世界平和を
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大樹
すばらしき人生142
日本では旧暦の十月を神無月と呼び、新暦の別名としても用います。由来は出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月で神無月といわれております。
今年の夏は猛暑の連続で熱中症の患者さんも多く出ました。気象庁は今夏(六月から八月)の全国の平均気温を平年と比べプラス一・七六度で昨年と同様に最も高かったと発表しております。このままの状態で十年経過したらどうなっているのか想像もつきません。至急温暖化対策が必要となってまいります。
また、今年の台風は風速六十五メートルと過去にない大型の台風が発生しております。これも海面水温が高いため勢力が強くなり被害も多く出ております。ハザードマップを日頃より確認をして準備することがとても重要となります。自分の身は自分で守ることを年頭に対策することです。
先般の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭には多くの信者さまのご参詣ありがとうございました。十一月は立教五十一年祭を開催いたします。多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。私が赴任したときには、Yさんは中堅社員として活躍しておりました。
彼は、京都の国立大学を卒業されとても頭の良い人でした。性格も明るく人当たりの良さもありました。そういう彼にも問題点はありました。仕事に対するプライドを持つことはとても大事なことですが、彼はプライドというか頭が良いことで、相手を見下す傾向がありました。私たちに対しても、私はK大学出身のエリートだという傲慢な一面もありました。
彼は、香川県の国立大学医学部付属病院を担当しておりました。営業マンとして活躍するためには、国立大学付属病院を担当することがステータス(社会的地位)となっております。大学ではI教授が最重要顧客でした。
私が同行して病院を訪問したとき、彼はI教授に対して上から目線という態度で接客していたのです。その姿を見て最悪のケースにならないように、私は、彼のプライドを傷つけないように指導しないと、彼は問題を起こしてしまう危険性がありました。
私は思い悩み、先生を手車に乗せる方法を伝授したのです。それは、もう一度I先生を徹底的に分析して、先生が目指す医療は何なのか?先生の将来は何を目指すのか?研究に没頭するのか?学長を目指すのか?を調査させました。結局、I先生は患者さまのために医療を促進し、病診連携をしたいという構想をお持ちでした。
私は、I教授を講師として地域の開業医の先生を集めて糖尿病の小グループ勉強会を提案したらどうかと、彼を説得しました。
早速、彼はI教授に病診連携の糖尿病小グループ勉強会を立ち上げて、全国的に先生をバックアップしますから開催しましょうと持ちかけました。もちろん、高飛車にならずに、低姿勢で先生に対応するように厳しく指導しました。その結果、I教授を講師として勉強会を開催することが決まったのです。
ビジネスというものは、下手に出て初めて対等な環境が整うのです。Yさんが学んだことは、顧客に対する接客態度と、先生が希望していること、将来の夢を実現できることのお手伝いができたことが今後の活動で十分な成果が得られたことと確信しております。
さて、仏教の話になりますが、人間の脳は節約上手な臓器なのです。たとえば、人に悪い癖があるとしましょう。神経細胞を使って、回路が出来上がっているのです。その人が、自分の悪い癖を良い癖で置き換えるときは、どうすればいいでしょうか?
