世界平和を
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大樹
すばらしき人生166
旧暦で十月を神無月(かんなづき)と呼び、新暦の別名としても用います。いわれは、出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居
なくなる月といわれております。
今年の夏は昨年と比べると、熱帯夜も少なく過ごしやすい日もありました。それは、晴天の日が少なかったからと言えます。地球温暖化の影響で台風も多く発生し、ゲリラ雷雨
や線状降水帯による水害も多く発生しました。アンダーパスで多くの車が水没をしたというニュースも多く流れておりました。土砂崩れや、都会では内水氾濫がおき、家屋への浸
水や水害被害が多く発生しました。
一日も早く、地球温暖化対策を実施すべきです。二酸化炭素削減目標を前倒しして、国民一人ひとり真剣に取り組む必要があります。これは対岸の火事ではありません。他人事
と思わずに早急に取り組みましょう。
先般の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りをいただき、ありがとうございました。来月は立教五十三年祭を開催いたします。多くの信者の皆さまのお参りをお
待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。愛媛県の東部を担当しているMさんは、入社六年目の中堅社員です。愛知県の薬学部卒業の営業マンでした。
当然、薬剤師の免許は持っていませんでした。
どうやら彼は、薬大を出ながら資格がないという中途半端な気持ちで就職をして現在の仕事に就いていると思います。本来は薬剤師になるべきところ、資格が取れずにやむを得
ず製薬会社に就職したということでしょう。
そもそも、最初から進むべき道を誤ったことになります。Mさんは、そのような不満を抱えて仕事をしておりました。
周りからは、薬大出ということで、羨望の眼差しを持った人もいたと思います。しかし、人間というのは、最初が肝心なのです。「鉄は熱いうちに打て」という名言があるように、
仕事に対する初動がとても大事なのです。
彼のこころは、そんな不満を抱えて、愚痴を言ったり、反抗したり、明らかに不真面目な態度をとっていたのです。
俗に、彼のような人のことをマーベリックとも言います。いわゆる離れ馬(一匹狼)のことです。そういう人がチームに一人でもいると全体が悪い方向へと行ってしまうことも
あります。そうならないように対策が必要なのです。
まず、Mさんに人間とは、会社とは、組織とは、みんなと共存するためには、自分はどうするのかを明確に指導する必要があったのです。そういう会社の理念を刷り込むことが
重要なのです。そうしないと彼はいつまでたっても現地点から進歩することはできません。むしろ後退してしまうかもしれません。
営業に基本は、やはり報・連・相です。この報告、連絡、相談を徹底的に行う習慣を身につけさることが重要なのです。彼の行動をすべて報告させ、問題点は相談にのり解決す
ることなのです。そして、彼に気づきの大切さを教えることなのです。
まず、どのようなイメージで、どうアプローチし、問題があれば、どう回避し、最終的に解決策を提案できるように、トレーニングさせ、いかにクロージングまでもっていくか
を練習させるのです。
人間は努力すれば、性格や行動やいろんなことを変えられます。意識して変えようと思わなければ変わりません。そういう意識を植え付けるために上司は存在するものと私は思
っております。
Mさんも、努力して自己改革に臨みました。本来の自分の理想とは異なりますが、それでも、今の自分にできることの重要性や達成感をもつことを喜びに変えることが、彼を成
長させるのです。
実は彼は、まだ薬剤師になることをあきらめてはいませんでした。大学を卒業して六年というブランクはありましたが、こころの底で薬剤師になる夢は捨ててはいなかったので
す。ようやく彼は、国家資格を取得しすることができたのです。自己実現するために、会社を退社し薬剤師としての道を歩み出したのであります。
さて、仏教的に常識とは何か? きっと多くの人が「常識を守らなければいけない」「常識的におかしいことをしてはいけない」と思っています。
四十代という年齢についても、「もう四十歳だから、若い頃のように遊んでいてはいけない」「四十代になったら、もっと大人にならなければいけない」などの常識観念に囚われて
いる人も多いと思います。
しかし、そもそも常識とは何でしょうか。それは多くの人が「これはよい」とか「これは悪い」と思っているもののリストのことです。それは単なる多数派の意見ですが、その
多数派の意見ですらすぐに変わってしまうので「これが常識だ」とはっきりしたものは、そもそも存在しないのです。
常識というのは、世の中になんとなくそんざいしていて「ありそうで、ないもの」「なさそうで、あるもの」という感じなのです。
結局、常識というのは妄想に過ぎません。決まった何かがあるわけではなく、人がこころのなかで膨らませている妄想なのです、多くの人が「常識」という枠組みに縛られてい
るようですが、実際に、人を縛っているのは「確固たる常識」ではなく、「その人が勝手に思い込んでいる妄想」なのです。
具体例を挙げてみましょう。たとえば、夏の暑い日に公園へ行ってシャツを脱いで、上半身裸でいたとしましょう。そんなことをしても、実際には誰も文句を言いません。何と
も思わないものです。せいぜい「ああ、あの人は暑いからシャツを脱いで、休んでいるのだな」と思うぐらいのものです。
ところが、多くの人が「こんなところでシャツを脱いで、周りの人に変に思われるのではないか」「上半身裸でいるなんて、みっともない」と勝手に妄想を膨らませてしまう。たいていの常識はそういうものです。
おそば屋さんへ行ったら、誰もが箸でおそばを食べるべきだと思うでしょう。それが常識だと思っているからです。しかし、外国人の方が「お箸は不便なので、フォークをくだ
さい」ともし言ったら、店員はフォークを持ってきてくれます。フォークでおそばを食べる人を見て、文句を言う人など誰もいません。それが日本人だったとしても、別に大きな
問題ではないのです。常識とはその程度のものなのです。
誤解のないように言っておきますが、何も常識のすべてが悪いと言っているのではありません。しかし、四十代になって「これは正しい」「これは間違っている」と決めつけてし
まうような人は、ぜひとも自分の常識を疑ってみてください。
あなたが常識だと思っていることに、すべての人が賛同しているわけではありません。大多数が賛成している常識だって、次の瞬間には変わっているかもしれないのです。そん
な不確かな常識を振りかざして、「正しい」「間違っている」と主張するのは、まさに妄想にとりつかれている証拠です。
「常識とは、定義のはっきりしない妄想の言葉」ということです。ある人が常識だと思っていることでも、別の人はそう思っていないかもしれません。大多数の人が思っていること(いわゆる常識)でも、時間や時代の流れによって簡単に変わってしまいます。
ところが、なかには「自分の常識」を絶対的に正しいものだと思い込み、他人に押し付ける人がいます。四十代になり、年齢を重ねていくと、ますますそういう人が増えてくる
ので要注意です。
「自分の常識が正しい」と思いこむ時点で、それはこころの病気です。常識とは言葉だけであって中身がないわけですから、そんなものが「絶対正しい」はずがないのです。
あなたが大事に持っている常識も、結局は妄想に過ぎません。たとえば、「お盆休みをとって、実家に帰って、墓参りをするのが常識」と考えている人がいるとしましょう。
たしかに、日本ではそのような習慣を持ち、風習を守っている人も多い。しかし、すべての日本人がそう思っているかといえば、決してそうではありません。
お盆に休みを取らず、九月になってから夏休みを取る人もいれば、お盆の時期に休みを取っても、墓参りをせず、海外旅行へ行く人もいるでしょう。それくらい常識というのは、
人それぞれで、実体のないものです。
ときどき、東京の新宿へいくのですが、夜になると、ビルのガラス窓に向かって若者たちがダンスの練習をしている光景を見かけます。別に酒を飲んで騒いだり、タバコを吸ったりしているわけではありません。そんな若者たちを見て、あなたはどう感じるでしょうか。
「こんなところでダンスの練習をするなんて常識がない!」と憤慨する人もいるかもしれませんが、私から見たら、一生懸命ダンスの練習をしている若い人たちがかわいくて仕方
がないのです。
彼らには彼らの常識や価値観があって、一生懸命ダンスの練習をしているのですから、それでいいじゃないかですか。むしろ、微笑ましいくらいです。そう私は感じます。
結局常識というのは中身がないものですから、それを「正しい」と思いこみ、他人に押し付けるのは、非常に傲慢で、失礼な態度です。自分の妄想を他人に押しつけるなんて、
どう考えたってナンセンスだと思います。
また、ちょっと別な側面を考えてみると、常識というのは、それほど大げさに考えるものではなく、「みんなが楽になるもの」という言い方もできるのです。
あるレストランに行ったときのことです。一緒に行った若者は「スープはスプーンで飲むもの」という常識を持っていたのか、すごく苦労しながら、スープをスプーンですくっ
ていました。しかし、そのレストランで出てきたスープの器は、マグカップのような形のもので、直接口をつけて飲んだほうがいいものでした。
平らな皿や、両方にとっての付いたスープ皿ならスプーンですくって飲むのがマナーかもしれませんが、その店で出てきた器は明らかにそれと異なるものでした。
だから、私は「このカップは、普通に飲めばいいよ」と彼に教えてあげました。私は彼に常識を教えようとしたわけではありません。ただ単純に「そうしたほうが楽だから、み
んなそうしている」ということを伝えただけです。
常識とは、本来そういうものなのです。「そうしたほうが楽だから、みんなそうしている」という程度のもので、目くじらを立てて、誰かに押しつけるようなものではありません。
教祖・杉山辰子先生は妙法には不思議な力があると説かれました。その不思議な力を体験するためにも、妙法を深く信じることであると仰せです。妙法を信じて、信じて、信心
するときに真理に目覚めると説かれました。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践もとても大事であります。教祖さまは三徳の中でも慈悲の功徳は絶大と説かれました。慈悲とは慈しみのこころのことです。具体的に申しますと「見返りを求めず 人さまに善いことをして差し上げる その方が喜んでいる姿を見て素直にこころの底から喜べるか」どうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということで
す。
私たちは、こころを育てないといけません。人間は自分のこころの言いなりになっております。善いことしようと思えば、善いことができるし、悪いことをしようと思えば、悪
いことをしてしまう。そんな優柔不断なこころの奴隷になってはいけません。
自分のこころは自分でないと育てられません。こころを育てて、人格を高めることがとても重要です。そうすれば〝すばらしき人生〞へと高めることができるのであります。
合 掌
なくなる月といわれております。
今年の夏は昨年と比べると、熱帯夜も少なく過ごしやすい日もありました。それは、晴天の日が少なかったからと言えます。地球温暖化の影響で台風も多く発生し、ゲリラ雷雨
や線状降水帯による水害も多く発生しました。アンダーパスで多くの車が水没をしたというニュースも多く流れておりました。土砂崩れや、都会では内水氾濫がおき、家屋への浸
水や水害被害が多く発生しました。
一日も早く、地球温暖化対策を実施すべきです。二酸化炭素削減目標を前倒しして、国民一人ひとり真剣に取り組む必要があります。これは対岸の火事ではありません。他人事
と思わずに早急に取り組みましょう。
先般の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りをいただき、ありがとうございました。来月は立教五十三年祭を開催いたします。多くの信者の皆さまのお参りをお
待ち申し上げております。
私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。愛媛県の東部を担当しているMさんは、入社六年目の中堅社員です。愛知県の薬学部卒業の営業マンでした。
当然、薬剤師の免許は持っていませんでした。
どうやら彼は、薬大を出ながら資格がないという中途半端な気持ちで就職をして現在の仕事に就いていると思います。本来は薬剤師になるべきところ、資格が取れずにやむを得
ず製薬会社に就職したということでしょう。
そもそも、最初から進むべき道を誤ったことになります。Mさんは、そのような不満を抱えて仕事をしておりました。
周りからは、薬大出ということで、羨望の眼差しを持った人もいたと思います。しかし、人間というのは、最初が肝心なのです。「鉄は熱いうちに打て」という名言があるように、
仕事に対する初動がとても大事なのです。
彼のこころは、そんな不満を抱えて、愚痴を言ったり、反抗したり、明らかに不真面目な態度をとっていたのです。
俗に、彼のような人のことをマーベリックとも言います。いわゆる離れ馬(一匹狼)のことです。そういう人がチームに一人でもいると全体が悪い方向へと行ってしまうことも
あります。そうならないように対策が必要なのです。
