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大樹
すばらしき人生138
六月を水無月といいまして、いわれは諸説ありますが、「水の月」であるとする説が有力となっております。この時期は梅雨に入り雨が多い季節です。私が小さい頃には、梅雨はしとしとと毎日少量の雨が続きましたが、昨今ではドカッとまとまって降るようになりました。
雨が降らない空梅雨になると、農家の皆さんは大変なことになります。しかし、降りすぎても不作になる可能性もあります。自然の恵みという適量の雨が一番ありがたいのです。
現在、円安で物価高に悩まされております。海外からの輸入製品も、コスト高で困っております。こんな状況を打破するためには地産地消が一番良いと思います。自給率を上げて日本の一次産業を応援することが、将来の若い人々にとって良い結果をもたらすことと思っております。
昨年五月よりコロナ感染症も五類相当に格下げされ、普段の日常を取り戻すことができました。四月には釈尊降誕祭(花まつり)も開催でき、信者の皆さまとともに誕生日のお祝いができたこと、大変うれしく思います。
一ヵ月早いのですが、五月に岐阜笠松にある教祖・杉山辰子先生の墓前にて読経をさせていただきます。六月には教祖祭を開催致します。多くの信者の皆さまのお参りを、こころよりお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。赴任当時は島田市以東が私の担当エリアとなり一人で活動しておりました。ご存じのように静岡県は東西に百五十五キロと細長い地形をしております。
一人でその約七割をカバーするには距離的に厳しいところもありました。しかし、その翌年から新人一名が配属となり、その後、課長に昇進して、毎年一名の増員がありました。最終的には十名体制となり十分な活動ができるようになりました。
ある年、中途採用でHさんが、静岡医薬課に配属となりました。彼は、二十代後半で、とても優秀な人でした。私は、彼に教えることなど何もありません。私が助言したことは、「拘りをもって、やり遂げること」の一言だけでした。
彼は、「一を聞いて十を知る」ということわざがあるように、とても頭の回転が速く、自分考えて行動できる、そんな器用な人間でした。
このような部下がいると上司としては、とてもありがたいのですが、世の中には、このように任せられる部下とそうでない部下がおります。一から十まで教えてもできない人もいます。
それは、その人の思考能力が停止しているのです。要するに、考える力を養わない習慣を身に着けると、指示待ちの状態で停止してしまうのです。指示が出るまで何もできないようになってしまっているのです。
Hさんのように、頭をフル回転させ、物事の先を見通せるような、「洞察力」を身に着けないといけません。Hさんが、これほど優秀になったのも、いくつかの失敗を経験していることと思います。最初から、すべて完璧にできる人間などおりません。どこかで自分の欠点を発見し、それをクリアしていくという経験がないと、いつまでたっても、考えない、指示待ちの域から脱出できない人間になってしまうのです。
そうならないように、自分の長所短所を早く見つけ出し、いかに短所を長所にできるかという方法に、気づくことが極めて重要なのであります。
さて、仏教の考えでは「まあ、いつ死んでもいい。私は楽しく幸福に生きてみます」という納得に達することは、いたって簡単です。納得に達することができれば、理性が現れて、こころが自由になります。
それはどういうことかといえば、生きていたい、死にたくない、という原始脳の衝動で生きている人々は、生きることのみ意義を認めているのです。だから、死にたくないのです。そこで妄想できる結論は、永遠に生きていられればありがたい、という概念です。
苦を避けて幸福に生きたいと思う人は、いま生きることを観察します。生きることは無常で変化する行為の流れであると発見します。
世間は永遠になる道を探しております。さまざまな妄想概念にしがみつき、その結果、自由を失います。永遠の命を約束する宗教概念は妄想以外の何ものでもありません。
宗教は妄想概念に基づいて現れていますが、人間に仲良く生きること、苦しんでいる人々を助けること、欲、怒りなどを控えること、などなど教えています。このような同毒的な生き方を否定することはできません。永遠の天国はともかく、この教えを守れば、ある程度は楽に生きられるでしょう。
しかし、永遠の天国を説く場合は、永遠の地獄も説かないといけません。いずれも、存在欲と恐怖感に合わせて作り出された妄想概念です。永遠という概念は、原始脳の希望です。大脳を使って客観的に物事を調べれば「永遠」という単語が成り立たないと発見できます。
発見するのは、すべての現象は無常であるということです。永遠の天国も、永遠の地獄も、全知全能の神も成り立たないと発見する人は、理性のある人間です。世間のさまざまな妄想概念に束縛されることから自由になります。
仏教でも、天国(天界)、地獄という言葉があります。しかし、いずれも永遠ではありません。たくさんの次元が存在するという意味です。
天界とは、楽しみが多く苦しみが少ない存在で、地獄界とは、苦しみが多く楽しみがない存在です。人間界は五分五分ではないが苦しみも楽しみもある存在の次元です。しかし、これらのすべてが無常です。生まれたら死ぬという現実は、天界にせよ地獄界にせよ同じです。
理性に基づいて観察しつづけるということは、原始脳の存在欲と恐怖感が長い間活動しないことになります。そのようにする人々は幸福を目指して生きているので、原始脳も反乱しません。「使わないものは壊れていく」というのが法則です。
何かを学ぶためには、繰り返し復習しなくてはなりません。何か能力が身についても、長い間使わないでいると退化しますが、それと同じ現象が脳にも起こります。原始脳の感情がじわじわと退化していくのです。
幸福になることを目的にして生きる。常に、自分の行動が幸福につながるか、それとも苦しみをつくるのかと調べる。不幸になる行為をやめる。幸福になる行為をつづける。目的を決めたら、それを実行しましょう。
この実行とは、物事をありのままに観察することです。そうすれば客観的なデータが揃うので、判断に悩む必要はなくなります。
たとえば、同じ大きさの玉が二つあります。どちらのほうが重いのか、判断しなくてはいけないとしましょう。玉にAとBと名前をつけておきます。手に取ってみる、Aが重いか、Bが重いかと悩みます。左手にとった球が、重く感じるかもしれません。右利きの人なら左手は比較的弱いので、重いと勘違いする恐れもあります。そこで、右手だけで玉を交互にとってみるとしましょう。Aをとって重さを感じる。それからBをとって重さを感じる。正しい答えが出てくるでしょうか?Bをとってみるときは、Aの感触が薄れているし、先にAをとっていたから、手が微妙に疲れています。Bを実際より重く感じるおそれがあります。
これでは正しい結論に達しないでしょう。それで、天秤をもってきて、AとBを入れて調べる。それは客観的な観察です。目の前に正解が表れていますので、結論を導き出す必要さえもないのです。
生きることを客観的に観察する実践を行う人は、このように、人生においていとも簡単に正解を発見するのです。ということは、失敗は極めて少なくなる。これは幸福な生き方ではないでしょうか。
人々はさまざまな行為をする、また、さまざまな行為をやめる。行為をするにもやめるにも、その人が判断しなくてはいけません。当然、判断する本人は自分の判断が正しいという前提でいます。
あえて意図的に間違った判断をすることはありません。客観的に見れば悪い判断であっても、そのとき、本人はそれが正しいと思ってやっているのです。世の中の人間が行っている行為が、すべて正しいということはありません。同じようにすべて間違っているということもありません。そのときどきによって、間違った判断だったり、正しい判断だったりするのです。
判断が正しいか間違いかは、その行為を行っている最中にはわかりません。行為の結果を見て、その判定をするのです。だから、「正しかった」「間違いだった」と、過去形で言わなくてはなりません。
終わった出来事について判断するのは簡単です。しかし、より正しく生きるためには役に立ちません。必要なのは、行為をする前に「この行為は善い結果を出す」という保証です。行為をする以前に、結果が善くなるか、悪くなるかと判定する方法を仏教で学ばなければいけません。
人は行為をしなくてはいけない。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで行為をしつづけます。物事を理解しようがしまいが、行為をするのです。絶えず起こるこの行為の連続を「生きる」を定義したのです。生きることは、原始脳による存在欲と恐怖感の衝動で起きているのです。
人々は自分の気持ちのままに生きたい、感情を大事に生きたいと思っています。生きていくうえで感情をかきたてるプログラムまで作って実行する。小説を書いたり読んだり、音楽を作ったり聴いたり、料理を研究したり、有名なレストランを探し回ったりすることは、感情をかきたてる行為です。世間はこのような生き方が正常だと思っております。その通りです。みな正常です。誰もが存在欲と恐怖感の言いなりで生きているのです。要するに、感情に支配された生き方をしているということです。
お釈迦さまは、こころの働きを知り尽くしておられますから、「感情を捨てなさい」という直接的な言葉は使われません。実行不可能なことですから。
感情に支配されないためには、こころを徐々に成長させて、智慧を開発していくしかありません。智慧が現れたとは、感情が弱くなり、機能停止するという意味です。智慧が完成したら、感情は存在すらしません。消えるのです。お釈迦さまは、「智慧を育てた人がありのままに現象を観察すると、感情が落ちるのだ」と説かれました。
存在欲と恐怖感を捨てたい、乗り越えたい、という気持ちがあっても、簡単に捨てられないのだと理解しましょう。捨てることはできません。感情のありさまをありのままに知った人のこころから、感情が落ちるのです。捨てたものなら拾うこともできますが、落ちたものはもとに戻りません。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心すれば、智慧が現れ真理に目覚めるのです。真理に興味をもち、真理を楽しむことが重要なのです。そして、真理を喜ぶ人間になることです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば護られるということです。これが妙法の不思議な力なのです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳のなかでも慈悲の功徳は絶大です。慈悲のこころを育てるということは、慈しみを育てることです。具体的には、見返りを求めず、人に善いことをして差し上げる。その方が喜んでいる姿を見て、こころの底から喜べるかどうかです。それができたら慈しみが一つ育ったということです。
お釈迦さまは、「どういう人間になったのか?」ではなく「どういう生き方をしたか?」ということがとても大事だと仰せです。人のためになる人生を目指して、慈しみを育てて、人格を高め精進すれば、〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのであります。
合 掌
雨が降らない空梅雨になると、農家の皆さんは大変なことになります。しかし、降りすぎても不作になる可能性もあります。自然の恵みという適量の雨が一番ありがたいのです。
現在、円安で物価高に悩まされております。海外からの輸入製品も、コスト高で困っております。こんな状況を打破するためには地産地消が一番良いと思います。自給率を上げて日本の一次産業を応援することが、将来の若い人々にとって良い結果をもたらすことと思っております。
昨年五月よりコロナ感染症も五類相当に格下げされ、普段の日常を取り戻すことができました。四月には釈尊降誕祭(花まつり)も開催でき、信者の皆さまとともに誕生日のお祝いができたこと、大変うれしく思います。
一ヵ月早いのですが、五月に岐阜笠松にある教祖・杉山辰子先生の墓前にて読経をさせていただきます。六月には教祖祭を開催致します。多くの信者の皆さまのお参りを、こころよりお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。赴任当時は島田市以東が私の担当エリアとなり一人で活動しておりました。ご存じのように静岡県は東西に百五十五キロと細長い地形をしております。
一人でその約七割をカバーするには距離的に厳しいところもありました。しかし、その翌年から新人一名が配属となり、その後、課長に昇進して、毎年一名の増員がありました。最終的には十名体制となり十分な活動ができるようになりました。
ある年、中途採用でHさんが、静岡医薬課に配属となりました。彼は、二十代後半で、とても優秀な人でした。私は、彼に教えることなど何もありません。私が助言したことは、「拘りをもって、やり遂げること」の一言だけでした。
彼は、「一を聞いて十を知る」ということわざがあるように、とても頭の回転が速く、自分考えて行動できる、そんな器用な人間でした。
このような部下がいると上司としては、とてもありがたいのですが、世の中には、このように任せられる部下とそうでない部下がおります。一から十まで教えてもできない人もいます。