良いと悪いとでは、かなり違う現象に見えますが、コインの裏と表のようなものです。怒る人は、他人に優しく振る舞う訓練をする。どちらにしても、他人に対する自分の反応なので、怒ることも優しくすることも、コインの裏と表なのです。
訓練を始めたら、いま使っている回路は使わないことになります。別な脳細胞を使って、少々考えて判断して、少々無理をして、他人に優しい態度を取るようにするのです。すると、他人に優しく振る舞う回路が徐々に表れてきます。
そこで脳は、隣り合わせにある、いま使っていない神経細胞も新たな回路に取り入れます。要するに、怒りの反応を起こす回路にあった神経細胞を、他人に優しい反応をする回路に使うことにしたのです。神経細胞は大脳の中にたくさんあるのに、ここでも脳は節約しようとします。
結果として、他人に対して怒る回路が、壊れてしまうか、うまく機能しない状態に衰えていきます。そうなると、怒りっぽい人格が優しい人格に変わります。
私たちが、悪い癖を直そうと励めば、この脳の節約癖が働くことで、本当に良い癖がいっぱいある良い人間に変わるのです。
「善と悪はコインの裏と表のようなものです」嘘をつくことは悪、事実を語ることが善。欲張ることが悪、施しが善。嫉妬は悪、他人の能力を喜ぶことが善。これらの悪行為に対して、正反対な善行為があることがわかります。しかし、機能としては似ているのです。
たとえば、他人に自分より能力があるとしましょう。自分より見た目が良い、自分よりスマート、自分より仕事が早い、自分より話が上手、などなどです。
これに、嫉妬という悪の反応が起こる場合、脳に嫉妬する回路ができているのです。では、その癖を直してみましょう。自分より相手に能力があることを発見したとき、素直に認めます。褒めてあげる、評価するなど、相手の能力に対して喜びを感じてください。
嫉妬の癖があるので難しい作業だと思います。しかし、脳の中で嫉妬するか、嫉妬しないで喜びを感じるか、ということは同じ場所で行わなくてはいけないのです。
そうすると、嫉妬の回路の隣り合わせに、他人の能力を喜ぶ・認める回路が現れてきます。正反対の機能だから、喜ぶ回路を機能させると、脳は嫉妬の回路をスイッチオフにします。繰り返し訓練すると、その脳細胞も自分の毎日使う新たな回路につなげます。
結果として、嫉妬が消えた、他人の能力の素直に認められる明るい人間になります。善と悪は対照的です。悪い癖を直そうとする場合、この性質が役に立ちます。この性質があるから、新しい回路を作ることができるのです。
人には「過去生」から持ってる癖もあります。それは、先祖代々、遺伝的に受け継いだ癖のことではありません。生命は輪廻転生しますが、その過程で、こころにさまざまな癖がつくのです。
別なところにいた生命が死んで、ここで新たな生をつくります(輪廻転生)。人間の細胞はこころの住処であり、どんな住処になるかということは、そちらに住むこころの「業」というエネルギーによって変わります。ときにより、住み心地のいい住処になったり、自由に使えない住処になったりもします。
脳もこの住処の一部です。原始脳は存在欲と恐怖感をつかさどる場所ですが、その感情の強弱と働き方は、こころの業のエネルギーによります。業と癖は深い関係にあり、癖になったら、業に結果を出すことはたやすいのです。
母胎の中で原始脳が構成されるとき、貪・瞋・痴の感情にも癖が入ります。だから、人は生まれたときすでに自分の性格を持っているのです。赤ちゃんにも性格があります。しかし、その性格はとてもシンプルです。存在欲と恐怖感をどのように表すのか、ということです。よく泣く子も、よく笑う子もいます。たまにしか笑わない子もいます。何をしてあげても不機嫌な子もいます。育児ストレスになるほど手のかかる子もいます。放っておいても成長する子もいます。
このような癖は、大脳を開発する過程で変わりますが、大胆に変わることはありません。ということは、赤ちゃんのときに会ったパターンは微妙に残っているのです。ただ、過去生から脳にインプット(入力)される癖は、どうしようもありません。社会が認める癖も、認めない癖もあります。私たちはその癖が悪行為にならないように、大脳からの回路をつくらなくてはいけないというだけです。
お釈迦さまは「慚愧は世を守っている」のだと説かれています。慚愧は、車の車軸止めのように働いて、社会を守ります。人間のこころに慚愧があるから、この世界は安全なのです。もしだれかが、反社会的な行為をしたり、罪を犯したりすれば、その人のこころに慚愧が機能していないのです。車軸止めが抜けてしまった状態といえます。
慚は、恥を感じるという意味です。「罪を犯すこと、社会が認めないことと、常識から外れたことをやるのは恥ずかしい」という意味になります。
言葉を変えると、「恥ずかしい」のは一人の個人としてのプライドがあるからです。このプライドはエゴではありません。個人の尊厳です。
人間は原始脳の衝動で大脳を働かせて生きているから、自分の存在を応援することなら何も躊躇もなくやるはずです。自分の存在を脅かすものなら、何も躊躇もなくそれを壊すはずです。楽に生きられるのであれば悪いことをしてもいいのに「恥ずかしい、そんなことはできません」ろ思ってやめるとき、何が何でも生きてみる、という原始脳の機能が抑えられます。プライドという個人の尊厳が割り込んでくるのです。
私たちはみな、自分の尊厳を大事にして、よい意味でのプライドを持っていれば、悪いことをしない、できない、そんな気にならない人間になるのです。
愧は「怖い」という意味です。恐怖感は原始脳の感情ですが、「愧」はそれとは違います。原始脳が引き起こす「怖い」という感情は、怒り、憎しみ、怨み、闘争心、臆病なこころに変わりますが、それらは精神の病のたぐいです。
