PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生108

今年も あと わずかです。一年を  り かえ ると、コロナに始まりコロナで終わる年でした。しかし、東京オリンピック、パラリンピックも 開催かいさい され 問題もんだい なく 終了しゅうりょう したことは、とても喜ばしいことです。 入国にゅうこく する 選手せんしゅ や 五輪ごりん 関係者かんけいしゃ を外部と 遮断しゃだん する 水際みぎわ 対策たいさく の「バブル方式」が 感染かんせん 拡大かくだい 防止ぼうし につながったものと考えられます。また、 無観客むかんきゃく での開催も過去に例のないことで、新たな 歴史れきし をつくりました。


 私たちが 新型しんがた コロナウイルスから学んだことは、日常生活を変えること、いわゆる新しい 生活せいかつ 様式ようしき への 転換てんかん という大きなテーマであります。 手指てゆび の 消毒しょうどく 、うがい、マスクは当然なこととなりました。そして、ステイホームといい不要不急の外出を控えることが推奨されました。コロナ 感染かんせん 拡大かくだい により、今までの生活がいかに良かったか。ウイルスを気にすることなく自由に生活ができたこと、コロナ以前の生活が恵まれていたことに 感謝かんしゃ をしないといけないと思います。


 とにかく人が うご けばコロナも動くということで、あまり出歩かないようにすることです。また、人間とはとても弱い存在であることも思い知らされました。コロナ感染による 重症じゅうしょう  で 肺炎はいえん という おそ ろしい病気で亡くなるケースが多くありました。 自発じはつ 呼吸こきゅう ができないということは、とても苦しいことです。


 現在の日本の状況は 感染かんせん が落ち着いております。しかし、海外ではまた再び感染拡大をしている国もあります。わが国でもいつ 第六波だいろっぱ が来るとも限りませんが、私たちにできることは、感染防止対策とワクチンの三回目の 接種せっしゅ です。近い 将来しょうらい にコロナ 治療ちりょう やく がいろいろな 製薬せいやく 会社がいしゃ から出てきます。万が一感染しても 重症化じゅうしょうか リスクは低くなると思われます。


 立教四十八年祭もコロナの影響で読経のみの開催となりました。また今月の開祖祭・榊原大菩薩十一回忌の法要会も読経のみの開催となります。来年の元旦祭も本年同様元旦は 短冊たんざく  きを午後より開始の予定です。どうか宜しくお願いいたします。


 私がサラリーマンの時でした。 静岡県しずおかけん の責任者をしておりました。静岡の冬の 気候きこう は 温暖おんだん で  ごしやすいところです。気候が良いためか、 気性きしょう も おだ やかな人が多いように感じました。


 私が担当していた 静岡しずおか S 総合そうごう 病院びょういん のI 副院長ふくいんちょう 先生せんせい には、大変お世話になりました。先生は 名医めいい で 糖尿病とうにょうびょう の 患者かんじゃ さまが三千名おられ、東海四県でも一位、二位を争うほど患者さまを多く  ておられました。


 I先生がちょうど六十歳のときに、私が担当となりました。私のことを気に入っていただき、毎週十例以上の患者さまの 注射器ちゅうしゃき を 従来じゅうらい のシリンジ( 注射ちゅうしゃ とう )から 弊社へいしゃ のペンタイプのディスポーザブル( 使つか い  て)の注射器に変更していただきました。患者さまの注射時の 負担ふたん の 軽減けいげん になり、生活の しつ の向上に大きく 貢献こうけん できたのです。今でも先生のご恩に感謝しても感謝しきれない思いであります。


 私が 課長かちょう に 昇格しょうかく して、その病院をHさんに 引継ひきつ ぎしました。Hさんはとても 優秀ゆうしゅう で、私が 指導しどう しなくても、なんでも 器用きよう にやり  げることができるのです。私が彼に おし えたことは、 こだわ りを  ってやりなさいの一言です。 優秀ゆうしゅう な人間は 目標もくひょう を与えれば、何も指導しなくてもちゃんと売り上げを  ばすことができるのです。


 あと、もう一つ教えたことは、先生の 限界げんかい まで  めることの 重要性じゅうようせい を教えました。どういうことかと言いますと、 相手あいて が おこ るか、怒らないかギリギリまで攻め切れるかどうかで、勝負は決まります。その 限界値げんかいち を怒らせないように さぐ ることがトップセールスの 役目やくめ であり、 後輩こうはい を育てる かぎ にもなります。


 仕事を含めすべての 行動こうどう というものは、 よろこ んで、 あか るく、 たの しく、 納得なっとく のいくやり方が のぞ ましいのです。常に 前向まえむ きな考え方で取り組むことです。そして、 社会しゃかい 貢献こうけん をしているという 理念りねん を持つことがとても重要です。 ほとん どの仕事は、すべて人の役に立つ仕事です。 自信じしん と 自負じふ と 責任感せきにんかん が良い方向へと導いてくれるのであります。


 仏教では 優柔不断ゆうじゅうふだん も 自我じが であると言います。「優柔不断で、ものごとをなかなか決められなくて困ります」という人がおられますが、人間はみな優柔不断なところがあります。それを、 経験けいけん を  んだり、 習慣しゅうかん づけたりすることで自分をコントロールして 修正しゅうせい していくものなのです。


  決断けつだん できずにああだ、こうだと悩んでいる間は、自分ではいろいろ考えているような気がするかもしれませんが、実はただ考えが頭の中でグルグルと 堂々どうどう めぐ りしているだけです。「 判断はんだん を 間違まちが えたくない」「どうにか自分にとってメリットのある 選択せんたく をしたい」という気持ちで、「どうしようかな、どうしようかな」と なや んでいるだけです。


 悩んでいるときは、「判断しない」ということをしているのです。判断しないことは行動しないことにつながります。人はひとりで生きているわけではありませんから、あなたが何かの判断をしない、行動しないということは、 かか わっている誰かに何かしらの 迷惑めいわく をかけていることになります。


   ていくものが決まらなくて 支度したく に 時間じかん がかかり、 約束やくそく に おく れてしまう。レストランで何を たの もうか まよ って、なかなか注文が決まらない。仕事の上で選択に悩んで作業が止まってしまい、次の 工程こうてい に進めない。


 などなど、 優柔不断ゆうじゅうふだん な人は「どちらがいい」と聞かれたときに「どっちでもいい」と言うことが多くあります。では、本当にどちらでも 不満ふまん がないのかと言えば、そうではなかったりします。どっちでもいいというので他の人が決めると、「ああ、やっぱりあっちのほうがよかった」と言ってしまう。これぞ優柔不断の人の 特徴とくちょう です。


  優柔ゆうじゅう 不断ふだん が くせ になっている人は、「失敗したくない」と思いながら、さまざまなかたちで周囲の人に  り かえ し 迷惑めいわく をかけ続けるという失敗を おか しています。自分がどう思われるかということを気にしている代わりに、実は自分のことで頭がいっぱいで、それが他の人にとってどういうことなのかを 客観的きゃっかんてき に考えられないのです。優柔不断もまた 自我じが であるということをしっかり 認識にんしき しなければなりません。


 どんなに 優柔不断ゆうじゅうふだん な人でも、常に 決断けつだん が おそ いということはありません。たとえば、急に はげ しい 腹痛ふくつう があって 呼吸こきゅう が くる しくてどうしようもないときに、 救急車きゅうきゅうしゃ を呼ぶか、それともしばらく 様子ようす を見るか」とは なや みません。早く医者に  てもらいたい、どうにかしてほしいと思います。


 あるいは、 大腿骨だいたいこつ を 骨折こっせつ しているときに、「 手術しゅじゅつ 、 入院にゅういん 、いえ、それは少し考えさせてください」なんて言いません。


 人間は、本当に必要なことはすばやく決めて、対応しているのです。必要なことの中でももっとも大事なことは、生きることです。生きることに 直結ちょっけつ することは、しっかりと行動します。 基本的きほんてき に命を守ることに 選択せんたく の 余地よち などないのです。


「そんなことを言っても、私は会社の選択でも優柔不断になります。 就職しゅうしょく は人生の 一大事いちだいじ です」という人もおられます。人生の大きな選択だと言いながら優柔不断になっている人は、実は選択の 優先ゆうせん 順位じゅんい で 勘違かんちが いをしているのです。本気で しょく さが しをしていて、いますぐにでも収入を得る手段が欲しい、そうでないと生きていけないと思ったら、  り ごの みなんかしません。「はい、ぜびやらせて下さい」と言います。「明日から、いえ今日からでも働けます」と言います。


 そうしないのは、本当に必要なことではないのか、さもなければ、 自我じが によって 判断はんだん の 優先ゆうせん 順位じゅんい を間違えているのです。


 人間は生きるためにさまざまなことをやっているのです。従って、生きることに関係のないことなんてないのです。しかし、現代のような「死を 実感じっかん しにくくなった社会」では、自分の行動の一つひとつが命にかかわっているのだと 想像そうぞう することは むずか しくなっています。


 大事だと思っているから 優柔不断ゆうじゅうふだん になる。ということは 屁理屈へりくつ です。 自我じが を満足させるために悩んでいるだけです。本当に必要なことは迷わないのです。


  判断はんだん を あやま らせる 元凶げんきょう が 感情かんじょう です。 理性りせい で考えたら「これは間違ったらまずい」と判断し 選択せんたく するところで、 自我じが が入り込んできて、 冷静れいせい で 理性的りせいてき な判断を くる わせるのです。


  絶対ぜったい に 間違まちが ってはいけない選択とは、間違えたら人が死んでしまうことです。たとえば、いじめ問題でもいじめがエスカレートして相手を殺してしまうような事件も、最初から殺そうという意志があってやったというよりは、「そんなことをしたら死んでしまう」ということが 想像そうぞう できず、 感情かんじょう を 理性りせい で 制御せいぎょ できないまま 暴力ぼうりょく をふるってしまうところに大きな原因があると思います。


 こうした問題は 優柔不断ゆうじゅうふだん とは別のことですが、 本来ほんらい  こらなくていいはずの 悲惨ひさん な 事件じけん のほとんどが、人として絶対に間違ってはいけない選択において、間違いを犯している、感情をコントロールできずにやってしまっていることに 起因きいん しているのです。感情とは、それほど恐ろしいものなのです。


 人間はみな、何よりも「生きていたい」のです。いかなる場合でも命にかかわるような判断を間違ってはいけないのです。自分の命も、他の人の命も大事にしなければいけないのです。


 従って、「 感情かんじょう を 野放のばな しにしてはいけない」 理性りせい でコントロールすることを おぼ えなければなりません。


 理性で判断して行動していても、結果がよくないときもあります。 入学にゅうがく 試験しけん 、 就職しゅうしょく 試験しけん 、 昇級しょうきゅう 試験しけん 、 資格しかく 試験しけん などの試験と名のつくものはすべて自分が努力したから必ずうまくいくというものではありません。 公私こうし にわたるさまざまな人間関係は、お互いの 思惑おもわく や 相性あいしょう もあり本当に むずか しいものです。


 だからといって、うまくいかなかったときに「ああ、失敗した」と落ち込んで、「あのとき、こっちの道を選択しなければよかったのかもしれない」と考えてはいけません。捨てた 選択肢せんたくし に なや まないこと。捨てた選択肢をまたゴミ箱から拾い出して なが めて、いまの結果を 後悔こうかい するような意味のないことをしてはいけません。


 だいたい「失敗しないように」ということばかり考えていると、前に進むのが怖くなってますます 優柔不断ゆうじゅうふだん に なや むことになります。


 人間というのはもともと 不完全ふかんぜん な 存在そんざい なのです。どんなにがんばっても 完璧かんぺき ということはあり  ません。ミスをするのは当たり前です。「失敗がなんだ、こんなことで命は取られないぞ」と思って 果敢かかん に 挑戦ちょうせん していくべきです。


 ただし、結果がよくなかったときには、また同じような状況で同じようなミスをしないように気を付けなければいけません。それが「学習する」ということです。


 同じ条件で、また同じことを選択してはいけないのです。次は同じ結果にならないようにと考えて選択する。それが成長というものです。「失敗するなかれ」ではなく、「 おな じ あやま ちを  り かえ すなかれ」なのであります。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を信じることの大切さを説かれました。深く、深く信じることで、より多くの 功徳くどく をいただけると言われました。「信じる者こそ すく われる」ということです。


 妙法を深く信じていけば、いろんなものが見えてまいります。お釈迦さまが説かれた「 因果いんが の 二法にほう 」がわかるようになれます。 なや みや くる しみの 原因げんいん を知ることにより、 間違まちが いを  こしたことを 反省はんせい し、それを  り  えることができるのです。


 そして、 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなるときも妙法の力を信じ「妙法蓮華経」の五文字を とな えるときに大きな功徳が あらわ れます。信じて唱えることで、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができると仰せです。 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ することができるのです。


『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の 実践じっせん がとても大事であります。実践により私たちの 境涯きょうがい を高めることができます。境涯が高まれば人生は変わります。自分の努力により、高い人格へと変革することが法華経の重要な意義なのです。私たちは、人格を高める努力を  しまずに 精進しょうじん することで〝すばらしき人生〞へと のぼ っていきたいと思っております。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス