常に妙法を唱えていれば護られるということです。

 『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。運命を良くしたい、幸せになりたいと思うなら三徳の実践をしないといけません。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。具体的には、「見返りを求めず、人に善いことをして差し上げる。相手の喜んでいる姿を見て、素直にこころから喜べるかどうか」です。

 慈しみもこころを育てることが、幸せになる近道です。常に他人のことに思いやりのある行動をとることで、自分を高めることができます。その結果、必ず〝すばらしき人生〞へとなっていけるのです。



  合 掌

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