罪を犯すのが怖いと感じることは、愧です。悪を犯したら社会常識を破ったら、社会の批判を受け、裁かれ、自分の立場がなくなります。怖いから悪行為をしないのですが、それも言葉を変えればプライドです。自分の尊厳が否定されることに怯えて、悪いことをやめるのです。たとえ原始脳が「やれ!やれ!」と刺激しても、怯えを感じてやめるので自分の尊厳は守られます。
従って、もし「やめたい/やめられない」という問題で曖昧な気持ちに陥ったら、個人の尊厳が否定されないような態度を取ればいいのです。人々が慚愧を大事にすれば、この世の中は、よい世界になります。いまの世の中を見ても、犯罪を犯す人々の数は多くはありません。社会常識を守って、平和に生きようとする人々の数が圧倒的に多いです。それは人のこころに慚愧が働いているからです。
もし人が、慚愧に気づいてそれをより強くしようと思えば、他人が見ていなくても悪いことはしない人間になります。みんながそれを実行すれば、この世の中はいっそう良くなってまいります。この世の中が平和になることを切に願っております。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。私たちは、妙法を信じて、信じて、信心するときに真理に目覚めるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。慈しみを育てるには、こころを育てないといけません。具体的には、見返りを求めずに人さまに良いことをしてさしあげる。その方が喜ぶ姿を見て素直にこころの底から喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
この法華経は、自らの手で、努力して、精進すれば必ず幸せをいただける、と説かれております。法華経に縁がなければ永遠に巡り合うことはないでしょう。しかし、私たちは、幸運にも縁があったから、この教えを素直に聞けるのです。
人間の一生は長くても百年です。それまでの間どうすれば自分を高めることができるのか、どうすれば幸せになれるのかを考えなくてはいけません。大いに人格を高め、何事にも負けない強いこころをつくることが、〝すばらしき人生〞へと繋がってまいります。
合 掌
今年の夏は猛暑の連続で熱中症の患者さんも多く出ました。気象庁は今夏(六月から八月)の全国の平均気温を平年と比べプラス一・七六度で昨年と同様に最も高かったと発表しております。このままの状態で十年経過したらどうなっているのか想像もつきません。至急温暖化対策が必要となってまいります。
また、今年の台風は風速六十五メートルと過去にない大型の台風が発生しております。これも海面水温が高いため勢力が強くなり被害も多く出ております。ハザードマップを日頃より確認をして準備することがとても重要となります。自分の身は自分で守ることを年頭に対策することです。
先般の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭には多くの信者さまのご参詣ありがとうございました。十一月は立教五十一年祭を開催いたします。多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。私が赴任したときには、Yさんは中堅社員として活躍しておりました。
彼は、京都の国立大学を卒業されとても頭の良い人でした。性格も明るく人当たりの良さもありました。そういう彼にも問題点はありました。仕事に対するプライドを持つことはとても大事なことですが、彼はプライドというか頭が良いことで、相手を見下す傾向がありました。私たちに対しても、私はK大学出身のエリートだという傲慢な一面もありました。
彼は、香川県の国立大学医学部付属病院を担当しておりました。営業マンとして活躍するためには、国立大学付属病院を担当することがステータス(社会的地位)となっております。大学ではI教授が最重要顧客でした。
私が同行して病院を訪問したとき、彼はI教授に対して上から目線という態度で接客していたのです。その姿を見て最悪のケースにならないように、私は、彼のプライドを傷つけないように指導しないと、彼は問題を起こしてしまう危険性がありました。
私は思い悩み、先生を手車に乗せる方法を伝授したのです。それは、もう一度I先生を徹底的に分析して、先生が目指す医療は何なのか?先生の将来は何を目指すのか?研究に没頭するのか?学長を目指すのか?を調査させました。結局、I先生は患者さまのために医療を促進し、病診連携をしたいという構想をお持ちでした。
私は、I教授を講師として地域の開業医の先生を集めて糖尿病の小グループ勉強会を提案したらどうかと、彼を説得しました。
早速、彼はI教授に病診連携の糖尿病小グループ勉強会を立ち上げて、全国的に先生をバックアップしますから開催しましょうと持ちかけました。もちろん、高飛車にならずに、低姿勢で先生に対応するように厳しく指導しました。その結果、I教授を講師として勉強会を開催することが決まったのです。
ビジネスというものは、下手に出て初めて対等な環境が整うのです。Yさんが学んだことは、顧客に対する接客態度と、先生が希望していること、将来の夢を実現できることのお手伝いができたことが今後の活動で十分な成果が得られたことと確信しております。
さて、仏教の話になりますが、人間の脳は節約上手な臓器なのです。たとえば、人に悪い癖があるとしましょう。神経細胞を使って、回路が出来上がっているのです。その人が、自分の悪い癖を良い癖で置き換えるときは、どうすればいいでしょうか?
