PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生34

十月は何といっても食欲が増す季節であります。秋の食材は美味しいものが沢山あります。ついつい食べ過ぎてしまうのもこの季節だからしょうがないのであります。美味しいものを沢山食べたら運動も同じように多めに実施することが健康維持には何より大切であると思います。私は、日本人に生まれて本当に良かったと思っております。日本には四季があり、それぞれ旬の食材があります。よく聞く話ですが「初物」を食べると長生きするといいますが、美味しいものを食べて長生きできるのなら最高じゃないでしょうか。


 私は、今月還暦を迎えます。嬉しいような悲しいような、何かとても不思議な感覚であります。還暦は干支(十干十二支)が一周し、元の干支に戻る年ということから、生まれた年に戻る、赤ちゃんに戻って第二の人生の旅立ちとしてお祝いをするものであります。この年までよく働いた自分への労いと、まだ、これからもしっかり働くという大きな希望と、両親、ご先祖様への感謝や周りの人に支えて頂いたことへの感謝と、生かされているこの命に感謝することがとても大切であります。


 幼い頃の思い出ですが、八月の後半に一色の大提灯祭りが三河一色諏訪神社で開催されております。私たちは母親の在所である味浜へと毎年出向いておりました。高さ最大十メートルの大きさで六組十二張の大提灯は壮大であり圧巻でした。特に露店のお店は通り過ぎることのできないほどの魅力的なおもちゃが沢山ありました。ダダをこねて買ってもらった記憶が蘇りました。大提灯祭りが終わると夏休みの宿題もいよいよ佳境へと入って参ります。とにかく夏も終盤ではありますが、とても暑かった記憶があります。昔はエアコンなんて文明の利器は御座いません。暑くても扇風機とみぞれアイスさえあれば十分なのであります。


 私がサラリーマンの時のことです。五十歳を過ぎた頃から流通業者との取引に関わる仕事をしました。私の担当のA社は年商二兆円の会社であります。医療用医薬品の全体の市場は約八兆円であります。その四分の一の売り上げなのであります。弊社の製品をA社に年間約三百億円を販売しておりました。自社品販売比率では卸別売り上げの約三割を占めておりました。


 A社は北海道と九州を除く地区を販売エリアとしております。私は東北より中国・四国地方まで仕事で廻りましたが、本部担当(本担)ということで、どこに行っても手厚いサービスを受けました。しかし、本部での利益交渉は並大抵のことではありませんでした。メーカーごとに利益が違うのですが、弊社の場合、ダントツのワーストでありました。卸泣かせと申しますか、製品が良すぎるといいますか、とにかく最低の利益メーカーであることは間違いありませんでした。


 利益が少ないが故にA社の担当者とのコミュニケーションがとても重要となります。いろんな情報収集や他社製品の状況や、ありとあらゆる情報を取ることが大事な仕事となってまいります。人間関係の構築が無ければ、何も仕事ができないのであります。その人間関係を構築するためには、定期的に訪問するという基本的なことはもとより、相手の心を掴むことが何よりも大切であります。A社の担当者も弊社だけでなく複数のメーカーを担当しております。先ず、その中で一歩リードすることが必要なのです。その為にも相手に尊敬の念を持ち、真心込めた態度や誠実な態度で事に当たることが重要であると思います。


 時には趣味やゴルフや飲食を共にして信頼関係を深めることも必要となります。また、他卸の内部情報を提供することにより、更に深めることとなります。この世の中で秘密にできることなど何一つないのです。いくらマル秘の情報でも必ず漏れるのが当たり前なのであります。


 担当者同士が仲良くなれば、会社の利益は直線的には、あまり関係が無くなるのであります。それよりも、むしろ個人の利益を優先させるということになります。


 円滑な人間関係を創るために、A社担当者と伊豆に観光に出かけ修善寺の温泉に行きました。現在、世界文化遺産で騒がれている韮山反射炉の見学に行きました。また、福島の郡山に会社の工場があったので、工場見学と題して磐梯熱海温泉にも行きました。とにかく、どんなことでも相手が喜んでくれることが最も重要なのであります。そして、相手が自分を一番大切にしてくれていると思うような行動や言動をとることが極めて重要です。その積み重ねにより信頼関係が構築できるのであります。


 法華経(第十二章)提婆達多品(だいばだったほん)の後半部分ですが、竜女(りゅうにょ)成仏という「女人(にょにん)成仏」が説かれております。提婆達多への授記が終わると、多宝(たほう)如来についてきた智積(ちちゃく)菩薩が本土(宝浄(ほうじょう)世界)に帰ろうとします。智積とは『智慧が積み重なっている』という意味です。頭がよく察しが速かったのでしょう。悪人成仏を聞いて『令法久住(りょうぼうくじゅう)(釈尊の入滅後、法華経を弘めること)の勧めは、もう終わった』と思ったのかも知れません。しかし、釈尊の説法がまだ終わっていないのであります。智積にも分からないことがありました。それが「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)であります。そこで、釈尊は智積(ちしゃく)を引き留め「文殊師利(もんじゅしり)菩薩と妙法について対話をしてから帰ったらどうか」と提案します。すると、大海の竜宮で広宣流布をしていた文殊師利菩薩が、教化した多くの菩薩たちを引き連れて虚空会(こくうえ)に出現します。


 そこで智積(ちしゃく)と文殊(もんじゅ)の対話が始まります。まず、智積が文殊に「あなたは竜宮でどのくらいの衆生(しゅじょう)を化導(けどう)してきたのか」と尋ねます。文殊は「竜宮において、もっぱら法華経を説いて無量の衆生を化導してきた」と言い、さらに「竜王の娘である八歳の竜女が法華経を聞いて即座に悟りを得た」と語ります。しかし、智積はそれを信じようとしません。仏の悟りは菩薩が無量劫(むりょうこう)の間、難行苦行(なんぎょうくぎょう)を重ねて初めて得られるものであって、竜女が短い時間に成仏したなどということは、とうてい信じられないというのです。智積が不信の言葉を言い終わらないうちに、突然、竜女本人がその場に現れます。そして、釈尊にあいさつして言います。「仏のみが自分の成仏を知って下さっています。私は大乗の教え(法華経)を開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」と誓うのであります。


 即身成仏とは、「苦しむ人を救わずにはおくものか」という仏の強い心を、我が身に開くことであります。この後も、「不信」(ふしん)の言葉が続きます。竜女の決意を聞いて、今度は舎利弗(しゃりほつ)が不信を表明するのであります。舎利弗の不信の理由は二つあります。一つは、智積と同じで、仏の悟りは長い間の苦行によって得られるという固定観念であります。もう一つは、女性は梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・魔王(まおう)・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏には成れないという「五障」(ごしょう)の説です。ここから、女性の身で速やかに成仏するなどということは有り得ない、と竜女を非難するのであります。


 そこで、竜女は、三千大千世界すなわち宇宙全体の価値に等しい一つの宝珠(ほうしゅ)を取り出して、釈尊に奉(たてまつ)ります。釈尊は、これを直ちに受け取ります。そして、竜女は、これを見ていた舎利弗に対して、自分の成仏は、この宝珠の受け渡しよりも速やかなのだと云い放ちます。『宇宙全体と同じ価値を持つ宝珠』とは、宇宙の根源の法である『妙法』を象徴しております。また、妙法の当体である自身の「生命」の象徴であるといっても良いでしょう。それを仏に捧げるということは、かけがえのない自分の身命(しんみょう)をささげることです。つまり、帰命(きみょう)であり、南無(なむ)することであり、信心(しんじん)であります。


 宝珠を仏が受け取ったということは、竜女の命が仏と一体になったということであり、竜女の成仏を証明しているのであります。また、宝珠とは一念三千(いちねんさんぜん)の宝珠のことであり、仏にそれを捧げたことは、竜女が一念三千の妙理(みょうり)を悟ったことを表しております。


 誰もが「宝珠」を持っているのであります。一切衆生が平等に「宝珠」を生命に持っているのです。そう見るのが十界互具(じゅっかいごぐ)であり、一念三千であり、法華経です。十界の中には畜生界もある。竜女は畜身(ちくしん)ですが、当然、畜生界にも仏界が具わっている。しかし、差別観にとらわれた目には、それが見えない。生きとし生けるものに仏界を観る法華経であります。女性への差別は微塵(みじん)もありようがない。女性は成仏できないというなら、それは一念三千では有り得ない。一念三千を否定するならば、自分自身の成仏もない。故に、竜女の成仏は、全女性の成仏を表すだけでなく、実は男性の成仏をも表しているのであります。


  前に、菩薩たちが「二乗は成仏できないが自分たちはできる」と思い込んでいた。しかし、一念三千が分かれば、二乗が成仏できないとしたら、自分の生命の二乗界も成仏できず、自分の成仏もなかったことに気が付くのと同じであります。


 竜女(りゅうにょ)が舎利弗(しゃりほつ)や智積(ちしゃ)に向かってこう叫びます。「汝が神力を以って我が成仏を観よ」と、これは、舎利弗に対し「竜女の成仏」と思うのは、見当違いだ。「我が成仏」と観て行くのだ。と、舎利弗を責めたのであります。そもそも、菩薩は「一切衆生を成仏させてから、その後に自分も成仏しよう」という誓願を立てています。一切衆生の半分は女性ですから、女性が成仏しない限り、自分も成仏しないのは当然といえます。


 提婆品の象徴的な表現は「現証」(げんしょう)によって女人成仏を教えようとしている。「変成男子(へんじょうなんし)(変じて男となって)」のところも、具体的に成仏の姿を示したものです。竜女が「我が成仏を観よ」と叫ぶや、人の見ている前で男性に変わります。さらに、南方の「無垢(むく)世界」に行って、成仏の証明として皆に分かるように「三十二相(そう)・八十種好(しゅこう)」(仏に具わる理想的特徴)を具え、一切衆生に妙法を説いている姿を顕して見せるのです。その姿を、遙かに見た娑婆(しゃば)世界の衆生は大いに歓喜し、最敬礼しました。そして、彼らも不退転の境地を得て、成仏の授記(じゅき)を受けました。これらの「現証」(げんしょう)を眼前に見て、舎利弗・智積は沈黙せざるを得ないのであります。


 この提婆品は、「一個の人間」に提婆(だいば)と竜女(りゅうにょ)の両面がある。竜女の場合、畜生の身そのままで「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)したところに説法の力点があるわけですから色心の内『身の成仏』を象徴しております。また、悪人成仏の場合、善悪は心の問題で、悪人と善人では身体が違うことはありません。そこで、竜女に対比すれば『心の成仏』を象徴することだと思います。「衆生を慈念(じねん)すること、なお赤子(あかご)の如し」とあるように、生きとし生けるものを我が子の様に慈愛で包んでいくということであります。その境涯を女性も男性も、人類全体がめざしていく。そこに竜女成仏の意義があるのです。


 教祖・杉山辰子先生は三徳の実践が最も功徳が大きいと仰せであります。私たちが尊敬する教祖さまの歩まれた道を進むべき努力をしないといけないと思います。


 一念三千の哲理は、「善根を積むべし」とあるように「良い種を蒔く」ことから始まります。そして、心より人の幸せを願う心が大切ではないでしょうか。


 私たちは、三世にわたり功徳を積むことを実践しなければなりません。過去世、現世、未来世へと繋がる『慈悲』 『誠』 『堪忍』の実践が必要であります。そのためにも日々精進することが、『すばらしき人生』への確実なステップアップになるでしょう。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス