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世界平和を
大樹
すばらしき人生101

新緑しんりょく の 季節きせつ となり、 あたた かい日が続くようになってまいりました。普段ですと五月はゴールデンウイークに海外、国内旅行で大勢の人が移動します。新型コロナウイルスの 影響えいきょう もあり昨年から各個人の 行動こうどう 変容へんよう が求められており 自粛じしゅく ムードとなりました。しかし、一年以上コロナの 状態じょうたい が続くと、気が ゆる んで徐々に活動が活発に てん じてきております。


 コロナで学んだことも多々あります。この世の中には、自己中心的な 思考しこう 回路かいろ を持つ人間がいかに多いか、そうした 身勝手みがって な人が多いことを 痛感つうかん しております。こういう時こそ 不要ふよう 不急ふきゅう な外出は控えるべきです。


 コロナ以前の生活がどれほど良かったか、普通に生きられることがどんなに 素晴すば らしいことか、改めて感謝のこころを持つことが大事です。


 最近では 従来型じゅうらいがた から へん 異株いかぶ に  き  わっている状況で、五十歳以下の 感染者かんせんしゃ が増えております。 三密さんみつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密接みっせつ )を  け、手洗い、うがい、マスク着用の 励行れいこう が望ましいのです。


 いつ 終息しゅうそく するかわからない、先の見えないトンネルを  け出せるのはいつなのか、 治療ちりょう やく はどうなっているのか、ワクチンも不足しており、ちゃんと打てるかどうか、不安はありますが、まずは 免疫力めんえきりょく を高めることも重要です。


 人間にはNK 細胞さいぼう (ナチュラルキラー細胞)という 免疫めんえき 細胞さいぼう があります。ガンやウイルスから守ってくれるありがたい細胞です。それは、どのような時に 活性化かっせいか するものなのかというと、笑ったり、喜んだり、 前向まえむ きな 思考しこう になる時に活性化してくれるのです。逆に、泣いたり、悲しんだりしていると活性化しなくなるのです。コロナもウイルスですから、笑っていたら かか りにくくなると思います。大いに笑うことをお すす めしたいと思います。


 私がサラリーマンの時でした。 静岡県しずおかけん の責任者をしておりました。 配属はいぞく になって三年目のことです。Mさんという 新人しんじん が配属となり、彼を育てることと自分の 担当たんとう 施設しせつ の売り上げを  ばすことが主な 業務ぎょうむ でした。彼には静岡県 東部とうぶ を担当してもらいました。


 明るくまじめな性格でした。人間は 人柄ひとがら がとても重要です。しかし、彼は仕事に対する、 こだわ りがあまりないタイプでした。普段はよくしゃべるのですが、先生の前ではとても無口になってしまうのです。しゃべりすぎは良くありませんが、うまく話を切り出すきっかけをつくらないと営業はできません。  き 上手じょうず にならないといけないということです。


 先生から何か聞きたいことがあって、話がある場合もありますが、話をしてくれるケースは少ないのです。


 二年ほど  ちましたが、 一向いっこう に私の 希望きぼう する営業マンにはなれませんでした。 糖尿病とうにょうびょう の 患者かんじゃ さまは年々増加しております。 治療法ちりょうほう も 進化しんか し、より 厳格げんかく なコントロールをすることが重要で、一日一回の 注射ちゅうしゃ から二回、三回へと増えております。当然、売り上げは増えます。


 よほど先生に きら われない限り売り上げは増えます。言い換えれば、あまりしつこく面会しなくても売り上げは上がるものです。


 ある日、彼から話があり会社を  めたいという内容でした。会社を辞める理由を聞いたら、いろんな 理屈りくつ をつけて言いました。「会社の 企業きぎょう 理念りねん が 現実げんじつ と違う」とか「仕事が楽しくない」などでした。この当時は静岡県を三人で営業しておりましたので、彼が辞めることには賛成できないけれど、仕事ができないなら、 転職てんしょく したほうが彼にとっても良い結果に つな がると思い 退職たいしょく を みと めました。


 仕事は苦労の 連続れんぞく です。仕事の 対価たいか として給料をもらうわけですから、仕事ができない人は 給料きゅうりょう 泥棒どろぼう と言われてしまうのです。


 私は、上司に一人営業を 配属はいぞく してもらえるように 依頼いらい し 確保かくほ できました。この仕事に合う人、合わない人それぞれいますが、楽しんで仕事ができなければ、続かないものです。そして、自分の 限界げんかい にチャレンジ( 挑戦ちょうせん )することで仕事の喜びが わか るのです。最後まで絶対にあきらめないという強い 信念しんねん を 醸成じょうせい することが成功者になる 秘訣ひけつ なのであります。


 さて、「生きる」というのはさまざまな 選択せんたく です。人間は生まれてから死ぬまで、さまざまな選択をします。


 人生最初の選択は、この世に生まれた 瞬間しゅんかん にするのです。お母さんの 胎内たいない にいる時、赤ちゃんは 肉体にくたい だけで何もいりません。呼吸もしてないし、何かを食べて 栄養えいよう を  る必要もありません。何もしなくてもよい 環境かんきょう から外に出ると、いろいろなことをしなくてはならなくなります。


 まずは、 呼吸こきゅう をしなければいけない。呼吸がちゃんとできるかどうかは、まさに 死活しかつ 問題もんだい です。生まれて初めて はい に 空気くうき を  い  んだ 瞬間しゅんかん に、赤ちゃんは「オギャー」と泣きます。これが最初に行う選択です。


 生まれたら 栄養えいよう も  らなければいけません。生命は、みな生きようとする力を持っております。生きたくない生命はありません。そこには 個人差こじんさ があります。「生命の 危機きき を  けるため」の 選択せんたく 、「生きていくため」の選択がなされなければならないのです。


 赤ちゃん自身は何もわかりませんから、たいていのことは泣いて うった えます。そうすれば「どうして泣くのだろう」と おや が 想像そうぞう して、あれこれ 対処たいしょ してくれます。泣けば、 不快ふかい なことをいろいろ 解決かいけつ してもらえます。泣くという 判断はんだん をし、 行動こうどう を選択するのです。「判断」というと、頭で考えてすることのように思うかもしれませんが、 本能ほんのう によって 反射的はんしゃてき にやっていることもみな判断による行動です。


 しかし、お なか が空いたら泣けばいい、おむつを  えてほしかったら泣けばいいといった、それさえ  たされれば生きていける、そんな楽な 時期じき はそう長くは続きません。 成長せいちょう の  てい で、自力で生きていけるよう、いろいろなことを自分でできるようにと しつけ けられていきます。それと同時に、自分の 感情かんじょう 、 意志いし 「 自我じが (エゴ)」というものができるのです。


 三、四歳になると、 保育ほいく えん や 幼稚園ようちえん に行きます。 最初さいしょ から行きたくてたまらない子なんていないのです。家にいたほうが、 安心あんしん で 心地ここち よいし、楽しい。家族は自分を一番大事にしてくれて、わがままを言っても聞いてくれる。


 それが、自分と同じような子供たちが集まってくる場所で 一緒いっしょ に  ごすことになるのです。自分が一番大切にされる 環境かんきょう から、 一変いっぺん する訳ですから、本人はショックも受けます。中にはストレスから「赤ちゃん がえ り」をしてしまい、もう完全におむつが  らなくなっていたのに、なぜかまたお  らしをしてしまうようになる子もいます。


 けれど、ここは自分の  き 勝手かって が 通用つうよう する世界ではないということを一つ学んで、 自我じが と 葛藤かっとう しながらものごとを 判断はんだん するようになっていくのです。ブランコで あそ びたい時に他の子が乗っていたら、泣いてわがままを言うのではなく、きちんと 順番じゅんばん を待って 交代こうたい して乗るとか、そういう 他者たしゃ と きょう ぞん していくためのルールを おぼ えていきます。


  環境かんきょう に  れ、 友達ともだち とも 仲良なかよ くなって、楽しい毎日が過ごせるようになったころには、もう 卒園そつえん です。今度は小学校に入って、また新しい環境でいろいろ 苦労くろう しなければならない。同じことが中学校、高校、大学、そして、社会に出ても  り かえ されます。


 自分で「ここに行こう」と決めて入った学校や会社のはずなのに、いろいろなことで なや んで、 くる しんで、 後悔こうかい したり、  げ  したくなったりするのです。どうしてでしょうか。その 原因げんいん のほとんどが 自我じが (エゴ)にあります。自分の 感情かんじょう というものに こだわ らなければ、もっと楽になるのですが、人間には感情があります。仏教では「自我のない世界」に生きることを目指して修行しますが、世間一般には自我のない人はまずいません。自分がかわいい。自分が大事。みんな自我があるゆえに、悩みや苦しみを深くしているのです。


 いじめ 問題もんだい というのは、 自我じが が 否定ひてい されたと感じるところで起きます。ものを かく された、 こわ された、 無視むし されたり、 なぐ ったり  ったりして身体を傷つけられた、無理やり何かを 強要きょうよう されるなど、いじめにはいろいろなかたちがあります。その 背景はいけい にあるものはすべて「 自我じが の 否定ひてい 」なのです。


