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世界平和を
大樹
すばらしき人生37

新年明けましておめでとうございます。今年の干支は「申」でございます。申年生まれといわれる人で最も申年らしい特徴を持つのが「豊臣秀吉」であります。織田信長の家来として、サルと言われつつ出世したのは、盛り上げ役に徹したことと、したたか者であったことが大きな要因と思われます。申年生まれの特徴は回転の速さと行動力があり、天下人となった抜け目なさと冷徹さを持っていたのではないでしょうか。今年一年が皆様にとって最良の年となるよう、ご祈念申し上げます。


 法公会の今年のスローガンは『博愛と友情』です。私たちは『人の幸せを願う心』がとても大切であります。すべての人を平等に愛すること、そして『慈悲』という無償の愛に目覚めなければいけないのであります。そういう気持ちで今年一年を精一杯生きてゆこうと思っております。どうか宜しくお願い申し上げます。


 人生は失敗があるから、達成した時の喜びも大きいのであります。失敗なくして成功はあり得ません。私は数限りなく失敗をして参りました。笑っちゃうような失敗談ですが、50代の前半だったと思いますが、会社の同僚と北海道へゴルフ旅行に行きました。確か北広島市にあるゴルフ場だったと思いますが、東京から新千歳空港に着き、JRで北広島に向かう途中の恵庭で同僚がお墓参りをするといって寄りました。そして、夕食を恵庭の料理屋で済ませました。あまり大きな店ではないのですが、海の幸を堪能しました。お店は建物が古く風流な感じでした。お部屋は大広間のお座敷で、お店の通路は薄暗く下足箱はありませんでした。食事を終え帰る際に何気なしに靴を履いて北広島のホテルにチェックインしました。翌朝、朝食にとレストランに向かった際、足元が何か変だと気づきました。なんと、靴の色が違うのであります。私は、黒い靴を履いていたのですが、片方は茶色でした。靴を履いた感じに全く違和感がありませんでしたので気づきもしませんでした。昨日、間違えて履いてきてしまったため料理屋に連絡したら、別のお客さんも靴が違うとのことでした。それでその方はどうされましたかと尋ねたらスリッパでお帰りになられました。と、いうことでした。


 とんでもない大失態であります。しかも、相手の方は、お医者さんでありました。E社のMRと食事をしていたのであります。後日、先生には、宅急便でおわび状を添え送付しました。何事も確認することが大事であると大いに反省をしました。


 迹門の第十四章が終わり、これから本門へと入って参ります。それでは、法華経の十界論(じゅっかいろん)へと進めさせて頂きます。私たちは『無上道(むじょうどう)の人生』を生きているのです。それを自覚するかしないかです。仏法は何のためにあるのか。それは万人を『幸福』にするためにあります。万人に『大歓喜』の境涯を開かせるためにあるのです。


 釈尊は「人類を救う闘争」を始め、すでに外道(げどう)の苦行(くぎょう)を実践し、欲望を断滅(だんめつ)した境地を得ました。しかし、釈尊は「苦行」では本当の幸福の境涯は得られないと分かって、苦行を捨てました。万人にとっての「本当の幸福の道」は、どこにあるのか。欲望に身を焼く人生では、人間は幸福になれない。苦行に我が身を痛めつける人生でも幸福になれないことを悟られたのであります。そして、中道の「道」を選択されたのであります。「人間にとって、本当の幸福とは何なのか」ここに「十界論(じゅっかいろん)」の基調(きちょう)となる問いかけがあると思います。


 先ず、十界互具(じゅっかいごぐ)の考え方ですが、法華経本門(ほけきょうほんもん)に入り初めて十界が互具されていると明かされております。先ず「地獄界(じごくかい)」「餓鬼界(がきかい)」「畜生界(ちくしょうかい)」ここまでを三悪道といいます。「修羅界(しゅらかい)」「人界(にんかい)」「天界(てんかい)」は三善道(さんぜんどう)といいます。この六つを「六道(ろくどう)」といいます。不思議に思うのは、修羅界(しゅらかい)は三悪道(さんあくどう)と合わせて「四悪趣(しあくしゅ)」といわれているのに「三善道」にも入っている。善であり悪でもある訳であります。そしして、六道は、それぞれの場所に、過去世の行い(宿業(しゅくごう))によって生まれると考えられております。因果応報の考え方です。この六道を輪廻(りんね)するといわれております。この六道から抜け出した境涯が「声聞界(しょうもんかい)」「縁覚界(えんかくかい)」「菩薩界(ぼさつかい)」「仏界(ぶっかい)」までを、いわゆる「四聖(ししょう)」といいます。


 最初に地獄界(じごくかい)とは、今でも「奈落(ならく)の底に堕ちる」といいます。地獄の「地」はいちばん底を意味し、「獄」とは拘束され縛られた不自由さを表します。苦しみに縛られた最低の境涯なのであります。「瞋(いか)る」とは貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)の三毒(さんどく)(貪・瞋・癡)の中の瞋恚(しんに)です。自分の思い通りにいかないことや、苦しみをもたらす相手に対して恨みの心を抱くのが「瞋(しん)」ではないかと思います。


 人間は逆境にあったり、困難に直面すると、ともすると自分一人が不幸であるかのように思って、他の人を恨み、社会を恨み、自分の殻に閉じこもってしまうことが、よくあります。仏法でいう「地獄」とは、与えられた境遇や環境にあるのではなく、むしろ環境に振り回され、支配され、そこから一歩も抜け出ることができない「生命力の弱さ」だと思います。他のどこにあるのではない「心」の中にあるのです。だからこそ「心」を変えないと幸福にはなれないのであります。


 次に、餓鬼界(がきかい)ですが、欲望に振り回された境涯であります。そのために、心が自由にならず、苦しみを生じる。欲望の奴隷となっています。人間の欲望には際限(さいげん)がないといわれております。「生きる」という根本的欲望があり、さらに食欲などの本能的欲望、所有欲などの物質的欲望、自己顕示欲などの心理的欲望があります。人間は欲望がなくては生きて行けません。また、それらの欲望が人間を進歩させ、向上させるエネルギーにもなります。しかし、餓鬼界というのは、欲望の奴隷である訳ですから、欲望が自分を苦しめ、他人を傷つけていくのです。だから、「悪道」なのであります。つまり、餓鬼界は「貪(むさぼ)り」の境涯であり、三毒の「貪欲(とんよく)」です。


 次に、畜生界(ちくしょうかい)ですが、本来は鳥や獣などの動物の境涯です。本能のまま生き「癡(おろか)」なのであります。三毒の「愚癡(ぐち)」であります。人間でいえば、目先のことにとらわれ、物事の道理に暗いというのがその本質です。自分自身の中にきちっとした善悪の基準が無く、規範もない。本能的に行動し、恥じることが無い。まさに「弱き者をおどし強き者をおそる」という「力の論理」です。弱肉強食なのであります。人間でありながら『人間らしさ』を失った姿であります。


 次に、修羅界(しゅらかい)ですが、修羅とは「慢心(まんしん)」の生命と思います。他人と自分を比較して、自分の方が優れ、他人が劣っていると思い込む煩悩(ぼんのう)です。いわば『自分は素晴らしい』という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれているのであります。だから人にも「素晴らしい人だ」と思われるために、「本音を明かさない」のです。すなわち「諂(へつら)う人のことであります。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他(しょうた)の念(ねん)」を燃やしている。しかし、外面では、そういう心を、おくびにも出さない。仁・義・礼・智・信を具えた人格者のように振る舞う。そうすることによって「人格面でも優れている」と人に思わせ、或いは、自分でも思い込もうとするのかも知れません。内面と外面が違うということは、つまり「うそつき」だということであります。


 修羅界(しゅらかい)は自分をだまし、人もだまし、うそにうそを重ねた人生を生きている。本当の充実もなく、小さな幻想の自我にしがみつき、虚勢(きょせい)を張りながら、哀れに生きている。


 次に、人界(にんかい)ですが、「自分に勝つ」という境涯の第一歩が人界なのであります。その最高の階段が菩薩界(ぼさつかい)であり仏界(ぶっかい)なのです。十界論(じゅっかいろん)では人界は中心に置かれております。そこから更に上の境涯に行くことができるし、下に転落することもある。そういう要の位置にあります。ですから、人界(にんかい)は人界以上の境涯(きょうがい)をめざして進んでこそ、人界としての意味があります。ともあれ「境涯」というものは不思議であります。自分で気がつこうと気がつくまいと、自分の感情はもちろん、振る舞いも、思考も、人間関係も、人生も、自分の「境涯」によって大きく決定づけられます。


 従いまして、私たちは正しい人生の「軌道(きどう)」を歩んで行こうとする努力が大切であります。人界は、自分を超えた大いなる存在を畏敬(いけい)し、全生命をあげて尊敬することによって、かえって自分自身を豊かにするのであります。


 次に天界(てんかい)です。天界というと、何となく、浮き浮きした『バラ色』のような世界をイメージしますがそうではありません。天界は六道(ろくどう)です。私たちはこの六道から脱出しなければいけないのであります。しかし、天界がいけないのではありません。天界にとらわれ、引きずられて、自己満足してしまうのがいけないのであります。皆さんは健康で、食べるものが十分あって、家族が仲良く、生活が喜びにあふれている。それは素晴らしいに決まっている。しかし、残念ながら、バラの花は永遠に咲いているわけではない。季節とともに色あせるし、必ず散ってしまう。


 天界(てんかい)の喜びは夢のようなものであります。幻です。幻を追いかける人生は幻です。真の目的は、永遠に崩れない幸福をつくることです。はかないバラのような幸福ではなく、三世(さんぜ)にわたって崩れないものを自分自身の生命につくることであります。


 そして、六道(ろくどう)から四聖(ししょう)へ昇る階段となります。先ず、二乗界(にじょうかい)(声聞界(しょうもんかい)・縁覚界(えんかくかい))とは、永遠の求道心(きゅうどうしん)を求め続けることです。「無我(むが)」とは、自我が無いという意味ではないのです。永遠に変わらない固定的な自分というものはないという意味です。常に変化することであります。それが、自己を「空(くう)」(空諦(くうたい))として見ることになる。ところが、変わらぬ自分があるように思い込んで執着したり、自分の所有しているものに執着してしまうのが凡夫であります。つまり、あらゆるものを「有(う)」と見る、これが六道の境涯なのです。


 菩薩界は、この世中を「仮(け)」と見る(仮諦(けたい))。菩薩はあえて法のため、人のため、社会のために苦労してゆこうという「心」です。自分中心ではなく人のために慈悲を尽くすことであります。自己中心の考え方を根本的に転換しないといけないのであります。人生においても、社会においても、「法のため」「人のため」に捧げて行けば、行き着くところは必ず仏界となります。


 仏界という最高の境涯を開発することが何より大切であります。どんなことがあろうとも決してくじけず、師子王(ししおう)のごとく悪魔(あくま)を退治する。そんな境涯を開くことであると思います。仏は、「中(ちゅう)」と見る(中諦(ちゅうたい))のであります。


 境涯論(きょうがいろん)としての十界論(じゅっかいろん)という人生の鏡を知ることで、これからの人生を一歩深く歩むことができます。仏界とは妙法と一体の境地であり、仏とは、妙法を受持(じゅじ)してゆく境地そのものが仏界です。釈尊は成道の直後に『妙法を師として生き続ける』ことを誓っております。「わたくしはこの法を悟ったのだ。わたくしはその法を尊敬し、敬い、たよっているようにしよう」。そして、その通りの境涯をまっとうした。入滅時の言葉にも、「私は自己に帰依(きえ)することをなしとげた」とあります。自己に帰依するというのは、内なる永遠の妙法に帰依するということです。お弟子さんたちにも、自分と同じように、「法と自己を拠(よ)りどころとせよ」という遺言なのであります。


 私たちは、三徳『慈悲』 『誠』 『堪忍』の実践がとても重要であります。日々精進することで『すばらしき人生』を具現しましょう。


合 掌


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