梅雨 が明ければ、夏の暑さに 警戒 しないといけません。今夏の猛暑日は何日記録するでしょうか。熱中症や脱水症を起こさないよう、こまめな水分補給と電気代も高くなりましたが、エアコンで室温の調整が必要となります。無理しないようご自愛くださいますようお願いいたします。
新型コロナの第七波はいつ来るのでしょうか。外国人の観光客や国内の旅行が増えつつある中で活動が再開され、マスク不要論も出てきていますが、まだまだ心配の種は消えておりません。また、いつ感染拡大へと向かうかもしれません。過信しないで感染防止対策をとることです。
ウイルスも 変異 することで、生き残りを図っております。ワクチン四回接種が本当に必要なのか、接種する前に 終息 へと向かうのか、先のことは誰にもわかりません。しかし、今できることの最大限を実行することが重要と思います。
六月に開催の教祖祭はコロナの影響で読経のみの開催とさせて頂きました。今月開催の盆施餓鬼先祖大法要会も現状を考えて、法話・参拝は難しい状況のため読経のみとさせて頂きます。宜しくお願いいたします。一刻も早い新型コロナ感染症の終息が来るよう祈るばかりです。
私がサラリーマンの時です。静岡県の責任者をしておりました。静岡は東西に百五十キロと長い地形のため、東部を三人、中部を四人、西部を三人で担当しておりました。西部はH医科大学病院という重点施設があり、Yさんというエースが担当しておりました。
中部は 基幹 病院 や重点病院が多いため優秀なHさんが担当をしておりました。東部にも重要な市民病院があったため、Kさんが担当しておりました。この三グループで静岡県全体をカバーしておりました。
人間とは不思議なもので最初から能力の高い人もいます。しかし、そうでない人もいます。指導されて能力を身につける人、そうでない人、勝手に成長する人、しない人、やる気のある人、ない人、自分を高めようと努力する人、そうでない人とさまざまであります。
会社とは成績を上げ続けないといけないのです。そうしないと会社の 存続 は難しいのです。会社を生かすも殺すも人材しだいという言葉はよく耳にします。
多くの人材では最初から能力が高い人はごく 稀 であります。Hさんだけは特別でした。最初から能力が高く、意識も高いので他の人と比べものにならないぐらい優秀でした。私が指導しなくても、自分のなすべき仕事を知っております。
指導をうけることで能力を身につけるタイプの人がそれぞれのリーダーになっております。西部のYさんや、東部のKさんです。組織というのは、個人の力も大事なのですが、総合力ほど力になるものはありません。私は、その三人のリーダーを育てるだけでいいのです。彼らがグループ全員の教育と底上げをしてくれるのです。私は、将来のビジョン( 未来像 )を語るだけです。
Aさんのできない部分をBさんがカバーするというように、みんな長所や短所があります。個人の短所をみんなでフォローすることが、総合力でありチーム力となります。また、できる人間がリーダーとしての役割を果たせば、全員のレベルも上がります。リーダーの仕事ぶりを見て学ぶのです。そして、それを自分の力にできるよう、しかりと身につけることが重要なのです。
全員がそういう 視点 で仕事を 観察 し、自分に合ったやり方で実行するのです。常に新しいことにチャレンジをして、失敗したら、やり直して修正していく。その失敗の積み重ねが自分を大きく成長させてくれるのです。失敗を恐れず 果敢 にチャレンジしていけば必ず目標は 成就 するものと思います。
さて、仏教的な見方をすれば、世間の人々は、体の維持管理をする目的で生きております。人間だけではなく、これはどんな生命も同じです。生きているということは、単なる体の維持管理なのです。
財産、名誉、権力などを目標に生きることも結局は体のためです。人によっては「お 金儲 けのため」と言うかもしれませんが、それも、最終的には体のために生きているということになるのです。
体を重視するのは、肉体から 刺激 を受けるためです。肉体から刺激が生まれますが、この刺激が生きるための 衝動 です。刺激があるから「がんばって生きてみよう」と思ってしまうのです。この刺激が、私たちが生きていることのご 褒美 になっているのです。ですから生きることに対する 愛着 、 執着 はなかなか捨てられません。
生きることに価値があるわけでも、生きることで何かためになることを発見しているわけでもありません。ただ、生きることは刺激があって楽しいということです。
こころは刺激を受けて 回転 しています。刺激はエネルギーです。車輪を 蹴 って進むように、こころを蹴って回転させます。この、こころに絶えず起こる回転が「生きる」ということなのです。
仏教が語る「生きる」とは、こころが回転しているか、そうでないかです。仏教は、生物学的に「生きる」ということをあまり気にしないのです。
たとえば、心臓を体の外に取り出しても動かしておくことはできます。これはそれほど難しいことでありません。しかし、心臓が動いているからといって、その人が「生きている」と言えるのかといったら別の話です。死んだ人の 臓器 を 培養 することもよく行われております。たとえば、 火傷 をすると皮膚を移植しますが、ほとんど培養したものです。その培養した皮膚を移植して、皮膚が「生きている」のかといえば、普通の意味で生きているとは言えないと思います。
仏教で「生きる」とは、こころが絶えず回転して、生まれては消えて、生まれては消えていくことです。こころが生まれては消えていくためには、こころにエネルギーが必要です。
肉体が生まれては消えていくためには、食べなくてはいけません。こころにもそうした栄養を与えなくてはいけません。その栄養が「 刺激 」なのです。
刺激を得ると、楽しいとか 嫌 だとかといった、さまざまな感情が生まれます。刺激から起こるこの感情に、人は執着します。感情は基本的には楽しいか 嫌 いかの二つで、楽しい感覚にも、嫌な感覚にもいろいろあるでしょう。それに合わせて、 嫉妬 や 憎 しみなどのさまざまな感情が生まれてくるのです。
私たちが執着するのは、刺激よりも感情です。音楽を聴いても、音が耳に触れる 振動 に 惹 かれるわけではなく、音楽が引き起こす感情に執着するのです。刺激を通して感情が惹かれるのはこころです。なので、体を重視するよりは、こころを重視したほうが良いのです。肉体は感情を作ってくれるためのただの道具にすぎないのです。それなのに、体を重視して生きることは、大きな 勘違 いなのです。
人間が目的にしている健康、財産、名誉、知識、権力などはすべて自分から離れていきます。それらを生きる目的にしても、不安で、不満で、不幸で生きることになります。
世の中の人々は、お金や、知識や、名誉や、権力などを得ること、美しくなることなどを人生の目的にしています。その目的はすべて体中心ですから、すべて離れていきます。自分のものにはなりません。いくら知識を得ても消えていきます。いくらお金を儲けても逃げていきます。いくら美しくても、その美しさは、いずれ消えてしまいます。みな自分のものにならずに、逃げて行くのです。だから、「なぜそんなものにしがみついて苦労しなければならないのか」と、 悔 しくなるのです。
私たちが得ようとするものは、得るよりも早く逃げていきます。そんなことだけを人生の目的にしてしまうと、いつでも不安で、不満で、恐怖に 怯 えて生活をしなくてはいけなくなるのです。
こころを観察すると、こころは完全な 無知 で、何か目的があって回転するのではないことがわかります。その無知なこころが、回転させて欲しいと要求します。そのために、ただ刺激をくれというばかりです。
しかし、何のために回転するのか、こころは知りません。刺激が欲しいのは、こころに 渇 愛 や不満や、いろいろな 汚 れが 溜 まっているからです。命そのものもだらしなくて、 惨 めで、不満だらけで汚れているのです。
人が幸福であろうと不幸であろうと、こころには関係ありません。こころは限りなく刺激を要求するだけです。こころの要求のまま生きることは 束縛 であり、不自由であり、苦の連続であり、ゴールのないマラソンを走るようなものです。
いくら刺激を与えても、こころは「もっとくれ」と要求するばかりです。ですから私たちは、何をやっても満足しません。いくら見てももっと見たい、いくら音楽を聴いてももっと聴きたい、いくら味わってももっと食べたいと思います。しかし、それでは体が 壊 れてしまいます。
そうすると大変 悔 しくなるのです。もっと食べたいのに、もっと味わいたいのに壊れて食べられません。もっと美しい音楽を聴きたいのに、耳が遠くなって聞こえません。そうすると悔しくなります。この悔しさが 渇 愛 です。
若い時ももちろん満たされていたわけではありませんが、歳を重ねると渇愛が強くなります。若い時も渇愛はあるのですが、一日中何かをやっていて、夜は疲れて寝てしまうので、それなりにうまくいっています。しかし、歳を重ねると体がうまく機能しなくなります。それでも、見たい、聴きたいという気持ちだけは残っています。それで渇愛が強くなるのです。
人が体を重視しないで、命であるこころを重視するなら、それは 理性的 な生き方です。無知で未熟なこころを育てること、こころを 清 らかにすることこそを「生きる目的」にしなければいけないのです。
本来は生きる目的はありません。無駄で、無意味に生きているのです。仏教が語っているのは、「生きる目的」を、あえて作りなさいということです。それは、理性に基づいたところで、こころを清らかにするということです。
こころは汚れて、 未熟 で無知です。その未熟で無知なこころの要求に従っていたのでは、たまったものではありません。従って、そのこころを清らかにしようというのが正しい目的なのです。
こころを清らかにしたら、その要求は理性のあるものですから、決して変なことを求めるはずがありません。 愚 か 者 のこころは、いくら与えても刺激をもっとくれと言います。この愚か者のこころを直せば、こころは別なことを語るでしょう。
今の人生は苦しみですが、こころを清らかにしたならば、必ず幸福な人生になるのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じることの重要性を説かれました。深く、深く信じる時に 功徳 があると言われました。信じる強さが強いほど功徳も大きくなると 仰 せです。
常住 坐臥 いついかなる時も妙法の五文字を唱えれば、不慮の事故や災難から 免 れることができる。そして、 大難 が 小難 に小難が 無難 へと 罪障 を 消滅 できると説いておられます。
私たちのこころの中にある 三 大煩悩 が悩み、苦しみ、悲しみを生みます。 貪 ( 貪欲 )・ 瞋 ( 瞋恚 )・ 痴 ( 愚痴 )があるから苦しいのです。法華経以前の仏教は煩悩を滅せよと説いておりますが、法華経はそう言っておりません。煩悩は執着に値しないと説かれております。最初から執着できないものに 執着 するから苦しみが生まれるのです。『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事と説かれました。三徳を実践するためには、人格向上を目指し、自分を高める努力が必要です。慈悲のこころを育てることが、とても重要なのです。
自分のこころを育てることが三徳の実践へと 導 いてくれるのです。私たちも、日々の精進により〝すばらしき人生〞へと歩んで行きたいと思っております。
合 掌