日本では 旧暦 の八月を「 葉月 」と言います。葉月には 諸説 ありますが、木の葉が 紅葉 して落ちる月「 葉 の 落 ちる 月 」「葉月」という説が有力です。暑い夏も 峠 に 差 し 掛 かってきております。 熱中症 対策 には万全を尽くして頂きたいと思います。
コロナも 終息 していない状況では、早くワクチン 接種 をされることが、一番のコロナ 感染 防止 対策 になります。専門家の意見では、 集団 免疫 を国民の六割以上が 免疫 獲得 すれば、自然に終息へ向かうとの考え方を示しております。しかし、現実は六割以上の摂取率でも 新種 株 の流行は抑えられていない国もあります。 人種 による 個体差 がもたらすものなのかどうか分かりませんが、一日でも早く安心して過ごせる日常を取り戻すことが、とても大事であります。
先般の盆施餓鬼先祖大法要会はコロナの関係で法話・参拝を中止させて頂きました。読経のみの開催となりましたこと、お詫び申し上げます。また、九月開催の秋季彼岸法要会も同様に読経のみとさせて頂きます。悪しからずご了承賜りますようお願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。 静岡県 の 責任者 をしておりました。 赴任 当初 は私一人で県 東部 、 中部 を担当しておりました。
ある日、 三 島 市で 成長 ホルモンを使用している 施 設 があると聞き、 卸 さんを通じ 市場調査 を行いました。すると、H小児科で他者の成長ホルモンを使用していることがわかり、卸さんと同行してT先生に面会しました。 内分泌 がご 専門 のまじめで大人しく 物静 かな 印象 の先生でした。現在二例の 患者 さんを 診 ておられました。
一回で 採用 を決めるためには、どのような 戦法 で切り込むか 熟慮 しておりました。 製品的 に 劣 る 製剤 ではないので価格的にメリットが出るよう少し安くして 見積 もりを出しました。すると、 寡黙 なT先生は現在使用しているS社の担当者を呼びつけ、今までこんなに高く販売するということはどういうことなのか。先生はS社担当者に 不信感 を持ち、えらくご 立腹 されたようです。その結果、二例とも 弊社 の製品に切り替えをして頂きました。
まずは 敵 を知るということが大事で、いかに市場調査をして 埋 もれた患者を 発掘 するかが、 勝負 の分かれ道となります。あきらめず 地道 に努力することです。
翌年に 中途 採用 で一人 配属 となり県東部を担当してもらうことにしました。Kさんはとてもまじめで、 誠実 なのですが、少しおっちょこちょいなところもありました。私が 面接 をして 採用 したものですから、 責任 をもって彼を育てなければならないのです。
彼は、私が 指示 したことを 忠実 に行い徐々に力をつけてまいりました。私は、彼に 最後 まで 絶対 にあきらめないことを教えました。人間はやってやれないことなどありません。今できなくても常に 挑戦 し続ければ最後には必ず 成就 することを、くどいくらいに徹底的に 叩 き 込 みました。
二年三年と経過し、彼は大きく成長したのです。彼の 実家 が東京の 国立市 で、両親が 高齢 なので面倒を見なくてはいけません。そこで彼を、東京営業部に 転勤 させました。普通に仲の良い上司と部下がよくやる、ふるさと人事のようですけど彼のモチベーション(やる気)が高まることを 期待 してのことでした。転勤後も彼は、ちゃんと地に足をつけて 頑張 りました。上司の仕事とは、最後まで自分の力を信じ、やり 遂 げることの 重要性 を 理解 させることなのであります。
さて、仏教の 観点 から自分は「こうなりたい」「もっとこうできたら」といった 欲求 のことを、「 渇 愛 」と呼びます。渇愛は 苦 しみの 悪循環 をつくるので、それは悪いものだと仏教で説かれているのです。しかし、 一般論 として、 渇 愛 は悪いに決まっていると 結論 づける必要もないのです。こうなりたいと思ったら、その目的は何なのかを調べることです。
たとえば、 精神的 に落ち着いた人間になりたいと思うことは良い目的です。一方、ばれないように会社のお金を 横領 したいと思ったら、それは悪い目的です。一般社会では、この目的はふたつとも 渇 愛 から生じるものです。前者の渇愛は良いことをさせます。後者の渇愛は悪いことをさせます。
たとえば、学校で五十メートル走のタイムを計ることになったとします。「速く走れるようになりたい」という子供が必死になって走ったところ十秒というタイムでした。これまでの 記録 の中で 最高 のタイムでした。うれしかったと思います。今までに一番速く走れたわけですから。
そのあとに、もっと足の速い子が九秒というタイムを出しました。五十メートルで一秒も違うと、大きな差です。でも、「今より速く走れるようになりたい」と考えている子にとっては、その記録は自分の喜びを打ち消すものにはなりません。「すごいな、うらやましいな、自分もあんなふうになりたい」と思うだけです。まだまだ自分の努力が足りないと思い、さらなる 練習 をしようと思うことが大事なのです。
そこには、ネガティブ(後ろ向き)な気持ちは何もないのです。渇愛が良い意味で意欲になって、さらにやる気をかきたてるのです。
しかし、「他の人よりも速く走りたい」と思っていると大変です。人のタイムが気になります。自分の記録を○・一秒でも超えた人がいたら、がっかりしてしまう。たとえ自分が 自己 最高 記録 を出していたとしても、それは、結果への 執着 、 自我 になってしまいます。そういう気持ちは「あいつがいるから自分が一番になれなかった」と人を 妬 む原因にもなります。
「速く走れるようになりたい」という 渇 愛 が、自分を 変 えていく 前向 きなエネルギーになっていけばいいのですが、それが自我への執着になってしまうと苦しみになるのです。
自我 に 執 着 すると、苦しくてたまらなくなります。自分がどんなにきつい 練習 をしてがんばっても、 得体 の知れない不安がおそってきます。
どんな 競技 でも、自分の努力というものが関係してきます。あの人がいたから自分が金メダルを取れなかった、とはならないのです。自分より相手のがんばりのほうが上だった。もちろん 悔 しい気持ちは 湧 くと思いますが、 結果 を 客観的 に 捉 えることができるのです。
自我に執着しなければ、人と比べることは悪いことではありません。競争をしているのですから、実際、力が互角な良いライバルがいると、お互いに 切磋 琢磨 してがんばろうとするのです。
双方どちらも伸びます。「あいつがいなかったら、自分が一番なのに」ではなく「あいつがいてくれるから、自分はこんなにがんばれる」と思うことが大事なのです。
一方、他の人が自分より速く走ってもまったく気にならない、がんばろうとする気持ちがおこらないとしたら、それはそれで問題です。やる気というのは、要するに 生 き 抜 いていこうとする 気力 です。現状をもっとよくしたいと考えることで、ものごとは変化するのです。もっと自分の 能力 を 向上 できないか、変えられないかと考える人は、 変化 を 進化 のほうにもっていける人です。「僕はこのままでいいや」「別に速く走りたいと思わない」というのは 退化 に向かいます。「どうせ自分はこの 程度 の力しかない」と思っていると、本気でがんばろうという 意欲 が 湧 きませんから、 能力 がどんどん落ちていくのです。
私たちは 進化 しつづけないといけません。進化がないところには 退化 、 衰退 しかないからです。 人類 も進化できたホモ・サピエンス( 現生 人類 )だけが生き残っている。変化に対応できなかった 種 は 滅 びていきました。
この 宇宙 は 絶 えず 変化 しております。すべてのものは、放っておけば 破壊 に向かいます。たとえば太陽は、 燃 えているというか、 核融合 が起きてエネルギーを 放出 しつづけております。何ものも太陽の動きに変化を与えていません。ということは、太陽は 確実 に 退化 しているのです。太陽はやがて 衰 えて 弱 くなっていきます。もっとも、それは 数十億年後 だといわれております。
地球 も、他の 惑星 も、何ものも手を加えないから、 確実 に 退化 します。人間が生きる 環境 に、人間が手を加えなかったら環境まで 退化 してしまいます。
私たちは何一つ「このままでいい」と思ってはいけないのです。常に変化しつづけなければならない。それが「 存在 している」ということです。
変わりつづけなくてはいけない。常に 進化 ということを考えなければいけない。「自分はこれでいい」「 現状 維持 でいい」というのは、 滅亡 へと向かうことになるのです。だから、変化したい、成長したいという 意欲 はとても大切なものです。
欲と渇愛は同じものではないかと思われるかもしれません。渇愛は、生きていたいという生命の根本的な衝動を指します。欲とは「○○が欲しい」「自分のものにしたい」など所有欲を意味します。
欲 というのは誰もが持っています。しかし、欲にもレベルがあって、よけいな欲を持つ人たち、 欲深 い人たちがいます。 自我 が強い人ほど、自分の 利益 を第一に考えて 欲深 くなっていきます。
仏教では「 貪 ・ 瞋 ・ 痴 」を 三毒 といいます。 貪 とは「 欲 」です。 瞋 は「 怒 り」 痴 は「 愚痴 」です。この三つの 状態 を 悪 しきこころの 病 だとしているのです。
では、どうすればそこから 離 れることができるのでしょうか。お釈迦さまは、 貪 ・ 瞋 ・ 痴 は悪なのだから、その逆、「 不貪 ・ 不瞋 ・ 不痴 」をこころがければ良いと言われました。 欲 が出てきたら、それをなくしなさい。 怒 りが出てきたら、それを抑えなさい。 愚痴 はやめなさい。
貪 ・ 瞋 ・ 痴 の痴は「 無知 」ともいわれております。「 知恵 がない」ということですが、これは一般的に使われている「ものを知らない」というような意味だけではありません。「しっかりとした 判断 ができない」「考えが 混沌 としている」という状態です。「 優柔不断 」というのもそうです。
この「 無知 」から 脱出 するには、 理性 が必要です。次から次へとあふれる 感情 、 自我 というものと 闘 うには、自分の内側にもともとあるものではなく、外から 知恵 を 借 りてきて 制 するのです。
教育 というのは、さまざまな 知識 を得ることで、 主観 ではなく、 客観的 にものごとを 判断 する 能力 を身につけるというものです。判断に、さまざまな知識を 活用 しなさい。 客観的 判断 の 癖 をつけるのが、教育の重要な目的です。
医療 でセカンド・オピニオンというのがあります。医者の 診断 や 治 療法 について、他の 客観的 な 診断 を聞いてみましょう、というものです。自分の病気についての知識の 精度 を高めるためです。
私はセカンド・オピニオンなんて必要としない、という人もいるでしょう。そういう人がいてもいいと思います。ただし、それが「他の医者の 診断 を 仰 ぎたいと言ったら、今の主治医の先生は気を悪くするのでは」といったことを心配してのことだったら、それは 理性的 ではありません。自分の生命の問題に対して、きちんと向き合っていないということになります。 知識 を生きるための 知恵 にしていかなければならないのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じる「 信心 」の 功徳 を説かれました。深く深く信じるときに、大きな功徳があると説かれました。そして、 行住坐臥 いついかなるときも、「妙法蓮華経」の五文字を 唱 えると 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると 仰 せです。
人間、生きておればいろんなことが起こります。常に妙法を唱えていれば、 護 られるということです。妙法とは 不可能 を 可能 にする 不思議 な力があるのです。深く信じていれば必ずご 加護 があるのです。
そして、『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事なところです。三徳の実践をして初めて自分の運命を開くことができるのです。人間はみな幸福を目指しております。自分が幸せになりたかったら、他の誰かを幸せにすると、その功徳で必ず自分に幸福がやってくるのです。
この法華経に 縁 があるということは、とてもありがたいことです。縁がなければ法華経にも出会わないし、幸せを 掴 むこともできない。私たちがこの尊い法華経の縁に触れたことが必ずや〝すばらしき人生〞へと 導 いてくれるのであります。
合 掌