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世界平和を
大樹
すばらしき人生103

今年も あつ い夏がやってきました。暑い夏や寒い冬があるから経済は成り立つのです。そして、 真夏まなつ や 真冬まふゆ があるから、私たちの幸福が 維持いじ できるのであります。


 夏暑く、冬寒いことが身体にとって 刺激しげき となり、健康を維持することに役立ったいることもあります。しかし、最近では三十五度を超える 極端きょくたん に暑い 猛暑もうしょ  が続きます。 熱中症ねっちゅうしょう 対策たいさく をとり 水分すいぶん 補給ほきゅう を忘れないようにして頂きたいと思います。


  依然いぜん としてコロナが 終息しゅうそく しない中、オリンピックが 開催かいさい されるのか いな か、現時点では 結論けつろん は出ておりません。しかし、この 冊子さっし が出る ころ には決まっていると思います。私は開催されると思います。しかし、 感染かんせん かく 大防止だいぼうし という 観点かんてん から 無観客むかんきゃく で行われることに 期待きたい をしております。世界の一大イベントであり、世界平和を 究極きゅうきょく の目的として開催されるわけですから、コロナには充分な対策をとり、 感染かんせん 拡大かくだい しないよう最大の注意が払われるべきと考えております。


 最近ではワクチンの 接種せっしゅ スピードも上がり、安心できる部分もできてきましたが、まだまだ予断を許さない状況は続くと思います。 さん みつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密接みっせつ )を  け 感染かんせん しないように注意することが大事だと思っております。


  先般せんぱん の教祖祭は読経のみの開催となりました。コロナが終息しない状況では多くの人が集まる行事はできません。 参拝さんぱい ・ 法話ほうわ ・ 抽選会ちゅうせんかい の中止をさせて頂きました。大変申し訳ありませんでした。


 今月開催の盆施餓鬼先祖大法要会につきましても、参拝・法話を中止させて頂きます。読経のみの開催となります。宜しくお願い致します。


 人間は、 性格せいかく しだいで良くもなれば悪くもなります。その人の性格というものは、親から、学校の先生から、周りの人から受ける 影響えいきょう は大きく、それによって自分自身の中で自然と 形成けいせい されていくものです。自身の 思考しこう や 行動こうどう の中で 確実かくじつ に周りの影響を受けながら完成されるのです。


 私がサラリーマンの時のことです。静岡県の責任者をしておりました。私の部下は十名ほどで、 新卒しんそつ と 中途ちゅうと 採用さいよう とほぼ半分の割合でした。中途は 営業えいぎょう 経験けいけん もあり 指導しどう しなくても仕事の内容を理解しております。しかし、新人は一から十まで教えないといけません。指導するには時間と余裕が必要なのです。


 よく 優秀ゆうしゅう な 人材じんざい と言いますが、優秀な人は 上司じょうし が指示を出さなくても、自ら 率先そっせん して行動します。Hさんはそんな中途の ほし のような存在で かがや いていました。私とHさんは、アイコンタクトで十分なのです。そのような優秀な人とはうらはらに中途でも、さえないWさんという人がいました。彼が仕事をしているところを見ても楽しそうには見えませんでした。


 人間それぞれ、営業のスタイルはありますが、 基本的きほんてき には同じ 活動かつどう をしていることになります。同じことをしていて、業績が違うということはどういうことなのか。要するに、 顧客こきゃく との 信頼しんらい 関係かんけい がどうなのか。先生のニーズ( 需要じゅよう )に答えることができているかどうか。いかに先生に処方させる力があるかないか。などスキル( 能力のうりょく )はどうなのかという重要な部分もありますが、私は、できるかどうかということより、中途だったらできて当たり前とうふうに考えておりました。


 できて当たり前ということは、すべての能力を そな えているということです。そうすると、売り上げの違い、よくできる人と、できない人の違いは何かと言いますと、それは、 性格せいかく の違いという 結論けつろん に たっ するのです。


 仕事ができなくても性格が良ければ、売り上げは上がります。逆に、どんなに 優秀ゆうしゅう でも性格が悪かったら売り上げは伸びません。性格しだいでいかようにもなるのです。私たちは、仕事を覚えて早く一人前になりたいと思うけれど、同時に性格を良い方向へと成長させなければなりません。


 Hさんのように、最初から仕事ができる人も まれ ですが、何よりも性格が良ければ、相手から 信頼しんらい されることは  ちが いないでしょう。そして、自分を高めるための  りょく と まえ  きに生きることを目標にすれば、すべてが満足のいくような仕事へと繋がると思います。目標に対して 最後さいご まで 絶対ぜったい にあきらめないという強い 意志いし をもつことが、 能力面のうりょくめん でも、 性格面せいかくめん でも自分の力をフルに 発揮はっき できるのではないでしょうか。