 会社が いや になるのも、問題の  っこにあるものは同じです。 きび しい 入社にゅうしゃ 試験しけん を 突破とっぱ して入った会社なのに、三年も経たないうちになぜ  めたくなってしまうのか。「自分に合った仕事をさせてもらえない」とか「人間関係に つか れた」とよくいいますが、その 裏側うらがわ には、自我が否定されているという思いがあるのです。


 私たちが楽しいと思うのは、自分の自我を認めてくれる人と 一緒いっしょ にいる時です。世の中の大多数の人は、自分の母親に深い 愛着あいちゃく があって、母親を大事にしようとします。なぜなら、自分の自我を誰よりも みと めてくれるのが母親です。どんなに性格が悪かろうと、母親は自分を認めてくれる。だから、このうえない大切な存在なのです。


 毎日の生活の 些細ささい な問題から、大きな 転機てんき となるような問題まで、さまざまな 選択せんたく をして人生をおくり、人はやがて死を むか えます。その 年齢ねんれい が おそ かれ早かれ、死は誰にでも おとず れます。


 いつ、どんなふうに死ぬか、そんなことは誰にもわかりません。しかし、そこでも「 自我じが あい 」があり、 なや ませ、 くる しませます。「病気になって寝たきりになったらどうしようか」「ひとりぼっちで家で死んでいて、ずっと誰にも気づかれなかったらどうしようか」と、自分の生命に 執着しゅうちゃく がある人ほど、いろいろなことを考えて悩むのです。家でひっそり死ぬのは嫌だと言いながら、ひとたび入院すると、「ああ、 最後さいご の時は、 病院びょういん でいろんな 機器きき につながれて むか えるのではなくて、家の 布団ふとん の上がいいな」と言う。


 これもまた 妄想もうそう です。どう死ぬかは自分で 管理かんり することのできない 問題もんだい です。その管理できない問題にいろんな 条件じょうけん を付けるということは、妄想でしかないのです。結局、 自我じが がそういうことを言わせるのです。


死ぬ時まで、私たちは自我という恐ろしい おに 、 悪魔あくま に  いかけられていて、 一瞬いっしゅん たりとも やす らぎを与えてくれません。そればかりか、自分が死んだらどんな 葬式そうしき をやってほしいとか、お はか をどうしてほしいとか、現代人は死後のことまで 心配しんぱい するようになっています。葬式に誰が集まろうと、お墓がどうされようと、自分には決して知りえないこと、 かか わることのできない話です。そんな問題まで自分の自我を押し付けようとしているのですから、どこまで 利己的りこてき なご 都合つごう 主義しゅぎ になってしまっているかということです。


 息を引き取って死んだ瞬間に、肉体は自分のものではなくなります。 地位ちい や 名誉めいよ や 財産ざいさん もなくなります。家も財産も生きている人のものになるのです。しかし、今度は残された家族の自我・エゴがうごめき始めるのです。 遺産いさん をめぐって、 親族しんぞく がそれぞれ 自我じが を  り  い、いかに自分に 権利けんり があるかを 主張しゅちょう するのです。いわゆる 骨肉こつにく の あらそ いというのが始まるわけです。


 人間とはなんとも なや ましい生き物です。 自我じが の 錯覚さっかく というものが いっ 生涯しょうがい ずっと追いかけてきて、いえ死後まで追いかけてきて、 なや みの たね になっているのです。


 では、どうすれば良いのでしょうか。どういう生き方をし、 選択せんたく をすれば、その苦しみから 解放かいほう されることができるのでしょうか。


 ものごとの 判断はんだん と 選択せんたく を、 自我じが というもの、 感情かんじょう というものを  きにして行えば必ず苦しみや悩みから解放されます。自我や感情に支配されない生き方を選択することがとても重要なのであります。


 お釈迦さまは、「 諸行しょぎょう 無常むじょう 」を説かれました。形あるものは必ず こわ れる。変化しないものはこの世にはない。このように物事をありのままに知ることの重要性を説かれました。私たちは、「 謙虚けんきょ に生き」 変化へんか に 対応たいおう できるようにすることがとても大事です。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの大切さを説かれました。 信心しんじん の強さにより 功徳くどく が違うと言われました。深く、深く信じていくと見えてくるものがあるそうです。私たちは、 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えることで功徳を頂けるのです。常に妙法を唱えていれば、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができ、 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ することができるのです。


『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の 三徳さんとく の 実践じっせん がとても重要です。三徳を実践することで自分のこころを「 きよ らかに、 綺麗きれい に」することが、人格を高めることとなります。こころを育てて人格を高めれば、必ず〝すばらしき人生〞へと つう ずるのであります。


 


合 掌


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