良いと悪いとでは、かなり違う現象に見えますが、コインの裏と表のようなものです。怒る人は、他人に優しく振る舞う訓練をする。どちらにしても、他人に対する自分の反応なので、怒ることも優しくすることも、コインの裏と表なのです。
訓練を始めたら、いま使っている回路は使わないことになります。別な脳細胞を使って、少々考えて判断して、少々無理をして、他人に優しい態度を取るようにするのです。すると、他人に優しく振る舞う回路が徐々に表れてきます。
そこで脳は、隣り合わせにある、いま使っていない神経細胞も新たな回路に取り入れます。要するに、怒りの反応を起こす回路にあった神経細胞を、他人に優しい反応をする回路に使うことにしたのです。神経細胞は大脳の中にたくさんあるのに、ここでも脳は節約しようとします。
結果として、他人に対して怒る回路が、壊れてしまうか、うまく機能しない状態に衰えていきます。そうなると、怒りっぽい人格が優しい人格に変わります。
私たちが、悪い癖を直そうと励めば、この脳の節約癖が働くことで、本当に良い癖がいっぱいある良い人間に変わるのです。
「善と悪はコインの裏と表のようなものです」嘘をつくことは悪、事実を語ることが善。欲張ることが悪、施しが善。嫉妬は悪、他人の能力を喜ぶことが善。これらの悪行為に対して、正反対な善行為があることがわかります。しかし、機能としては似ているのです。
たとえば、他人に自分より能力があるとしましょう。自分より見た目が良い、自分よりスマート、自分より仕事が早い、自分より話が上手、などなどです。
これに、嫉妬という悪の反応が起こる場合、脳に嫉妬する回路ができているのです。では、その癖を直してみましょう。自分より相手に能力があることを発見したとき、素直に認めます。褒めてあげる、評価するなど、相手の能力に対して喜びを感じてください。
嫉妬の癖があるので難しい作業だと思います。しかし、脳の中で嫉妬するか、嫉妬しないで喜びを感じるか、ということは同じ場所で行わなくてはいけないのです。
そうすると、嫉妬の回路の隣り合わせに、他人の能力を喜ぶ・認める回路が現れてきます。正反対の機能だから、喜ぶ回路を機能させると、脳は嫉妬の回路をスイッチオフにします。繰り返し訓練すると、その脳細胞も自分の毎日使う新たな回路につなげます。
結果として、嫉妬が消えた、他人の能力の素直に認められる明るい人間になります。善と悪は対照的です。悪い癖を直そうとする場合、この性質が役に立ちます。この性質があるから、新しい回路を作ることができるのです。
人には「過去生」から持ってる癖もあります。それは、先祖代々、遺伝的に受け継いだ癖のことではありません。生命は輪廻転生しますが、その過程で、こころにさまざまな癖がつくのです。
別なところにいた生命が死んで、ここで新たな生をつくります(輪廻転生)。人間の細胞はこころの住処であり、どんな住処になるかということは、そちらに住むこころの「業」というエネルギーによって変わります。ときにより、住み心地のいい住処になったり、自由に使えない住処になったりもします。
脳もこの住処の一部です。原始脳は存在欲と恐怖感をつかさどる場所ですが、その感情の強弱と働き方は、こころの業のエネルギーによります。業と癖は深い関係にあり、癖になったら、業に結果を出すことはたやすいのです。
母胎の中で原始脳が構成されるとき、貪・瞋・痴の感情にも癖が入ります。だから、人は生まれたときすでに自分の性格を持っているのです。赤ちゃんにも性格があります。しかし、その性格はとてもシンプルです。存在欲と恐怖感をどのように表すのか、ということです。よく泣く子も、よく笑う子もいます。たまにしか笑わない子もいます。何をしてあげても不機嫌な子もいます。育児ストレスになるほど手のかかる子もいます。放っておいても成長する子もいます。
このような癖は、大脳を開発する過程で変わりますが、大胆に変わることはありません。ということは、赤ちゃんのときに会ったパターンは微妙に残っているのです。ただ、過去生から脳にインプット(入力)される癖は、どうしようもありません。社会が認める癖も、認めない癖もあります。私たちはその癖が悪行為にならないように、大脳からの回路をつくらなくてはいけないというだけです。
