二月は、陰暦で如月と申します。語源は寒さで着物を重ねて着ることから「着更着(きさらぎ)というように言われております。現在では、重ね着がファッションの一つとなっておりますが、私はあまり好みません。活動力の低下につながると思います。アクティブに動くなら、できるだけ身軽な服装の方が動きやすいと思います。寒さが厳しさを増す中、益々ご自愛くださいますよう、心よりお祈り申し上げます。
二月といえば節分の行事があります。法公会では、二月一日(日)に節分の行事をさせて頂きます。本来は二月三日が「節分」であります。節分とは、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節目を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日に、一年に四回あったものでした。ところが、日本では立春は一年のはじまりとして、特に尊ばれたため、次第に節分といえば春の節分のみを指すようになっていったようであります。また、節分には豆を蒔きますが、これは中国の習俗が伝わったものとされています。豆は「魔滅(まめ)」に通じ、無病息災を祈る意味があります。特に年男(その年の干支生まれ)の方が蒔くとされております。皆様も豆蒔きをして、無病息災で過ごされることを祈念いたします。
また、二月といえば、お釈迦さまがご入滅なさった、釈尊涅槃会の行事もございます。二月十五日(日)に日曜法座を兼ね、開催いたします。どうか、多くの信者の皆さんのご参詣をお待ちしております。
昨年は、御嶽山の噴火があり、大勢の方がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。私が二十代の若い頃に、よく御嶽山にスキーに行ったものでした。家から比較的近いスキー場なので、早朝家を出て、夕方まで滑り日帰りで行ったものでした。
あの時、悲劇は土曜日のお昼の行楽シーズン真っただ中でおきました。いったい生と死を分けたのは、何であったのか?運の良し悪しだけじゃないと思われます。法華経の教えを通して観れば、死に追いやられる因縁があったと考えるべきであります。まさに人の人生とは、理屈では考えられない、そこには、過去世の何か大きな因縁が存在していると感じざるを得ません。
さて、現代社会というのは優勝劣敗が常であります。しかし、ただ相手に勝てば良い、負けなければ良いというと、少し意味が違うと思うのであります。全てのことが、勝ち負けで白黒付くことではありません。勝ちと負けは、あくまでも結果であります。大事なことは、勝つために、どのような努力をしたのか。そのプロセスが重要であります。日々の努力の積み重ねにより成果が上がり、勝ち負けの勝敗が付くのであります。例えば、テストで九十九点取った。クラスでトップになりました。しかし、九十八点で二位だとしても、テストの結果では勝敗が付いたことになりますが、そのための惜しまぬ勉強を重ねた結果でありますから、それでいいのであります。次回のテストで挽回すれば良いことです。
仕事も同様であります。お互いに競い合い、そして、惜しまぬ努力を積み重ね、他者に勝つということであります。そこで、『お互い競い合う』という部分が非常に大切であります。競争相手を褒めて、価値を高め、それぞれのハードルを高くし、より高度な戦いをする所に『お互い競い合う』ということばの深い意味があるのではないでしょうか。「敵に塩を送る」といった故事ことわざがあります。これは、争っている相手が苦しんでいる時に、争いの本質ではない分野については援助を与えることのたとえであります。お互いに、助け合って共に成長するために、このことわざがあるのではないでしょうか。要するに、高きものを求めて、互いに共存しながら競争し、より良い結果を出すということであると思います。互いにベストな状態で正々堂々と戦いを挑み、結果はどちらかが勝ち、どちらかが負けます。当然ですが、それはただの結果であります。しかし、得られた成果は、互いの自己研鑽により遙か異次元の成果につながるのではないでしょうか。
以前、勤めておりました製薬会社のことですが、私が課長職に就いてHさんという非常に優秀な部下が中途採用で配属になりました。年齢は三十歳ぐらいで、とても正直で性格も良く、真面目で清潔感漂う好青年でした。前職の製薬会社で彼は力を持て余していたかのごとく、彗星のように頭角を現しました。営業のノウハウは全て修得し、弊社での、そのスキル(能力)を如何に出すか、暫くウオッチングしておりました。彼は、まさに『一を聞いて十を知る』というか『目から鼻に抜ける』申し分のない人材でした。
私が彼に指導した内容は、とにかく『物事に拘りを持つこと』と言い聞かせました。私は、「君が成果を出すために、何に拘りを持って活動するのですか?」と彼に問いかけたのであります。「どんなことでも構わないから、仕事をする上で何かに拘りを持つことが大切である」とアドバイスをしたのです。そして、彼は、何に拘り、何をやり遂げなければ成果を出すことが出来ないか、真剣に考えたのであります。私たちは、物事に対する拘りと、目標を達成するために大いに考えることが極めて重要であります。
彼には静岡県の中で一番大きい病院を担当してもらい、成績もグングン伸ばしてもらいました。彼は、日々の努力を惜しまなかったのであります。営業の基本「報・連・相」を真面目にコツコツと実践したのであります。日頃の活動で顧客に対しても同様に接していることが観て取れます。そして、会社の仲間と共存しているというコミュニケーション能力にも長けておりました。自分の年齢がネクストとなれば、自然とチーム内での行動も変わりますし、課長へのサポート力も十分発揮し、自分のポジショニングをわきまえ、基本に忠実に拘りを持って努力精進したのであります。
その結果、四年後には名古屋へ栄転させました。そして、さらに四年後には、首都圏に栄転し更なる重要なポストに就きました。昨年には、ついに、あこがれの営業本部長というトップの座まで昇りました。かつての私の部下の大出世を聞いて、とても嬉しく胸が熱くなりました。
Hさんより一年早く入社のKさんも、三十歳ぐらいで中途採用でありました。彼も正直で性格も良く真面目な人柄でありました。実はとても働き者でありまして、お蔭さまで性格の良い部下に恵まれました。彼は、仕事を真面目に忠実に行なうという点は良いのですが、少し、要領の悪いタイプなのであります。Hさんとの違いは、物事に対する『拘り』が弱いのであります。また、今、何が必要とされているのか察する洞察力に乏しい部分もありました。世の中には完璧な人はおりません。しかし、自分に無い長所をどうして伸ばすのかという拘りが弱いと云うことであります。従いまして、人の二倍近く働いて、ほぼ同等の成果を出すのであります。非効率的であり、自分自身が嫌になってしまうのではないかと思うのであります。私は彼に、全部やろうとせず、無理をせず、できることを確実に実行するように指示しました。そして、時間は掛かりますが、じっくり育てることが、彼にとってベストであることを悟ったのであります。三年、四年と時間が掛かりましたが、彼とは『目でものを言う』関係まで成長してくれました。仕事とは誠実で謙虚で正確にして、しかも大胆に活動しないと得るものは期待できないのであります。
法華経がなぜ、多くの人に受け入れられ、広まっていったのか?と考えますと、過去の経典にない『全く新しい考え方』をしております。それは、『人間は本来、自由であり、自分の力で運命を切り開けるし、人間の運命は変えられるという考え方』だからであります。法華経は、人間、一人ひとりに『なぜ、私はこんなことをしているのか』 『自分は、いずこへ行くのか』また、『人類は、いずこへ向かうのか』と人々が考えることが、とても重要であります。これこそ法華経の使命であると思っております。
法華経信解品(第四章)では二乗作仏が説かれた歓喜から始まります。譬喩品(第三章)で、釈尊は、舎利弗が将来「大宝厳」という時代に「離垢」という世界で「華光如来」という仏になれるだろうと保証を与えました。これまで大乗経では、成仏できないと厳しく糾弾されていた二乗が、将来、必ず成仏できると初めから説かれているのであります。それを受けて、須菩提ら声聞を代表する四人が、その喜びを語ります。「解空第一」の須菩提、「論議第一」の迦旃延、「頭陀第一」の迦葉、「神通第一」の目蓮は、「世尊が舎利弗に対して、将来、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)を得るだろうと記別(成仏の保証)を授けられたことを聞いて、味わったことの無いような感動をおこし、心も歓喜し、身も踊躍した」と、この「未曾有のことに出会えた喜び」を語ったのが、信解品であります。いわゆる、四大声聞が目覚めを語る「長者窮子の譬え」なのであります。
この四大声聞は、もう年老いて枯れてしまった。すでに自分たちは悟りを得ていて、もはや頑張ることは無いと思っていた。そして、進んで阿耨多羅三藐三菩提を求めようとしなかった。立場がある。年功がある。経験がある。四大声聞が、そこに安住してしまっていた。「自分は長い間、修行をして、年老いた。それなりに悟りを得た。もう、これで十分だ。師匠の釈尊の悟りはたしかに素晴らしい。けれども自分たちは、とうていおよびもつかない。だから、このままでいいのだ」このような、大幹部の無気力を打ち破ったのが、舎利弗への授記だったのであります。一生涯、熱い求道心を燃やし続ける。それが、法華経の教える人生であります。
二乗たちは釈尊の叱咤・激励を全身全霊で受け止めた。そこで初めて、人々に正法の声を聞かせる「真の声聞」として蘇生をしたのです。若返り、みずみずしい向上の人生を再び歩み始めたのです。自分たちも仏になれるのだ。感極まった言葉が「無上宝聚 不求自得」と、無上の宝聚は求めざるに、自ずから得たり。であります。
譬喩品でも、仏と衆生が父子の関係で語られています。仏は衆生が、どのような境涯であっても、常にわが子として救おうとしている。この深い絆が仏法の眼目であります。仏は一切衆生の幸福を開くために闘う。一切衆生の親なのです。その仏の心を「信じれば」自分自身の『智慧』が開けてくるのです。それが、法華経における『信解』ということであります。
教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)南無妙法蓮華経と唱えることが大事と言われております。そして、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・仏智の六波羅蜜の修養をし、功徳を積むことが大切であります。そうすれば、不慮の事故や災難、病気から逃れることができると、おっしゃっておられます。私たちは、三徳『慈悲』 『誠』 『堪忍』の実践により、積徳することがとても大切であります。
法華経には「運命を切り開くことができる」と説かれております。自分の運命は自分でないと変えられません。大きな功徳を積み『すばらしき人生』のゴールを目指し歩み続けることが大切であります。
合 掌