PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生28

早いもので、もう四月となります。新年度、新入社員、新学期とこの世の中の全てが新しいスタートとなるのであります。心機一転、新たな目標を立てることも良いでしょう。また、趣味や娯楽やスポーツでも良いでしょう。とにかく、何かをやり遂げるためにも、きっかけをつくる良いタイミングじゃあないでしょうか。私も何か新しいことにチャレンジしたいと思っております。


 四月八日は『花まつり』でございます。お釈迦さまの誕生日であります。花で飾った小堂、花御堂がつくられます。金属製の幼仏像をその中にまつり、甘茶が参拝者によって、その誕生仏にかけられます。甘茶を潅ぐ行事なので「潅仏会」といいます。花御堂は釈迦が生まれたところルンピニ園の花園を表しています。花は人の心をうつします。一つひとつは弱く見えても天地の恵みに支えられて年々歳々咲きます。人も花と同じように支えられ、生かされているかけがえのないいのちを生きているのだと「花まつり」の日に改めて自覚することが大切であります。お釈迦さまは誕生されてすぐに、すくっと立ち上がり、七歩あゆまれ、天と地を指さされて「天上天下唯我独尊」と言われた有名な一説があります、法公会も釈尊降誕祭を正式行事として執り行います。どうかご参詣をお待ち申し上げております。


 さて、皆さんは、『天使と悪魔』というダン・ブラウン著のサスペンス小説を読まれたことはあるでしょうか。「ロバート・ラングドン」シリーズ第一作であります。舞台はバチカン市国を含むローマ。秘密結社イルミナティを名乗る者が起こす殺人を阻止するため、主人公のラングドンが町を駆け巡る。という内容ですが、小説を読み始めると、どんどんと中に引き込まれるような緊迫感がありスリル満点の内容でした。


 どの世界でも天使と悪魔は存在するのであります。自分にとって都合の良い人は天使であり、都合の悪い人は悪魔と一般的には思いがちであります。仮に天使を善人で悪魔を悪人とみた場合はどうでしょうか。会社に勤めている場合、社内を想定しますと、良い上司、普通の上司、悪い上司がいるとします。良い上司は部下に対して優しく仕事を教えます。そして、厳しく叱ったりしないで、仲良く仕事ができるような環境で育てるでしょう。逆に、悪い上司は教え方も乱暴で相手の気持ちも考えずに自己中心的に悪い点をストレートに注意するでしょう。また、普通の上司ほど無責任な上司はいないと思います。注意しているのか、していないのかハッキリしなく中途半端であります。


 これらは、果たしてどちらが良い上司なのか考えて見ると、人間には人から嫌われたくないという『善い人』でありたいという願望があります。反面、部下を大きく育てたいという願望もあります。このように人間は自分のために色々と願望を持つのであります。そして、自分の地位を守るため、自分の成績を上げるため、自分の名誉を保つためと、すべてが自分のために人を育てるケースが多いように思われます。しかし、そのような思考回路では部下はついてゆけません。善悪や損得などを、ものごとの考え方の根底に置いてはいけないのであります。例えば、人間は元来、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているという、孟子の『性善説』をご存知でしょうか。そのことを思えば、善、悪という考え方は捨てなければなりません。部下を育てるということが、自分にとってプラスかマイナスかという損得勘定も捨てなければなりません。


 人を育てるということはとても難しいことであります。まず、上司の資質が大きく左右してきます。率先垂範を基本とし常に凜として誠実であり、時にはジョークもいい臨機応変でなくてはなりません。そして、『この人を大きく伸ばしてあげよう』と心に強く思うことが大切であります。また、相手の弱い部分を教育し修得させることができる人でないとダメだと思います。従いまして、相手の目線に立ち、どの部分を教育しないといけないのかという洞察力、そして、どこまで教育すれば、どれだけ伸びるかを読み取る未来予測力も必要であります。また、何のために教育をしているのかを理解させる説得力も必要であります。そして、YES、NOがハッキリ言えることも必要であります。ものごと全てに対して公平であるということには特に注意を払う必要があると思います。私たちは共に戦っているという連帯感(運命共同体)という雰囲気も必要でしょう。サラリーマンは一歩、外へ出れば戦場であります。まず、こころを強く逞しくすることであります。上司は厳しさの中にも温かみありと申しますか、優しさ厳しさの両面をうまく使い分けることができる人(緩急自在な人)が望ましいのであります。これらの条件が具わっていることが、人を育てるという観点では極めて重要であると思っております。


 これより法華経について述べさせて頂きます。法華経は、数ある仏教経典の中でもお釈迦さまの教えの集大成といわれる経典で、八巻と第一章から第二十八章で構成されています。法華経でいう一乗(一仏乗)とは「世界は一つ・唯一の教え・成仏」ということであり、普遍の法のもとに『すべての差異が生かされ共存する』ということを法華経から学ぶことであります。


 法華経がなぜ、多くの人に受け入れられ、広まっていったのか?と考えますと、過去の経典にない『全く新しい考え方』をしております。それは、『人間は本来、自由であり、自分の力で運命を切り開けるし、人間の運命は変えられるという考え方』だからであります。私たちは、この尊い法華経に縁があり触れることができたことに大いに感謝したいと思います。


