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世界平和を
大樹
すばらしき人生114

六月に入り 梅雨つゆ の季節がやってきました。毎年感じますが昔の梅雨と現在の梅雨では雨の降り方が変わってまいりました。私が幼少のころは、毎日雨がしとしとと降っておりました。しかし、最近ではゲリラ 豪雨ごうう や 線状せんじょう 降水帯こうすいたい といって、同じ場所で雨が集中的に降り大きな被害も出ております。


  地球ちきゅう 温暖化おんだんか がもたらす海水温の上昇により雨雲が発達して大雨となるケースが増えてきました。河川の決壊による家屋の浸水やダムの放水による被害もありました。私たちが本気で温暖化対策を実施しないと、この先地球がどうなるのか予想もつきません。一人ひとりが責任をもって環境問題に 対峙たいじ することが重要であります。


 ゴールデンウィークに多くの人が旅行や帰省などで 人流じんりゅう が増加したため、新型コロナ患者も増える傾向にあります。「人が動けば、コロナも動く」ではないですが、まさに人流と比例して患者が増加するのは、当然のことです。コロナ三年目で少し気が緩んだのか、自粛することに疲れてしまったのかわかりませんが、いましばらく慎重に対応することが望ましいのではないかと思います。


 六月二十六日開催の教祖祭は、コロナの影響で法話・参拝は中止となります。読経だけで行事を開催します。悪しからずご了承願います。


 私がサラリーマンのときでした。四国の責任者をしておりました。部下は二十名で各県の責任者の課長が四名おりました。


  香川県かがわけん はK課長が担当しておりました。彼は単身赴任で大阪に家族がおりました。彼は仕事に対する情熱はあったのですが、効率的な営業ができませんでした。課長のできがあまり良くないと、部下を甘やかせる傾向にあります。自分の 足跡そくせき を理解してもらおうと必死になります。しかし若い部下は課長が考えていることは理解できております。上司ができないほうが部下は育つのです。


 私はKさんを大阪に転勤させ、ふるさと人事をしました。本社からKさんの代わりにAさんが  にん してまいりましたが、そのAさんはKさんよりもフットワークは良いのですが、説得力が今一つでした。私はAさんにもっと自信を持つように指導し、集中力や 傾聴力けいちょうりょく を高めるトレーニングをしました。


 やがてAさんは説得力という大きな武器を身につけたのです。人間が本気で 自己じこ 啓発けいはつ を行えば必ず結果は後からついてくるものです。


  徳島県とくしまけん はO課長が担当しておりました。彼は私と同級生です。彼は私のことが嫌いなようでした。私の前任のTさんも同級生であったということもありました。Oさんは営業に向いてないような雰囲気でした。部下の指導も中途半端で、育つべき人材が成長できずにうずもれておりました。


 私が赴任して半年ほどで彼は会社を辞めることになりました。彼は薬剤師で調剤薬局の経営をするとのことでした。課長が不在のため、後任の人事を本社と行いなんとかY課長の確保ができました。


 とにかく営業的なセンスがないと、どうしようもありません。彼は開業して正解だったのでしょう。こちらも代わりに優秀な課長が来てくれたので成績を上げることができました。


  高知県こうちけん はKI課長が担当しておりました。高知県は研究会、講演会の多い地域でした。彼は 要領ようりょう よく仕事ができ、早いのですが、雑なところがありました。高知県を十年以上担当しており、永すぎることは良くないという結果は明白であります。


 彼は転勤を望んでいたので石川県へ転勤させました。そして内部昇格でHさんを課長に昇格させ、本社より若い営業部員を手配してもらいました。H課長は仕事も早く誠実で説得力もありました。K医科大学病院では成長ホルモンの切り替えに全力を注いでおりました。課長が変わり本気で実力を出せば成績は必ず良くなるのです。


  愛媛県えひめけん はM課長が担当しておりました。彼は、単身赴任で五年ほど担当しておりました。彼の実家は熊本県です。能力も高く、センス抜群で社内テストはいつもトップクラスでした。頭が良くスピードがあり、的確に仕事ができるというそんな人でした。


 こんな優秀な人材が四国という市場の小さい地域を担当していて良いのだろうかと思い、九州ではなく本社の重要なポストに就けるよう上司に相談して転勤をさせました。彼は本社で実力以上の力を 発揮はっき しました。


 結局、私の在任中の四年間で課長全員が変わることとなりました。一番いけないのは同じ場所で長く仕事をすることが、会社にとっても個人にとっても大きなマイナスなのです。


 仕事ができる人、できない人、する人、しない人といろいろありますが、自分の立てた目標をやり遂げる強い精神力と行動力と柔軟に対応できる 臨機応変りんきおうへん さがないと成功することは難しいのであります。


 さて、仏教は「幸福は外にあり」という考え方では幸福にはなれないと説いております。幸福はお金にあり、他人にありということではありません。「幸福は自分のこころにあり」と理解しないといつまでたっても幸福にはなれないのです。


 お金やものにと思うことは、 無知むち で 妄想もうそう をしているということです。だから私たちは、自分のこころを育てることが大切なのです。こころが育てば大きな幸せが訪れます。「こころを育てること」が、仏教の大きな目的なのです。


 世間の人々が考える「生きる目的」と、お釈迦さまが説く「生きる目的」は、正反対です。お釈迦さまが説く「生きる目的」こそ、しっかりとした科学的な真理の世界なのです。


 幸福は自分のこころが築くものであるならば、そのこころを成長させることが生きる目的、目標になるのです。


「幸福はこころにあり」とわかった人にだけ生きる目的が生まれます。それを知らない人々は、みな犬や猫や他の動物たちの生き方となんの差もありません。ただ流れに乗って生きているだけです。そこには目的がないのです。


 人間ですから、食べるもの、着るものなど、いくらか必要なものはあります。それは最小限揃ったらそれで十分です。それが揃ったら、お金のためではなく、こころを きよ らかにするためにがんばってみるのです。目標があると、生きる不安や 曖昧あいまい さがなくなります。


 仕事に行って、家に帰って、あとは寝るだけという毎日の生活に、何か 献身的けんしんてき な行為を足してみてください。「私は毎日の生活で精一杯です」と言ってしまうと、犬や猫のレベルを卒業できません。毎日のマンネリな生き方に何かを足してほしいのです。


 それは、お金目的ではない、献身的なことです。「一日一善」という言葉があります。「小さな善から始めてみる」ということが大切です。ひとつの善いことは、次の善いことにつながっていきます。その積み重ねによって、こころが清らかになっていくのです。


 善いことをしたことをこころにフィードバックして喜びで満足を感じるのです。たとえば、会社から帰る途中の公園にゴミが落ちていたとしましょう。周りにはゴミ箱がありません。そのゴミを拾って、家のごみ箱に捨てる。 些細ささい なことですが、献身的なことです。


誰もお金はくれませんが、その代わり、「善いことをした」というフィードバックがこころに入ります。それはお金よりずっと価値があります。なぜならば、幸福はこころにあるからです。


 このように、善いことをしながら、「無意味ではない」「無駄ではない」「善いことをした」とこころにフィードバックされるのです。


 もう一つ大切なことは、 いか り、 嫉妬しっと 、 うら み、落ち込みなどのこころの汚れを取るように励むことです。


 こころの力、集中力、 観察かんさつ 能力のうりょく などを育てる。この順番でこころを清らかにするのです。それこそ人間が生きる唯一の目的です。こころを清らかにするためにはがんばらなくてはなりません。


「 なま ける」とは、誰もがやっている生き方です。みんながやっているからといっても、それは「怠け」なのです。そうではなく小さな善からスタートして、それを積み重ねることによって、こころを清らかにすることが「精進」「努力」なのです。


  じょう しん をめざして精進するとき幸福は上昇します。ちょっと善いことをしてもこころは喜びを感じるのです。精進しようと思ったら毎日、毎日、上昇する喜びを感じます。生きる苦しみを感じなくなれば、毎日が楽しくなるのです。


 生きることにはゴールもあります。ゴールがあるのは、仏教だけです。仏教でない人々にはゴールがありません。生きることだけに 執着しゅうちゃく するのは、普通の人間の普通の生き方です。「とにかく生きてみよう」「自殺だけはするな」と言います。しかし、命に執着することは、終わりのない戦いです。


 なんとしてでも生きてみようと思っても、人間というのはちょっとした 瞬間しゅんかん の間違えですぐに死んでしまう。決して守りきれるものではないのです。戦っても戦いきれないのです。


 しかし、幸福を上昇させる道を歩む人は、瞬間で死ぬ命に執着することは 危険きけん きわ まりないと知って、執着を捨てます。仏教と世間の差がそこにあります。


 命というものは葉っぱの先にある しずく のようなものです。そんなものに徹底的に執着するなんて、とんでもないことです。仏教の世界では全く執着しません。捨てるのです。執着を捨て究極的な幸福を得ること、 解脱げだつ に達することがゴールです。


 やりたいこと、遊びたいことがいっぱいあるのに、子どもの時期はすぐに去っていきます。青年期、中年期もあっと言う間に去っていきます。そして、何もできない、何もすることがない老年期だけが長く感じるのです。


 人間はなぜ生きているのかということですが、必死にならないと死んでしまうからです。すべては 無常むじょう で、停止ということはないからです。人間の目の前には、常に刺激があるので、死に倒れるまで走り続けるのです。その刺激も瞬間でなくなります。味わう前に、楽しむ前に消えていきます。すべて、瞬間で変化しているからです。


 色・声・香・味・触も同じ速さで消えてしまいます。もっと見たい、もっと聞きたいと思っても、もう消えているのです。たとえば、テレビの番組で、レシピが紹介されメモを取ろうと思った瞬間、次の料理に画面が移ってしまったようなものです。このように またた く間に消えていきます。


 生きていても、努力しても、不満ばかりです。だからもっと欲しくなるのです。仏教では、このもっと欲しいと思う かわ いた気持ちを「 かつ あい 」と言います。それは、 くや しさです。


 人は悔しいから生きているのです。いくら生きても生きることに満足しない理由はここにあります。渇愛は 無知むち と同行して 輪廻りんね 転生てんせい を司る原因なのです。


 生まれたから生きている、死んでいないから生きているだけで、流れに乗って生きることには何の意味も、尊さもありません。生まれたから生きている、まだ死んでいないから生きている、ただそれだけのことです。


 それなのになぜ、がんばって生きているのでしょうか。悔しいからです。悔しいからがんばって生きているのです。この悪循環を破ることこそが有意義な生き方です。お釈迦さまは、「無駄に生きる」とおっしゃいました。そして、この悪循環を破ろうと思った瞬間に、有意義な生き方が現れるのです。


 必死になってがんばってください。お釈迦さまは、ものごとは変化するものだから待っていられません。死ぬ前までに尊い道を歩みなさいと説いておられるのであります。


 教祖。杉山辰子先生は妙法を深く信じるときに大きな功徳があると言われました。信じる力の強さによって功徳の大きさが変わるのです。そして、一心に仏を求める( いっ しん よく けん ぶつ )、そのこころが大事と仰せです。


  常住じょうじゅう 坐臥ざが いついかなるときも「妙法蓮華経」の五文字を とな えると功徳があると言われました。常に妙法を唱えていれば、 不慮ふりょ の事故や災難から免れることができます。そして、 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ できるのです。


『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の実践がとても大事なところです。自分のためではなく、人のためになることを思うこころが慈悲のこころです。常に人のためになることを行い、誠を尽くし、怒らないことを実践すれば、必ずこころは育ちます。


 こころが育てば人格が変わります。この三世を生きる人生で自分を高める努力と精進が〝すばらしき人生〞へと導いてくれるのであります。


 


合 掌


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