六月を 水無月 と言いますが、水無月の「無」は「の」ということで「 水 の 月 」すなわち、 梅雨 を意味していると言われております。今の時期に田や畑に雨が少なければ、作物は育ちません。雨が 降 るから私たち人間は生きられるのです。
自然 の流れで 季節 は 移 り 変 わっていきますが、コロナの状況は一段と 厳 しさが 増 してきております。現行のコロナウイルスから 変 異株 が生まれ、また更に 二重 、 三重 変異株 へと 置 き 換 わってきております。 感染力 も二倍近くまで高くなってきております。
これは、コロナも生き物であるという 証拠 です。人間から 攻撃 されれば、さらに強いウイルスに 変異 し 子孫 を残そうとするごく自然な現象です。生き物は生きては死んで、生きては死んでを 繰 り返しているうちに、さらなる 強靭 なウイルスへと変化をするのです。 鼬 ごっこと言うか、とても 厄介 な 問題 であります。
過去 の 人類 の 歴史 から考えますと、何度となく人間が苦しめられた 細菌 やウイルスでも、すべて人間の 智慧 が 勝 り、 克服 してまいりました。必ず今回の 新型 コロナウイルスに 打 ち 勝 つ日はやってまいります。それまでは、 三密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密接 )を 避 け、手洗い、うがい、マスクは 必須 です。さらに手指の 消毒 など、まめに行っていただき、「コロナを正しく 恐 れる」を 教訓 に 感染 防止 に努めて頂きたいと思います。
私がサラリーマンだった時のことです。 四国 の 責任者 をしておりました。四国というのは一言でいえば 大 らかというか 大雑把 というか、そんな 穏 やかな 土地柄 とのんびりした 雰囲気 が 漂 っておりました。私は高松市内に三年と八ヶ月住んでおりました。
部下 が二十名ほどいました。 比較的 若手 が多かったのですが、私と 同級生 のO課長は 薬剤師 でした。同級生を使うのは何かと 遠慮 してしまうところがありますが、そこは仕事と 割 り 切 って 指導 しないといけないと思い 厳 しく行いました。
彼は、とても 人柄 もよく頭がいいのですが、フットワーク( 機敏 )があまりよくないタイプでした。 年齢的 なこともありますが、やる気という点が今一つでした。
そんな時、国立T大学病院でのミッション( 使命 )はヒト 型 へのインスリンの 切 り 替 えをしておりました。本社より社長同行で第一内科のI 教授 と 面談 をしました。しかし、Oさんの 言動 が教授の 逆鱗 に触れ怒らせてしまったのです。社長もショックを受け 火消 しに 躍起 になっていました。
彼が教授に対し 動物 インスリンからヒトインスリンへの切り替えが全国ワースト( 最悪 )であることを告げ、早く 切 り 替 えて頂くように 上手 に話せばよかったものを、教授の 立場 をつぶした形になったことが大きな 原因 でした。
彼は 大失態 の後しばらくして、会社を 辞 めることとなりました。身から 出 た 錆 というか、 普段 の 行動 が出たということでしょう。その後、彼は 調剤 薬局 を 数 店舗 開業 し今までのコネで 処方箋 を 獲得 し 景気 も良かったようでした。
Hさんという部下がいました。彼は独身で四国に四年ほど勤務しておりました。 中途 採用 で 最初 の 赴任地 が四国ということでした。 愛媛県 の 東部 を担当しておりました。彼は、性格もよく行動力もあり、とても明るい人でした。 真面目 でコツコツと 地味 に 活動 するタイプでした。
ある日、彼と食事に行った時、四国も長くなったから転勤したいということを聞きました。彼の 実家 は 千葉県 の 我孫子市 とのことでした。私は、彼に四国で何かをやったという 充実感 はありますかと 質問 しました。彼の答えは、普通に仕事ができ問題はありませんでした。との回答でした。
私が質問した内容は、普通に仕事ができたということを聞いているのではないのです。何かを「やり 遂 げた」とか、「満足のいく仕事ができたかどうか」を聞いたのですが、残念ですが彼は普通に仕事をやることが大きな目標と 勘違 いしていたのです。
更に私は、彼に「君は 拘 り」をもって取り組みましたかと聞いたら、そういうものはありませんとの答えでした。
彼は、M 課長 からどういう 教育 を受けたのか、どのような 指導 をしたのか 疑問 が残りました。私が、課長に確認したらHさんは地元を離れて生活することに疲れているようだとの回答を受けました。課長に 環境 の話ではなくどうしたら 戦力 を上げることができるかということの 宿題 を与えました。
結局、課長も十年以上 単身 赴任 をしていて、 転勤 したいという気持ちがあったのでしょう。課長が、ものの 本質 を 見極 める 五感 ( 視覚 ・ 聴覚 ・ 嗅覚 ・ 味覚 ・ 触覚 )を 磨 かないと部下にはそのこころは伝わりません。特に大事なのは 嗅覚 と 第 六感 である 直感 です。
部下を育てるということは、自分自身が育たないとできません。今回の件はM課長に問題があり、彼に責任をとってもらうことにしました。私は課長が希望していた実家がある 熊本県 とは別の地域へ転勤の 下克上 を出したのです。ここで彼が 奮起 し 精 いっぱい 努力 して、 復活 できるか、はたまた 腐 ってしまってダメになるか。二つの 選択 が迫られるのです。
彼が東京に行って四年後に見事営業部に 復活 できたのです。どんな 弊害 があろうと、どんな 苦境 に立たされようとも、 努力 ・ 精進 することがとても大事です。努力は 裏切 らない。努力は必ず 報 われるものと 確信 しております。
さて、仏教の立場で考えますと、私たち人間は、 誰 しも 感情 を持っています。感情とはその人が持っている 本能的 な 情動 で、つねに自分を中心としている 主観 です。仏教ではこれを「 煩悩 」と呼びます。
たとえば、とても美しい花が咲いているのを見て、「きれいだな」とこころが動きます。そうすると、人間はそこから 二次的 な 感情 を 抱 きます。見ただけでは 満足 しなくて、この美しさを自分のものにしたくなるのです。「そうだ、これを 写真 に 撮 ろう」と思います。昔はカメラがないと撮れませんでしたが、今ではスマートフォンがあるので、いつでもどこでも 手軽 に 撮 れます。しかし、他の人が花の周りにいると、写真を撮るのに 邪魔 です。「ちょっとそこのあなた、邪魔ですよ。私がこのきれいな花の写真を撮ろうとしているのに、撮れないじゃないですか。ちょっとそこをどいてください」。そう口に出すか出さないかは人によると思います。少なくともそのようにこころの中で思って、人を 押 しのけて 撮 ろうとします。
もっと単純な感情に、「 好 きか 嫌 いか」があります。好きなことはやりたいし、嫌いなことはやりたくない。しかも感情は、そのときどきの状況によって変わるものです。「昨日はこの仕事やりたいと思っていたのですけど、今日になったらやりたくなくなったのでやりません」、このようなことを言っていいことになったら大変です。たちまち社会が立ち行かなくなってしまいます。
このように 感情 で 行動 すると、ろくなことになりません。感情というのは、自分の 都合 のいいほうに、いいほうにとこころを 誘導 するのです。感情の 赴 くままに行動したら、ほとんど 間違 った 選択 になります。
感情をなくしてしまうことはできません。しかし、 感情 に 流 されないようにすることはできます。 衝動 や 執 着 の 抑制 を 学習 することで、感情の 起伏 に 囚 われない 冷静 な行動ができるようになっていきます。それがお釈迦さまの言われる「 理性 を 身 につける」ということです。
何かを 判断 し、 選択 するという行為は、つねに「 理性 」で行われなければいけないものなのです。
なぜこの人間社会には 法律 、 規則 、ルールがこんなにたくさんあるのか、その理由は、 根本的 に人間が 感情 で 動 きたがるからです。
泥棒 をする人は、「 欲 しい」という 感情 が 抑 えられない人です。その感情がどんどん 膨 らんで、「なんとしてでも」手に入れたくなる。本来なら働いて自分でお金を貯めて手に入れようという当たり前のやり方が考えられなくなってしまって、 非合法的 な 手 っ 取 り 早 い方法を 選択 してしまうのです。
法律 とは何なのかをあらためて 定義 するとすれば、「 人間 が 各々 の 感情 で 身勝手 な 行動 を思いとどまらせ、社会に 秩序 と 規律 を 保 たせるためにもうけられたもの」という 解釈 になります。
店内に「 万引 きは 犯罪 です」という 張 り 紙 があるお店があります。それは、 衝動的 な 感情 を 抑 えきれずについ万引きをしてしまう人に対して、 冷静 な自分を取り戻して欲しい、という 狙 いがあるのです。感情よりも理性のほうが勝っていれば、 犯罪 行為 をするという選択はありません。
理性が犯罪に手を 染 めることがないように自分を守ってくれているのです。人間は感情で動いていますから、それをコントロールして 自己 管理 する必要があるのです。
理性がどんどん大きくなっていくと、感情は抑えられます。完全に消えるわけではないですが、何かを 判断 したり行動したりする時に、 感情的 なものが 選択 の 条件 にはならなくなっていくのです。
ご存じのように 糖尿病 という病気は、 生活 習慣病 と言われております。なぜ糖尿病になってしまうかというと、自分の感情に負けて好きなものをたくさん摂りすぎたというケースもあります。この病気は 罹患 すると一生治らないと言われておりますが、それでも本人が 食生活 やライフスタイルを 改善 すれば、 悪化 することは 防 げます。
たとえば、病院で「あなたは一日これとこれ、こういう 種類 のものを食べなさい」とアドバイスされます。それは 客観的 な 判断 、 理性 のアドバイスですから、きちんと聞いたほうがいいのです。そして、大好きなケーキを食べたいと思っても、ケーキをやめて野菜を食べるようにする。これは理性のアドバイスを受け入れた理性の行動です。その人がケーキを 嫌 いになったわけではありません。好きだけれども 感情 の 赴 くままに食べていたら身体に悪いから、死を招くことになるリスクが高いから、食べるのをやめるのです。つまり、好きであることに変わりはなくても、食べ物を選択する時に「好き」であることが条件にはならなくなるわけです。
理性 は生まれつき持っているものではありません。学ばなければいけないもの、育てるものです。 躾 とは理性を教えているのです。「やりたいけれど、これはやってはいけません」「こういう時には、こうしないといけません」と、社会で生きていくために 不可欠 なマナーやルールを教えます。
幼い子供に何も教えないと、食事の 最中 も席を立ってあちこち動き回ります。まだ器に食べ物が残っていても、感情はもう次に何して遊ぼうかということしか考えていません。外から家に入る時、 靴 を 脱 ぎ 散 らかします。片方の靴は玄関の外に、もう片方は家の中に転がったりします。ただ早く家に入りたいということしか考えていないのです。そういう子供に、「食事の時はちゃんと席について食べなさい」「残さず食べなさい」とか、「脱いだ 靴 を 揃 えなさい」と教えることで、一つひとつ学習していきます。
まともな人間になるということは、 理性 がどの 程度 、身についているかということです。それは親の 躾 、学校での躾の程度によりますから、どこまで理性がきちんと身についているかは人によってそれぞれです。
学べば学ぶほど、いろいろな物事を知れば知るほど、理性のレベルは上がっていきます。理性の能力が上がると、感情でする判断が減り、間違いが少なくなります。
自分の選択が正解だとなると、そこに喜びが生まれます。うまくいっていると思えるからです。この「うまくいってるんだ」という喜びは、 単純 な好き 嫌 いの 感情 とは 違 うものです。自分の中に湧き上がるそのときどきの 衝動的 欲求 をコントロールして、正しい行いができたという 充実感 となるのです。その充実感が、また次の正解を出すこと、次の正しいふるまいをすることに 繋 がっていきます。
なにげなく選択していることが、すべて正解であるということであれば、その人は幸せです。そういうところまで理性を育てることが私たちの大きな目標となるのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法の 功徳 を信じることの 尊 さを 説 かれました。 深 く 信心 することと、そうでない場合の功徳には大きな 差異 があると言われました。ようするに、深く信じたほうがより大きな功徳があるのです。そして、 行住坐臥 いついかなる時も、妙法蓮華経の五文字を唱えると、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると 仰 せです。
私たちも教祖さまを見習って『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三徳 の 実践 がとても大事です。実践すれば 人格 が高まり〝すばらしき人生〞の軌道へと入っていけるのです。
合 掌