今年も 暑 い夏がやってきました。暑い夏や寒い冬があるから経済は成り立つのです。そして、 真夏 や 真冬 があるから、私たちの幸福が 維持 できるのであります。
夏暑く、冬寒いことが身体にとって 刺激 となり、健康を維持することに役立ったいることもあります。しかし、最近では三十五度を超える 極端 に暑い 猛暑 日 が続きます。 熱中症 対策 をとり 水分 補給 を忘れないようにして頂きたいと思います。
依然 としてコロナが 終息 しない中、オリンピックが 開催 されるのか 否 か、現時点では 結論 は出ておりません。しかし、この 冊子 が出る 頃 には決まっていると思います。私は開催されると思います。しかし、 感染 拡 大防止 という 観点 から 無観客 で行われることに 期待 をしております。世界の一大イベントであり、世界平和を 究極 の目的として開催されるわけですから、コロナには充分な対策をとり、 感染 拡大 しないよう最大の注意が払われるべきと考えております。
最近ではワクチンの 接種 スピードも上がり、安心できる部分もできてきましたが、まだまだ予断を許さない状況は続くと思います。 三 密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密接 )を 避 け 感染 しないように注意することが大事だと思っております。
先般 の教祖祭は読経のみの開催となりました。コロナが終息しない状況では多くの人が集まる行事はできません。 参拝 ・ 法話 ・ 抽選会 の中止をさせて頂きました。大変申し訳ありませんでした。
今月開催の盆施餓鬼先祖大法要会につきましても、参拝・法話を中止させて頂きます。読経のみの開催となります。宜しくお願い致します。
人間は、 性格 しだいで良くもなれば悪くもなります。その人の性格というものは、親から、学校の先生から、周りの人から受ける 影響 は大きく、それによって自分自身の中で自然と 形成 されていくものです。自身の 思考 や 行動 の中で 確実 に周りの影響を受けながら完成されるのです。
私がサラリーマンの時のことです。静岡県の責任者をしておりました。私の部下は十名ほどで、 新卒 と 中途 採用 とほぼ半分の割合でした。中途は 営業 経験 もあり 指導 しなくても仕事の内容を理解しております。しかし、新人は一から十まで教えないといけません。指導するには時間と余裕が必要なのです。
よく 優秀 な 人材 と言いますが、優秀な人は 上司 が指示を出さなくても、自ら 率先 して行動します。Hさんはそんな中途の 星 のような存在で 輝 いていました。私とHさんは、アイコンタクトで十分なのです。そのような優秀な人とはうらはらに中途でも、さえないWさんという人がいました。彼が仕事をしているところを見ても楽しそうには見えませんでした。
人間それぞれ、営業のスタイルはありますが、 基本的 には同じ 活動 をしていることになります。同じことをしていて、業績が違うということはどういうことなのか。要するに、 顧客 との 信頼 関係 がどうなのか。先生のニーズ( 需要 )に答えることができているかどうか。いかに先生に処方させる力があるかないか。などスキル( 能力 )はどうなのかという重要な部分もありますが、私は、できるかどうかということより、中途だったらできて当たり前とうふうに考えておりました。
できて当たり前ということは、すべての能力を 備 えているということです。そうすると、売り上げの違い、よくできる人と、できない人の違いは何かと言いますと、それは、 性格 の違いという 結論 に 達 するのです。
仕事ができなくても性格が良ければ、売り上げは上がります。逆に、どんなに 優秀 でも性格が悪かったら売り上げは伸びません。性格しだいでいかようにもなるのです。私たちは、仕事を覚えて早く一人前になりたいと思うけれど、同時に性格を良い方向へと成長させなければなりません。
Hさんのように、最初から仕事ができる人も 稀 ですが、何よりも性格が良ければ、相手から 信頼 されることは 間 違 いないでしょう。そして、自分を高めるための 努 力 と 前 向 きに生きることを目標にすれば、すべてが満足のいくような仕事へと繋がると思います。目標に対して 最後 まで 絶対 にあきらめないという強い 意志 をもつことが、 能力面 でも、 性格面 でも自分の力をフルに 発揮 できるのではないでしょうか。
さて、仏教的には 喜怒哀楽 を 感情 と言いますが、良い感情( 喜 び、 楽 しみ)も悪い感情( 怒 り、 悲 しみ)もすべては 主観 ですから、どんなに明るく 前向 きに見えても、やはり 自己 中心的 なもの、わがままなものなのです。一見前向きのように見えても、自分に都合のいい 理屈 をつけて、正しい判断能力を 鈍 らせます。従って、感情でする判断はすべて悪なのです。
本来は 感情 ではなく 理性 で行動することが大事なのであります。しかし、それには時間がかかります。だからそうできた時の 嬉 しさも大きいのです。
感情はどんどん流れていくものです。その時に、 言葉 が 果 たすものも大きく影響しています。何かを感じたり思ったりする時、私たちはそれを言葉にします。言葉というのはいくらか 論理的 なもののように思えるものですから、それがまともな考えであるかのように思えてしまうのです。大変な間違いです。言葉ではいくらでもうまいことが言えてしまう。自分の 都合 のいいように、話をどんどんすり 替 えてしまうのです。そして、あたかもそれが正当であるかのような 理屈 を後からつけるのです。
感情的 であることを、 情緒 、 情感 が 豊 かであると 勘違 いしている人がいますが、それも違います。人間の感情はなくならないのです。しかし、 理性 のレベルが 向上 して、なんでも理性で判断し行動できるようになると、その 感情 を自分の 利益 に結び付けるような 発想 をしなくなります。感情と行動を切り離すことができるようになるのです。
ところが、まだ理性がきちんと 確立 していない人の場合は、判断・行動に自分の感情が 操作 をしてしまう。だから、感情を大事なものと思ってはいけないのです。感情があるということと、感情で判断していいこととは違うのです。
理性 を 磨 くために必要なことは、 自我 に気づき、 客観的 な 視点 を持つことです。「自我を捨てる」ことは、人間にとってとても 難 しいことです。自我を捨てるのではなく、「自我というものは 錯覚 である」と気づくことはできます。錯覚だから、それを 根拠 に 判断 したり 選択 したりするのは 愚 かなことだ、自分を不幸にすることしかできない、と気づくことで、 自我 に 囚 われた自分の考え方を変えていけるのです。まずは、自我に気づくことから、理性が始まるのです。
そして、自分の意思を 明確 に持つことが重要です。「自分の意思」というのは、わりと 誤解 されやすいところです。感情で判断してはいけませんというと、「自分がこうしたい」「こういうことを目指したい」という意志を持ってはいけないことだと 勘違 いする人がいますが、確かに「こうしたい」という気持ちは、欲や怒りの感情から生まれることもあります。しかし、ひとりの人間として「こういうことを自分はやっていきたい」というはっきりとした意志がなければ、何かを 実現 していこうとする強いエネルギーが出ません。 自発的 な「 意欲 」「やる気」がなければ行動を変えていけないのです。
それには正確な 知識 や 情報 、データを 得 ることです。いかに知識が大切なのか。正しい 選択 のためには。 客観的 で正確な知識や情報を知っておかなくてはなりません。 判断 基準 となるデータに 偏 りがあったら、最良の選択には絶対にたどり着けません。
それと同時に、私たちは立ち止まってはいけない、常に成長しなくてはいけない、進化していかなくてはいけないということです。
生命というのは、この世に生を 授 かったからには「もうこれでいい」とあきらめてはいけないのです。絶えず成長しなければいけない。それが進化しつづけるということ、すなわち生き残っていくということです。変化を止めてしまったら、それは 衰退 に向かう道なのです。
成長していくことが幸福に生きること。そういう 大前提 の下、その目的が達成できるような道が本当の「善」であり、その目的から外れる道が「悪」なのです。
「 囚 われ」から自由になることが重要です。理性に必要なものの第一に、「自我に気づくこと」です。みんな他人の自我には気づきます。それは、他人のことは 客観 視 できるからです。客観的な 視点 をもとうと言っても、自分のことだとなかなかできないのです。
仏教というのは 極 めて 科学的 です。何が問題が起きた時に、 拝 めば解決するというような 非科学的 な考え方はしません。何事も「 原因 」があるから「 結果 」があるのです。問題があるところには、必ず問題を起こすような「原因」があります。その原因を突き止めて「対策」を講じれば、問題は「解決」する、と考えるのです。
問題、すなわち「苦」の 種 をつくっているのは自分自身ですから、自分を 観察 すれば、おのずと対策も見え、解決の道も開かれます。仏教では「自分を観察しなさい」と言っております。自分を観察して、今の苦しみの原因になっているのが「自我」のせいだと気づくと、それが自分の 妄想 の 産物 、 錯覚 でしかないことがわかります。自我に囚われなくなれば、解決策が見つかりやすくなります。そうすると 誤 った 選択 はしなくなるのです。まずは、自分が日常、どんなふうに自我を持ってしまっているのか、冷静に観察することが大事です。
人間ですから、判断を間違えることもあります。理性を働かせていても、いつも必ず正しい判断ができるわけではありません。ミスや失敗は起こります。間違ったのですから、その結果は良くありません。自分がおこなったことに対するそれなりの結果が出たのです。
感情的になるような話ではないのです。ところが、 自我 に 囚 われていると、結果に文句を言いたくなる。もっとはっきりと表れる感情が「 怒 り」です。
怒 るというのは自我に囚われた状態です。どんな理由があろうとも、正当な怒りというものはありません。怒りは悪、悪い結果しかもたらしません。
自我に囚われた状態というのは、自分側からの一方的な 視点 しかものが見えない 視野 の 狭 い状況です。事実がきちんと見えていない。見えていないから、他人が教えてくれていることを素直な気持ちで聞く必要があります。
苦しみたくないのなら、理性的な人間になって正しい選択をしたなら、常に怒りの感情を持たないようにこころがけることが大事なのです。
「 怒 る」と「 叱 る」の違いはいったい何なのか。「怒る」とは、主観的な感情をぶつけることです。これに対して「叱る」とは、客観的に 理性 で事の 是非 、 善悪 を説明することです。
親が子どもに対して、先生が生徒に対して、上司が部下に対して、厳しく叱らなければならない場面はたくさんあります。ところが、叱る側が怒ることと叱ることの区別ができずに、叱っているつもりで怒っていることが多いようです。
たとえば、ゲームで遊んでいる子どもに宿題をしなさいと叱ります。何回言っても聞かないと、お母さんはそのうち怒りを 爆発 させます。 堪忍 袋 の 緒 が切れたお母さんの 小言 は、もう止まりません。話はその日の宿題のことだけでなく、さまざまなところに広がっていきます。「あんたはいつもこうなのだから」と過去のことに 遡 ったと思うと、「こんなことでは先が思いやられる」と将来のことまで心配して、いま怒るのです。
お母さんの怒りは、なぜ 延々 と続くのでしょうか。それは、感情には際限がないからです。感情は次から次へと湧いてきます。一つ思い出すと、また新たな感情が湧いてきて、それがずっと続くのです。つまり、宿題をやらないことを理由に、お母さんは子どもに対してふだん溜まっている感情を吐き出しているのです。これも自我なのです。
従って、愛情をもって、その人の成長を願って「叱る」ということが、理性で判断し行動するというとても重要なことに 繋 がっていくのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信心することの重要性を説かれました。一心に妙法を信ずるこころが大事と言われました。そして、信心の深さによって 功徳 が大きくなると 仰 せです。
私たちは、有り難い法華経の縁に触れたことに感謝をしなくてはいけません。妙法蓮華経の五文字には、不思議な力があるのです。教祖さまは、 行住坐臥 いついかなる時も、妙法を唱えると 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると仰せです。
『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事です。三徳の実践により自分を高めることができるのです。 積 徳 を継続することで、 大難 が 小難 に小難が 無難 へと 罪障 を 消滅 できるのです。
私たちは、今すぐにでも三徳を実践することができます。するかしないかは本人の自由ですが、自分を高めていく時に必ず『 功徳 』をいただけるのです。
一日というのは 瞬間 です。今日一日を 有意義 に過ごせたら、翌日も同様に良くなっていくものです。その積み重ねが〝すばらしき人生〞へと 繋 がっていくのではないでしょうか。
合 掌