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世界平和を
大樹
すばらしき人生113

さわやかな季節を迎えております。気温も上がり過ごしやすい日々となりました。ゴールデンウイークもあり活動する機会も増えてまいります。人生を前向きに生きると、いろんなことが好循環をします。何事も良きに とら えることが幸福への道です。良いことも悪いことも起きた状況から学び感謝へと自分を高める努力がとても大事です。必ず、幸せはそこから生まれてくるのです。


 まだまだ新型コロナウイルスが終息をしていない状況です。 重篤じゅうとく な症状のデルタ株と違い、比較的軽症のオミクロン株は感染力が増してきております。変異の繰り返しにより感染力は増加しますが、症状は軽症化しているような印象です。


 ただ最近は第七波が来ているのではないかとの専門家の意見もあります。いかに、感染しないよう予防することが重要です。


 普通の日常が取り戻せるよう国産ワクチン開発促進と治療薬が使えるよう、新薬承認を速やかに行うことが終息へと向かっていくことと考えられます。この大きな試練を人類の英知を しぼ りコロナに打ち勝つことがとても重要であります。


 先般の釈尊降誕祭(花まつり)はコロナの関係で参拝・法話は中止させて頂きました。六月開催の教祖祭も今の状況では難しい状況と思われます。辛抱強く安全宣言が出るまで、行事を粛々と開催したいと思います。どうかご協力をお願いします。


 私がサラリーマンのときでした。静岡県の責任者をしておりました。私が入社した平成二年には、自社販売をしておらず、Y社とK社が弊社製品の販売の代理店をして頂いておりました。そして、平成十年にようやく自社販売が叶ったのです。


 そういうことで、MR(営業)の新卒採用を平成四年から本格的に始めました。毎年、百名ほどの採用がありました。そうなると新人の営業マンの教育が研修担当者だけでは無理な状況となります。そこで営業課長が新人の製品教育をするのです。研修会場が御殿場でしたので、当然、私に指名がかかりました。私一人では無理ですので 近隣きんりん の神奈川や東京からの応援もありました。


 三年ほど研修の講師をさせて頂きましたが、その後、会社も大きくなり研修スタッフも増え新人教育を卒業させて頂きました。


 そして、初年度の研修に参加していたSさんが静岡県に配属されてきました。研修のときの印象ですが、まじめでおとなしいタイプの人間でした。大学を卒業したばかりで、まだ社会をあまり知りませんでした。


 私が部下の教育で心掛けたことは、常に信念をもって取り組むことを教えました。「 ほう ・ れん ・ そう 」は当然のことですが、人に ひい でる何かを身に着けるようにと、何度も何度も言い聞かせました。そして、二年、三年と経過し、一人前の営業マンとしてのスタートラインに立つことができたのです。人に教えることも重要ですが、一番良い効率的な活動とは何かを考えさせることも重要です。教えたことは、いずれ忘れてしまいます。しかし、自分が悩んで、悩んだ末出てきた答えは一生の宝となります。入社六年後に彼は、しっかりとした考えで、自分を信じ良い仕事ができるようになったのです。人間は一パーセントの才能と九十九パーセントの努力によって成功するか いな かが決まります。


 私の研修担当二年目のときに新卒で入社したKさんは、研修ではとても上手にプレゼン(製品説明)ができ成績も優秀でした。平成十四年に私が四国の責任者のとき、埼玉より転勤してきました。


 彼は入社十年目でした。中堅社員として課長に昇進できるかどうかという年齢です。埼玉で十年 頑張がんば ってきたにもかかわらず、大都市から田舎の高知県の担当ということは、いわば左遷の状況に思えます。


 彼をこんな状態にしたのは、上司の責任です。もともと才能がありながら、それを出し切れないということが大問題なのです。埼玉県の課長のYさんは、好き嫌いで判断し、好き嫌いで行動するそんな人でした。


 部下が育たないのもうなずけます。人を生かすも殺すも上司しだいです。Kさんは、そんな悪い上司と縁があったのです。しかし、どんな悪い上司であろうとも自分の力を信じ、自分で伸びることを考え実行し自立することが重要なのです。


 私がKさんを励まし、彼を理解し、同じ目線で一緒に考えてあげることが、彼が復活する大きな原動力となりました。その後、彼はコツコツ頑張って会社に貢献できるようになったのです。努力は裏切りません。必ず結果がついてくるのであります。


 さて、仏教的に考えますと人間は、幸福とは何かを知らないから、その結果として、土地、財産、名誉、権力などを求めることが、人生の生きる目的となってしまっているのです。お金を もう けること、土地を増やすこと、権力を獲得することなどです。


 しかし、たとえどのように生きてみても、苦しみ、混乱、失敗、失望などばかりを経験することになります。お金が儲かったとしても、権力を握ったとしても、それで人生がうまくいくものではありません。


 たとえ美人と結婚しても人生は不幸のどん底、かといって離婚してもうまくいかない、結婚と離婚を繰り返してもうまくいかない、といったこともあります。


 アルバイトで一時的な仕事に就いている人の中には、好きなように仕事を変えればいいと考えている人もいるでしょう。そのために、いつまでも貧乏で、何も自信がなく、定まることのない生活を続けることになっています。仕事を何度変えても、結局は同じことです。戦争を何度繰り返しても幸福になれないし、平和も訪れないのと同じです。


 そして、「この悪循環はなんだ」と思う時はじめて、人間の頭に「幸福」という 概念がいねん が浮かびます。


 幸福とは何かということを考えないといけません。まず幸福の定義とは、第一番目に「不満がないこと」、二番目に「充実感を味わえること」、三番目に「終わりなき生きる戦いに終止符を打つこと、すなわち生きる苦しみが無くなることが最高の幸福」なのです。


 不満がないこととは、たとえば、ご飯を食べてもあまり満足できないのであれば、幸福とはいえません。満足できれば幸福を感じます。それは、おにぎりを食べることが幸福なのか、ステーキを食べることが幸福なのかという比較の問題ではありません。「あなたは何を食べると満足を感じますか」ということです。何を食べようとも、満足を感じたところが幸福なのです。


 二番目の充実感を味わえることですが、「あぁ、良かった、意味のあることができた」という気持ちになれば、難しいことをやっても、苦しいことをやっても気分が良いです。たとえ、体力を使うきつい仕事をやったとしても、「よくやった」という充実感が生まれるなら、そちらに幸福があるのです。


 辛いとか、楽しいとかが幸福のバロメーターではないのです。肉体的に辛くても幸福なときはあります。逆に、肉体的に辛いところがないのに不幸なときもあります。


 たとえば、仕事がなくて朝九時まで寝ていて、ご飯をお腹いっぱい食べて、やることがないからテレビでも見たとしましょう。体には何の痛みもありませんが、それで幸福を感じるでしょうか。感じませんね。だから、幸福や不幸は、体で苦しみを感じるか否かではありません。刺激には何の関係もないということです。


 あるいは、おいしかったご飯が食べられれば幸せだという人がいたとしましょう。その人は、仕事がなかなか見つからず、元気もありません。 不憫ふびん に思った隣の奥さんが、ご馳走を持ってきてくれました。確かにおいしいでしょう。でも、それを食べて幸福を感じるでしょうか。感じないでしょう。恵んでもらったものだから みじ めです。このように幸福は、おいしいご飯にあるのではなく、充実感にあるのです。


 逆に、仕事で忙しい人がいたとします。朝六時に起き、食事を済ませ、家を飛び出し、会社ではお昼ご飯も食べる余裕もなく、夜遅くまで仕事をしなくてはなりません。苦しいですよ。やっと仕事を終えても時間がないのでコンビニ弁当を買います。面白いことに、それほどおいしいものでなくても、ものすごい充実感を味わうことができます。食事をしながら少しだけテレビを見ます。でも明日も早いので早々に寝ます。それでも、その人は充ち足りたと感じるでしょう。「幸福とは、こうしたことに確実にある」のです。


 三番目は「終わりなき戦いに終止符を打つこと、生きる苦しみがなくなることが最高の幸福である」ということです。


 生きることは戦いです。それも終わりのない戦いです。その戦いの終了宣言ができたならば、「よくやった」という気分になります。それが究極的な幸福です。幸福は外の対象にあるものではなく、自分のこころの中にあるものです。


 幸福になるためには目標の設定が必要です。闇雲に生きることは無限の苦しみのもとになります。刺激であろうが、楽しみであろうが自分に必要なものか、なくてもいいものかを見極める必要があります。


 刺激を求めたいなら、それでも結構です。ただ、その刺激が自分に必要なのか、なくても大丈夫なのか、それだけは判断してほしいと思います。たとえば、食べ物なら何を食べても悔いはないとなると、 歯止はど めが  かなくなってしまうからです。


 財産、権力、名誉などの場合は、必要な、欠かせない順序を決めて、非合理的、非現実的な目標はリストから削除してください。


 お金を儲けたいとしても、百億円欲しい、いや百五十億円でないと、などと馬鹿なことを考えてはいけません。具体的に考えて自分には最小限でどのくらいのお金が必要なのかを考えるのです。権力も必要だからといって、世界を支配するところまではいらないでしょう。自分の言葉が通じる力がどのくらいあればいいのかと、具体的に考えて、いらないものは全部リストから削除しなければいけません。


 そうすると短いリストができます。それも具体的で現実的なリストです。普通はそこまでは、なかなかやりませんが、仏教ならそうします。


 人々には無限の目標、希望があります。何でもいいから挑戦する人、みんながやっているから挑戦する人、他人と差をつけるために目標を決める人、ただの憧れで目標を決める人など。しかし、その目標に達したとしても、それで幸福になるか不幸になるのかはわかりません。なぜなら、目標には合理性がないからです。


 仏教はそうでなくて、必要なもの、不要なもの、また少しだけ挑戦すれば得られるもの、そのように順序をつけます。そして、 妄想もうそう や非合理的なもの、「他人がやっているから」といったものなどは全部削除して、自分だけの目標リストを作るのです。そうすれば簡単に達成することができるのです。


 何を得ても満足、喜びを感じる性格に変わるなら、その人には幸福があるのだと言えます。何をやっても、「あぁ、よくできた、良かった」と、それぞれに、満足が得られれば、楽しく、幸せに生きていくことができるのです。


「満足」という言葉は仏教ではとても大切な、命のような言葉です。心理学的に精神的なところで「満足」ということを目指しております。そのためにも、目標の設定は欠かせません。満足をしたければ目標を設定してください。しかし、その目標が限りなく高いものであれば、限りなく苦しむだけです。そのとき、大切なのはアプローチ( 取組とりくみ )です。自分に適した目標を達成したときに、大きな満足感が生まれ、幸福へと つな がっていくのです。


 教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じることの重要性を説かれました。そして、 常住じょうじゅう 坐臥ざが いついかなるときも「妙法蓮華経」の五文字を唱えるときに大きな功徳があると言われました。そうすれば、 不慮ふりょ の事故や災難から免れることができるのです。そして、大難が小難へ小難が無難へと 罪障ざいしょう を消滅できるのです。


『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の実践が大事です。三徳の実践により、自分のこころを育てることができるのです。こころが育てば人格も高まります。そうすれば宿命転換ができるのです。自分の運命を変えるのは自分しかできないということです。私たちが、日々精進することで〝すばらしき人生〞と言えるように輝いてほしいと思います。


 


合 掌


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