今年も 後 わずかです。一年を 振 り 返 ると、コロナに始まりコロナで終わる年でした。しかし、東京オリンピック、パラリンピックも 開催 され 問題 なく 終了 したことは、とても喜ばしいことです。 入国 する 選手 や 五輪 関係者 を外部と 遮断 する 水際 対策 の「バブル方式」が 感染 拡大 防止 につながったものと考えられます。また、 無観客 での開催も過去に例のないことで、新たな 歴史 をつくりました。
私たちが 新型 コロナウイルスから学んだことは、日常生活を変えること、いわゆる新しい 生活 様式 への 転換 という大きなテーマであります。 手指 の 消毒 、うがい、マスクは当然なこととなりました。そして、ステイホームといい不要不急の外出を控えることが推奨されました。コロナ 感染 拡大 により、今までの生活がいかに良かったか。ウイルスを気にすることなく自由に生活ができたこと、コロナ以前の生活が恵まれていたことに 感謝 をしないといけないと思います。
とにかく人が 動 けばコロナも動くということで、あまり出歩かないようにすることです。また、人間とはとても弱い存在であることも思い知らされました。コロナ感染による 重症 化 で 肺炎 という 恐 ろしい病気で亡くなるケースが多くありました。 自発 呼吸 ができないということは、とても苦しいことです。
現在の日本の状況は 感染 が落ち着いております。しかし、海外ではまた再び感染拡大をしている国もあります。わが国でもいつ 第六波 が来るとも限りませんが、私たちにできることは、感染防止対策とワクチンの三回目の 接種 です。近い 将来 にコロナ 治療 薬 がいろいろな 製薬 会社 から出てきます。万が一感染しても 重症化 リスクは低くなると思われます。
立教四十八年祭もコロナの影響で読経のみの開催となりました。また今月の開祖祭・榊原大菩薩十一回忌の法要会も読経のみの開催となります。来年の元旦祭も本年同様元旦は 短冊 引 きを午後より開始の予定です。どうか宜しくお願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。 静岡県 の責任者をしておりました。静岡の冬の 気候 は 温暖 で 過 ごしやすいところです。気候が良いためか、 気性 も 穏 やかな人が多いように感じました。
私が担当していた 静岡 S 総合 病院 のI 副院長 先生 には、大変お世話になりました。先生は 名医 で 糖尿病 の 患者 さまが三千名おられ、東海四県でも一位、二位を争うほど患者さまを多く 診 ておられました。
I先生がちょうど六十歳のときに、私が担当となりました。私のことを気に入っていただき、毎週十例以上の患者さまの 注射器 を 従来 のシリンジ( 注射 筒 )から 弊社 のペンタイプのディスポーザブル( 使 い 捨 て)の注射器に変更していただきました。患者さまの注射時の 負担 の 軽減 になり、生活の 質 の向上に大きく 貢献 できたのです。今でも先生のご恩に感謝しても感謝しきれない思いであります。
私が 課長 に 昇格 して、その病院をHさんに 引継 ぎしました。Hさんはとても 優秀 で、私が 指導 しなくても、なんでも 器用 にやり 遂 げることができるのです。私が彼に 教 えたことは、 拘 りを 持 ってやりなさいの一言です。 優秀 な人間は 目標 を与えれば、何も指導しなくてもちゃんと売り上げを 伸 ばすことができるのです。
あと、もう一つ教えたことは、先生の 限界 まで 攻 めることの 重要性 を教えました。どういうことかと言いますと、 相手 が 怒 るか、怒らないかギリギリまで攻め切れるかどうかで、勝負は決まります。その 限界値 を怒らせないように 探 ることがトップセールスの 役目 であり、 後輩 を育てる 鍵 にもなります。
仕事を含めすべての 行動 というものは、 喜 んで、 明 るく、 楽 しく、 納得 のいくやり方が 望 ましいのです。常に 前向 きな考え方で取り組むことです。そして、 社会 貢献 をしているという 理念 を持つことがとても重要です。 殆 どの仕事は、すべて人の役に立つ仕事です。 自信 と 自負 と 責任感 が良い方向へと導いてくれるのであります。
仏教では 優柔不断 も 自我 であると言います。「優柔不断で、ものごとをなかなか決められなくて困ります」という人がおられますが、人間はみな優柔不断なところがあります。それを、 経験 を 積 んだり、 習慣 づけたりすることで自分をコントロールして 修正 していくものなのです。
決断 できずにああだ、こうだと悩んでいる間は、自分ではいろいろ考えているような気がするかもしれませんが、実はただ考えが頭の中でグルグルと 堂々 巡 りしているだけです。「 判断 を 間違 えたくない」「どうにか自分にとってメリットのある 選択 をしたい」という気持ちで、「どうしようかな、どうしようかな」と 悩 んでいるだけです。
悩んでいるときは、「判断しない」ということをしているのです。判断しないことは行動しないことにつながります。人はひとりで生きているわけではありませんから、あなたが何かの判断をしない、行動しないということは、 関 わっている誰かに何かしらの 迷惑 をかけていることになります。
着 ていくものが決まらなくて 支度 に 時間 がかかり、 約束 に 遅 れてしまう。レストランで何を 頼 もうか 迷 って、なかなか注文が決まらない。仕事の上で選択に悩んで作業が止まってしまい、次の 工程 に進めない。
などなど、 優柔不断 な人は「どちらがいい」と聞かれたときに「どっちでもいい」と言うことが多くあります。では、本当にどちらでも 不満 がないのかと言えば、そうではなかったりします。どっちでもいいというので他の人が決めると、「ああ、やっぱりあっちのほうがよかった」と言ってしまう。これぞ優柔不断の人の 特徴 です。
優柔 不断 が 癖 になっている人は、「失敗したくない」と思いながら、さまざまなかたちで周囲の人に 繰 り 返 し 迷惑 をかけ続けるという失敗を 犯 しています。自分がどう思われるかということを気にしている代わりに、実は自分のことで頭がいっぱいで、それが他の人にとってどういうことなのかを 客観的 に考えられないのです。優柔不断もまた 自我 であるということをしっかり 認識 しなければなりません。
どんなに 優柔不断 な人でも、常に 決断 が 遅 いということはありません。たとえば、急に 激 しい 腹痛 があって 呼吸 が 苦 しくてどうしようもないときに、 救急車 を呼ぶか、それともしばらく 様子 を見るか」とは 悩 みません。早く医者に 診 てもらいたい、どうにかしてほしいと思います。
あるいは、 大腿骨 を 骨折 しているときに、「 手術 、 入院 、いえ、それは少し考えさせてください」なんて言いません。
人間は、本当に必要なことはすばやく決めて、対応しているのです。必要なことの中でももっとも大事なことは、生きることです。生きることに 直結 することは、しっかりと行動します。 基本的 に命を守ることに 選択 の 余地 などないのです。
「そんなことを言っても、私は会社の選択でも優柔不断になります。 就職 は人生の 一大事 です」という人もおられます。人生の大きな選択だと言いながら優柔不断になっている人は、実は選択の 優先 順位 で 勘違 いをしているのです。本気で 職 探 しをしていて、いますぐにでも収入を得る手段が欲しい、そうでないと生きていけないと思ったら、 選 り 好 みなんかしません。「はい、ぜびやらせて下さい」と言います。「明日から、いえ今日からでも働けます」と言います。
そうしないのは、本当に必要なことではないのか、さもなければ、 自我 によって 判断 の 優先 順位 を間違えているのです。
人間は生きるためにさまざまなことをやっているのです。従って、生きることに関係のないことなんてないのです。しかし、現代のような「死を 実感 しにくくなった社会」では、自分の行動の一つひとつが命にかかわっているのだと 想像 することは 難 しくなっています。
大事だと思っているから 優柔不断 になる。ということは 屁理屈 です。 自我 を満足させるために悩んでいるだけです。本当に必要なことは迷わないのです。
判断 を 誤 らせる 元凶 が 感情 です。 理性 で考えたら「これは間違ったらまずい」と判断し 選択 するところで、 自我 が入り込んできて、 冷静 で 理性的 な判断を 狂 わせるのです。
絶対 に 間違 ってはいけない選択とは、間違えたら人が死んでしまうことです。たとえば、いじめ問題でもいじめがエスカレートして相手を殺してしまうような事件も、最初から殺そうという意志があってやったというよりは、「そんなことをしたら死んでしまう」ということが 想像 できず、 感情 を 理性 で 制御 できないまま 暴力 をふるってしまうところに大きな原因があると思います。
こうした問題は 優柔不断 とは別のことですが、 本来 起 こらなくていいはずの 悲惨 な 事件 のほとんどが、人として絶対に間違ってはいけない選択において、間違いを犯している、感情をコントロールできずにやってしまっていることに 起因 しているのです。感情とは、それほど恐ろしいものなのです。
人間はみな、何よりも「生きていたい」のです。いかなる場合でも命にかかわるような判断を間違ってはいけないのです。自分の命も、他の人の命も大事にしなければいけないのです。
従って、「 感情 を 野放 しにしてはいけない」 理性 でコントロールすることを 覚 えなければなりません。
理性で判断して行動していても、結果がよくないときもあります。 入学 試験 、 就職 試験 、 昇級 試験 、 資格 試験 などの試験と名のつくものはすべて自分が努力したから必ずうまくいくというものではありません。 公私 にわたるさまざまな人間関係は、お互いの 思惑 や 相性 もあり本当に 難 しいものです。
だからといって、うまくいかなかったときに「ああ、失敗した」と落ち込んで、「あのとき、こっちの道を選択しなければよかったのかもしれない」と考えてはいけません。捨てた 選択肢 に 悩 まないこと。捨てた選択肢をまたゴミ箱から拾い出して 眺 めて、いまの結果を 後悔 するような意味のないことをしてはいけません。
だいたい「失敗しないように」ということばかり考えていると、前に進むのが怖くなってますます 優柔不断 に 悩 むことになります。
人間というのはもともと 不完全 な 存在 なのです。どんなにがんばっても 完璧 ということはあり 得 ません。ミスをするのは当たり前です。「失敗がなんだ、こんなことで命は取られないぞ」と思って 果敢 に 挑戦 していくべきです。
ただし、結果がよくなかったときには、また同じような状況で同じようなミスをしないように気を付けなければいけません。それが「学習する」ということです。
同じ条件で、また同じことを選択してはいけないのです。次は同じ結果にならないようにと考えて選択する。それが成長というものです。「失敗するなかれ」ではなく、「 同 じ 過 ちを 繰 り 返 すなかれ」なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を信じることの大切さを説かれました。深く、深く信じることで、より多くの 功徳 をいただけると言われました。「信じる者こそ 救 われる」ということです。
妙法を深く信じていけば、いろんなものが見えてまいります。お釈迦さまが説かれた「 因果 の 二法 」がわかるようになれます。 悩 みや 苦 しみの 原因 を知ることにより、 間違 いを 起 こしたことを 反省 し、それを 乗 り 越 えることができるのです。
そして、 行住坐臥 いついかなるときも妙法の力を信じ「妙法蓮華経」の五文字を 唱 えるときに大きな功徳が 現 れます。信じて唱えることで、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると仰せです。 大難 が 小難 に小難が 無難 へと 罪障 を 消滅 することができるのです。
『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事であります。実践により私たちの 境涯 を高めることができます。境涯が高まれば人生は変わります。自分の努力により、高い人格へと変革することが法華経の重要な意義なのです。私たちは、人格を高める努力を 惜 しまずに 精進 することで〝すばらしき人生〞へと 昇 っていきたいと思っております。
合 掌