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大樹
すばらしき人生148
旧暦四月を卯月と呼び、現在では新暦四月の別名としても用いております。卯月の由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものというのが定説をなっております。
四月は新年度のスタートです。心機一転、新しいことにチャレンジしてはいかがでしょうか。自分を変えることができるのも、この時期ではないでしょうか。
一般的には、人の性格や性分は変えられないと思われております。しかし、どんなことでも変わろうと思えば、変えられます。未知数の自分の能力を開発することに努めることが、とても重要であると思っております。
先般、春季彼岸先祖法要会には多くの信者の皆さまに、お参りをしていただきありがとうございました。先祖を敬うこころをなくしてはいけません。先祖があるから、いまの自分があると理解し日々感謝することです。
今月は釈尊降誕祭(花まつり)を開催いたします。甘茶のふるまいもありますので、お参りいただきますようお願いします。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。四国四県というエリアの担当でした。
徳島県を担当しているO課長は、私と同年でした。同じ年の部下というのは、とても扱いにくい存在でした。彼は、この地域を担当することに何か不満があったようでした。
会議やミーティングなどで私が意見し、提案するときに、いつも必ず反抗的な態度をとるのです。同年ということが、彼のプライドを傷つけてしまい、結果的にそういうふうになってしまうのかもしれません。しかし、組織である以上はそうであってはいけないのです。
早急に改善策を練らないと機能不全に陥ってしまいます。そこで私は、彼を理解することで雰囲気を変えようと考えました。
まず、Oさんの不満を取り除く作業から始まります。なぜ不満があるのか、彼と話し合わなければ分かりません。その大きな理由は、自分の能力以下の地域を担当していることが、不満の大きな原因でした。自分の力であれば、もっと大きな市場で働きたいという願望があったのです。
そこで私は、彼の担当エリアを変えるのではなく、もう一段階、上の仕事をするよう考えたのです。Oさんは課長ですが、支店長になったらどう対応するのかと、彼に宿題を与えました。
支店長の目線で物事を考えるよう、そのようなスキル(能力)を身につけなさいと指導しました。「会議や仕事上やるべきことが発生したときに、そういう視点に立って仕事ができるようになれるよう考えなさい」と言いました。
彼も、会社に対していろいろと不満もあり、愚痴もあり、思うようにできなかったのも事実です。しかし、そんな泣きごとを言っていても仕方がありません。自分が変わって、初めてものの見方や、活動の仕方も変わるのです。まずは、自分が変わるところから始まります。
誰でも、一つ上の目線に立って、一つ上の仕事をすることによって、視野が広がり現在の職務を全うすることができるのです。彼も自己改革に取り組み、見事に変革できたのであります。
さて、仏教的に考えると、夫はこううであるべき、妻はこうであるべき、上司はこうであるべき、など考えるのは妄想以外の何ものでもありません。妻ならこうであるべきと、夫は夫なりの意見がある。妻はこうであるべきと、妻にも妻なりの意見がある。
この二つの意見が、合致するはずがないのです。たとえ無理をして二つの感想を合併させても実行は難しい。
二人とも人間なので、理想通りには生きられません。元気になったり弱くなったりするのです。失敗したり成功したりもするのです。
私たちはその瞬間、その瞬間の出来事に、真っ向から対応すればよいのです。対応するとは対立することではありません。その瞬間の現象において「私に何ができますか?」を実行する。それですべての問題はシンプルになるのです。
会社や仕事のことをおおげさに考える人がいます。必要以上に心配して、精神的に病気になる人もいます。しかし、仕事もおもちゃ遊びのようにシンプルなものです。私たちに与えられる仕事は、簡単にできることなのです。
高校を卒業して大企業に入社した人に、企画部門の担当は頼みません。MBA(経営学修士)にでも合格して、それなりの経験を持っている人であれば、企画部門の担当を任せられます。その人にとって、それは簡単な仕事です。
医療に携わっている看護師さんにとって、看護することはお手のものです。しかし、診断すること、治療方針を決めることはできません。それにはその仕事を簡単にできる専門家が別にいます。世界はこういうふうに成り立っているのです。