お釈迦さまは「慚愧は世を守っている」のだと説かれています。慚愧は、車の車軸止めのように働いて、社会を守ります。人間のこころに慚愧があるから、この世界は安全なのです。もしだれかが、反社会的な行為をしたり、罪を犯したりすれば、その人のこころに慚愧が機能していないのです。車軸止めが抜けてしまった状態といえます。
慚は、恥を感じるという意味です。「罪を犯すこと、社会が認めないことと、常識から外れたことをやるのは恥ずかしい」という意味になります。
言葉を変えると、「恥ずかしい」のは一人の個人としてのプライドがあるからです。このプライドはエゴではありません。個人の尊厳です。
人間は原始脳の衝動で大脳を働かせて生きているから、自分の存在を応援することなら何も躊躇もなくやるはずです。自分の存在を脅かすものなら、何も躊躇もなくそれを壊すはずです。楽に生きられるのであれば悪いことをしてもいいのに「恥ずかしい、そんなことはできません」ろ思ってやめるとき、何が何でも生きてみる、という原始脳の機能が抑えられます。プライドという個人の尊厳が割り込んでくるのです。
私たちはみな、自分の尊厳を大事にして、よい意味でのプライドを持っていれば、悪いことをしない、できない、そんな気にならない人間になるのです。
愧は「怖い」という意味です。恐怖感は原始脳の感情ですが、「愧」はそれとは違います。原始脳が引き起こす「怖い」という感情は、怒り、憎しみ、怨み、闘争心、臆病なこころに変わりますが、それらは精神の病のたぐいです。
罪を犯すのが怖いと感じることは、愧です。悪を犯したら社会常識を破ったら、社会の批判を受け、裁かれ、自分の立場がなくなります。怖いから悪行為をしないのですが、それも言葉を変えればプライドです。自分の尊厳が否定されることに怯えて、悪いことをやめるのです。たとえ原始脳が「やれ!やれ!」と刺激しても、怯えを感じてやめるので自分の尊厳は守られます。
従って、もし「やめたい/やめられない」という問題で曖昧な気持ちに陥ったら、個人の尊厳が否定されないような態度を取ればいいのです。人々が慚愧を大事にすれば、この世の中は、よい世界になります。いまの世の中を見ても、犯罪を犯す人々の数は多くはありません。社会常識を守って、平和に生きようとする人々の数が圧倒的に多いです。それは人のこころに慚愧が働いているからです。
もし人が、慚愧に気づいてそれをより強くしようと思えば、他人が見ていなくても悪いことはしない人間になります。みんながそれを実行すれば、この世の中はいっそう良くなってまいります。この世の中が平和になることを切に願っております。
教祖・杉山辰子先生は妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。私たちは、妙法を信じて、信じて、信心するときに真理に目覚めるのです。そして、常住坐臥いついかなるときも、妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。三徳の中でも慈悲の功徳は絶大です。慈しみを育てるには、こころを育てないといけません。具体的には、見返りを求めずに人さまに良いことをしてさしあげる。その方が喜ぶ姿を見て素直にこころの底から喜べるかどうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
この法華経は、自らの手で、努力して、精進すれば必ず幸せをいただける、と説かれております。法華経に縁がなければ永遠に巡り合うことはないでしょう。しかし、私たちは、幸運にも縁があったから、この教えを素直に聞けるのです。
人間の一生は長くても百年です。それまでの間どうすれば自分を高めることができるのか、どうすれば幸せになれるのかを考えなくてはいけません。大いに人格を高め、何事にも負けない強いこころをつくることが、〝すばらしき人生〞へと繋がってまいります。
合 掌
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