PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生35

今年も残すところ二ヶ月となりました。月日の経つのは早いものであります。特に年を重ねるごとに一日が、あっという間に過ぎてゆきます。これは人生を楽しんでいるから早く感じるのであります。それと、生きることの素晴らしさを噛みしめているからなのであります。現世は長いと云っても、たかが百年余りであります。来世は無限であります。私たちは、三世(さんぜ)に生きているということを法華経から学ばなければいけません。私たちは、この世に生かされているこの命をいただき、この現世を精一杯、尊く生き抜くことが大切であります。瞬間々々を大切に生きることを常に頭に入れるべきではないでしょうか。そして、今ここに命のあることに感謝をしなければいけません。両親、ご先祖様への感謝は云うまでもありません。すべてに感謝して生きることが極めて重要であります。


 11月は霜月と申しまして、文字通り霜が降る月の意味ですが、最近は地球温暖化の影響でこの時期あまり降った記憶がありません。地球を取り巻く環境が少しずつ変化しております。私たちは、常に環境への配慮をしなければいけません。地球が永遠に続くよう、今やらなければならないことを確実に実施し、手遅れとならないよう人間一人ひとりの意識改革が大切であると思っております。


 今年の立教四十二年祭は今月八日に開催されます。過去三年間、立教祭というと殆んど天気が良くありませんでしたが、今年こそは晴天に恵まれたいと思っております。毎年、多くの方々に支えられ、立教祭が盛大に執り行われております。沢山のお餅のご寄付をいただき誠に感謝しております。今年も信者の皆様のご健勝を祈念して盛大に開催いたします。どうか楽しみにしていて下さい。


 さて、私の人生で最大の失敗はいくつかありました。サラリーマンで入社二年目の時に大きく売り上げを落としました。しかし、その失敗は自分の人生に大きな影響を与えるようなことではありませんでした。むしろ、仕事に対するカンフル剤となったのであります。絶対逃げない、絶対諦めないという気概ができたのであります。法華経として考えますと大難が小難になったと云えるべきでしょうか。私は常に法華経に守られていたと思っております。いろんな出来事がぎりぎりの所で無難にできていたのであります。まあ、何というか、自分の実力以上に守られていたと考えるべきでしょう。この法華経との縁に触れたことを本当に有難いと思い感謝しております。


 以前にも書かせて頂いたことですが、私が製薬会社に転職した時のことですが、どこの会社でも入社するには面接がございます。私の面接はD副社長とH本部長でした。本来、面接はとても緊張するものですが、私はあまり緊張しませんでした。多くの面接官からいろんな質問があればドキドキしてしまうのでありますが、たった二人だけなのでさほど緊張すること無く無難にできました。それと、自分にはもう後が無いという『崖っぷち』であったことも事実であります。まだ子供も二歳(双子)になったばかりであります。何が何でも入社するという強い気持ちで取り組めたことが成功に繋がったと思っております。そして、仕事に取り組む姿勢についての質問がありました。私はこう答えました。「有言実行」の気持ちで取り組みます、と。私たち人間は第一印象で九割が決まってしまうということもありますので、誠実な考え方を効果的に印象付けるテクニックが求められます。そして、「有言実行」の言葉にはとても重要な意味があります。自分の仕事に責任を持って取り組むということであります。また、仕事だけではなく人生そのものにも責任を持つということです。そして、最後に何か言いたいことはありませんかと問われましたので、お願いがあります、私の年俸は五百万円以上でお願いします、必ず良い仕事をします、と。これも「有言実行」であります。この言葉のインパクトはとても説得力があります。そして、面接を終え就職が決まりました。今になって考えると、これも、それも、すべてが法華経に守られていると思わざるを得ません。本当に有難いことであります。


 勘持品(かんじほん)(第十三章)のあらすじですが、宝塔品(ほうとうほん)で釈尊は弟子たちに語りました。「私が死んだ後、この娑婆(しゃば)世界で、誰か法華経を説く者はいないか、私はもう、この世に長くはいない、法華経のバトンを譲り渡したいのだ」。「私の死後、法華経をたもつのは、とても難しいことだ。しかし、それでもたもち続けるならば、全ての仏が讃嘆(さんたん)するだろう。その人自身が仏だ。さあ、みんな、私が死んだ後に、誰が、この法華経を護るのか。今ここで、誓いの言葉を聞かせてくれないか」と。これを受けて、勘持品では、最初に薬王(やくおう)菩薩と大楽説(だいきょうせつ)菩薩が、仲間と共に誓います。「世尊、どうか心配なさらないで下さい。仏が入滅された後、私たちが必ずこの法華経をたもち、説きますから。その時、人々は、善根が少なく慢心が多い為に、なかなか教化できないでしょう。でも私たちは、勇敢に耐え忍び、身命(しんみょう)を惜しまず、法華経を語りぬいてまいります」続いて、すでに成仏の保証を得た多くの弟子たちが、我も我もと、次々に誓いを述べます。ただ、彼らの誓いと、最初の菩薩の誓いには決定的な違いがあります。菩薩たちは釈尊の教えの通り、「この娑婆世界で戦おう」と決意をします。ところが他の弟子たちは、「娑婆世界は人心(じんしん)が乱れていて、やりにくい。『他の国土』で頑張ります」娑婆世界の衆生は欠点だらけで、慢心をいだき、徳が薄くて、怒りっぽく、心がひねくれているから、と言うのです。声聞たちは授記され、菩薩になったが「新米の菩薩」だから、この娑婆世界でなくて「どこか別の楽な所へ行って生きよう」「大変な所は避けよう」という逃避の一念を表しているのでしょう。しかし、自分が今いる「ここで」命を燃やしきっていくのが法華経の精神です。釈尊が教えてきたのは「悪世のこの娑婆世界で法華経を弘めよ」ということであります。


 そこで菩薩たちは、心に決めるのであります。「仏のお心にお応えしよう」「自分の本来

の願いに生きよう」と。そして、声に出して誓います。「私たちは、世尊がご入滅された後、

悪世の中で、十法世界に、この法華経を弘めて参ります」と。勘持品はまさに弟子の誓い

の章であります。勘持品(かんじほん)では、三類(さんるい)の強敵(ごうてき)について記されている「二十行の偈(げ)」があります。宝塔品で説かれた六難九易(ろくなんくい)の「六難」が現実的にどういう形で現れるかを説いたのが「二十行の偈(げ)」であります。


 三類(さんるい)の強敵(ごうてき)とは、「俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)」「道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)」「僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)」であります。第二行に「多くの無知の人々が、悪口を言ったり、罵(ののし)ったりしても、また刀で切りつけ杖で打っても、私たちはみな耐えます」この文(もん)は、俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)を明かしております。仏法に無知な在家の男女が、法華経行者に「言論の暴力」「肉体的暴力」を加えるのであります。迫害するのは、一つには、第二の道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)、第三の僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)に動かされているのであります。そこには、自らを見極めようとせず、大きな権威によりかかっているために、敵対するのであります。


 次に、第三行に「悪世の中の比丘(びく)は、よこしまな知恵があり、心が曲がっており、まだ悟りを得ていないのに得たと思い込んで、自身に執着する心が充満しています」と。これは道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)です。これは、少しばかり仏法を知っているために、かえって質(たち)が悪いのです。真実を覆い隠すだけでなく、仏の教えを、自分の都合のいいように平気でねじ曲げてしまう。だから、もっと優れた教えがあると言われると、喜ぶべきなのに、かえって怒り出す。自分より優れている人と法を、素直に尊敬できないという慢心です。


 次が僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)です。「僭聖(せんしょう)」とは「聖者のふりをしている」ということです。第四行に「人里離れたところで、ぼろきれをつづり合わせて作った衣を着て、自ら真実の道を修行していると思い込んで、人間を軽んじ賤(いや)しめる者がいることでしょう」人間を蔑視(べっし)するのであります。一切衆生が宝であると見る法華経を正反対であります。だから、法華経行者の敵とならざるを得ません。第五行に「利得(りとく)に執着し貪(むさぼ)るために、在家信者のために教えを説き、六神通(ろくじんつう)を得た阿羅漢(あらかん)のように世の人々に尊敬されるでしょう」自分が『もうける』ために、仏法を利用するのが僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)なのです。それでいて、世間の人々から「聖者」のように仰がれている。苦悩の人を救おうとか、広宣流布に命を捧げていこうなどという心は無い。宗教利用の偽善者なのであります。


 第六行の偈に「この人(僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん))は悪心をもって、いつも世俗のことを気にかけ、閑静な場所に住んで修行しているとは名ばかりで、私たちの過失を好んでつくりだそうとします」と。自分に敵対する法華経行者が出現すると、ありもしない過失を捏造(ねつぞう)し、言い立てるのであります。偽善者にとって、恐ろしいのは自分たちの実像が暴(あば)かれることです。ゆえに、真実を叫ぶ法華経行者が『脅威』(きょうい)となります。そこで「うそ」で法華経行者を亡き者としている。


 九行からの偈(げ)では、僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)と権力の結びつきを明かします。「いつも大勢の人々の中にあって、私たち(法華経行者)を謗(そし)ろうとするために、国王、大臣、婆羅門(ばらもん)、居士(こじ)やその他の比丘(びく)たちに向かって、私たちを誹謗(ひぼう)し、私たちの悪を説いて、「これらの人は邪見(じゃけん)の人であり、外道(げどう)の論議を説いている」と言う(九、十行)。法華経行者と直接、対決するのではなく、権力の裏で、常に操ろうとしているのであります。この後の偈(げ)でも、強烈に法華経行者を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)するのであります。とんでもない偽善者なのです。


 法華経は「人間への尊敬」で「人間のための宗教」ですが、僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)は「人間への軽蔑(けいべつ)」で「権威のための宗教」であります。勘持品(かんじほん)二十行の偈(げ)で、菩薩たちは「我は身命(しんみょう)を愛せず、ただ無上道(むじょうどう)を惜しむ」と誓います。南無妙法蓮華経を自分の命以上に大切にするという妙法広宣流布に一切を捧げていく信心(しんじん)なのであります。勘持品(かんじほん)は弟子が三類(さんるい)の強敵(ごうてき)と戦うという六難(ろくなん)を乗り越えるという誓いなのであります。


 教祖杉山辰子さまは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、南無妙法蓮華経と唱える。そして、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・仏智(ぶっち)の六波羅蜜(ろくはらみつ)の修養をし、功徳を積むことが大切である。そうすれば不慮の事故や災難、病気から逃れることができる。そして、三徳を積むこと。始終一貫、功徳を積むべし。かくの如く説法されておられます。『慈悲』 『誠』 『堪忍』の三徳の実践がとても大切であると仰せであります。私たちも教祖さまを良きお手本として実践しましょう。


 私たちは『仏の心を生きる』という大きなテーマを忘れてはいけません。すべての人が『仏の心を生きる』ことを考え、理解し、実践すれば争い事や戦争など不幸な出来事は無くなると思います。私たちは毎日すこしでも良いから自分という人間を磨く努力をすることにより必ず『すばらしき人生』を歩むことができることでしょう。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス