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大樹
すばらしき人生140
八月を旧暦で葉月といいます。現在では新暦八月の別名としても用います。葉月の由来は諸説ありますが、木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名です。
今年は例年以上の暑さとなっております。まだまだ暑い日が続きますが、熱中症に気をつけて水分や塩分の補給もしっかりとってください、電気料金も気になりますが、夜間も熱帯夜が続きます。エアコンを使用して対策をとっていただきたいと思います。
日本気象協会によりますと、今年の台風は、日本上陸の可能性が、この八月より増加傾向にあるという発表がありました。その規模も年々巨大化しております。暴風雨に注意して災害にあわないようにしたいものです。
先般の盆施餓鬼先祖大法要会にお参りをいただきありがとうございます。来月は秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭を開催します。ご先祖さまへの感謝と供養を忘れないようにしましょう。
私がサラリーマンのときに、四国の責任者をしておりました。Hさんという部下がおりました。転職して中途社員として活動しておりました。彼は、前向きというタイプではありませんでした。性格も暗く楽しんで仕事しているようには見えませんでした。
私のミッション(使命)は、根暗で後ろ向きな性格を、いかに一人前の営業マンに育てるかという重要な任務でした。
人間は、育った環境で良くも悪くもなります。前の会社の事情を聞くと、あまり良い上司に恵まれてなかったようです。従って、営業の基本から教えなくてはなりませんでした。中堅社員で転職組となると、そう簡単には自分を変えることができません。そこで、まずは、「報・連・相」という、ごく当たり前な仕事を徹底的に教えました。
私に、仕事の内容を報告させ、連絡は、業務やスケジュールなどを他の社員の伝えることです。そして相談は、業務上の不明点や疑問点について上司からのアドバイスを求めることです。この作業を繰り返し実践することです。
また、仕事を楽しんで行うことができない理由を彼から聞き取り調査を行います。何か不満の原因となることが見つかるかもしれません。その理由を確かめたところ、もっと市場が大きいエリアや大学病院を担当したいという希望があったのです。
私は、彼に年間計画を示し、これが達成できたらエリアの見直しと大学病院担当の件、考えると伝えました。
彼は、必死になり、もがき苦しみました。また、仕事を楽しむということが理解できないのは、仕事をやらせられているというように思っていたからです。彼には、発想の転換が必要なのです。仕事をやらせていただく、という気持ちになれば、自然と楽しむことができるようになっていくのです。
彼は納得した様子で、少しずつですが前向きに仕事に取り組むことができるようになったのです。営業の基本である「報・連・相」もできるようになり、仕事の面白さもわかるようになってきたのです。
人間には、仕事の基本というものがなければいけません。そして、将来への夢や希望もなければよい仕事はできません。私と彼との共通のビジョン(展望)がなければ、組織とはいえず、ただの個人商店になってしまいます。
全員が一つの目標に向かって、同じ方向を見て、突き進んでいくことが大事であり、それこそ一枚岩になり目標達成できる、そんな強い組織を構築することがとても大事です。強い組織になれば、どんな難題や逆風があろうとも乗り越えられる力を発揮できるのであります。
さて、仏教はこう言います。「私は幸せになる」と決め、それから、自分のこころを観察するというチェック作業を始めましょう。そのときから人は幸福の道を歩んでいるのです。実践するたびに、充実感と幸福感が得られるのです。なぜなら、原始脳に問題があるからです。原始脳が完全に改良されるまで、チェック作業を進めなくてはいけません。この実践を行う人は、徐々に正しく生きる道を発見していきます。
怒ったらこういうふうにするのだ、嫉妬したらこういうふうにするのだ、憎んだらこういうふうにするのだ、落ち込んだらこういうふうにするのだと、行為と感情の関係がわかっていきます。
たとえば、怒り、嫉妬、憎しみの感情に負ける人間が、嘘をついたり悪口を言ったりするのだ、それによって不幸から不幸へと進むのだとわかるのです。欲に負けたら、盗んだり、よこしまな行為をしたり、横領したりするのだと発見します。悪行為をする人は事実に気づかないので、無知であることも発見します。このような発見は、智慧というのです。
たとえば、「怒ったらおいしいご飯を作って人を接待する」ということは、成り立ちません。恨んだら「その人にお金をあげて助けてあげる」ということもあり得ません。
相手のことを心配すると自分がこのような行為をする。相手のことを恨むとこのような行為をする。このように行為と感情の関係、いわゆる煩悩と行為の関係が観えてきます。これは仏教的にいえば、すごい智慧なのです。
たとえば、人のことを心配するようになる、憐れむようになる。そのときに「私は幸せですか?」と聞いてみると、幸せなのです。自分のことではなく、人のことを心配しても本人が幸せを感じているのです。人を助けたい気持ちになっていると、もうとっくに自分が幸せを感じているのです。
「この気持ちで私は幸せですか?」「はい、幸せです」「この気持ちでいる私は安穏でしょうか?」「はい、安穏です」というふうにチェックを入れてください。
そういうことで、「正しい行為は何であるか」が自分でわかるのです。仏典を読む必要もなくなってしまうし、宗教の必要もなくなってしまいます。ただ自分で「これは善いこと、これは悪いこと」と発見できるようになるのです。自分自身で善悪行為を知っているなんて、すごい智慧ではないでしょうか。
次に、すごいことを発見します。自分自身の幸福のために行っているだけなのに、周りの人々も幸福や安らぎを感じ始めるのです。これも不思議なことです。自利の行為の結果が、利他行為にもなっているのです。
大乗仏教では、修行を自利と利他の二つに分けています。自利的な行為である修行をすることよりは、利他行為のほうが優れていると区別までしています。しかし、お釈迦さまの科学的な実践方法では、自利と利他という分け方はありません。というより、分けることもできないのです。自利行為は利他行為になるし、利他行為は自利行為になります。
正しい実践方法とは、自分のこころにチェックを入れる作業です。「自分が幸せになるのだ」と生きる目的を決めてしまえば、ものの見事に、自分だけじゃなく周りも幸せになっていく。その事実を発見した人には、しっかりとした自信がついてくるのです。
無知のせいで無常たる現象に執着していたことも、執着が不幸をつかさどっていたことも、執着はもともと成り立たないことも発見します。これはどういうことかといいますと、自分の感情にチェックを入れ始めると、怒っている自分、嫉妬している自分、落ち込んでいる自分などの多数の自分がいることに気づきます。それらの一つを示して、「これが自分ですか?」とチェックを入れると、必ず「そうではない」という答えになります。
たとえば、腹を立てて怒っているとします。しかし、「あなたは怒りっぽい性格ですか?」と自分に訊いてみると、そうではないことがわかります。怒らないでいるときも、笑って遊んでいるときも、他人に対して優しい態度をとるときもあります。
自分とは、単一ではなく複数なのです。そのときどきの条件に合わせて「自分」という気持ちが表れるのです。自分一人では、自分の役柄を決めることはできません。さまざまな因縁・条件・環境に対する自分の反応が、その瞬間の自分なのです。場所を変えれば、時間がたてば別人です。チェックを入れる人も人格もその都度変わりますが、不幸になる人格は演じられません。「自分とは一時的なものである」という真理を発見するのです。
生きる目的を変えるまでは、「私は生きていたい」という感情でがんばってきた。しかし、その感情のままに生きたら、人生は悩み・苦しみ・失敗・落ち込みなどの結果で終わるものだと、今はわかっているのです。
では、人間は幸福になりたいのに、なぜ怒り、嫉妬、憎しみなどの感情に負けて大失敗するのでしょうか?なぜ人間関係をこじらせてしまうのでしょうか?なぜ何をやってもスムーズに進まないのでしょうか?