 さて、仏教的には 喜怒哀楽きどあいらく を 感情かんじょう と言いますが、良い感情( よろこ び、 たの しみ)も悪い感情( いか り、 かな しみ)もすべては 主観しゅかん ですから、どんなに明るく 前向まえむ きに見えても、やはり 自己じこ 中心的ちゅうしんてき なもの、わがままなものなのです。一見前向きのように見えても、自分に都合のいい 理屈りくつ をつけて、正しい判断能力を にぶ らせます。従って、感情でする判断はすべて悪なのです。


 本来は 感情かんじょう ではなく 理性りせい で行動することが大事なのであります。しかし、それには時間がかかります。だからそうできた時の うれ しさも大きいのです。


 感情はどんどん流れていくものです。その時に、 言葉ことば が  たすものも大きく影響しています。何かを感じたり思ったりする時、私たちはそれを言葉にします。言葉というのはいくらか 論理的ろんりてき なもののように思えるものですから、それがまともな考えであるかのように思えてしまうのです。大変な間違いです。言葉ではいくらでもうまいことが言えてしまう。自分の 都合つごう のいいように、話をどんどんすり  えてしまうのです。そして、あたかもそれが正当であるかのような 理屈りくつ を後からつけるのです。


  感情的かんじょうてき であることを、 情緒じょうちょ 、 情感じょうかん が ゆた かであると 勘違かんちが いしている人がいますが、それも違います。人間の感情はなくならないのです。しかし、 理性りせい のレベルが 向上こうじょう して、なんでも理性で判断し行動できるようになると、その 感情かんじょう を自分の 利益りえき に結び付けるような 発想はっそう をしなくなります。感情と行動を切り離すことができるようになるのです。


 ところが、まだ理性がきちんと 確立かくりつ していない人の場合は、判断・行動に自分の感情が 操作そうさ をしてしまう。だから、感情を大事なものと思ってはいけないのです。感情があるということと、感情で判断していいこととは違うのです。


  理性りせい を みが くために必要なことは、 自我じが に気づき、 客観的きゃくかんてき な 視点してん を持つことです。「自我を捨てる」ことは、人間にとってとても むずか しいことです。自我を捨てるのではなく、「自我というものは 錯覚さっかく である」と気づくことはできます。錯覚だから、それを 根拠こんきょ に 判断はんだん したり 選択せんたく したりするのは おろ かなことだ、自分を不幸にすることしかできない、と気づくことで、 自我じが に とら われた自分の考え方を変えていけるのです。まずは、自我に気づくことから、理性が始まるのです。


 そして、自分の意思を 明確めいかく に持つことが重要です。「自分の意思」というのは、わりと 誤解ごかい されやすいところです。感情で判断してはいけませんというと、「自分がこうしたい」「こういうことを目指したい」という意志を持ってはいけないことだと 勘違かんちが いする人がいますが、確かに「こうしたい」という気持ちは、欲や怒りの感情から生まれることもあります。しかし、ひとりの人間として「こういうことを自分はやっていきたい」というはっきりとした意志がなければ、何かを 実現じつげん していこうとする強いエネルギーが出ません。 自発的じはつてき な「 意欲いよく 」「やる気」がなければ行動を変えていけないのです。


 それには正確な 知識ちしき や 情報じょうほう 、データを  ることです。いかに知識が大切なのか。正しい 選択せんたく のためには。 客観的きゃっかんてき で正確な知識や情報を知っておかなくてはなりません。 判断はんだん 基準きじゅん となるデータに かたよ りがあったら、最良の選択には絶対にたどり着けません。


 それと同時に、私たちは立ち止まってはいけない、常に成長しなくてはいけない、進化していかなくてはいけないということです。


 生命というのは、この世に生を さず かったからには「もうこれでいい」とあきらめてはいけないのです。絶えず成長しなければいけない。それが進化しつづけるということ、すなわち生き残っていくということです。変化を止めてしまったら、それは 衰退すいたい に向かう道なのです。


 成長していくことが幸福に生きること。そういう 大前提だいぜんてい の下、その目的が達成できるような道が本当の「善」であり、その目的から外れる道が「悪」なのです。


「 とら われ」から自由になることが重要です。理性に必要なものの第一に、「自我に気づくこと」です。みんな他人の自我には気づきます。それは、他人のことは 客観きゃっかん  できるからです。客観的な 視点してん をもとうと言っても、自分のことだとなかなかできないのです。


 仏教というのは きわ めて 科学的かがくてき です。何が問題が起きた時に、 おが めば解決するというような 非科学的ひかがくてき な考え方はしません。何事も「 原因げんいん 」があるから「 結果けっか 」があるのです。問題があるところには、必ず問題を起こすような「原因」があります。その原因を突き止めて「対策」を講じれば、問題は「解決」する、と考えるのです。


 問題、すなわち「苦」の たね をつくっているのは自分自身ですから、自分を 観察かんさつ すれば、おのずと対策も見え、解決の道も開かれます。仏教では「自分を観察しなさい」と言っております。自分を観察して、今の苦しみの原因になっているのが「自我」のせいだと気づくと、それが自分の 妄想もうそう の 産物さんぶつ 、 錯覚さっかく でしかないことがわかります。自我に囚われなくなれば、解決策が見つかりやすくなります。そうすると あやま った 選択せんたく はしなくなるのです。まずは、自分が日常、どんなふうに自我を持ってしまっているのか、冷静に観察することが大事です。


 人間ですから、判断を間違えることもあります。理性を働かせていても、いつも必ず正しい判断ができるわけではありません。ミスや失敗は起こります。間違ったのですから、その結果は良くありません。自分がおこなったことに対するそれなりの結果が出たのです。


 感情的になるような話ではないのです。ところが、 自我じが に とら われていると、結果に文句を言いたくなる。もっとはっきりと表れる感情が「 いか り」です。


  おこ るというのは自我に囚われた状態です。どんな理由があろうとも、正当な怒りというものはありません。怒りは悪、悪い結果しかもたらしません。


 自我に囚われた状態というのは、自分側からの一方的な 視点してん しかものが見えない 視野しや の せま い状況です。事実がきちんと見えていない。見えていないから、他人が教えてくれていることを素直な気持ちで聞く必要があります。


 苦しみたくないのなら、理性的な人間になって正しい選択をしたなら、常に怒りの感情を持たないようにこころがけることが大事なのです。


「 おこ る」と「 しか る」の違いはいったい何なのか。「怒る」とは、主観的な感情をぶつけることです。これに対して「叱る」とは、客観的に 理性りせい で事の 是非ぜひ 、 善悪ぜんあく を説明することです。


 親が子どもに対して、先生が生徒に対して、上司が部下に対して、厳しく叱らなければならない場面はたくさんあります。ところが、叱る側が怒ることと叱ることの区別ができずに、叱っているつもりで怒っていることが多いようです。


 たとえば、ゲームで遊んでいる子どもに宿題をしなさいと叱ります。何回言っても聞かないと、お母さんはそのうち怒りを 爆発ばくはつ させます。 堪忍かんにん ぶくろ の  が切れたお母さんの 小言こごと は、もう止まりません。話はその日の宿題のことだけでなく、さまざまなところに広がっていきます。「あんたはいつもこうなのだから」と過去のことに さかのぼ ったと思うと、「こんなことでは先が思いやられる」と将来のことまで心配して、いま怒るのです。


 お母さんの怒りは、なぜ 延々えんえん と続くのでしょうか。それは、感情には際限がないからです。感情は次から次へと湧いてきます。一つ思い出すと、また新たな感情が湧いてきて、それがずっと続くのです。つまり、宿題をやらないことを理由に、お母さんは子どもに対してふだん溜まっている感情を吐き出しているのです。これも自我なのです。


 従って、愛情をもって、その人の成長を願って「叱る」ということが、理性で判断し行動するというとても重要なことに つな がっていくのであります。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を信心することの重要性を説かれました。一心に妙法を信ずるこころが大事と言われました。そして、信心の深さによって 功徳くどく が大きくなると おお せです。


 私たちは、有り難い法華経の縁に触れたことに感謝をしなくてはいけません。妙法蓮華経の五文字には、不思議な力があるのです。教祖さまは、 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も、妙法を唱えると 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬが れることができると仰せです。


『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の 実践じっせん がとても大事です。三徳の実践により自分を高めることができるのです。 せき とく を継続することで、 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ できるのです。


 私たちは、今すぐにでも三徳を実践することができます。するかしないかは本人の自由ですが、自分を高めていく時に必ず『 功徳くどく 』をいただけるのです。


 一日というのは 瞬間しゅんかん です。今日一日を 有意義ゆういぎ に過ごせたら、翌日も同様に良くなっていくものです。その積み重ねが〝すばらしき人生〞へと つな がっていくのではないでしょうか。


 


合 掌


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