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大樹
すばらしき人生144
今年一年、信者の皆さまには、大変お世話になりありがとうございました。無事、立教五十一年祭を迎えることができました。こころより感謝しております。ありがとうございました。
振り返ると、元旦に能登半島大地震があり、大変な年が始まりました。夏には、猛暑日を更新する暑さの連続でした。台風も数多く発生しましたが、今年の特長は雨台風が多かったように思います。能登半島も台風で線状降水帯による記録的な雨により被害も出ました。こう考えると、日本は地震も多く水害被害が多い国であることがわかります。
私たちができることは、ハザードマップや防災グッズや避難場所を押さえておくことが重要となります。家族との待ち合わせや、連絡方法の確保が重要となります。備えあれば憂いなしということです。
今月は開祖・榊原法公大菩薩十四回忌の法要会(開祖祭)を開催いたします。多くの信者さまのご参詣をお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。香川県に勤務しているTさんは、若いのにとても優秀でした。入社四年目なのですがすでに頭角を現しておりました。彼の上司のK課長は私と同級生でした。彼は、いつも私に対して反抗的な態度で接してきました。
会議などで、いろんな意見を聞き、チームが一丸となって目標を達成できるよう計画を立てますが、彼はいつも反対の意見を言うのです。なぜ彼が、チームをまとめようとしたくないのか、同級生だから嫌がらせをしているのか、本心はわかりません。
私が、彼にヒヤリング(聞き取り調査)したところ、強い上昇志向があり、現在の課長職には満足していないということがわかりました。こういう問題を抱えていると売り上げ達成には程遠い状況となります。
問題点がわかったので、K課長をモチベーション(意識改革)しないと、全体に悪い影響が出てしまうと考えました。そこで、次期支店長候補はK課長であると、明確に示す必要があったのです。
私の仕事を彼に一部を任せる戦術をとりました。すると彼は、やる気が出たのか、素直になり、ガンガン仕事をするようになったのです。もともと彼は、前向きに捉えるという素質があったのです。
人間には褒めて育つタイプと自分で勝手に育つタイプがあります。また、何をやってもダメなタイプもあります。しかし、個人個人の目指している理想像はそれぞれあるのです。そこをいかに理解して、明確にして、その人に合った指導をしないといけません。
また、優秀なTさんには、香川県の大学病院を担当してもらうことにしました。彼を育てたK課長も自分の部下が大学病院を担当することに誇りを感じるでしょう。要するに、一石二鳥ということになります。
そして、Tさんには、将来、首都圏で活躍できるよう、更なるスキル(能力)を高めるべきプログラムをつくり指導したのです。部下と将来の夢や希望を語りながら、自己実現できるように助言することで、その可能性を掴むチャンスも出てきます。
どんな仕事も大変だと思います。しかし、中途半端に仕事をして、給料泥棒のような感じで働くよりも、精一杯、頑張って、自分の力をフルに出し切れば、たとえ失敗しようと悔いは残りません。万が一、失敗したら、反省して、そこから這い上がって、再チャレンジすれば必ず成功へと導いてくれるのであります。
さて、仏教的に考えますと、私たちは、生きるために大脳を使っていますが、それだけでは足りません。大脳が原始脳の指導で活動しているからです。要するに、貪・瞋・痴の感情が人生を支配しているのです。この感情の指令は正しくありません。
デパートでダイヤのネックレスが目に入る。感情にスイッチが入る。欲しい、欲しいと思うことになる。では感情に負けて、ショーケースのガラスを割ってネックレスを取っていいのでしょうか?
自分の経済状態は、ダイヤのネックレスを着けるレベルではないと理性で判断しなくてはいけません。このように、何かをするときも大脳を中心にしてみましょう。そうすれば、簡単にやめるべきことはやめ、やるべきことはやれるのです。
とはいっても、大脳は入るデータ(情報)しだいで判断するので、いつでも正しい判断ができるとは限りません。それが普通です。
人間には、すべてのデータを調べることはできません。入ったデータに基づいて行う判断は、正しい判断になりますが、感情で行う判断は決まって間違いです。その正しい判断も、客観的に第三者が調べると「悪くないが、もっと頑張ったほうが良かった」と言われるかもしれません。良いと思って判断しても、社会の評価はそんなものです。しかし、本人の大脳はベストだと思っているのです。
「誘惑に負けない」と決意しましょう。そうすれば、一般的にプライドと言われる個人の尊厳が働きだし、簡単に悪いことをやめられます。
次に責任を持つ人間になります。そもそも人間は責任逃れが好きなのです。しかし、それは情けない生き方なのです。理性で考えてみましょう。自分のやっていることのすべては、自分の意思でやっている。自分がやめていることのすべても、自分の意思でやめているのです。自分の意思に反する行為はできません。
では、脅されたとしましょう。確かに、脅されたら、やりたくないこともやります。やめるべきこともやります。そのときであっても、自分の脳(こころ)は、「やります」という意欲をつくっているのです。
少々、極端な例ですが、強盗が包丁を突きつけて財布を出せと言ったら、自分の意思で、財布を出すのです。出したくないと抵抗したら、包丁で刺されて死ぬかもしれません。結局、財布は取られるので、それなら財布を出して命を守ったほうが良いでしょう。というわけで、極端な場合であっても、行為は自分の責任です。
「やめること」と「やること」は、いつでも三日坊主になってしまうのが普通です。なぜなら、本気ではないからです。みんなに言われるから、やろうとしているだけです。または「こうすればいいのでは」という中途半端な気持ちでしようとしているだけです。まとめて言えば、意欲が足りません。
意欲は好き勝手に上げたり下げたりすることはできませんが、意欲を上げ、やる気を起こす方法はあります。それは「挑戦が楽しい」と大脳に言い聞かせることです。
まず、簡単な出来事に挑戦します。うまくいったと喜んでみます。それから、別なことにも挑戦して、うまくいったと脳に喜びのデータをインプット(入力)します。
失敗するに決まっているような、大胆なことに挑戦しないほうが良いでしょう。失敗してしまったら、脳は喜べず、萎縮してしまいます。
だから、まずは日常生活でふだん行わない何かに挑戦して、成功させます。そうすると脳は、成功するか失敗するかに関係なく、何かに挑戦することが楽しみだと思う回路をつくるのです。
実は、人生もすべて、挑戦の流れなのです。子供の生き方を観察するとわかりますが、子供にとっては、どんなことでも挑戦です。簡単なことをやって「やった、できた」と大騒ぎして喜んでいます。子供は本能的に脳を開発する仕方を知っていますが、大人になっていく過程でそれを忘れてしまうのです。
人生は挑戦です。挑戦は楽しいのです。人生が成功するか失敗するかは、関係ないのです。挑戦が楽しいと思う人にとって、やるべきことは挑戦なのです。だから、やるのです。やめるべきことも挑戦なのです。誘惑に勝って、やめるべきことはやめるべきです。
多くの人は幸福を間違って理解しています。刺激を受けて快楽を感じることが幸福だと思っているのです。勉強ができれば幸福、いい仕事に就ければ幸福、貯蓄があれば幸福、マイホームがあれば幸福、などなど幸福のリストがあります。
みんなのリストは似ているように見えますが、この幸福リストは一致しません。人にはそれぞれ自分なりの幸福リストがあります。もし、その幸福が正しく、本物であれば、すべての生き物に対して同じものになります。
仏教の論理に基づいていうなら、「生きることは苦」です。その苦を乗り越えることが真の幸福です。苦しみを味わうと、さらに苦しく嫌な気持ちになります。
さまざまな出来事に対応できなくなったら、挑戦することができなくなったら、落ち込んで悩みます。それも本来「苦」である生き方から、新たな苦をつくることになります。
「幸福はやすらぎ」「こころの安穏」「こころの平安」「こころが揺らがないこと」この幸福を目指すことです。富豪になっても、こころの安らぎがなければ不幸なのです。たとえ貧乏であっても、こころの安らぎがあれば幸福です。
原始脳の刺激である存在欲と恐怖感に対応する生き方では、幸福・やすらぎ・安穏は得られません。生きていたいと思うたびに、トラブルが続きます。恐怖感にさいなまれるたびに、トラブルが起きます。それから、悩み苦しみが現れます。
生きていたいという希望は、絶対的に叶わない希望です。それに挑戦することで不幸になるのは、当然の結果です。
外の世界の出来事を知って、判断して、行動して生きる作業をするのは大脳ですが、大脳は原始脳の奴隷です。人を奴隷にして仕事をさせたら、その人が気持ちよく仕事をしないのは当たり前です。隙を見つけるたびに仕事をサボります。大脳を原始脳から解放しましょう。こころが安穏に達するように、やすらぎを感じられるように大脳を使いましょう。
貪・瞋・痴の誘惑に負けると、刺激があっても安らぎは感じません。感情に勝った瞬間で、強い安らぎを感じるのです。充実感も得られるのです。ほんのわずかなことでも良いので、感情の誘惑に勝つことを実験してみましょう。
たとえば、タバコを一日四十本吸う人が、一日だけ十本にするように挑戦します。成功したら、ニコチン中毒の苦しみがあっても「よくやった、成功した」という安らぎが生まれます。
これは大胆な例ですが、各個人に自分の誘惑パターンがありますから、その中から一つを選んで、貪・瞋・痴を抑制する挑戦をするのです。それで真の幸福の世界を見ることができるのです。そして、ひたすらその道を進めば良いのです。
教祖・杉山辰子先生は、妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。まずは深く信じることです。妙法を信じて、信じて、信心して初めて、真理に目覚めるのです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えるときに功徳があるのです。唱えていれば不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
教祖さまの語録に「悲しむ人はこころから慰め労り、飢えた人には食を与え、寒さに震える人には衣類を施す等、人の喜ぶこと、人の便利を図ること、他人が見ておろうが見ていないに拘わらす、一生懸命に実行せられ陰徳を積んでください。必ず陽報は子宝となってあらわれます」。と施しがとても大事と仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践もとても大事なところです。中でも慈悲の功徳は絶大と説かれております。慈しみを育てるということが重要となります。
具体的に言いますと「見返りを求めず、人さまに善いことをしてさしあげる、その方の喜んでいる姿を見て、素直にこころの底から喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たち一人ひとりが、慈しみのこころを育てたら、世界は変わります。世の中から戦争や争いごとがなくなり、平和がやって参ります。慈しみのこころが育てば〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのであります。
合 掌
振り返ると、元旦に能登半島大地震があり、大変な年が始まりました。夏には、猛暑日を更新する暑さの連続でした。台風も数多く発生しましたが、今年の特長は雨台風が多かったように思います。能登半島も台風で線状降水帯による記録的な雨により被害も出ました。こう考えると、日本は地震も多く水害被害が多い国であることがわかります。
私たちができることは、ハザードマップや防災グッズや避難場所を押さえておくことが重要となります。家族との待ち合わせや、連絡方法の確保が重要となります。備えあれば憂いなしということです。
今月は開祖・榊原法公大菩薩十四回忌の法要会(開祖祭)を開催いたします。多くの信者さまのご参詣をお待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。香川県に勤務しているTさんは、若いのにとても優秀でした。入社四年目なのですがすでに頭角を現しておりました。彼の上司のK課長は私と同級生でした。彼は、いつも私に対して反抗的な態度で接してきました。
会議などで、いろんな意見を聞き、チームが一丸となって目標を達成できるよう計画を立てますが、彼はいつも反対の意見を言うのです。なぜ彼が、チームをまとめようとしたくないのか、同級生だから嫌がらせをしているのか、本心はわかりません。
私が、彼にヒヤリング(聞き取り調査)したところ、強い上昇志向があり、現在の課長職には満足していないということがわかりました。こういう問題を抱えていると売り上げ達成には程遠い状況となります。
問題点がわかったので、K課長をモチベーション(意識改革)しないと、全体に悪い影響が出てしまうと考えました。そこで、次期支店長候補はK課長であると、明確に示す必要があったのです。
私の仕事を彼に一部を任せる戦術をとりました。すると彼は、やる気が出たのか、素直になり、ガンガン仕事をするようになったのです。もともと彼は、前向きに捉えるという素質があったのです。
人間には褒めて育つタイプと自分で勝手に育つタイプがあります。また、何をやってもダメなタイプもあります。しかし、個人個人の目指している理想像はそれぞれあるのです。そこをいかに理解して、明確にして、その人に合った指導をしないといけません。
また、優秀なTさんには、香川県の大学病院を担当してもらうことにしました。彼を育てたK課長も自分の部下が大学病院を担当することに誇りを感じるでしょう。要するに、一石二鳥ということになります。
そして、Tさんには、将来、首都圏で活躍できるよう、更なるスキル(能力)を高めるべきプログラムをつくり指導したのです。部下と将来の夢や希望を語りながら、自己実現できるように助言することで、その可能性を掴むチャンスも出てきます。
どんな仕事も大変だと思います。しかし、中途半端に仕事をして、給料泥棒のような感じで働くよりも、精一杯、頑張って、自分の力をフルに出し切れば、たとえ失敗しようと悔いは残りません。万が一、失敗したら、反省して、そこから這い上がって、再チャレンジすれば必ず成功へと導いてくれるのであります。
さて、仏教的に考えますと、私たちは、生きるために大脳を使っていますが、それだけでは足りません。大脳が原始脳の指導で活動しているからです。要するに、貪・瞋・痴の感情が人生を支配しているのです。この感情の指令は正しくありません。
デパートでダイヤのネックレスが目に入る。感情にスイッチが入る。欲しい、欲しいと思うことになる。では感情に負けて、ショーケースのガラスを割ってネックレスを取っていいのでしょうか?
自分の経済状態は、ダイヤのネックレスを着けるレベルではないと理性で判断しなくてはいけません。このように、何かをするときも大脳を中心にしてみましょう。そうすれば、簡単にやめるべきことはやめ、やるべきことはやれるのです。
とはいっても、大脳は入るデータ(情報)しだいで判断するので、いつでも正しい判断ができるとは限りません。それが普通です。
人間には、すべてのデータを調べることはできません。入ったデータに基づいて行う判断は、正しい判断になりますが、感情で行う判断は決まって間違いです。その正しい判断も、客観的に第三者が調べると「悪くないが、もっと頑張ったほうが良かった」と言われるかもしれません。良いと思って判断しても、社会の評価はそんなものです。しかし、本人の大脳はベストだと思っているのです。
「誘惑に負けない」と決意しましょう。そうすれば、一般的にプライドと言われる個人の尊厳が働きだし、簡単に悪いことをやめられます。
次に責任を持つ人間になります。そもそも人間は責任逃れが好きなのです。しかし、それは情けない生き方なのです。理性で考えてみましょう。自分のやっていることのすべては、自分の意思でやっている。自分がやめていることのすべても、自分の意思でやめているのです。自分の意思に反する行為はできません。
では、脅されたとしましょう。確かに、脅されたら、やりたくないこともやります。やめるべきこともやります。そのときであっても、自分の脳(こころ)は、「やります」という意欲をつくっているのです。
少々、極端な例ですが、強盗が包丁を突きつけて財布を出せと言ったら、自分の意思で、財布を出すのです。出したくないと抵抗したら、包丁で刺されて死ぬかもしれません。結局、財布は取られるので、それなら財布を出して命を守ったほうが良いでしょう。というわけで、極端な場合であっても、行為は自分の責任です。
「やめること」と「やること」は、いつでも三日坊主になってしまうのが普通です。なぜなら、本気ではないからです。みんなに言われるから、やろうとしているだけです。または「こうすればいいのでは」という中途半端な気持ちでしようとしているだけです。まとめて言えば、意欲が足りません。
意欲は好き勝手に上げたり下げたりすることはできませんが、意欲を上げ、やる気を起こす方法はあります。それは「挑戦が楽しい」と大脳に言い聞かせることです。
まず、簡単な出来事に挑戦します。うまくいったと喜んでみます。それから、別なことにも挑戦して、うまくいったと脳に喜びのデータをインプット(入力)します。
失敗するに決まっているような、大胆なことに挑戦しないほうが良いでしょう。失敗してしまったら、脳は喜べず、萎縮してしまいます。
だから、まずは日常生活でふだん行わない何かに挑戦して、成功させます。そうすると脳は、成功するか失敗するかに関係なく、何かに挑戦することが楽しみだと思う回路をつくるのです。
実は、人生もすべて、挑戦の流れなのです。子供の生き方を観察するとわかりますが、子供にとっては、どんなことでも挑戦です。簡単なことをやって「やった、できた」と大騒ぎして喜んでいます。子供は本能的に脳を開発する仕方を知っていますが、大人になっていく過程でそれを忘れてしまうのです。
人生は挑戦です。挑戦は楽しいのです。人生が成功するか失敗するかは、関係ないのです。挑戦が楽しいと思う人にとって、やるべきことは挑戦なのです。だから、やるのです。やめるべきことも挑戦なのです。誘惑に勝って、やめるべきことはやめるべきです。
多くの人は幸福を間違って理解しています。刺激を受けて快楽を感じることが幸福だと思っているのです。勉強ができれば幸福、いい仕事に就ければ幸福、貯蓄があれば幸福、マイホームがあれば幸福、などなど幸福のリストがあります。
みんなのリストは似ているように見えますが、この幸福リストは一致しません。人にはそれぞれ自分なりの幸福リストがあります。もし、その幸福が正しく、本物であれば、すべての生き物に対して同じものになります。
仏教の論理に基づいていうなら、「生きることは苦」です。その苦を乗り越えることが真の幸福です。苦しみを味わうと、さらに苦しく嫌な気持ちになります。
さまざまな出来事に対応できなくなったら、挑戦することができなくなったら、落ち込んで悩みます。それも本来「苦」である生き方から、新たな苦をつくることになります。
「幸福はやすらぎ」「こころの安穏」「こころの平安」「こころが揺らがないこと」この幸福を目指すことです。富豪になっても、こころの安らぎがなければ不幸なのです。たとえ貧乏であっても、こころの安らぎがあれば幸福です。
原始脳の刺激である存在欲と恐怖感に対応する生き方では、幸福・やすらぎ・安穏は得られません。生きていたいと思うたびに、トラブルが続きます。恐怖感にさいなまれるたびに、トラブルが起きます。それから、悩み苦しみが現れます。
生きていたいという希望は、絶対的に叶わない希望です。それに挑戦することで不幸になるのは、当然の結果です。
外の世界の出来事を知って、判断して、行動して生きる作業をするのは大脳ですが、大脳は原始脳の奴隷です。人を奴隷にして仕事をさせたら、その人が気持ちよく仕事をしないのは当たり前です。隙を見つけるたびに仕事をサボります。大脳を原始脳から解放しましょう。こころが安穏に達するように、やすらぎを感じられるように大脳を使いましょう。
貪・瞋・痴の誘惑に負けると、刺激があっても安らぎは感じません。感情に勝った瞬間で、強い安らぎを感じるのです。充実感も得られるのです。ほんのわずかなことでも良いので、感情の誘惑に勝つことを実験してみましょう。
たとえば、タバコを一日四十本吸う人が、一日だけ十本にするように挑戦します。成功したら、ニコチン中毒の苦しみがあっても「よくやった、成功した」という安らぎが生まれます。
これは大胆な例ですが、各個人に自分の誘惑パターンがありますから、その中から一つを選んで、貪・瞋・痴を抑制する挑戦をするのです。それで真の幸福の世界を見ることができるのです。そして、ひたすらその道を進めば良いのです。
教祖・杉山辰子先生は、妙法の不思議な力を信じることの重要性を説かれました。まずは深く信じることです。妙法を信じて、信じて、信心して初めて、真理に目覚めるのです。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えるときに功徳があるのです。唱えていれば不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていれば、いつでもどこでも護られるということです。
教祖さまの語録に「悲しむ人はこころから慰め労り、飢えた人には食を与え、寒さに震える人には衣類を施す等、人の喜ぶこと、人の便利を図ること、他人が見ておろうが見ていないに拘わらす、一生懸命に実行せられ陰徳を積んでください。必ず陽報は子宝となってあらわれます」。と施しがとても大事と仰せです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践もとても大事なところです。中でも慈悲の功徳は絶大と説かれております。慈しみを育てるということが重要となります。
具体的に言いますと「見返りを求めず、人さまに善いことをしてさしあげる、その方の喜んでいる姿を見て、素直にこころの底から喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
私たち一人ひとりが、慈しみのこころを育てたら、世界は変わります。世の中から戦争や争いごとがなくなり、平和がやって参ります。慈しみのこころが育てば〝すばらしき人生〞へと繋がっていくのであります。
合 掌
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