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大樹
すばらしき人生137
一年は早いもので、もう四ヶ月がたち五月に入りました。新緑のまぶしい季節がやってまいりました。世間ではゴールデンウイークも最長十連休で海外や国内旅行や里帰りと多くの方が移動されます。
最近ではあまり言われなくなりましたが、五月病といって、新入社員が連休中に、新しい環境についていけずに無気力になったり、睡眠不足になったりします。これも、うつ病の一つともいえますが、それで会社を辞める人もおられました。学生時代の厳しい受験戦争を経験し、社会人になり、やる気満々だったのですが、何かが違うと気付くのです。このようにして退社する人間を何人見たか。理想と現実のギャップを乗り越えてこそ本当の意味での一人前のサラリーマンになれるのです。
今年は桜の開花が遅れた影響で入学式や入社式には桜が咲いておりました。自然の力は不思議なぐらい環境の影響を受けております。この春先の雨が多かったのも、地球温暖化の影響と推察されます。
私たち自身が環境を守り、育てなければいけません。「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではいけないのです。人間一人ひとりが責任をもって環境問題に取り組まなければ、地球の将来はありません。豊かで、安全な未来を創造することを目指して努力することだと思います。
先般、釈尊降誕祭(花まつり)に、お参りをいただきありがとうございました。信者の皆さまと一緒にお釈迦さまの誕生日祝いができたこと、こころより感謝しております。六月には教祖祭を開催します。多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。部下の営業部員は総勢で二十名です。そして、各県の責任者が四名おりました。仕事の効率が良い課長、そうでない課長とさまざまです。仕事ができても性格が悪い人は顧客から信頼されません。やはり性格が一番重要となります。
なかでも愛媛県の責任者であるM課長はとても優秀でした。仕事は早く、卒なくできます。また毎月のテストもほぼ満点で、完璧な人間でした。しかし、彼の性格ということを考えれば、少々難がありました。悪い性格ではないのですが、一刻な面があり頑固な性分でした。彼の性格は環境が変わらなければ、変えようがありません。
課長が変わっても、営業成績は落ちないという自信があったので、彼を成長させたいという思いから、異動させました。環境が変われば、彼の頑固な部分がなくなり対応能力が高まり、彼自身が奮起してくれるだろうと考えたのです。
私は、考慮の上、彼が、柔軟な頭になり、視野が広がることを期待して、本社の非営業部門(内勤業務)に就かせたのです。本当は彼がこの現状から脱却して再び営業に戻れるかどうか、大変なことですがチャレンジさせようと考え実行したのです。
そんな私の気持ちも知らずに彼は、本社で散々私の悪口を言っており、私が、とても悪い人間だという風評が本社の中で噂として飛び回ったのでした。噂は怖いもので、小さなことも、尾ひれがついてしまい、大げさになっていってしまうのです。本社からは、とんでもない支店長だと思われたかもしれませんが、彼を成長させることが目的でしたので周りのことは気にしませんでした。
私が、本社に転勤になったとき、他の部署の人から、このように言われました。私という人間を見ると聞くでは大きな違いがあると、本社では間違った情報が飛び交っておりました。私は、誤解が解けたことをとても嬉しく思いました。
そして、本社でM課長は、必死にもがき、本当に奮起したのです。転勤から三年で営業職にカムバックできたのです。しかも、成長ホルモン製剤のプロダクトマネージャー(企画・立案)という、製品のトップで返り咲いたのです。
人間が本気で取り組めばできないことはありません。彼がこのまま内勤職で終わってしまうと、彼の仕事上の人生はそれで終わりです。しかし、このままではいけないと、危機感を持ったから自分を変えることができたのです。
自分の人生を、成功させるか、失敗するかは本人の考え方次第です。どんな苦難をも乗り越える、強い精神力と、相手のことを理解し助けてあげる優しさと、常に自分を高めようとする向上心を持ち続けることがとても大事なのであります。
さて、仏教的に見ますと、私たちは、ただ生きているだけで、生きるというのはどういうことかと、考えようとしません。しかし、ありのままに人生を生きると「生きることは苦である」と発見できます。原始脳の指令があるので「生きることは苦である」という事実を無視し、否定しているだけです。
現実を否定して生きることについて考えてみましょう。なぜ人は勉強するのでしょうか?生きるためです。なぜ人はご飯を食べるのか?生きるためです。なぜ人は仕事をするのか?生きるためです。
人間がやっているどんな行為にも、その質問を投げかけてみてください。答えは一つです。それは生きるためです。では「生きるとは何なのか?」というと、そのことは知らないのです。
人が頭の中で作り出した「生きる」という観念があります。この観念のために、私たちは、食べたり、勉強したり、仕事したり、家を造ったり、その他すべての行為をします。
客観的に観察すると「生きる」という何か大切なものは見つからないのです。発見できるのは、生きるために私たちがやっている行為だけです。たとえば、食べることが生きることではありません。生きているから食べているのです。呼吸することが生きることではありません。生きているから呼吸しているのです。人間がやっているすべての行為を調べても、「それは生きることではない。生きているから行っている」という結論になります。
無意識的に起こる心臓の鼓動、細胞の動きなどにしても、同じ結論です。では、「生きる」ということはどこにあるのでしょうか?
たとえば、ここにリンゴ、ミカン、バナナ、キウイ、モモなどがあります。それらを総称して果物といいます。しかし、果物という品物は存在しないのです。とはいっても、「果物は存在しない」とも言い切れません。なぜなら、リンゴ、ミカンなどがあるからです。
それと同じように、瞬時に変わる無数の行為を総称して、「生きる」といっているのです。客観的に観察する人は、観念的なものを措いておいて行為を調べる。それで、「苦」を発見するのです。私たちはやりたくてたまらない気持ちで勉強をしたわけでも、仕事をするわけでもありません。仕方なくやっているのです。
「食べる、音楽を聴くなど、楽しくて行う行為もあるのでは?」と思うかもしれません。しかし、これらもやらなかったら大変なことになります。要するに、苦しみがそうさせているのです。食べなければ空腹という苦しみがあり、喜んで楽しく音楽を聴いているのも、退屈という苦しみがあるからなのです。
無意識的に起こる呼吸については、呼吸を止めたらどんなことになるでしょうか?激痛を感じます。それを避けるために、息を吸っているのです。生きる行為を一つひとつ調べていくと、苦がそれらをやらせていることを発見できます。
たまに楽しみがあるからといってこの事実をごまかしてはいけません。たまにある楽しみも怪しいのです。
お金があったら楽しい。それは、貧乏が苦しいからです。ご飯を食べると楽しい。空腹感は苦しいからです。水を飲むとおいしく感じます。喉の渇きが苦しいからです。友達ができると楽しい。孤独が苦しいからです。要するに、苦がなければ楽は成り立たないのです。
「苦があるほど楽しみも増す」という人もいるかもしれません。だからといって、あえて苦しみを探すのでしょうか?そもそも生きることは苦なので、探す必要などありません。苦を一時的に避けるときに、楽しみを感じるのです。
このように人生をごまかして生きてみても、老いる、病に罹る、死を迎える、愛する人と別れる、嫌な人々と付き合うことになる、求めるものを得られないという苦しみがあります。それらからは逃げられません。
生きることは苦であると発見しても「苦を避けたい」という気持ちを捨てる必要はありません。現実は苦だからといって、苦を喜んで抱きしめる必要はないのです。これも巧みな選択をするのです。
生きていたいという気持ちの代わりに「苦を避けたい」という目的を持ちましょう。そうなれば、食べても食べ過ぎにならない。寝ても寝過ぎない。仕事をしても、仕事こそが人生だと勘違いしない。生きるという名目で行っている一切の行為は、仕方なくやっていると理解すること。そうすれば、それらの行為に対して、執着することも嫌になることもなく、冷静になります。
幸福に生きるとはどういうことなのか?答えは簡単です。生まれるものは必ず死にます。生と死はセットで、コインの表と裏のようなものです。コインの表はとても気に入っているが、裏は大嫌いという人は、大好きなコインの表を取るとき、必ず大嫌いなコインの裏も取ることになるのです。
生に執着して死を嫌う人は、こういうことになります。生き続けることだけでも大変なのに、死を避けることでさらに無量の苦しみを招くのです。生と死はコインの表と裏のようなものであると理解しないといけません。死を避けることには、誰も成功しないのに、なぜそのためにがんばるのでしょうか。
あり得ないことに挑戦せず、あり得ないことを希望しない。不可能なことを期待してがんばることは、無知な行為であるだけでなく、激しい悩み、苦しみを作りだす生き方でもあります。ということは、苦しみを作りださない生き方こそが幸福な生き方なのです。要するに、自然の流れで起こる出来事に執着しないで、放っておくのです。
生きたものは、必ず死にます。しかし、それまでの間は自分で管理できます。揺るぎない安穏のこころをつくることができます。具体的には、生きていきたいから食べるのではありません。生きるために、死を避けるために、食べるのではありません。生きている間は、他の選択肢がないのです。選択肢がないのであれば、悩む必要はありません。仕方なく食べればよいのです。冷静でいればよいのです。
そうすれば、食べるものによってこころが揺らぐことがなくなります。それを他の行為に対しても実行してみるのです。仕方なく勉強する。仕方なく仕事をする。子供が生まれたら育てる。身体が汚れたらお風呂にはいる。この訓練が身についたら、こころは安穏に達します。これが幸福というものです。
世間の人が思う幸福とは、ずいぶん違います。世間は存在欲を支えてくれることが幸福だと思っております。だから、お金があれば、家があれば、健康でいられれば、などなどを幸福として取り上げるのです。それらがあっても不幸になるわけではないですが、幸福にはなれないのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信心することの大切さを説かれました。教祖さま曰く、妙法を深く信じるときに真理に目覚めるのです。信心が大きければ大きいほど功徳も大きくなるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
人間生きていれば、どこで、何が起こるか誰にもわかりません。しかし、妙法を常に唱えていれば護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。私たちは「慈しみのこころ」を育てなければいけません。慈しみとは、具体的には、見返りを求めずに、人に善いことをしてさしあげて、その方が喜ぶ姿を見て、素直にこころから喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということになります。慈しみのこころをどんどん増やしていくことが、私たちの人格を形成してくれるのです。毎日、精進して、慈しみのこころを増やすことが〝すばらしき人生〞へと通ずるのであります。
合 掌
最近ではあまり言われなくなりましたが、五月病といって、新入社員が連休中に、新しい環境についていけずに無気力になったり、睡眠不足になったりします。これも、うつ病の一つともいえますが、それで会社を辞める人もおられました。学生時代の厳しい受験戦争を経験し、社会人になり、やる気満々だったのですが、何かが違うと気付くのです。このようにして退社する人間を何人見たか。理想と現実のギャップを乗り越えてこそ本当の意味での一人前のサラリーマンになれるのです。
今年は桜の開花が遅れた影響で入学式や入社式には桜が咲いておりました。自然の力は不思議なぐらい環境の影響を受けております。この春先の雨が多かったのも、地球温暖化の影響と推察されます。
私たち自身が環境を守り、育てなければいけません。「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではいけないのです。人間一人ひとりが責任をもって環境問題に取り組まなければ、地球の将来はありません。豊かで、安全な未来を創造することを目指して努力することだと思います。
先般、釈尊降誕祭(花まつり)に、お参りをいただきありがとうございました。信者の皆さまと一緒にお釈迦さまの誕生日祝いができたこと、こころより感謝しております。六月には教祖祭を開催します。多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。部下の営業部員は総勢で二十名です。そして、各県の責任者が四名おりました。仕事の効率が良い課長、そうでない課長とさまざまです。仕事ができても性格が悪い人は顧客から信頼されません。やはり性格が一番重要となります。
なかでも愛媛県の責任者であるM課長はとても優秀でした。仕事は早く、卒なくできます。また毎月のテストもほぼ満点で、完璧な人間でした。しかし、彼の性格ということを考えれば、少々難がありました。悪い性格ではないのですが、一刻な面があり頑固な性分でした。彼の性格は環境が変わらなければ、変えようがありません。
課長が変わっても、営業成績は落ちないという自信があったので、彼を成長させたいという思いから、異動させました。環境が変われば、彼の頑固な部分がなくなり対応能力が高まり、彼自身が奮起してくれるだろうと考えたのです。
私は、考慮の上、彼が、柔軟な頭になり、視野が広がることを期待して、本社の非営業部門(内勤業務)に就かせたのです。本当は彼がこの現状から脱却して再び営業に戻れるかどうか、大変なことですがチャレンジさせようと考え実行したのです。
そんな私の気持ちも知らずに彼は、本社で散々私の悪口を言っており、私が、とても悪い人間だという風評が本社の中で噂として飛び回ったのでした。噂は怖いもので、小さなことも、尾ひれがついてしまい、大げさになっていってしまうのです。本社からは、とんでもない支店長だと思われたかもしれませんが、彼を成長させることが目的でしたので周りのことは気にしませんでした。
私が、本社に転勤になったとき、他の部署の人から、このように言われました。私という人間を見ると聞くでは大きな違いがあると、本社では間違った情報が飛び交っておりました。私は、誤解が解けたことをとても嬉しく思いました。
そして、本社でM課長は、必死にもがき、本当に奮起したのです。転勤から三年で営業職にカムバックできたのです。しかも、成長ホルモン製剤のプロダクトマネージャー(企画・立案)という、製品のトップで返り咲いたのです。
人間が本気で取り組めばできないことはありません。彼がこのまま内勤職で終わってしまうと、彼の仕事上の人生はそれで終わりです。しかし、このままではいけないと、危機感を持ったから自分を変えることができたのです。
自分の人生を、成功させるか、失敗するかは本人の考え方次第です。どんな苦難をも乗り越える、強い精神力と、相手のことを理解し助けてあげる優しさと、常に自分を高めようとする向上心を持ち続けることがとても大事なのであります。
さて、仏教的に見ますと、私たちは、ただ生きているだけで、生きるというのはどういうことかと、考えようとしません。しかし、ありのままに人生を生きると「生きることは苦である」と発見できます。原始脳の指令があるので「生きることは苦である」という事実を無視し、否定しているだけです。
現実を否定して生きることについて考えてみましょう。なぜ人は勉強するのでしょうか?生きるためです。なぜ人はご飯を食べるのか?生きるためです。なぜ人は仕事をするのか?生きるためです。
人間がやっているどんな行為にも、その質問を投げかけてみてください。答えは一つです。それは生きるためです。では「生きるとは何なのか?」というと、そのことは知らないのです。
人が頭の中で作り出した「生きる」という観念があります。この観念のために、私たちは、食べたり、勉強したり、仕事したり、家を造ったり、その他すべての行為をします。
客観的に観察すると「生きる」という何か大切なものは見つからないのです。発見できるのは、生きるために私たちがやっている行為だけです。たとえば、食べることが生きることではありません。生きているから食べているのです。呼吸することが生きることではありません。生きているから呼吸しているのです。人間がやっているすべての行為を調べても、「それは生きることではない。生きているから行っている」という結論になります。
無意識的に起こる心臓の鼓動、細胞の動きなどにしても、同じ結論です。では、「生きる」ということはどこにあるのでしょうか?
たとえば、ここにリンゴ、ミカン、バナナ、キウイ、モモなどがあります。それらを総称して果物といいます。しかし、果物という品物は存在しないのです。とはいっても、「果物は存在しない」とも言い切れません。なぜなら、リンゴ、ミカンなどがあるからです。
それと同じように、瞬時に変わる無数の行為を総称して、「生きる」といっているのです。客観的に観察する人は、観念的なものを措いておいて行為を調べる。それで、「苦」を発見するのです。私たちはやりたくてたまらない気持ちで勉強をしたわけでも、仕事をするわけでもありません。仕方なくやっているのです。
「食べる、音楽を聴くなど、楽しくて行う行為もあるのでは?」と思うかもしれません。しかし、これらもやらなかったら大変なことになります。要するに、苦しみがそうさせているのです。食べなければ空腹という苦しみがあり、喜んで楽しく音楽を聴いているのも、退屈という苦しみがあるからなのです。
無意識的に起こる呼吸については、呼吸を止めたらどんなことになるでしょうか?激痛を感じます。それを避けるために、息を吸っているのです。生きる行為を一つひとつ調べていくと、苦がそれらをやらせていることを発見できます。
たまに楽しみがあるからといってこの事実をごまかしてはいけません。たまにある楽しみも怪しいのです。
お金があったら楽しい。それは、貧乏が苦しいからです。ご飯を食べると楽しい。空腹感は苦しいからです。水を飲むとおいしく感じます。喉の渇きが苦しいからです。友達ができると楽しい。孤独が苦しいからです。要するに、苦がなければ楽は成り立たないのです。
「苦があるほど楽しみも増す」という人もいるかもしれません。だからといって、あえて苦しみを探すのでしょうか?そもそも生きることは苦なので、探す必要などありません。苦を一時的に避けるときに、楽しみを感じるのです。
このように人生をごまかして生きてみても、老いる、病に罹る、死を迎える、愛する人と別れる、嫌な人々と付き合うことになる、求めるものを得られないという苦しみがあります。それらからは逃げられません。
生きることは苦であると発見しても「苦を避けたい」という気持ちを捨てる必要はありません。現実は苦だからといって、苦を喜んで抱きしめる必要はないのです。これも巧みな選択をするのです。
生きていたいという気持ちの代わりに「苦を避けたい」という目的を持ちましょう。そうなれば、食べても食べ過ぎにならない。寝ても寝過ぎない。仕事をしても、仕事こそが人生だと勘違いしない。生きるという名目で行っている一切の行為は、仕方なくやっていると理解すること。そうすれば、それらの行為に対して、執着することも嫌になることもなく、冷静になります。
幸福に生きるとはどういうことなのか?答えは簡単です。生まれるものは必ず死にます。生と死はセットで、コインの表と裏のようなものです。コインの表はとても気に入っているが、裏は大嫌いという人は、大好きなコインの表を取るとき、必ず大嫌いなコインの裏も取ることになるのです。
生に執着して死を嫌う人は、こういうことになります。生き続けることだけでも大変なのに、死を避けることでさらに無量の苦しみを招くのです。生と死はコインの表と裏のようなものであると理解しないといけません。死を避けることには、誰も成功しないのに、なぜそのためにがんばるのでしょうか。
あり得ないことに挑戦せず、あり得ないことを希望しない。不可能なことを期待してがんばることは、無知な行為であるだけでなく、激しい悩み、苦しみを作りだす生き方でもあります。ということは、苦しみを作りださない生き方こそが幸福な生き方なのです。要するに、自然の流れで起こる出来事に執着しないで、放っておくのです。
生きたものは、必ず死にます。しかし、それまでの間は自分で管理できます。揺るぎない安穏のこころをつくることができます。具体的には、生きていきたいから食べるのではありません。生きるために、死を避けるために、食べるのではありません。生きている間は、他の選択肢がないのです。選択肢がないのであれば、悩む必要はありません。仕方なく食べればよいのです。冷静でいればよいのです。
そうすれば、食べるものによってこころが揺らぐことがなくなります。それを他の行為に対しても実行してみるのです。仕方なく勉強する。仕方なく仕事をする。子供が生まれたら育てる。身体が汚れたらお風呂にはいる。この訓練が身についたら、こころは安穏に達します。これが幸福というものです。
世間の人が思う幸福とは、ずいぶん違います。世間は存在欲を支えてくれることが幸福だと思っております。だから、お金があれば、家があれば、健康でいられれば、などなどを幸福として取り上げるのです。それらがあっても不幸になるわけではないですが、幸福にはなれないのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信心することの大切さを説かれました。教祖さま曰く、妙法を深く信じるときに真理に目覚めるのです。信心が大きければ大きいほど功徳も大きくなるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
人間生きていれば、どこで、何が起こるか誰にもわかりません。しかし、妙法を常に唱えていれば護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。私たちは「慈しみのこころ」を育てなければいけません。慈しみとは、具体的には、見返りを求めずに、人に善いことをしてさしあげて、その方が喜ぶ姿を見て、素直にこころから喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということになります。慈しみのこころをどんどん増やしていくことが、私たちの人格を形成してくれるのです。毎日、精進して、慈しみのこころを増やすことが〝すばらしき人生〞へと通ずるのであります。
合 掌
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