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世界平和を
大樹
すばらしき人生25

新年あけましておめでとう御座います。平成27年がスタートしました。今年という一年が皆様にとって善き年になりますよう、ご祈念申し上げます。法公会も立教42年を迎えます。今後、益々、信者の皆様にとって喜んで頂けるよう充実を図って参ります。どうか宜しくお願い申し上げます。


 今年は、未年であります。私も年男となりました。この一年を精一杯、頑張って参りたいと思っております。羊のように温厚であり、慎重かつ大胆に物事を進めたいと思っている所存でございます。


 この世の中には、不思議なことが沢山あります。光と影とは常に共存しております。太陽のように陰と陽がどんなものにもあります。太陽は東に出て西に沈み、昼は明るく夜は暗く、夏があり冬があり、男性がいて女性がいて、動があり静があり、冷があり温があり・・・・・、陰は静で柔順的なものであり、陽は剛健的なもので、宇宙のあらゆる現象と存在は常に陰と陽なのであります。地球から見た太陽と月、磁石のプラスとマイナス、電流も然りであります。すべて、「陰と陽」の関係が大自然を支配していると言っても過言ではありません。人間でいうなら表と裏があるのも同じであります。これを長所と短所ともいえると思います。私たちは自分の長所を伸ばす努力が必要であります。そして、同時に短所を減らすことであります。そうすれば、自分と言う人間が大きく賢く逞しく成長してゆくのであります。


 さて、私の営業経験の中からお話しさせて頂きます。私は平成二年に転職して外資系製薬会社に中途入社をしました。最初の配属は名古屋営業部で静岡県の7割を担当しました。大井川を挟んで以東が私のテリトリー(担当地区)でした。毎日、富士山が見られると思って楽しみにしておりましたが、夏場は富士山のふもとの富士市や富士宮市でも拝謁することが困難でした。空気中にある水蒸気やほこりが邪魔をして見えなくなるのであります。


 そんな時、私と同年のTさんは私より一年ほど前に入社しました。会社で言ったら一年先輩となります。このTさんは仕事もでき優秀でした。二年経過し、私とTさんは、同時期に課長に昇進をしました。彼は愛知県のメインを担当していたのですが、実績が思うように伸びず、部下からの評価もあまり良い方じゃありませんでした。しかし、上司に対する自己アピール(ゴマすり)には長けたものがありました。これは、いわゆる彼の特技でもありました。そして、私より三年早く四国の支店長で栄転となりました。


 その後、私は彼の後任として赴任をしました。しかし、静岡での体験や経験が、ここでは、うまく機能しないのであります。それぞれ、地方の文化・風習に違いがあるからなのであります。ついに、難しい局面を乗り切るために、上司への相談を決意しました。かつて、私の上司は社長、営業本部長、副営業部長の三人ということで、U副営業部長にご享受を頂きました。答えはこうであります。「君ね、前任者のやり方では無理だ。真逆のタクティクス(戦術)を取った方がいいよ」と、アドバイスをもらいました。これは、「前任者を否定するという意味ではなく、まったく新しい息吹を吹き込む」ということなのであります。ここからが勝負です。知恵を絞って、絞って、絞り切って、なんとかアイデアをひねり出すことができました。この地域に合致した新風を巻き起こすことができたのであります。お陰をもちまして、在任四年間で全国14支店の中で常にベストスリーに君臨することができました。そして、ピンチは最大のチャンスであることが、経験により理解できたのであります。今でも、良きアドバイスであったと思っております。これは、まさに私の人生で生涯の宝物を授かった瞬間であります。


 一生懸命に物事をやり遂げようとすると、必ず何かにぶつかります。これは避けることができない事実なのであります。私の場合、Tさんが大きな弊害となったのであります。同じ年なのですが、一年先輩であります。彼は上司には無限のサービスをする人間です。これは、自分の立身出世のためなのであります。常に自分が一番でないと、満足できないと思っているからであります。しかし、同僚、部下のことなどあまり考えないタイプであります。私が静岡で成功し、そして、四国でも成功したとなると快く思わないのが当然であります。


 彼が一体どんなことをしたかと申しますと、私の足を引っ張ったのであります。とにかく本社や支店やありとあらゆるところで、私の悪口を言いふらしていたのであります。いわゆる、風評被害と言うことになりますが、私が、ある日、殆ど面識のない本社の人と飲食をする機会がありました。その時、先輩の先輩からこう言われました。「見るのと聞くのでは、大違いだ!」と言われました。いったい何のことかと思えば、私の悪い噂を真に受けていたのであります。彼は、私のことを悪鬼のごとく冷淡で非情であることを、周りの社員に言いふらしていたのであります。先輩と、ご一緒させて頂いて、やっと誤解が解けたのでありますが、彼は、自分の出世のためなら手段を択ばないという『悪行因縁』を自ら作ってしまったのであります。


 それから、3~4年が経過したときに、彼は課長職に降格となりました。また暫くして、一般職のMRまで降格され、それから数年後、ついに会社を辞めることになりました。自ら蒔いた悪業によって、自らが裁かれる結果となったのも、すべて身から出た錆であります。会社の仲間は運命共同体であります。それぞれの立場を認識して、理解し、協調し、思いやりを持って接することが大切なのであります。問題なのは己の出世に対し強い執着があったから、自ら悪業を作り出してしまったのであります。お気の毒ですが、自業自得と思います。まさに、お釈迦様の解かれる「因果の二法」であります。蒔いた種は必ず生えるのであります。


 また、こんな部下もおりました。とにかく学業優秀で頭が良い人でした。会社では毎月一回、医学、薬学、法規、製品に関する試験がございました。このM課長は毎回得点が高く常に全国トップクラスにいました。勿論、業績の評価項目となっております。また、彼は、仕事のスキル(能力)も高く申し分のない人でした。しかし、彼は単身赴任が長く、子供さんが生まれてこのかた、数年間、単身生活を送っておりました。もうそろそろ、実家の九州へ故郷人事でもしてあげようと思ったのですが、これだけの人材を九州ではもったいないと思い、本社に転勤をさせることとしました。実は彼は、あまり欲が無く本気でぶつからないと開花しないタイプなので、あえて本社のどうでも良い部署に転勤をさせました。二年三年と時が経つにつれ、彼が本気モードを出して参りました。「このまま、この部署にいると自分は一生、九州へは帰れない」と危機感を持たせることに成功したのであります。彼は、必死にもがき、這い上がろうとしていたのであります。まさに、彼はチャンスを掴んだのであります。ついに成長ホルモン部門のトップまで駆け上りました。人間というのは、いろんなタイプがあります。私は、彼を思いっきり発奮させることで、本来の力を発揮できることを予期しておりました。本気で彼を奮い立たせ、やる気を引き出せたことが、良い結果に繋がったと思っております。チャンスとは頻繁に訪れるものではありません。いかに、自分の力を信じ、己の六感を磨く所にありあます。六感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と直感であります。彼は、その一度か二度のチャンスを、まさに自分の手で掴んだのであります。


 昨年12月には、法公会の一大イベントであります、集大成ともいうべき、法公先生銅像開眼除幕式を実施させて頂きました。無事、開催できたのも信者の皆さんを始め教会関係者、また多くの方々より温かい、ご寄付を頂き応援して下さったことにより銅像の建立が実現しました。心より感謝申し上げます。誠に有難う御座いました。


 これより法華経について述べさせて頂きます。現代社会は文明の発達により進化してまいりました。しかし、人間そのものは何も変化していないのであります。人間を取り巻く環境は変わったけれど、人間だけが変わっていない。その為に、そうした未熟な人類を、賢い人類へと変革して行かなければなりません。皆さんが持っている『仏界』という、一人ひとりの内にある最高の境涯を開発するところに法華経の意義があると思います。


 法華経がなぜ、多くの人に受け入れられ、広まっていったのか?と考えますと、過去の経典にない『全く新しい考え方』をしております。それは、『人間は本来、自由であり、自分の力で運命を切り開けるし、人間の運命は変えられるという考え方』だからであります。法華経は、人間、一人ひとりに『なぜ、私はこんなことをしているのか』 『自分は、いずこへ行くのか』また、『人類は、いずこへ向かうのか』と人々が考えることが、とても大切であります。これこそ法華経の使命と思っております。


 私たちは、「人の幸せは自分の不幸」「人の不幸が自分の幸せ」じゃあ駄目なのであります。私たちは、高きものを求めて努力し、他社に奉仕して、人生を終える。『教え』の中の『菩薩の生き方が極めて重要となってまいります。


 菩薩として生きるということは、「悟りを求めて、宗教的な実践を修行し、他の人々を精神的に救済することによって恩恵を与え、その功徳により未来のおいて仏の悟りをひらこうとする者」のことであります。要するに、他の人々の幸せを願い、そのために身命を捧げて惜しまない人のことです。私たちが目指すところは、『菩薩行に生きる』ということであります。


 法華経・譬喩品(第三章)では有名な『三車火宅の譬え』があります。『三界は安きことなし なお火宅の如し』とあるように、焼けている家(火宅)は、煩悩の炎に包まれた現実の世界(三界)を譬えています。この中に出てくる「長者」は仏、子供たちは一切衆生であります。子供たちが火宅で遊んでいるのは、衆生が苦悩の世界にいながら、そのことに気づかず、やがて苦しみの炎に焼かれてしまうことを表しております。ここでいう三車は、三乗の法を譬えています。つまり、羊車は「声聞のための教え」鹿車は「縁覚のための教え」牛車は「菩薩のための教え」であります。羊車・鹿車・牛車で、子供たちの気を引き付けたのは、仏が衆生を救うために、衆生の機根に合わせて、三乗を説くことであります。大白牛車を与えたのは、仏の真意は三乗ではなく『一仏乗』であると明かすこと、すなわち「開三顕一」であります。三乗を聞いて一仏乗を顕すということであります。


 「人生は火宅の如し」一日一日を、何も考えずに享楽的に生きる人生の危険を、強烈なイメージで焼き付けております。諸法即実相、現実即真理ととらえる法華経は慈悲の心、すなわち『救済の心』そのものであります。私たちは、この尊い法華経の縁に触れたことに、感謝することが大事であります。一生かかっても法華経に縁がなければ、巡り合えません。よって、私たちは、とても幸運であると思います。この縁は、偶然ではなく必然なのであります。


 教祖・杉山辰子先生は『慈悲』 『誠』 『堪忍』の三徳を実践することが大事であると示されておられます。お釈迦さまの説かれた『因果の二法』を正しく理解し、三徳の実践による積徳こそ、私たちが日々、精進するための大きなテーマであります。一日一日の努力の積み重ねが『すばらしき人生』への軌道に入るということであります。


合 掌


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