 授記品(第六章)では、授記とは、未来に必ず成仏できるという『保証の言葉』を釈尊から弟子に授けることであります。授記品では、四大声聞すなわち迦葉(かしょう)、須菩提(しゅぼだい)、迦旃延(かせんねん)、目連(もくれん)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。先の舎利弗への授記に次いで、二回目の授記となります。これで、譬喩品(第三章)の「三車火宅の譬え」から始まった四大声聞に対する説法が、いちおう締めくくられることとなります。


 成仏とは具体的にどういう状態なのか分かりにくいと思いますが、難しいことですが、端的に云うと成仏とは、一つのゴールに至るということよりも、絶えず仏界を強め続けてゆく「無上道の軌道」に入ることであると思います。


 法華経の迹門では「遠い未来に成仏する」という授記であり、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「幸福へのレール」に確かに乗ったよ、と保証するのが授記であります。


 本門(後半の第十四章)では新しい成仏観が示されます。すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行をやめていません。『菩薩であることをやめて仏に成った』のではないのです。仏の実践の姿といっても、具体的には菩薩行なのであります。成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続けること、それがすなわち『成仏』なのであります。


 四大声聞への授記ですが、まず、迦葉に対して授記が行われます。その光景を見て、目連ら三人が自分たちも授記を受けたいと釈尊に願い出ます。釈尊は、須菩提、迦旃延、目連の順で授記を与えます。目連ら三人が授記を願う場面では、『大王膳の譬え』が述べられます。すなわち、授記を願う心境は、飢えた国からやって来て「大王の膳」つまり最高級の料理を目の前にしているようなものだ、と述べ、食べたくて仕方がないけれども、王の許しが無ければ安心して食べられないという心境であります。


 同じように、「声聞も成仏できる」という一仏乗の教えを聞き、納得したけれども、仏から明確な授記を与えられなければ真の安心は得られないということです。ちなみに、三人の言葉の中で、釈尊が授記を与えるということを「甘露を注ぐ」と譬えています。「甘露」は『不死』を意味する言葉(梵語)の訳で、天界にある『不老不死の妙薬』のことであります。


 授記には今世だけではなく、未来世にも及ぶ力があることが暗示されています。そして、生命の不安を取り除き、絶対の安心を与える。こういう効果があります。授記という『仏の保証』によって、生命の根底に未来への深い確信が得られたのであります。


 授記品では四大声聞が成仏する時の劫・国・名号を具体的に上げているのも、この確信を強めるためではないでしょうか。「劫」とは、成仏する時代の名前。「国」すなわち成仏する国土の名前。「名号」すなわち仏としての名前であります。釈尊は、弟子たちに威徳があるゆえに授記すると述べていますが、劫・国・名号には、弟子の長所・個性となんらかの関係があるように感じられます。


 たとえば、最初の迦葉は、光明、光徳と、『光』という言葉が用いられております。「光明」という如来は、梵語では『栄光の輝き』という意味があります。「光徳」という国の名は『栄光にあふれる世界』という意味です。「大荘厳」という劫の名も『偉大なる輝かしい姿』という意味であります。迦葉は、名門の家柄でしたが、釈尊より早い時期に出家し、正しい法を求め遍歴していました。やがて、釈尊に巡り会い、一目見るなり弟子となったと伝えられております。釈尊が自分より粗末な衣服を着ているので、自分の衣服を釈尊の使いまわしと交換し、それをずっと身につけて、清貧の修行である頭陀行を行なったとされております。


 大事なことは、自分の個性や人生経験を、すべて仏の徳性として輝かしていけるということであります。信心しているかぎり、無駄なものは何ひとつない。これが法華経の功徳であります。


 これより、釈尊のお弟子さんへの授記や多くの衆生までの授記が行われます。また、提婆達多や女性への授記が行われてゆきます。結局、法華経では一切衆生に授記していることになります。「一切衆生の成仏」(すべての衆生が仏道を成就する)の教えだということが、このような授記にも具体的に表現されております。


 教組・杉山辰子先生は『一念三千』とは、ひとつの思いによって三千種の世界を生ずることであり、すなわち『十界互具』なのであると仰せであります。そして、その真理を求めて、十数人の僧侶を尋ねられました。しかし、誰ひとり明確な回答を得られなかったとの記述がございます。深く法を求めていても、真理に到達するということは難しいのであります。智慧をだし熟考した結果、その答えを導かれました。それは、『善根を積まねばならない』すなわち『良い種を蒔くこと』なのであります。


 教祖さまが真理に目覚め悟りを開かれた尊いお言葉であると思っております。私たちは、『慈悲』 『誠』 『堪忍』の実践により、良い種を蒔くことがとても重要であります。毎日、少しでも良いから積徳することが肝心であります。私たちは『三徳』の実践を日々精進の大目標として進むことで『すばらしき人生』へのレールに確実に乗ることであると信じております 。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス