四月号は私にとって大樹 掲載 百話となる節目であります。八年という 歳月 が 過 ぎたということですが、まだまだやるべきことはたくさんあります。 日々 精進 して成長しなければいけないと思っております。どうかこれからも宜しくお願いいたします。
旧暦四月を 卯月 と呼び、現在では新暦四月の別名としても用いております。卯月の由来は、卯の花が咲く月「 卯 の 花月 」を 略 したものというのが 定説 となっております。
四月は新年度のスタートの月です。新入学・新学期・新入社と新しいことづくめであります。三月の後半から桜が咲き、 心機 一転 という気持ちで、モチベーション(やる気)を上げ、さらに自分を高めていくには 絶好 の 機会 となります。新しい自分づくりにチャレンジされたら良いのではないでしょうか。
まだまだコロナも 終息 しませんが、 三密 ( 密閉 空間 ・ 密集 場所 ・ 密接 場面 )を 避 け、手洗い、手指の消毒、うがい、マスク着用の 励行 がとても大事であります。現在の 患者 さんは、 下 げ 止 まりの状況です。しかし、どういう状況で 変異株 が 増加 するか予測できません。
「 感染 しない、させない」を 合言葉 に新しい 生活 様式 を 実践 することがとても 重要 であります。
先般の春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆先生三十三回忌法要会には、参拝、法話を中止させて頂きました。聖仏舎利宝塔、教祖殿、本殿での読経のみの開催でした。申し訳ありませんがコロナ 禍 においては人の 密集 を 避 けるための 措置 をとることが重要です。そして、今月開催の釈尊降誕祭も同様に読経のみの開催とさせて頂きます。どうかご理解の上、ご協力をお願いいたします。
私がサラリーマンだった時のことです。最初に 静岡県 に 赴任 した時、 同僚 から静岡市は 温暖 で冬でもコートはいらないとアドバイスを受けましたが、やはり冬は寒くコートが 手放 せませんでした。
富士山は 不思議 なもので空気の 澄 んだ冬場しか 姿 を 現 しません。 富士市 や 御殿場市 という近くにいても 夏場 はほとんど見れません。しかし、日本人なら誰でもそうだろうと思いますが、富士山を見るとなぜか幸せな気分になります。今でも静岡県で働いたことに感謝しております。
当時、 静岡 医薬課 という 部署 で 責任者 をしておりました。部下十名の中で 紅一点 、女性の 営業 担当 のEさんという人がおりました。彼女の 茨城県 つくば市にある 国立 T大学を卒業されました。そのT大学は関東では二位、三位を争うとても優秀な大学でした。彼女の 性格 は、とても明るく、 素直 でまじめなタイプでした。どちらかと言えば 無口 なほうでした。
新卒 で 配属 になったため、 指導 する部分も多くありましたが、素直であるがゆえに、仕事を 覚 えるのも 並 み以上にできました。私は、 県立 K 病院 で 成長 ホルモンをご 専門 にされているK先生には彼女のような、まじめな性格が合うという 直感 のようなものがありました。
そのK先生は他にも 禁煙 外来 をされておられ、現担当のAさんは、タバコを吸うという 習慣 があり、K先生に 嫌 われているのではないかという 嫌 な 予感 がしておりました。ふつう一般的にはタバコを吸う人は、そのタバコのにおいが身体に付きます。先生は以前より彼がタバコを吸っていることに気づいていたと思います。
Aさんは 中堅 社員で 成績 も 悪 くないのですが、K病院の担当者としてタバコを吸うということが 重大 な 問題 であると考えておりました。私は、彼にタバコをやめるか、それとも担当を 替 わるか、どちらにしますかと問いかけました。彼の答えは、タバコはやめられませんとの回答のため担当をEさんに替えました。
Eさんは、K先生に対しその 才覚 を 発揮 しました。 徐々 に先生に 認 められ、 信頼 されるようになりました。信頼を 築 くには時間がかかりますが、 壊 す時は 一瞬 です。彼女は頭もいいし、性格もいいから信頼されるのです。一年、二年と徐々に売り上げを上げ、 新規 患者 獲得 に全力で取り組んだ 結果 だと思います。
一般的には 無口 な人は 営業 に向かないように思われがちですが、人が 失敗 する時は、必ず 余計 なことを言っていってしまう 傾向 があります。ことわざで「 蛙 は口から 呑 まれる」とありますように、「口は 災 いの 元 」なので、話す内容には 注意 が必要です。「 沈黙 は 金 なり」というように必要のないことは言わないほうが 賢明 なのです。
成功 と 失敗 は 常 にあります。本当の意味での成功者は、失敗を 恐 れず失敗しても、失敗から何かを学ぶことです。失敗しないという 智慧 を 開発 するのです。二度と同じ 過 ちを 犯 さないことが 極 めて 重要 なのです。
お釈迦さまは、「人の生き方」を説かれました。本来生命には、強い生命力があるはずです。 想像 できないほどの力があるのです。しかし、それを 発揮 できません。日々、自分に力があるという感じよりも、何の力もないという 感覚 を持つことが多いのです。その理由は、私達がエゴ( 自我 )という 錯覚 を中心にこころを 働 かせているからです。この錯覚に、 貪瞋痴 という汚れが付くのです。本来 輝 くべきこころが汚れの中に 沈没 しているのです。
私たちは皆、エゴ(自我)の気持ちに 慣 れているのです。 自我 を 張 りたくてしょうがないのです。しかし、本当は 真理 に 目覚 めてほしいのです。他の生命の 協力 なしに、自分の命は成り立ちません。自我を張るのではなく、どうすれば皆、 味方 になってくれるのかと考えるべきです。これが正しい生き方なのに、私たちは 躊躇 なく自我を張るのです。こころの中は、エゴ、 欲 、 怒 り、 嫉妬 、 高慢 、 落 ち 込 み、 後悔 などの 汚 れでいっぱいです。
自分が 怒 ると周りも怒る。自分が 嫉妬 すると周りもいやな気持ちになる。自分一人の生き方は、その 他 大勢 の生命に対して、大変な 迷惑 になり得るのです。
人間のこの 基本的 な問題は、 慈悲 の 実践 で完全に 解決 できます。こころに 溜 まっている汚れが、徐々に消えていくのです。自分のこころから、 安 らぎ、やさしさ、思いやり、 気配 りなどのエネルギーが発生するようになるのです。周りの生命はそれで幸福を感じるようになれる。命あるものは皆、自分の味方に変わってしまう。これでこころの本来の力を 発揮 したことになるのです。
慈悲の気持ちがある人は、たとえ 災害 に 遭遇 しても、不幸に 陥 ることはないのです。たちまち立ち直ります。自然災害さえも、 避 けてくれる、たとえ、避けることが 不可能 な災害に 遭遇 しても、 簡単 に立ち 直 れます。病気にかかっても、治りは早いのです。
人格 が向上するのです。 罪 を 犯 せない人間になれる。 悪 行為 はしないではなく、悪行為はできない人格者になるのです。周りにとやかく言われる人間ではなく、周りから 教 えを 請 われる人間になるのです。皆に好かれるのです。慈悲の気持ちが身についた人は、 恐怖感 、 不安感 から 解放 されるのです。
お釈迦さまは、こころが 慈悲 に 満 たされた生き方こそ、 最高 の生き方であると説かれております。そして、いかなる生命であっても、その生命は自分のことを大事に考えているという 事実 もありますが、生命は他人から 親切 にされたいという 希望 も持っております。生命が自分を大切にすること、他人が自分に対して親切に対応してくれるよう 期待 することに変わりありません。 結論 から言えば 一切 の 生命 に対して、 慈 しみを 育 てることが人間の生きるべき道なのであります。
それが、お釈迦さまが言うところの「 理性 で考える」ということです。一人ひとりの人間に、「他の生命に対して 無量 の 慈 しみを 育 てるべきである」と説かれるのです。
たとえば一時間、地球上のすべての人々が「慈しみ」の気持ちを抱いたらどうなると思うでしょうか。その一時間のあいだ、世界は天国のように変わるでしょう。 殺人 は起こらない。 喧嘩 はない。 怨 み 憎 しみはない。苦しんでいる人は皆まわりから助けてもらえる。 盗 みなどの 犯罪 も、その時間は起こらない。
慈悲 に 基 づいた生き方が何よりも 優 れている正しい生き方であることには、 疑 う 余地 はありません。しかし、人間は、なかなかこの 実践 をしようとしないのです。エゴ( 自我 )で、 怨 み 憎 しみで、他人と 競争 しながら生きることに 慣 れているのです。平和が 欲 しいという 希望 はあるが、その希望を 叶 える道を歩まない。ですから、 理性 のある個人がこの実践を始めなくてはいけないのです。 世直 しする前に、 自分 直 しをしなくてはいけないのです。
もしある人が、この経典に説かれているように慈悲の実践に 挑戦 したとしましょう。その時どんな結果になるでしょうか。それは、エゴ(自我)を乗り越えて道徳的な生き方が自然にできるようになります。「 邪見 を乗り 越 え、常に 戒 を 保 ち、 正見 を得て、 諸々 の 欲望 に対する 執着 をなくし、 六道 輪廻 に 終止 符 をうつ」ことです。
慈悲 の 実践 は、まず「 一切 の 生命 」です。これを 理解 する 能力 は 脳 にはないのです。脳が持っている能力を 駆使 して、理解してゆくのです。 無量 の生命を感じられるようになるとは、こころが 狭 い 次元 を 破 って 超越 したということなのです。 見解 とは「 物事 に対する 価値 判断 」ですが、狭いこころで物事を 主観的 に見る人間は、 無数 の見解を持っております。その見解は一つも正しくありません。こころが狭い次元を破って 無限化 すれば、一切の見解は消えてしまうのです。
見解 の中でも 基本的 な見解は、エゴ( 自我 )という 錯覚 です。「私がいる」という 概念 を 前提 にして、世間に対する 意見 を 形成 するのです。慈悲の実践によって、「私が 確実 に存在する」という前提が 崩 れてしまうのです。 土台 が 壊 れたら、その上に成り立った他の見解も壊れてしまうのです。
人はなぜ 罪 を 犯 すのでしょうか。自分のためです。エゴ(自我)の 錯覚 があるからです。他の生命を 軽視 しているからです。慈悲の実践をはじめたら、それだけのことで道徳的な人間になっているのです。何の罪も犯せない人間になれるのです。 慈悲 の 実践 をしながら、うそをついて人を 騙 すことはできません。従って、 戒律 を 完璧 に守る人になっているのです。すべての 見解 がなくなったところで、こころに 正見 が現れるのです。正見とは生きるとはどういうことかと、ありのままに 発見 することです。
一切の生命のことを 観察 してみると、わかることです。それから 五 欲 に対する 執着 も消えるのです。「なんとしてでも生きていきたい」と思う人は、五欲に執着します。五欲とは、見る、 聴 く、 嗅 ぐ、 味 わう、 触 れるという五つのことです。 自我 意識 がなくなると、「何としてでも生きていきたい」という気持ちが消えるのです。それは五欲に対する執着がなくなったということです。
五欲に対する執着がなくなったら、どうなるでしょうか。当然、「生きていきたい」という 存在 欲 が消えてしまうのです。 慈悲 の 実践 に成功した人は、この肉体が 存続 する限り、 穏 やかに生きているのです。しかし、「死は怖い。死後が心配だ。死後も天国で永遠に生きていたい」などの欲望もこころにないのです。死後、ふたたび人間の世界に戻ることはない。この 境地 を仏教用語で「 不環果 」と言います。 悟 りの三番目の 段階 です。その境地に達した人は「 梵天 」に生まれるのです。梵天の 次元 から落ちることはないのです。しかし、そこで 永遠 不滅 かというと、そうではないのです。梵天もまた 無常 です。梵天としての命も、無常であることを 観察 して、仏教用語で「 阿 羅 漢 果 」という最終の 悟 りをひらいて、完全な 涅槃 に 達 するのです。これが慈悲の実践の結果なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じることの大事さを説かれました。私たちが妙法を深く信じると時に大きな功徳があるのです。 行住坐臥 いついかなる時も妙法蓮華経の 五 文字 を 唱 えることで 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると 仰 せです。そして、 大難 が 小難 に小難が 無難 に 罪障 を 消滅 することができるのであります。
教祖さまの 語録 に「 功徳 は 銘々 持 ちです。この功徳の多い人が 人格者 、 福徳者 でありまして益々幸福が来る人となります。 金銀 財宝 よりも 尊 きものは、かくして 得 たる 功徳 であります。功徳さえあれば金銀財宝は自然に集まってくるのであります。 如何 に金銀財宝を大切になすとも、功徳が足らなかったりすれば永く 持 つことはできません。 萬宝 の中にあって、功徳が第一となるを忘れぬようにして下さい」と、このように 徳 を 積 むということはとても大事なことです。ご先祖さま、ご両親さまへの 感謝 とご 供養 も大事です。私たちが、ご先祖さまへのご供養をすることで 護 られるのです。
教祖さまがおっしゃいますように『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事であります。慈悲の実践をして自分の 人格 を高めることです。慈悲のこころを育てれば必ず徳が積めます。このように功徳を増やせば 解脱 の状態に近づくことができます。 一切 の 執 着 を 捨 て、ものごとをありのままに 観 ることで苦しみからの 脱却 をしなければならないのです。私たちの日々「三徳」の実践によって〝すばらしき人生〞へと高めていくことがとても重要なのであります。
合 掌