九月は陰暦で長月と申しまして、夜がようやく長くなる月の意の夜長月の略称といわれております。また、旧暦の八月十五日を「十五夜」「中秋の名月」といいます。「中秋の名月」とは『秋の真ん中に出る満月』の意味で、旧暦では一月~三月を春、四月~六月を夏、七月~九月を秋、十月~十二月を冬としていたことから、八月は秋のちょうど真ん中であり、八月十五日の夜に出る満月ということで、そう呼ばれるようになったそうです。現在用いられている新暦では一ヵ月程度のズレが生じるため、九月七日から十月八日の間に訪れる満月の日を『十五夜・中秋の名月』と呼んでおります。
私がサラリーマンの時に、静岡県を担当しており一番心に残った「中秋の名月」は、富士宮市の青木平から見る名月は最高でありました。富士山と名月を一緒の見ることができる絶景なのであります。特に青木平は小高い丘であるため、目に映る景色には余分なものは一切なく、ただ、壮大な富士山だけが綺麗に見えるのであります。
「人生は心に描いた通りになる」とは稲森和夫さんの有名な金言であります。しかし、ただ漠然と夢を描いていては駄目なのであります。目標に向かい努力・精進することが無ければ夢は叶えられません。普通に考えても、この世の中で楽して儲かるという話は無いのであります。すべては努力の結果であることは皆さまもご承知の通りであります。
ただ、漠然と享楽的に生きるということは、何も辛いことではありません。しかし、自分を高めようと生きることは非常に辛く厳しいものなのであります。そして、その苦労の先に素晴らしい未来が必ず開けてくるのですから、何事も諦めずに耐え抜くことが大切であります。常に自分自身を高め続ける所に私たちの『生きる目的』があるのではないでしょうか。
人生に於いて失敗はしたくないと誰もが思っていますが、それは間違いであります。失敗があるから成功が生まれるのであります。失敗が無ければ人間は成長しません。私の人生は殆んど失敗から始まっております。会社二年目で大きく売り上げを落としたことが、私の人生で最大の失敗でありました。しかし、その失敗から学ぶことも多くありました。人間としての器を大きくするためにも良かったと思っております。丁度、子が親離れをするが如く、自分一人で何でも解決していく能力を身に付けることができました。本当に有難いことでした。
部下の育成も同じであります。失敗することを覚悟でやらせてみるのです。非常に危険なことですが、この戦法が一番早く育つ秘訣であります。まず、やってみせて、どの程度理解したかを測定するために、やらせてみるのであります。どんな仕事でも簡単そうに見えて中々、奥が深いのであります。当然、失敗というリスクを回避することができないケースもあります。そこで、なぜ失敗したかを考えさせます。解からなければ、宿題とします。一晩考えても間違って理解しているようであれば、答えを教えます。成功への導きは失敗から入るとスムーズに解決するものであります。
以前、こんな部下がおりました。静岡の大病院を私の後任として引き継ぎました。S君は、とても明るく素直な人柄で、まさに営業向きの性格でありました。野球の選手で云えばホームランバッターではないが中距離ヒッターというイメージで、わりと如才ないタイプであります。S君の最大の欠点(短所)は、上昇志向があまりなく社内でも穏便に物事をこなしておりました。私は、このまま彼が新人から中堅MRとなり成長していった場合、必ずどこかで壁にぶち当たると予見できました。彼には、強く、太く、逞しい心を移植することが解決策と考え、日々、心の鍛錬をして行きました。具体的には、顧客と接する時に、相手が怒る寸前までの内容の話をするようミッションを与えました。最終的には怒らせてはいけません。その限界値を知ることが今後の彼のビジネスで不可欠なのであります。そして、来る日も、来る日も宿題を与え、実行し、やがて、彼は自ら考え実行できるようになりました。十年、二十年たち今では三十代半ばの中堅になっております。この力は今後、大きく発揮されるものと確信しております。
人間は少しぐらい図々しい方が丁度よいのであります。踏まれても枯れない雑草の如く強く逞しく生きることが、人生という荒波を乗り越える大きな原動力となるでしょう。
また、こんな部下もおりました。とても頑固な性格のM君でありまして、自分の考えを曲げないのであります。私は、彼が気持ちよく働けるように、煽てて上手に持ち上げて仕事をしてもらうようにしました。しかし、見え透いた煽ては通用しません。解決策としてとことん腹を割って意見を交わし、議論することで彼に一生懸命さが伝わり、素直になれたのであります。どんなことでも最終的に腹落ちしないと駄目なのであります。自分が納得すれば、良い仕事が進んでできる様になるのです。上司とは色んな部下の性格を個々に見極め、その人に合った指導をしないといけないのであります。そして、じっと我慢するのも上司の仕事なのです。
法華経 提婆達多品(だいばだったほん)(第十二章)では二つの成仏が説かれております。一つは「悪人成仏」もう一つは竜女成仏という「女人成仏」です。悪人成仏は『善の勝利』が説かれており、女人成仏では、大いなる「女性の人権宣言」であります。悪人も女人もこれまでの仏教では、仏に成れないとされてきました。この法華経では、いわば常識をくつがえす説法であり、一切衆生を成仏させるという、法華経の特徴が劇的に表現されている品といえます。今回は「悪人成仏」を中心に進めさせて頂きます。
日本では古くから法華経の提婆品がとくに尊重されていました。かの、源氏物語の著者・紫式部も、提婆品の講義を聞いて、悪人、女人成仏の法理に触れた感激を、和歌などに記しています。提婆達多は釈尊に徹底して背いた男です。善に背くのが悪ですから、仏に背いた提婆達多は悪人の典型なのであります。その成仏を説くのですから、そのインパクトは強烈であります。また、竜女の成仏は、女人成仏であるとともに「即身成仏」である点が重要であります。つまり、凡夫の身を改めずに成仏できることを強く印象付けております。
この提婆達多は釈尊の従兄弟という説が有力で、釈尊よりも年は若く、釈尊成道後十五年ごろ出家したと考えられております。初めは釈尊の弟子として真面目に修行に励み、才能も有ったので、教団の中でしだいに注目される存在となりました。しかし、後になると、後ろ盾を求めて阿闍世王(あじゃせおう)に近づき「釈尊に代わって教団全体を統率しよう」との野心をいだくようになったのであります。結局、提婆達多は嫉妬で身を滅ぼしたということであります。
知識は善人をいっそう善人に、悪人をいっそう悪くするのであります。彼の一念は「信仰者」の一念でなく、「野心家」の一念であったのではないでしょうか。「信仰者」とは「自分を支配しよう」とする人間で、「野心家」は「他人を支配しよう」とする人間であります。結局、提婆達多は、慢心のためか、自分をコントロールできなくなり、「信仰者」としての軌道を外れてしまったのであります。
晩年の釈尊に、提婆達多は教団の統率を自分に任せるよう求めました。理由は釈尊の老齢です。釈尊が拒否しても、彼は三回も同じ要求をしたのであります。
そして、提婆達多は、その後、阿闍世王(あじゃせおう)をそそのかし、父の頻婆娑羅王(ひんばしゃらおう)を殺害させて王位に就かせます。そして、阿闍世王の権力を使って刺客を放ったり、悪象をけしかけたり、最後には自ら大石を釈尊めがけて落とすなど、仏を亡き者とするために、ありとあらゆる策謀を諮りました。しかし、それらの企ては、すべて失敗してしまいます。
釈尊の戒律は、中道ですが、提婆達多は教団の破壊が目的であるため、とても厳しい戒律を作り、弟子たちの切りくずしを企てたのであります。実際に提婆達多のたぶらかしに、五百人もの仏弟子が、彼に従ったといわれます。もっとも、この人たちも、後に舎利弗と目連に諭され、釈尊のもとに戻ってきます。
それでは、提婆品の概要ですが、初めに釈尊と提婆達多の過去世における因縁が説かれております。釈尊が、過去世に大国の王であった時、菩薩行を実践し、人民のために身命も財産も惜しまずに尽くしておりました。王はまだ飽き足らす、すべての人を救う大乗の法をさらに求めます。王の求道心に応じて現れたのが、「阿私仙人」です。仙人は、自分の言葉通りに修行すれば、法華経を説こうと王に語ります。王は歓喜して、水をくみ、薪を拾うなど、賢明に働いて仙人に仕えます。その修行が千年も続いたが(千歳給仕)、心に法を求めていたので、心身ともに疲れることは無かった。その結果、ついに王は成仏します。
このように、過去のことを述べて釈尊は、過去世の師である阿私仙人とは、実は提婆達多であると種明かしをします。そして、釈尊が悟りを得て、広く衆生を教えるのも、提婆達多という「善知識」によるのであると。また、その過去の因縁によって、提婆達多に対して未来無量劫の後に「天王如来」になる、という授記が与えられます。最後に釈尊は、他の比丘(びく)たちに、未来世にこの提婆品を聞くものは十方の仏前に生まれる功徳があると説いております。
提婆品で、釈尊が成仏したのは「皆な提婆達多の善知識(ぜんちしき)によるが故なり」と説かれ、提婆達多がいなければ釈尊も仏に成れなかった。ということです。これをどう解釈するかでありますが、善と悪とは「実態」ではない。あくまでも「関係」であるという概念です。「悪によって善あり、悪を離れて善なし」まさにこの言葉に尽きるのであります。
教祖・杉山辰子先生は『一念三千』とは、ひとつの思いによって三千種の世界を生ずることであり、すなわち『十界互具』(じゅっかいごぐ)なのであると仰せであります。私たち人間一人ひとりの内にある基調となる十界(地獄界から仏界)すなわち、十の世界と、その都度、縁によって触れる十界があります。ですから、私たち人間の内にある十界は十界×十界で百界となります。そして、百界×十如是(十如実相)で千界となります。そして、過去世、未来世、現世の三世があるため千界×三で『一念三千』の諸法実相となるのです。こう考えると、十界互具も諸法実相から帰結されていることが分かります。教祖さまは、『善根を積まねばならない』と申しておられます。要するに『良い種を蒔くこと』がとても大切であると説かれております。
私たちの尊敬する偉大な教祖さまの歩まれた道『絶対的幸福への軌道』に乗ることがとても重要であります。そのためにも三徳『慈悲』 『誠』 『堪忍』を実践することにより大きな功徳と未来世に繋がる精進をしましょう。私たちは、日々の生活の中で良い種を蒔き続けることによって『すばらしい人生』を体現することがとても大切であると思います。
合 掌