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世界平和を
大樹
すばらしき人生102

六月を 水無月みなづき と言いますが、水無月の「無」は「の」ということで「 みず の つき 」すなわち、 梅雨つゆ を意味していると言われております。今の時期に田や畑に雨が少なければ、作物は育ちません。雨が  るから私たち人間は生きられるのです。


 


  自然しぜん の流れで 季節きせつ は うつ り  わっていきますが、コロナの状況は一段と きび しさが  してきております。現行のコロナウイルスから へん 異株いかぶ が生まれ、また更に 二重にじゅう 、 三重さんじゅう 変異株へんいかぶ へと  き  わってきております。 感染力かんせんりょく も二倍近くまで高くなってきております。


 


 これは、コロナも生き物であるという 証拠しょうこ です。人間から 攻撃こうげき されれば、さらに強いウイルスに 変異へんい し 子孫しそん を残そうとするごく自然な現象です。生き物は生きては死んで、生きては死んでを  り返しているうちに、さらなる 強靭きょうじん なウイルスへと変化をするのです。 いたち ごっこと言うか、とても 厄介やっかい な 問題もんだい であります。


 


  過去かこ の 人類じんるい の 歴史れきし から考えますと、何度となく人間が苦しめられた 細菌さいきん やウイルスでも、すべて人間の 智慧ちえ が まさ り、 克服こくふく してまいりました。必ず今回の 新型しんがた コロナウイルスに  ち  つ日はやってまいります。それまでは、 三密さんみつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密接みっせつ )を  け、手洗い、うがい、マスクは 必須ひっす です。さらに手指の 消毒しょうどく など、まめに行っていただき、「コロナを正しく おそ れる」を 教訓きょうくん に 感染かんせん 防止ぼうし に努めて頂きたいと思います。


 


 私がサラリーマンだった時のことです。 四国しこく の 責任者せきにんしゃ をしておりました。四国というのは一言でいえば おお らかというか 大雑把おおざっぱ というか、そんな おだ やかな 土地柄とちがら とのんびりした 雰囲気ふんいき が ただよ っておりました。私は高松市内に三年と八ヶ月住んでおりました。


 


  部下ぶか が二十名ほどいました。 比較的ひかくてき 若手わかて が多かったのですが、私と 同級生どうきゅうせい のO課長は 薬剤師やくざいし でした。同級生を使うのは何かと 遠慮えんりょ してしまうところがありますが、そこは仕事と  り  って 指導しどう しないといけないと思い きび しく行いました。


 


 彼は、とても 人柄ひとがら もよく頭がいいのですが、フットワーク( 機敏きびん )があまりよくないタイプでした。 年齢的ねんれいてき なこともありますが、やる気という点が今一つでした。


 


 そんな時、国立T大学病院でのミッション( 使命しめい )はヒト がた へのインスリンの  り  えをしておりました。本社より社長同行で第一内科のI 教授きょうじゅ と 面談めんだん をしました。しかし、Oさんの 言動げんどう が教授の 逆鱗げきりん に触れ怒らせてしまったのです。社長もショックを受け 火消ひけ しに 躍起やっき になっていました。


 


 彼が教授に対し 動物どうぶつ インスリンからヒトインスリンへの切り替えが全国ワースト( 最悪さいあく )であることを告げ、早く  り  えて頂くように 上手じょうず に話せばよかったものを、教授の 立場たちば をつぶした形になったことが大きな 原因げんいん でした。


 


 彼は 大失態だいしったい の後しばらくして、会社を  めることとなりました。身から  た さび というか、 普段ふだん の 行動こうどう が出たということでしょう。その後、彼は 調剤ちょうざい 薬局やっきょく を すう 店舗てんぽ 開業かいぎょう し今までのコネで 処方箋しょほうせん を 獲得かくとく し 景気けいき も良かったようでした。


 


 Hさんという部下がいました。彼は独身で四国に四年ほど勤務しておりました。 中途ちゅうと 採用さいよう で 最初さいしょ の 赴任地ふにんち が四国ということでした。 愛媛県えひめけん の 東部とうぶ を担当しておりました。彼は、性格もよく行動力もあり、とても明るい人でした。 真面目まじめ でコツコツと 地味じみ に 活動かつどう するタイプでした。


 


 ある日、彼と食事に行った時、四国も長くなったから転勤したいということを聞きました。彼の 実家じっか は 千葉県ちばけん の 我孫子市あびこし とのことでした。私は、彼に四国で何かをやったという 充実感じゅうじつかん はありますかと 質問しつもん しました。彼の答えは、普通に仕事ができ問題はありませんでした。との回答でした。


 


 私が質問した内容は、普通に仕事ができたということを聞いているのではないのです。何かを「やり  げた」とか、「満足のいく仕事ができたかどうか」を聞いたのですが、残念ですが彼は普通に仕事をやることが大きな目標と 勘違かんちが いしていたのです。


 


 更に私は、彼に「君は こだわ り」をもって取り組みましたかと聞いたら、そういうものはありませんとの答えでした。


 


 彼は、M 課長かちょう からどういう 教育きょういく を受けたのか、どのような 指導しどう をしたのか 疑問ぎもん が残りました。私が、課長に確認したらHさんは地元を離れて生活することに疲れているようだとの回答を受けました。課長に 環境かんきょう の話ではなくどうしたら 戦力せんりょく を上げることができるかということの 宿題しゅくだい を与えました。


 


 結局、課長も十年以上 単身たんしん 赴任ふにん をしていて、 転勤てんきん したいという気持ちがあったのでしょう。課長が、ものの 本質ほんしつ を 見極みきわ める 五感ごかん ( 視覚しかく ・ 聴覚ちょうかく ・ 嗅覚きゅうかく ・ 味覚みかく ・ 触覚しょっかく )を みが かないと部下にはそのこころは伝わりません。特に大事なのは 嗅覚きゅうかく と だい 六感ろっかん である 直感ちょっかん です。


 


 部下を育てるということは、自分自身が育たないとできません。今回の件はM課長に問題があり、彼に責任をとってもらうことにしました。私は課長が希望していた実家がある 熊本県くまもとけん とは別の地域へ転勤の 下克上げこくじょう を出したのです。ここで彼が 奮起ふんき し せい いっぱい 努力どりょく して、 復活ふっかつ できるか、はたまた くさ ってしまってダメになるか。二つの 選択せんたく が迫られるのです。


 


 彼が東京に行って四年後に見事営業部に 復活ふっかつ できたのです。どんな 弊害へいがい があろうと、どんな 苦境くきょう に立たされようとも、 努力どりょく ・ 精進しょうじん することがとても大事です。努力は 裏切うらぎ らない。努力は必ず むく われるものと 確信かくしん しております。


 


 さて、仏教の立場で考えますと、私たち人間は、 だれ しも 感情かんじょう を持っています。感情とはその人が持っている 本能的ほんのうてき な 情動じょうどう で、つねに自分を中心としている 主観しゅかん です。仏教ではこれを「 煩悩ぼんのう 」と呼びます。


 


 たとえば、とても美しい花が咲いているのを見て、「きれいだな」とこころが動きます。そうすると、人間はそこから 二次的にじてき な 感情かんじょう を いだ きます。見ただけでは 満足まんぞく しなくて、この美しさを自分のものにしたくなるのです。「そうだ、これを 写真しゃしん に  ろう」と思います。昔はカメラがないと撮れませんでしたが、今ではスマートフォンがあるので、いつでもどこでも 手軽てがる に  れます。しかし、他の人が花の周りにいると、写真を撮るのに 邪魔じゃま です。「ちょっとそこのあなた、邪魔ですよ。私がこのきれいな花の写真を撮ろうとしているのに、撮れないじゃないですか。ちょっとそこをどいてください」。そう口に出すか出さないかは人によると思います。少なくともそのようにこころの中で思って、人を  しのけて  ろうとします。


 


 もっと単純な感情に、「  きか きら いか」があります。好きなことはやりたいし、嫌いなことはやりたくない。しかも感情は、そのときどきの状況によって変わるものです。「昨日はこの仕事やりたいと思っていたのですけど、今日になったらやりたくなくなったのでやりません」、このようなことを言っていいことになったら大変です。たちまち社会が立ち行かなくなってしまいます。


 


 このように 感情かんじょう で 行動こうどう すると、ろくなことになりません。感情というのは、自分の 都合つごう のいいほうに、いいほうにとこころを 誘導ゆうどう するのです。感情の おもむ くままに行動したら、ほとんど 間違まちが った 選択せんたく になります。


 


 感情をなくしてしまうことはできません。しかし、 感情かんじょう に なが されないようにすることはできます。 衝動しょうどう や しゅう ちゃく の 抑制よくせい を 学習がくしゅう することで、感情の 起伏きふく に とら われない 冷静れいせい な行動ができるようになっていきます。それがお釈迦さまの言われる「 理性りせい を  につける」ということです。


 


 何かを 判断はんだん し、 選択せんたく するという行為は、つねに「 理性りせい 」で行われなければいけないものなのです。


 


 なぜこの人間社会には 法律ほうりつ 、 規則きそく 、ルールがこんなにたくさんあるのか、その理由は、 根本的こんぽんてき に人間が 感情かんじょう で うご きたがるからです。


 


  泥棒どろぼう をする人は、「  しい」という 感情かんじょう が おさ えられない人です。その感情がどんどん ふく らんで、「なんとしてでも」手に入れたくなる。本来なら働いて自分でお金を貯めて手に入れようという当たり前のやり方が考えられなくなってしまって、 非合法的ひごうほうてき な  っ  り ばや い方法を 選択せんたく してしまうのです。


 


  法律ほうりつ とは何なのかをあらためて 定義ていぎ するとすれば、「 人間にんげん が 各々おのおの の 感情かんじょう で 身勝手みがって な 行動こうどう を思いとどまらせ、社会に 秩序ちつじょ と 規律きりつ を たも たせるためにもうけられたもの」という 解釈かいしゃく になります。


 


 店内に「 万引まんび きは 犯罪はんざい です」という  り がみ があるお店があります。それは、 衝動的しょうどうてき な 感情かんじょう を おさ えきれずについ万引きをしてしまう人に対して、 冷静れいせい な自分を取り戻して欲しい、という ねら いがあるのです。感情よりも理性のほうが勝っていれば、 犯罪はんざい 行為こうい をするという選択はありません。


 


 理性が犯罪に手を  めることがないように自分を守ってくれているのです。人間は感情で動いていますから、それをコントロールして 自己じこ 管理かんり する必要があるのです。


 


 理性がどんどん大きくなっていくと、感情は抑えられます。完全に消えるわけではないですが、何かを 判断はんだん したり行動したりする時に、 感情的かんじょうてき なものが 選択せんたく の 条件じょうけん にはならなくなっていくのです。


 


 ご存じのように 糖尿病とうにょうびょう という病気は、 生活せいかつ 習慣病しゅうかんびょう と言われております。なぜ糖尿病になってしまうかというと、自分の感情に負けて好きなものをたくさん摂りすぎたというケースもあります。この病気は 罹患りかん すると一生治らないと言われておりますが、それでも本人が 食生活しょくせいかつ やライフスタイルを 改善かいぜん すれば、 悪化あっか することは ふせ げます。


 


 たとえば、病院で「あなたは一日これとこれ、こういう 種類しゅるい のものを食べなさい」とアドバイスされます。それは 客観的きゃくかんてき な 判断はんだん 、 理性りせい のアドバイスですから、きちんと聞いたほうがいいのです。そして、大好きなケーキを食べたいと思っても、ケーキをやめて野菜を食べるようにする。これは理性のアドバイスを受け入れた理性の行動です。その人がケーキを きら いになったわけではありません。好きだけれども 感情かんじょう の おもむ くままに食べていたら身体に悪いから、死を招くことになるリスクが高いから、食べるのをやめるのです。つまり、好きであることに変わりはなくても、食べ物を選択する時に「好き」であることが条件にはならなくなるわけです。


 


  理性りせい は生まれつき持っているものではありません。学ばなければいけないもの、育てるものです。 しつけ とは理性を教えているのです。「やりたいけれど、これはやってはいけません」「こういう時には、こうしないといけません」と、社会で生きていくために 不可欠ふかけつ なマナーやルールを教えます。


 


 幼い子供に何も教えないと、食事の 最中さいちゅう も席を立ってあちこち動き回ります。まだ器に食べ物が残っていても、感情はもう次に何して遊ぼうかということしか考えていません。外から家に入る時、 くつ を  ぎ  らかします。片方の靴は玄関の外に、もう片方は家の中に転がったりします。ただ早く家に入りたいということしか考えていないのです。そういう子供に、「食事の時はちゃんと席について食べなさい」「残さず食べなさい」とか、「脱いだ くつ を そろ えなさい」と教えることで、一つひとつ学習していきます。


 


 まともな人間になるということは、 理性りせい がどの 程度ていど 、身についているかということです。それは親の しつけ 、学校での躾の程度によりますから、どこまで理性がきちんと身についているかは人によってそれぞれです。


 


 学べば学ぶほど、いろいろな物事を知れば知るほど、理性のレベルは上がっていきます。理性の能力が上がると、感情でする判断が減り、間違いが少なくなります。


 


 自分の選択が正解だとなると、そこに喜びが生まれます。うまくいっていると思えるからです。この「うまくいってるんだ」という喜びは、 単純たんじゅん な好き きら いの 感情かんじょう とは ちが うものです。自分の中に湧き上がるそのときどきの 衝動的しょうどうてき 欲求よっきゅう をコントロールして、正しい行いができたという 充実感じゅうじつかん となるのです。その充実感が、また次の正解を出すこと、次の正しいふるまいをすることに つな がっていきます。


 


 なにげなく選択していることが、すべて正解であるということであれば、その人は幸せです。そういうところまで理性を育てることが私たちの大きな目標となるのです。


 


 教祖・杉山辰子先生は妙法の 功徳くどく を信じることの とうと さを  かれました。 ふか く 信心しんじん することと、そうでない場合の功徳には大きな 差異さい があると言われました。ようするに、深く信じたほうがより大きな功徳があるのです。そして、 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も、妙法蓮華経の五文字を唱えると、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができると おお せです。


 


 私たちも教祖さまを見習って『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の 三徳さんとく の 実践じっせん がとても大事です。実践すれば 人格じんかく が高まり〝すばらしき人生〞の軌道へと入っていけるのです。


 


合 掌


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