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世界平和を
大樹
すばらしき人生112

新型コロナの影響でさまざまなことが起きておりますが、四月は新年度のスタートです。心機一転、明るく楽しい人生がやってくるのを期待しております。過去の つら いことや嫌なこともぜんぶ忘れ 頑張がんば ることです。


 この冬は本当に寒かったですが、これから春が来て過ごしやすい日々となります。活動するには良い 機会きかい です。皆さんもいろんなことにチャレンジすることをお すす めします。新しい自分を再発見するのも良いのではないでしょうか。


 歳を重なると記憶力が低下してきます。特にパソコンで字を書いていると漢字がなかなか出てきません。そういう経験は誰にでもあるものです。


 まずは、脳トレをしないといけないと思います。クロスワードや 数読すうどく 、 漢読かんどく などいろいろ手段はあります。脳を きた えて、いつまでも若く(アンチエイジング)保つことが大事です。


 新型コロナもワクチン接種と治療薬のおかげで、必ず 終息しゅうそく すると思われます。時期はわかりませんが、辛抱強く戦うことしか方法はありません。耐えることです。耐え忍んで勝つのです。法華経は耐えることの重要性を説いております。どんなことにも負けない強いこころをつくることが きわ めて重要であります。


 私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしておりました。東名高速もありどこに行くのもアクセスは良いところでした。ただ年に一度(十一月)リニューアル工事があり、その期間は大渋滞で仕事になりません。将来的な安全を確保するためなので仕方がないのですが、大変な思いをしました。


 そんな東西に長い静岡県を担当して本当に良かったと思います。日本一の富士山や 白糸しらいと の滝(富士宮市)は、落差約二十メートル、幅約百五十メートルで、富士山の雪解け水が  き出ているのです。また、三島市の かき 田川たがわ の 湧水群ゆうすいぐん はコバルトブルーの色をした 綺麗きれい なところです。毎日富士山の 伏流ふくりゅう すい が  き出て、すごく水が 綺麗きれい な川です。水中に 三島みしま 梅花ばいか  という花が咲き光合成をして酸素をつくっているのです。


 一級河川も大井川、天竜川、狩野川、富士川、安倍川、菊川と六つもあります。大自然と空気の 綺麗きれい なところで仕事ができたこと、今でも感謝しております。


 浜松市にあるH医科大学付属病院はとても重要な病院でした。その施設をYさんが担当しておりました。当時の彼の成績は良くも悪くもなく真ん中あたりの成績でした。性格は申し分ないのですが、何かが足りないのです。与えられた仕事は卒なくこなしますが、何か物足りないところがありました。


 彼は、まんべんなく仕事をすることが、とても大事なことであると 勘違かんちが いをしていたのです。私たちのターゲットは第二内科と小児科です。インスリンの注射と成長ホルモンの販売促進が大きな目的です。


 キードクター(重要な先生)は理解しているのですが、彼はターゲットを しぼ り込む作業ができていなかったのです。大きな大学病院で多くの医局員がいる中、ある程度絞る必要がありました。「 下手へた な 鉄砲てっぽう かず  ちゃ当たる」じゃないけれど、そんなやり方をしていては、どんなに時間があっても足りません。


 私は、彼にドクターに優先順位をつけさせ、効率よく活動したほうが結果が出るとアドバイスをしました。そして、医局の中で中心的な先生をピックアップさせ、その影響力や人脈や性格や先生の将来像などを視野に入れ、彼に考えさせました。


 一年、二年と月日が経ち、ようやく効率の良い仕事ができるようになりました。これから先は本人の努力しだいでは、いかようにも伸びる要素があるのです。


 本人は、仕事の目的や方法、そして、結果の出し方は理解しているのですが、自分の小さな世界で考えて行動するから、それでよいと勘違いをしてしまうのです。仕事とは、もうこれで良いという限界はないのです。常に高め続けることが大事なのです。


 そして、自分の力に気づき、目覚め、認めることです。そうしないと高い目標には 到達とうたつ できません。私たちは、いかに優秀な部下を数多くつくるかによって、自分自身を高めることの 布石ふせき となるのです。優秀な部下が増えれば、必然的に売り上げも上がっていくのです。仕事は自分一人で行っているのではないのです。個人個人の力を高め、組織力をつくることがとても大事なのであります。


 仏教では、「人が生きる目的」について考えることが重要と言います。その前に「なぜ生きているのか」ということを考えないといけません。


 この「なぜ生きているのか」という問題は、一人ひとりが真剣に考えたほうがいいのです。残念ながら多くの人はあまり考えておりません。


 もし大人が「なぜ生きているのか」と自問すると、「この人は何か相当大変な問題を抱えているのではないか」と周りから思われたり、「人生に失敗したのではないか」と疑われたりします。


 ということは、誰もこの問題を真面目には考えていないということなのです。人がそう思うのは、皆、今を生きることで精一杯だからです。どんな人間であろうとも、どんな生命であろうとも、生きるために必死で戦っています。生きるという戦いは手を抜けません。皆、毎日の戦いであまりにも忙しくて、「生きる」とは、いくらやってもやりきれない「終わりなき戦いである」ということにさえ、気づく余裕がありません。


 例えば、食べるものもある、住む家もある、 貯蓄ちょちく もあるというように、それなりに人生が安全だと思えるようになったら、死後のことや、道徳のことなども考えるようになるでしょう。しかし、そうでなければ考える余裕などないのです。


 それなのに、「なんとしてでも生きるべきだ」ということが、世間一般の考えなのです。人間にとって、生きることはこの上もなき意義があると考えられております。「生きることには価値がある」ということを誰一人として疑わないのです。


 そこから「生きることを応援してくれるものこそ価値がある」という考え方が生まれます。世の中で高い価値があると評価されているものはみな、「自分が生きることを応援してくれるもの」です。


 世間が合意するもう一つのポイントは、「わが身を守るために行うことは、なんであれ基本的には正しい」ということです。そのために人間は戦争まで正当化してしまいます。


 生きることには無条件で価値があると思うことは本当に正しいことなのでしょうか。仏教の立場からみますと「生きることは終わりなき戦いであって、人生は  で終わる」ということです。


 私たちは、幼いころからいろんなものを 獲得かくとく しながら生きていますが、これらもある年代になると捨てなくてはなりません。


 幼いころに、「私のもの」「私のもの」と駄々をこねて得たものも、若者になると興味が無くなり、捨てることになります。新しものを得なくてはならないからです。若いときにしがみついていたものも、中年になると捨てなくてはならなくなります。そして、最後は今まで 頑張がんば って得たものすべてを捨てていくことになります。


 結局今まで苦労してきたことも、意味が無くなってしまいます。そんなことは当たり前の事実ですが、世間はこの事実を無視するのです。だからこそ仏教は「すべてを捨てなくてはならないから、人生は『  』ではないかということを、考えなさい」と言っているのです。


 世間の「生きる目的」とは、「なぜ」生きているのかという問題の代わりに、「何のために」生きるのかという「人生の目的」を考えるのです。先ず第一に財産を増やすこと。第二に健康で長生きすること。第三に知識、権力、名誉を得ること。第四に競争に勝つこと。そんな目的などくだらないものです。しかし、そうしたくだらない目的で生きているのが現状であり、仲間と仲良くなろうという目的で生きているのではないのです。


 では、生きるとは「どういうこと」なのかですが、仏教的にはこうなります。生きるとは、 げん ・  ・  ・ ぜつ ・ しん ・  の六つの感覚器官で認識することです。


「生きる」ということは、具体的に 分析ぶんせき できることがらです。しかし、医学的な分析では不可能です。 細胞さいぼう の分析、 遺伝子いでんし の分析、それがあくまで物質だけのことだからです。いわば「土」の分析をしているようなものです。医学は「命」というものを発見できません。医学が発見したいのは、あくまでも何らかの化学物質です。


 例えば、記憶力を 増幅ぞうふく させるのはどんな化学物質だろうかと、一生懸命発見しようとします。医学の世界では、それを見つけたら注射をすればいい、あるいは錠剤にして飲めばいいということにしたいのです。


 このように「生きる」ということは科学の中に存在しないのです。従って、科学には、「命」というものを証明することができません。「命」というテーマで分析しているのは仏教だけです。科学者は「物質」というテーマで、仏教は「命」というテーマで研究しております。


 命とは認識することです。わかりやすく言えば「知る」という能力です。私たちは 六根ろっこん すなわち、  で、 みみ で、 はな で、 した で、 からだ で、こころで知ることです。


 目に見えるもの、例えば光が流れるのであれば、それを受けた「感覚」も同じく変化しなければならない。この眼の「感覚の流れ」と外の「物質の流れ」の両方が合わさることによって、「認識の流れ」という第三の流れが生まれます。


「命」とは、その「認識の流れ」にほかなりません。それも一瞬たりともとまることなく、恐ろしいスピードで変化しなくては成り立たないのです。


 私たちは、この「認識」によって「肉体」の維持管理もしています。私たちの心臓は、少し緊張したり、驚いたりすることで変化します。また、少し感情が変化しただけでも 鼓動こどう は変わります。このように、肉体を維持管理しているのはこころ、感覚です。体は認識によって動いている。そこが科学と仏教の違うところです。科学ですと人間は食物によって生きているといいますが、仏教では、物質は取り入れますが、認識が取り入れているということです。認識がそれを決めるのです。


 認識することで刺激が生じます。刺激とは  ・  ・ あい ・ らく などの感情です。刺激(感情)が生まれると、今度は喜・怒・哀・楽の感情を求める「意志」が生じます。


 この喜・怒・哀・楽という感情はすぐに消えてしまいます。つまり、喜・怒・哀・楽を感じたら「もっと欲しい」」という感情が生まれます。それを「意志」というのです。


 なんでもないことから感情の流れが生まれて、知ることができて、感覚が出てきて、感情ができて、そのうえ意志という、「もっと欲しい、もっと生き続けたい」というとてつもないものが生まれてくるのです。


 命とは変化する組織で会って、 因果いんが の 法則ほうそく によって組み立てられる、というよりも、因果の法則によって成り立つものです。この命という組織が、刺激を求めて動いているのです。


 植物の場合、葉は、光という刺激を求めて地球の引力とは反対方向、上へ上へと伸びていきます。このように生命は、刺激を求めています。生きるとはそういうシンプル(単純)なことなのです。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を信じる信心の大きさで功徳は変わると おお せです。信心が大きい人ほどご 利益りやく があるのです。深く深く信じる時に、いろんな変化を感じるのです。変化を感じれば、いつかそれが確信へと変わっていくのです。


  行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も、妙法蓮華経の五文字を唱えることが重要です。そうすれば、 不慮ふりょ の事故や災難から免れることができると仰せです。そして、 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を消滅できるのです。


 三徳『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の実践がとても大事です。実践することにより、こころが育ちます。こころが育てばこころが清らかで 清浄せいじょう になり、もっと 綺麗きれい になりたいという思いが生まれます。そして、その結果、運命を変えることができるのです。


 私たちも、日々、こころを育てる努力と精進によって〝すばらしき人生〞へと高めてまいりたいと思っております。


 


合 掌


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