チェックを入れる人は、この答えを見いだします。そうではない人々は、「私」という固定した自分・自我があると思っています。本当は、固定した自分がいるのではなく、無数の自分がその都度その都度現れて消える流れなのです。一般の人々は存在すらしない自分・自我に執着しているのです。
しかし、瞬間にしか存在しない自分に執着するのは無意味です。たとえ執着しても、次の瞬間にあるのは別な自分であり、もとの自分が現れることはありません。これもチェックを入れる人が発見する真理です。
この世の中を見ると問題ばかりです。みんな問題を解決しようと努力はするけど、効果がありません。一つ解決すると、もっと手強い問題が幾つも現れるのです。その犯人は執着です。
無知で、自我という錯覚にさいなまれている私たちは、実体として存在すると勘違いしている自我に執着する。それは危険なことであり不幸の原因です。
たとえば、有名な会社が収支を計算してみたところ利益が上がってないことがわかったとしましょう。有名な会社なので、役員のプライドが高いのです。単純にいえば、自我が強いのです。自我でその現実を発見すると、利益が上がらないことは「問題」として見えます。そこで問題を解決するために、経理部門に粉飾決算を頼むのです。問題は解決し、役員のプライドは保たれました。しかし、その代わりに大変な問題をつくりだしました。新たにつくった問題をどう解決するのでしょうか。
不倫をして、奥さんにばれないようにがんばる人もいます。これは幸福で安穏に生きる道でしょうか?
そうではないのに、みんなやっています。やってはいけないことと知りつつも、やらずにはいられない状態に陥っています。要するにみんな、苦労して不幸の道を歩んでいるのです。その原因は、自我という錯覚に執着することです。しかし、自我を守ろうとするのは無駄な努力です。
では、チェックを入れる人はどうなるでしょうか?複数の自分を発見しているのですから、自我は成り立たない、執着する必要はないとわかっています。そして、「生きていたい」という目的から「幸福になりたい」という目的に変えたことで、新たな真理を覚っていくのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じなさいと説いておられます。信じて、信じて、信心するときに人間は、真理に目覚めるのです。仏教は、まず信じるところから始まります。
常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。つまり、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳を実践することが大事です。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。私たちは慈しみのこころを育てないといけません。具体的には、見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる。その方が喜んでいる姿を見て、こころの底から喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
慈しみが育てば人格が向上します。そうすれば、〝すばらしき人生〞へと運命を変えてい
くことができるのであります。
合 掌
今年は例年以上の暑さとなっております。まだまだ暑い日が続きますが、熱中症に気をつけて水分や塩分の補給もしっかりとってください、電気料金も気になりますが、夜間も熱帯夜が続きます。エアコンを使用して対策をとっていただきたいと思います。
日本気象協会によりますと、今年の台風は、日本上陸の可能性が、この八月より増加傾向にあるという発表がありました。その規模も年々巨大化しております。暴風雨に注意して災害にあわないようにしたいものです。
先般の盆施餓鬼先祖大法要会にお参りをいただきありがとうございます。来月は秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭を開催します。ご先祖さまへの感謝と供養を忘れないようにしましょう。
私がサラリーマンのときに、四国の責任者をしておりました。Hさんという部下がおりました。転職して中途社員として活動しておりました。彼は、前向きというタイプではありませんでした。性格も暗く楽しんで仕事しているようには見えませんでした。
私のミッション(使命)は、根暗で後ろ向きな性格を、いかに一人前の営業マンに育てるかという重要な任務でした。
人間は、育った環境で良くも悪くもなります。前の会社の事情を聞くと、あまり良い上司に恵まれてなかったようです。従って、営業の基本から教えなくてはなりませんでした。中堅社員で転職組となると、そう簡単には自分を変えることができません。そこで、まずは、「報・連・相」という、ごく当たり前な仕事を徹底的に教えました。
私に、仕事の内容を報告させ、連絡は、業務やスケジュールなどを他の社員の伝えることです。そして相談は、業務上の不明点や疑問点について上司からのアドバイスを求めることです。この作業を繰り返し実践することです。
また、仕事を楽しんで行うことができない理由を彼から聞き取り調査を行います。何か不満の原因となることが見つかるかもしれません。その理由を確かめたところ、もっと市場が大きいエリアや大学病院を担当したいという希望があったのです。
私は、彼に年間計画を示し、これが達成できたらエリアの見直しと大学病院担当の件、考えると伝えました。
彼は、必死になり、もがき苦しみました。また、仕事を楽しむということが理解できないのは、仕事をやらせられているというように思っていたからです。彼には、発想の転換が必要なのです。仕事をやらせていただく、という気持ちになれば、自然と楽しむことができるようになっていくのです。
彼は納得した様子で、少しずつですが前向きに仕事に取り組むことができるようになったのです。営業の基本である「報・連・相」もできるようになり、仕事の面白さもわかるようになってきたのです。
人間には、仕事の基本というものがなければいけません。そして、将来への夢や希望もなければよい仕事はできません。私と彼との共通のビジョン(展望)がなければ、組織とはいえず、ただの個人商店になってしまいます。
全員が一つの目標に向かって、同じ方向を見て、突き進んでいくことが大事であり、それこそ一枚岩になり目標達成できる、そんな強い組織を構築することがとても大事です。強い組織になれば、どんな難題や逆風があろうとも乗り越えられる力を発揮できるのであります。
さて、仏教はこう言います。「私は幸せになる」と決め、それから、自分のこころを観察するというチェック作業を始めましょう。そのときから人は幸福の道を歩んでいるのです。実践するたびに、充実感と幸福感が得られるのです。なぜなら、原始脳に問題があるからです。原始脳が完全に改良されるまで、チェック作業を進めなくてはいけません。この実践を行う人は、徐々に正しく生きる道を発見していきます。
怒ったらこういうふうにするのだ、嫉妬したらこういうふうにするのだ、憎んだらこういうふうにするのだ、落ち込んだらこういうふうにするのだと、行為と感情の関係がわかっていきます。
たとえば、怒り、嫉妬、憎しみの感情に負ける人間が、嘘をついたり悪口を言ったりするのだ、それによって不幸から不幸へと進むのだとわかるのです。欲に負けたら、盗んだり、よこしまな行為をしたり、横領したりするのだと発見します。悪行為をする人は事実に気づかないので、無知であることも発見します。このような発見は、智慧というのです。
たとえば、「怒ったらおいしいご飯を作って人を接待する」ということは、成り立ちません。恨んだら「その人にお金をあげて助けてあげる」ということもあり得ません。
相手のことを心配すると自分がこのような行為をする。相手のことを恨むとこのような行為をする。このように行為と感情の関係、いわゆる煩悩と行為の関係が観えてきます。これは仏教的にいえば、すごい智慧なのです。
たとえば、人のことを心配するようになる、憐れむようになる。そのときに「私は幸せですか?」と聞いてみると、幸せなのです。自分のことではなく、人のことを心配しても本人が幸せを感じているのです。人を助けたい気持ちになっていると、もうとっくに自分が幸せを感じているのです。
「この気持ちで私は幸せですか?」「はい、幸せです」「この気持ちでいる私は安穏でしょうか?」「はい、安穏です」というふうにチェックを入れてください。
そういうことで、「正しい行為は何であるか」が自分でわかるのです。仏典を読む必要もなくなってしまうし、宗教の必要もなくなってしまいます。ただ自分で「これは善いこと、これは悪いこと」と発見できるようになるのです。自分自身で善悪行為を知っているなんて、すごい智慧ではないでしょうか。
次に、すごいことを発見します。自分自身の幸福のために行っているだけなのに、周りの人々も幸福や安らぎを感じ始めるのです。これも不思議なことです。自利の行為の結果が、利他行為にもなっているのです。
大乗仏教では、修行を自利と利他の二つに分けています。自利的な行為である修行をすることよりは、利他行為のほうが優れていると区別までしています。しかし、お釈迦さまの科学的な実践方法では、自利と利他という分け方はありません。というより、分けることもできないのです。自利行為は利他行為になるし、利他行為は自利行為になります。
正しい実践方法とは、自分のこころにチェックを入れる作業です。「自分が幸せになるのだ」と生きる目的を決めてしまえば、ものの見事に、自分だけじゃなく周りも幸せになっていく。その事実を発見した人には、しっかりとした自信がついてくるのです。
無知のせいで無常たる現象に執着していたことも、執着が不幸をつかさどっていたことも、執着はもともと成り立たないことも発見します。これはどういうことかといいますと、自分の感情にチェックを入れ始めると、怒っている自分、嫉妬している自分、落ち込んでいる自分などの多数の自分がいることに気づきます。それらの一つを示して、「これが自分ですか?」とチェックを入れると、必ず「そうではない」という答えになります。
たとえば、腹を立てて怒っているとします。しかし、「あなたは怒りっぽい性格ですか?」と自分に訊いてみると、そうではないことがわかります。怒らないでいるときも、笑って遊んでいるときも、他人に対して優しい態度をとるときもあります。
自分とは、単一ではなく複数なのです。そのときどきの条件に合わせて「自分」という気持ちが表れるのです。自分一人では、自分の役柄を決めることはできません。さまざまな因縁・条件・環境に対する自分の反応が、その瞬間の自分なのです。場所を変えれば、時間がたてば別人です。チェックを入れる人も人格もその都度変わりますが、不幸になる人格は演じられません。「自分とは一時的なものである」という真理を発見するのです。
生きる目的を変えるまでは、「私は生きていたい」という感情でがんばってきた。しかし、その感情のままに生きたら、人生は悩み・苦しみ・失敗・落ち込みなどの結果で終わるものだと、今はわかっているのです。
では、人間は幸福になりたいのに、なぜ怒り、嫉妬、憎しみなどの感情に負けて大失敗するのでしょうか?なぜ人間関係をこじらせてしまうのでしょうか?なぜ何をやってもスムーズに進まないのでしょうか?
チェックを入れる人は、この答えを見いだします。そうではない人々は、「私」という固定した自分・自我があると思っています。本当は、固定した自分がいるのではなく、無数の自分がその都度その都度現れて消える流れなのです。一般の人々は存在すらしない自分・自我に執着しているのです。
しかし、瞬間にしか存在しない自分に執着するのは無意味です。たとえ執着しても、次の瞬間にあるのは別な自分であり、もとの自分が現れることはありません。これもチェックを入れる人が発見する真理です。
この世の中を見ると問題ばかりです。みんな問題を解決しようと努力はするけど、効果がありません。一つ解決すると、もっと手強い問題が幾つも現れるのです。その犯人は執着です。
無知で、自我という錯覚にさいなまれている私たちは、実体として存在すると勘違いしている自我に執着する。それは危険なことであり不幸の原因です。
たとえば、有名な会社が収支を計算してみたところ利益が上がってないことがわかったとしましょう。有名な会社なので、役員のプライドが高いのです。単純にいえば、自我が強いのです。自我でその現実を発見すると、利益が上がらないことは「問題」として見えます。そこで問題を解決するために、経理部門に粉飾決算を頼むのです。問題は解決し、役員のプライドは保たれました。しかし、その代わりに大変な問題をつくりだしました。新たにつくった問題をどう解決するのでしょうか。
不倫をして、奥さんにばれないようにがんばる人もいます。これは幸福で安穏に生きる道でしょうか?
そうではないのに、みんなやっています。やってはいけないことと知りつつも、やらずにはいられない状態に陥っています。要するにみんな、苦労して不幸の道を歩んでいるのです。その原因は、自我という錯覚に執着することです。しかし、自我を守ろうとするのは無駄な努力です。
では、チェックを入れる人はどうなるでしょうか?複数の自分を発見しているのですから、自我は成り立たない、執着する必要はないとわかっています。そして、「生きていたい」という目的から「幸福になりたい」という目的に変えたことで、新たな真理を覚っていくのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じなさいと説いておられます。信じて、信じて、信心するときに人間は、真理に目覚めるのです。仏教は、まず信じるところから始まります。
常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。つまり、いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳を実践することが大事です。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。私たちは慈しみのこころを育てないといけません。具体的には、見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる。その方が喜んでいる姿を見て、こころの底から喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
慈しみが育てば人格が向上します。そうすれば、〝すばらしき人生〞へと運命を変えてい
くことができるのであります。
合 掌
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