妄想に「将来」という概念が割り込むと、とても危険です。しかし、人間は将来のことを考えたいと思っていますが、考えても決してその通りにはいかないのです。
他人のお世話になって死にたくはない、ぽっくり死にたい、子供の負担にはなりたくない、寝たきりにはなりたくない、などは誰だって思っております。それは考えて悩んで損するだけで終わります。どうなるのかは誰にもわかりません。
現実的な思考に基づいて計画を立てたりすることは必要です。しかし、「将来」というものは、自分の計画通りに現れるものではありません。さまざまな原因が絡んでいるからです。
人が現実的に思考しようとしても、その思考が将来という枠に入ってしまうと無駄な妄想に変わります。「現在」という枠を重視するときだけ役に立つ思考になります。その「現在」も、単位が小さければ小さいほど、しっかりとした思考になるのです。
というわけで「私に何ができますか?」というのは、目の前で、いまこの瞬間で何ができるのか?ということです。そこで、いまの瞬間にできることがないと発見したら、「だったら休め」という判断になります。
仕事は終わったが、退社する時間にはまだなっていない。仕事は終わったのに、みんなと一緒に帰る時間になるまで待つのは苦しい。そこで、「いま、どうすればよいのか?」という呪文が入ってきます。
では、みんなが終わるまでゲームでもやれば、あるいは本でも読めばと思う。仕事が終わったら「では、お先に失礼します」と帰ればいいのです。それができないなら、みんなに「お疲れさま」とお茶でも入れて配ればいいのです。仕事が終わっていない人を助けることもできる。
大事なことも、簡単なことも、わりとすぐに忘れてしまうことに悩んでいる人がいます。別にそれはそれほど悩まなくてもいいと思います。大事なことを忘れて困っている、という場合は、忘れたのはいま行うべき大事なことでした。ということは、いま、あなたは過去に生きていて、現在に生きていないということです。
こころが過去の妄想のループ(輪)にはいってしまえば、誰だって大事なことも、それほど大事ではないことも、うっかり忘れてしまうのです。物忘れとは、「過去の幻覚に閉じ込められている人々の問題である」と理解しましょう。
物忘れという病気もあります。それは脳の問題です。病気の場合は治療しなくてはいけません。物忘れの症状があるときも、面白いことにその方々は最近のことは忘れるが、過去のことの何かに引っかかっているのです。
たとえ若い人であっても、時間のほとんどを過去か将来に生きることにしてしまったら、いま行うべき大事なことを忘れてしまうのです。それで損をしたり、社会から非難を受けたり、友達を失ったり、という結果になります。
もし人が、いまだけを見て生きることに挑戦すれば、何も忘れません。忘れるという言葉も成り立ちません。本人はいまやるべきことをやっているからです。何か忘れたと気づいた瞬間、過去か将来の何かにこころがさまよっていたことになります。
「現実はいまの瞬間のみである」という真理を知っている人にとっては、「忘れる」という言葉は成り立たなくなります。「妄想」と「忘れる」という二つは、ペアです。現実を妄想することはできません。だから、現実のみを生きる人に、「忘れる」という現象は存在しないのです。
人は妄想することが癖になっていて、いまを生きていません。「いまを生きていない人々は、死人と同じである」とお釈迦さまは説かれました。過去・将来の妄想にさまよっている私たちは、死人同然なのです。
認めたくない、嫌な言葉だと感じるかもしれません。死人は「いま何が起きているのか」など、まったくわかりません。過去・将来の妄想にさまよっている人も、いま何が起きているのか気づかないのです。わからなくなっているのです。だから、死人同然なのです。
これは、お釈迦さまの力強い戒めの言葉です。過去のことや将来のことが、つい頭に浮かんで妄想の中にさまよったら、ただちに「いま、私は死人同然だ」と思い出せば現在に戻ることができます。
いまに目覚めているということが、生きているということになります。常に「いまはどうか?いまはどうか?」と自分に訊いてみてください。そうすると大事なことは忘れません。
怒りの伝染は良くあることです。上司が怒りの炎で叱りつけてきたとしても、自分はそれを怒りの炎でなく、これは私の修行であるとして、そこで「この怒りの炎で私も燃えないようにがんばらなくては」と思うことです。そうして、「相手が怒っても私は怒らないようにしよう」と自己を戒めることです。
自分を戒めることが修行ですから、人を直すことではないのです。相手に何か言われたら「では、こころを清らかにしよう」と思ってください。それはあなたの宿題であり上司の問題ではありません。上司が悪いわけではないのです。
逆に、あなたの部下がひどいことを言っても、その部下は悪くないのです。お前は部下のくせに何を言うのか、という態度ではダメです。そのとき、あなたがどう対応するのかと、自己を戒めるための宿題なのです。
何事も良い条件であるなら、威張らないように自己を戒める、舞い上がらないように戒める。悪い条件の場合は、怒らないように自己を戒める、落ち込まないようにと自己を戒めるのです。そういうふうに自分を育てましょう。
仕事はある時期で辞めてしまうものですが、人生は死ぬまで続きます。だから、自己を成長させたほうが、仕事でもらう給料より遙かに価値があるのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説いておられます。まずは、この教えを深く、深く、信じることです。信じて、信じて、信心すれば見えてまいります。私たちが生きる真の目的、すなわち真理を知ることができるのです。
常住坐臥いついかなるときも、「妙法蓮華経」の五文字を唱えるときに、功徳があるのです。口に出して唱えても良いですが、こころの中で唱えても効果があります。唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていればいつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。その中でも慈悲の功徳は絶大です。慈悲とは慈しみのこころになることです。ですから、慈しみを育てることがとても大事となります。
慈しみを育てるということを具体的に言いますと「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方の喜んでいる姿を見て、素直にこころのそこから喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
こころの汚れが少しでも落ち、きれいで清らかなこころに育てないといけません。人のためになることを率先して実行することが、こころをきれいにする秘訣です。もっと、もっとこころをきれいにして、〝すばらしき人生〞へと高めることがとても重要となります。
合 掌
四月は新年度のスタートです。心機一転、新しいことにチャレンジしてはいかがでしょうか。自分を変えることができるのも、この時期ではないでしょうか。
一般的には、人の性格や性分は変えられないと思われております。しかし、どんなことでも変わろうと思えば、変えられます。未知数の自分の能力を開発することに努めることが、とても重要であると思っております。
先般、春季彼岸先祖法要会には多くの信者の皆さまに、お参りをしていただきありがとうございました。先祖を敬うこころをなくしてはいけません。先祖があるから、いまの自分があると理解し日々感謝することです。
今月は釈尊降誕祭(花まつり)を開催いたします。甘茶のふるまいもありますので、お参りいただきますようお願いします。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。四国四県というエリアの担当でした。
徳島県を担当しているO課長は、私と同年でした。同じ年の部下というのは、とても扱いにくい存在でした。彼は、この地域を担当することに何か不満があったようでした。
会議やミーティングなどで私が意見し、提案するときに、いつも必ず反抗的な態度をとるのです。同年ということが、彼のプライドを傷つけてしまい、結果的にそういうふうになってしまうのかもしれません。しかし、組織である以上はそうであってはいけないのです。
早急に改善策を練らないと機能不全に陥ってしまいます。そこで私は、彼を理解することで雰囲気を変えようと考えました。
まず、Oさんの不満を取り除く作業から始まります。なぜ不満があるのか、彼と話し合わなければ分かりません。その大きな理由は、自分の能力以下の地域を担当していることが、不満の大きな原因でした。自分の力であれば、もっと大きな市場で働きたいという願望があったのです。
そこで私は、彼の担当エリアを変えるのではなく、もう一段階、上の仕事をするよう考えたのです。Oさんは課長ですが、支店長になったらどう対応するのかと、彼に宿題を与えました。
支店長の目線で物事を考えるよう、そのようなスキル(能力)を身につけなさいと指導しました。「会議や仕事上やるべきことが発生したときに、そういう視点に立って仕事ができるようになれるよう考えなさい」と言いました。
彼も、会社に対していろいろと不満もあり、愚痴もあり、思うようにできなかったのも事実です。しかし、そんな泣きごとを言っていても仕方がありません。自分が変わって、初めてものの見方や、活動の仕方も変わるのです。まずは、自分が変わるところから始まります。
誰でも、一つ上の目線に立って、一つ上の仕事をすることによって、視野が広がり現在の職務を全うすることができるのです。彼も自己改革に取り組み、見事に変革できたのであります。
さて、仏教的に考えると、夫はこううであるべき、妻はこうであるべき、上司はこうであるべき、など考えるのは妄想以外の何ものでもありません。妻ならこうであるべきと、夫は夫なりの意見がある。妻はこうであるべきと、妻にも妻なりの意見がある。
この二つの意見が、合致するはずがないのです。たとえ無理をして二つの感想を合併させても実行は難しい。
二人とも人間なので、理想通りには生きられません。元気になったり弱くなったりするのです。失敗したり成功したりもするのです。
私たちはその瞬間、その瞬間の出来事に、真っ向から対応すればよいのです。対応するとは対立することではありません。その瞬間の現象において「私に何ができますか?」を実行する。それですべての問題はシンプルになるのです。
会社や仕事のことをおおげさに考える人がいます。必要以上に心配して、精神的に病気になる人もいます。しかし、仕事もおもちゃ遊びのようにシンプルなものです。私たちに与えられる仕事は、簡単にできることなのです。
高校を卒業して大企業に入社した人に、企画部門の担当は頼みません。MBA(経営学修士)にでも合格して、それなりの経験を持っている人であれば、企画部門の担当を任せられます。その人にとって、それは簡単な仕事です。
医療に携わっている看護師さんにとって、看護することはお手のものです。しかし、診断すること、治療方針を決めることはできません。それにはその仕事を簡単にできる専門家が別にいます。世界はこういうふうに成り立っているのです。
妄想に「将来」という概念が割り込むと、とても危険です。しかし、人間は将来のことを考えたいと思っていますが、考えても決してその通りにはいかないのです。
他人のお世話になって死にたくはない、ぽっくり死にたい、子供の負担にはなりたくない、寝たきりにはなりたくない、などは誰だって思っております。それは考えて悩んで損するだけで終わります。どうなるのかは誰にもわかりません。
現実的な思考に基づいて計画を立てたりすることは必要です。しかし、「将来」というものは、自分の計画通りに現れるものではありません。さまざまな原因が絡んでいるからです。
人が現実的に思考しようとしても、その思考が将来という枠に入ってしまうと無駄な妄想に変わります。「現在」という枠を重視するときだけ役に立つ思考になります。その「現在」も、単位が小さければ小さいほど、しっかりとした思考になるのです。
というわけで「私に何ができますか?」というのは、目の前で、いまこの瞬間で何ができるのか?ということです。そこで、いまの瞬間にできることがないと発見したら、「だったら休め」という判断になります。
仕事は終わったが、退社する時間にはまだなっていない。仕事は終わったのに、みんなと一緒に帰る時間になるまで待つのは苦しい。そこで、「いま、どうすればよいのか?」という呪文が入ってきます。
では、みんなが終わるまでゲームでもやれば、あるいは本でも読めばと思う。仕事が終わったら「では、お先に失礼します」と帰ればいいのです。それができないなら、みんなに「お疲れさま」とお茶でも入れて配ればいいのです。仕事が終わっていない人を助けることもできる。
大事なことも、簡単なことも、わりとすぐに忘れてしまうことに悩んでいる人がいます。別にそれはそれほど悩まなくてもいいと思います。大事なことを忘れて困っている、という場合は、忘れたのはいま行うべき大事なことでした。ということは、いま、あなたは過去に生きていて、現在に生きていないということです。
こころが過去の妄想のループ(輪)にはいってしまえば、誰だって大事なことも、それほど大事ではないことも、うっかり忘れてしまうのです。物忘れとは、「過去の幻覚に閉じ込められている人々の問題である」と理解しましょう。
物忘れという病気もあります。それは脳の問題です。病気の場合は治療しなくてはいけません。物忘れの症状があるときも、面白いことにその方々は最近のことは忘れるが、過去のことの何かに引っかかっているのです。
たとえ若い人であっても、時間のほとんどを過去か将来に生きることにしてしまったら、いま行うべき大事なことを忘れてしまうのです。それで損をしたり、社会から非難を受けたり、友達を失ったり、という結果になります。
もし人が、いまだけを見て生きることに挑戦すれば、何も忘れません。忘れるという言葉も成り立ちません。本人はいまやるべきことをやっているからです。何か忘れたと気づいた瞬間、過去か将来の何かにこころがさまよっていたことになります。
「現実はいまの瞬間のみである」という真理を知っている人にとっては、「忘れる」という言葉は成り立たなくなります。「妄想」と「忘れる」という二つは、ペアです。現実を妄想することはできません。だから、現実のみを生きる人に、「忘れる」という現象は存在しないのです。
人は妄想することが癖になっていて、いまを生きていません。「いまを生きていない人々は、死人と同じである」とお釈迦さまは説かれました。過去・将来の妄想にさまよっている私たちは、死人同然なのです。
認めたくない、嫌な言葉だと感じるかもしれません。死人は「いま何が起きているのか」など、まったくわかりません。過去・将来の妄想にさまよっている人も、いま何が起きているのか気づかないのです。わからなくなっているのです。だから、死人同然なのです。
これは、お釈迦さまの力強い戒めの言葉です。過去のことや将来のことが、つい頭に浮かんで妄想の中にさまよったら、ただちに「いま、私は死人同然だ」と思い出せば現在に戻ることができます。
いまに目覚めているということが、生きているということになります。常に「いまはどうか?いまはどうか?」と自分に訊いてみてください。そうすると大事なことは忘れません。
怒りの伝染は良くあることです。上司が怒りの炎で叱りつけてきたとしても、自分はそれを怒りの炎でなく、これは私の修行であるとして、そこで「この怒りの炎で私も燃えないようにがんばらなくては」と思うことです。そうして、「相手が怒っても私は怒らないようにしよう」と自己を戒めることです。
自分を戒めることが修行ですから、人を直すことではないのです。相手に何か言われたら「では、こころを清らかにしよう」と思ってください。それはあなたの宿題であり上司の問題ではありません。上司が悪いわけではないのです。
逆に、あなたの部下がひどいことを言っても、その部下は悪くないのです。お前は部下のくせに何を言うのか、という態度ではダメです。そのとき、あなたがどう対応するのかと、自己を戒めるための宿題なのです。
何事も良い条件であるなら、威張らないように自己を戒める、舞い上がらないように戒める。悪い条件の場合は、怒らないように自己を戒める、落ち込まないようにと自己を戒めるのです。そういうふうに自分を育てましょう。
仕事はある時期で辞めてしまうものですが、人生は死ぬまで続きます。だから、自己を成長させたほうが、仕事でもらう給料より遙かに価値があるのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性を説いておられます。まずは、この教えを深く、深く、信じることです。信じて、信じて、信心すれば見えてまいります。私たちが生きる真の目的、すなわち真理を知ることができるのです。
常住坐臥いついかなるときも、「妙法蓮華経」の五文字を唱えるときに、功徳があるのです。口に出して唱えても良いですが、こころの中で唱えても効果があります。唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。妙法を唱えていればいつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事なところです。その中でも慈悲の功徳は絶大です。慈悲とは慈しみのこころになることです。ですから、慈しみを育てることがとても大事となります。
慈しみを育てるということを具体的に言いますと「見返りを求めず、人さまに善いことをして差し上げる、その方の喜んでいる姿を見て、素直にこころのそこから喜べるかどうか」です。喜べたら慈しみが一つ育ったということです。
こころの汚れが少しでも落ち、きれいで清らかなこころに育てないといけません。人のためになることを率先して実行することが、こころをきれいにする秘訣です。もっと、もっとこころをきれいにして、〝すばらしき人生〞へと高めることがとても重要となります。
合 掌
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