それは、その人の思考能力が停止しているのです。要するに、考える力を養わない習慣を身に着けると、指示待ちの状態で停止してしまうのです。指示が出るまで何もできないようになってしまっているのです。
Hさんのように、頭をフル回転させ、物事の先を見通せるような、「洞察力」を身に着けないといけません。Hさんが、これほど優秀になったのも、いくつかの失敗を経験していることと思います。最初から、すべて完璧にできる人間などおりません。どこかで自分の欠点を発見し、それをクリアしていくという経験がないと、いつまでたっても、考えない、指示待ちの域から脱出できない人間になってしまうのです。
そうならないように、自分の長所短所を早く見つけ出し、いかに短所を長所にできるかという方法に、気づくことが極めて重要なのであります。
さて、仏教の考えでは「まあ、いつ死んでもいい。私は楽しく幸福に生きてみます」という納得に達することは、いたって簡単です。納得に達することができれば、理性が現れて、こころが自由になります。
それはどういうことかといえば、生きていたい、死にたくない、という原始脳の衝動で生きている人々は、生きることのみ意義を認めているのです。だから、死にたくないのです。そこで妄想できる結論は、永遠に生きていられればありがたい、という概念です。
苦を避けて幸福に生きたいと思う人は、いま生きることを観察します。生きることは無常で変化する行為の流れであると発見します。
世間は永遠になる道を探しております。さまざまな妄想概念にしがみつき、その結果、自由を失います。永遠の命を約束する宗教概念は妄想以外の何ものでもありません。
宗教は妄想概念に基づいて現れていますが、人間に仲良く生きること、苦しんでいる人々を助けること、欲、怒りなどを控えること、などなど教えています。このような同毒的な生き方を否定することはできません。永遠の天国はともかく、この教えを守れば、ある程度は楽に生きられるでしょう。
しかし、永遠の天国を説く場合は、永遠の地獄も説かないといけません。いずれも、存在欲と恐怖感に合わせて作り出された妄想概念です。永遠という概念は、原始脳の希望です。大脳を使って客観的に物事を調べれば「永遠」という単語が成り立たないと発見できます。
発見するのは、すべての現象は無常であるということです。永遠の天国も、永遠の地獄も、全知全能の神も成り立たないと発見する人は、理性のある人間です。世間のさまざまな妄想概念に束縛されることから自由になります。
仏教でも、天国(天界)、地獄という言葉があります。しかし、いずれも永遠ではありません。たくさんの次元が存在するという意味です。
天界とは、楽しみが多く苦しみが少ない存在で、地獄界とは、苦しみが多く楽しみがない存在です。人間界は五分五分ではないが苦しみも楽しみもある存在の次元です。しかし、これらのすべてが無常です。生まれたら死ぬという現実は、天界にせよ地獄界にせよ同じです。
理性に基づいて観察しつづけるということは、原始脳の存在欲と恐怖感が長い間活動しないことになります。そのようにする人々は幸福を目指して生きているので、原始脳も反乱しません。「使わないものは壊れていく」というのが法則です。
何かを学ぶためには、繰り返し復習しなくてはなりません。何か能力が身についても、長い間使わないでいると退化しますが、それと同じ現象が脳にも起こります。原始脳の感情がじわじわと退化していくのです。
幸福になることを目的にして生きる。常に、自分の行動が幸福につながるか、それとも苦しみをつくるのかと調べる。不幸になる行為をやめる。幸福になる行為をつづける。目的を決めたら、それを実行しましょう。
この実行とは、物事をありのままに観察することです。そうすれば客観的なデータが揃うので、判断に悩む必要はなくなります。
たとえば、同じ大きさの玉が二つあります。どちらのほうが重いのか、判断しなくてはいけないとしましょう。玉にAとBと名前をつけておきます。手に取ってみる、Aが重いか、Bが重いかと悩みます。左手にとった球が、重く感じるかもしれません。右利きの人なら左手は比較的弱いので、重いと勘違いする恐れもあります。そこで、右手だけで玉を交互にとってみるとしましょう。Aをとって重さを感じる。それからBをとって重さを感じる。正しい答えが出てくるでしょうか?Bをとってみるときは、Aの感触が薄れているし、先にAをとっていたから、手が微妙に疲れています。Bを実際より重く感じるおそれがあります。
これでは正しい結論に達しないでしょう。それで、天秤をもってきて、AとBを入れて調べる。それは客観的な観察です。目の前に正解が表れていますので、結論を導き出す必要さえもないのです。
生きることを客観的に観察する実践を行う人は、このように、人生においていとも簡単に正解を発見するのです。ということは、失敗は極めて少なくなる。これは幸福な生き方ではないでしょうか。
人々はさまざまな行為をする、また、さまざまな行為をやめる。行為をするにもやめるにも、その人が判断しなくてはいけません。当然、判断する本人は自分の判断が正しいという前提でいます。
あえて意図的に間違った判断をすることはありません。客観的に見れば悪い判断であっても、そのとき、本人はそれが正しいと思ってやっているのです。世の中の人間が行っている行為が、すべて正しいということはありません。同じようにすべて間違っているということもありません。そのときどきによって、間違った判断だったり、正しい判断だったりするのです。
判断が正しいか間違いかは、その行為を行っている最中にはわかりません。行為の結果を見て、その判定をするのです。だから、「正しかった」「間違いだった」と、過去形で言わなくてはなりません。
終わった出来事について判断するのは簡単です。しかし、より正しく生きるためには役に立ちません。必要なのは、行為をする前に「この行為は善い結果を出す」という保証です。行為をする以前に、結果が善くなるか、悪くなるかと判定する方法を仏教で学ばなければいけません。
人は行為をしなくてはいけない。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで行為をしつづけます。物事を理解しようがしまいが、行為をするのです。絶えず起こるこの行為の連続を「生きる」を定義したのです。生きることは、原始脳による存在欲と恐怖感の衝動で起きているのです。
人々は自分の気持ちのままに生きたい、感情を大事に生きたいと思っています。生きていくうえで感情をかきたてるプログラムまで作って実行する。小説を書いたり読んだり、音楽を作ったり聴いたり、料理を研究したり、有名なレストランを探し回ったりすることは、感情をかきたてる行為です。世間はこのような生き方が正常だと思っております。その通りです。みな正常です。誰もが存在欲と恐怖感の言いなりで生きているのです。要するに、感情に支配された生き方をしているということです。
お釈迦さまは、こころの働きを知り尽くしておられますから、「感情を捨てなさい」という直接的な言葉は使われません。実行不可能なことですから。
感情に支配されないためには、こころを徐々に成長させて、智慧を開発していくしかありません。智慧が現れたとは、感情が弱くなり、機能停止するという意味です。智慧が完成したら、感情は存在すらしません。消えるのです。お釈迦さまは、「智慧を育てた人がありのままに現象を観察すると、感情が落ちるのだ」と説かれました。
存在欲と恐怖感を捨てたい、乗り越えたい、という気持ちがあっても、簡単に捨てられないのだと理解しましょう。捨てることはできません。感情のありさまをありのままに知った人のこころから、感情が落ちるのです。捨てたものなら拾うこともできますが、落ちたものはもとに戻りません。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説かれました。信じて、信じて、信心すれば、智慧が現れ真理に目覚めるのです。真理に興味をもち、真理を楽しむことが重要なのです。そして、真理を喜ぶ人間になることです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば護られるということです。これが妙法の不思議な力なのです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳のなかでも慈悲の功徳は絶大です。慈悲のこころを育てるということは、慈しみを育てることです。具体的には、見返りを求めず、人に善いことをして差し上げる。その方が喜んでいる姿を見て、こころの底から喜べるかどうかです。それができたら慈しみが一つ育ったということです。
お釈迦さまは、「どういう人間になったのか?」ではなく「どういう生き方をしたか?」ということがとても大事だと仰せです。人のためになる人生を目指して、慈しみを育てて、人格を高め精進すれば、〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのであります。
合 掌
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