まず、Mさんに人間とは、会社とは、組織とは、みんなと共存するためには、自分はどうするのかを明確に指導する必要があったのです。そういう会社の理念を刷り込むことが
重要なのです。そうしないと彼はいつまでたっても現地点から進歩することはできません。むしろ後退してしまうかもしれません。
営業に基本は、やはり報・連・相です。この報告、連絡、相談を徹底的に行う習慣を身につけさることが重要なのです。彼の行動をすべて報告させ、問題点は相談にのり解決す
ることなのです。そして、彼に気づきの大切さを教えることなのです。
まず、どのようなイメージで、どうアプローチし、問題があれば、どう回避し、最終的に解決策を提案できるように、トレーニングさせ、いかにクロージングまでもっていくか
を練習させるのです。
人間は努力すれば、性格や行動やいろんなことを変えられます。意識して変えようと思わなければ変わりません。そういう意識を植え付けるために上司は存在するものと私は思
っております。
Mさんも、努力して自己改革に臨みました。本来の自分の理想とは異なりますが、それでも、今の自分にできることの重要性や達成感をもつことを喜びに変えることが、彼を成
長させるのです。
実は彼は、まだ薬剤師になることをあきらめてはいませんでした。大学を卒業して六年というブランクはありましたが、こころの底で薬剤師になる夢は捨ててはいなかったので
す。ようやく彼は、国家資格を取得しすることができたのです。自己実現するために、会社を退社し薬剤師としての道を歩み出したのであります。
さて、仏教的に常識とは何か? きっと多くの人が「常識を守らなければいけない」「常識的におかしいことをしてはいけない」と思っています。
四十代という年齢についても、「もう四十歳だから、若い頃のように遊んでいてはいけない」「四十代になったら、もっと大人にならなければいけない」などの常識観念に囚われて
いる人も多いと思います。
しかし、そもそも常識とは何でしょうか。それは多くの人が「これはよい」とか「これは悪い」と思っているもののリストのことです。それは単なる多数派の意見ですが、その
多数派の意見ですらすぐに変わってしまうので「これが常識だ」とはっきりしたものは、そもそも存在しないのです。
常識というのは、世の中になんとなくそんざいしていて「ありそうで、ないもの」「なさそうで、あるもの」という感じなのです。
結局、常識というのは妄想に過ぎません。決まった何かがあるわけではなく、人がこころのなかで膨らませている妄想なのです、多くの人が「常識」という枠組みに縛られてい
るようですが、実際に、人を縛っているのは「確固たる常識」ではなく、「その人が勝手に思い込んでいる妄想」なのです。
具体例を挙げてみましょう。たとえば、夏の暑い日に公園へ行ってシャツを脱いで、上半身裸でいたとしましょう。そんなことをしても、実際には誰も文句を言いません。何と
も思わないものです。せいぜい「ああ、あの人は暑いからシャツを脱いで、休んでいるのだな」と思うぐらいのものです。
ところが、多くの人が「こんなところでシャツを脱いで、周りの人に変に思われるのではないか」「上半身裸でいるなんて、みっともない」と勝手に妄想を膨らませてしまう。たいていの常識はそういうものです。
おそば屋さんへ行ったら、誰もが箸でおそばを食べるべきだと思うでしょう。それが常識だと思っているからです。しかし、外国人の方が「お箸は不便なので、フォークをくだ
さい」ともし言ったら、店員はフォークを持ってきてくれます。フォークでおそばを食べる人を見て、文句を言う人など誰もいません。それが日本人だったとしても、別に大きな
問題ではないのです。常識とはその程度のものなのです。
誤解のないように言っておきますが、何も常識のすべてが悪いと言っているのではありません。しかし、四十代になって「これは正しい」「これは間違っている」と決めつけてし
まうような人は、ぜひとも自分の常識を疑ってみてください。
あなたが常識だと思っていることに、すべての人が賛同しているわけではありません。大多数が賛成している常識だって、次の瞬間には変わっているかもしれないのです。そん
な不確かな常識を振りかざして、「正しい」「間違っている」と主張するのは、まさに妄想にとりつかれている証拠です。
「常識とは、定義のはっきりしない妄想の言葉」ということです。ある人が常識だと思っていることでも、別の人はそう思っていないかもしれません。大多数の人が思っていること(いわゆる常識)でも、時間や時代の流れによって簡単に変わってしまいます。
ところが、なかには「自分の常識」を絶対的に正しいものだと思い込み、他人に押し付ける人がいます。四十代になり、年齢を重ねていくと、ますますそういう人が増えてくる
ので要注意です。
「自分の常識が正しい」と思いこむ時点で、それはこころの病気です。常識とは言葉だけであって中身がないわけですから、そんなものが「絶対正しい」はずがないのです。
あなたが大事に持っている常識も、結局は妄想に過ぎません。たとえば、「お盆休みをとって、実家に帰って、墓参りをするのが常識」と考えている人がいるとしましょう。
たしかに、日本ではそのような習慣を持ち、風習を守っている人も多い。しかし、すべての日本人がそう思っているかといえば、決してそうではありません。
お盆に休みを取らず、九月になってから夏休みを取る人もいれば、お盆の時期に休みを取っても、墓参りをせず、海外旅行へ行く人もいるでしょう。それくらい常識というのは、
人それぞれで、実体のないものです。
ときどき、東京の新宿へいくのですが、夜になると、ビルのガラス窓に向かって若者たちがダンスの練習をしている光景を見かけます。別に酒を飲んで騒いだり、タバコを吸ったりしているわけではありません。そんな若者たちを見て、あなたはどう感じるでしょうか。
「こんなところでダンスの練習をするなんて常識がない!」と憤慨する人もいるかもしれませんが、私から見たら、一生懸命ダンスの練習をしている若い人たちがかわいくて仕方
がないのです。
彼らには彼らの常識や価値観があって、一生懸命ダンスの練習をしているのですから、それでいいじゃないかですか。むしろ、微笑ましいくらいです。そう私は感じます。
結局常識というのは中身がないものですから、それを「正しい」と思いこみ、他人に押し付けるのは、非常に傲慢で、失礼な態度です。自分の妄想を他人に押しつけるなんて、
どう考えたってナンセンスだと思います。
また、ちょっと別な側面を考えてみると、常識というのは、それほど大げさに考えるものではなく、「みんなが楽になるもの」という言い方もできるのです。
あるレストランに行ったときのことです。一緒に行った若者は「スープはスプーンで飲むもの」という常識を持っていたのか、すごく苦労しながら、スープをスプーンですくっ
ていました。しかし、そのレストランで出てきたスープの器は、マグカップのような形のもので、直接口をつけて飲んだほうがいいものでした。
平らな皿や、両方にとっての付いたスープ皿ならスプーンですくって飲むのがマナーかもしれませんが、その店で出てきた器は明らかにそれと異なるものでした。
だから、私は「このカップは、普通に飲めばいいよ」と彼に教えてあげました。私は彼に常識を教えようとしたわけではありません。ただ単純に「そうしたほうが楽だから、み
んなそうしている」ということを伝えただけです。
常識とは、本来そういうものなのです。「そうしたほうが楽だから、みんなそうしている」という程度のもので、目くじらを立てて、誰かに押しつけるようなものではありません。
教祖・杉山辰子先生は妙法には不思議な力があると説かれました。その不思議な力を体験するためにも、妙法を深く信じることであると仰せです。妙法を信じて、信じて、信心
するときに真理に目覚めると説かれました。
常住坐臥いついかなるときも妙法蓮華経の五文字を唱えていれば、不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。いつでもどこでも護られるということです。
『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践もとても大事であります。教祖さまは三徳の中でも慈悲の功徳は絶大と説かれました。慈悲とは慈しみのこころのことです。具体的に申しますと「見返りを求めず 人さまに善いことをして差し上げる その方が喜んでいる姿を見て素直にこころの底から喜べるか」どうかです。喜べたら慈しみが一つ育ったということで
す。
私たちは、こころを育てないといけません。人間は自分のこころの言いなりになっております。善いことしようと思えば、善いことができるし、悪いことをしようと思えば、悪
いことをしてしまう。そんな優柔不断なこころの奴隷になってはいけません。
自分のこころは自分でないと育てられません。こころを育てて、人格を高めることがとても重要です。そうすれば〝すばらしき人生〞へと高めることができるのであります。
合 掌
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