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世界平和を
大樹
すばらしき人生39

寒さも和らぎ、過ごしやすい季節となってまいります。三月は弥生ともいい、草木がいよいよ生い茂るという意味であります。全てのものに輝く命の鼓動を感じるようになってまいります。命があることはとても尊いことであり、それぞれに尊厳があります。毎日を元気に笑顔で楽しく生きてゆけることが一番の幸せではではないでしょうか。


 法公会の行事で、一月の元旦祭、二月の節分厄除祈願祭、釈尊涅槃会も終わりました。沢山の信者の皆様のご参詣を賜り有難う御座いました。今月は春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆大菩薩二十八回忌法要会を開催いたします。多くの信者の皆様のお参りをお待ちしております。どうか宜しくお願い申し上げます。


 以前、掲載させて頂きましたが、私が医薬品流通の会社にいたころ年間、一億二千万円の売り上げを無くしてしまい会社に多大な迷惑を掛けました。これは偏(ひとえ)に自分自身の力が無かったことが大きな原因でありました。製品は会社のネームバリューで売れてしまうものです。しかし、未熟な自分には、その大きさが分からなかったのであります。どんなに大きな会社であろうと、小さな会社であろうと諸先輩の皆さんが築いた信頼の上で仕事をさせてもらっているということを常に考えないといけないと思った次第であります。


 それを踏まえて自分自身を磨くことに専念してきたのであります。営業職とは「修羅界」のようなものであります。『優勝劣敗』(ゆうしょうれっぱい)と申しまして、常に勝ち続けないと落ちこぼれてしまいます。上昇志向の無い人はそれでいいのですが、私は上へ上へと目標を高く持ち、自らバーを上げていったのであります。その結果、何とか使いものになるレベルに到達したのであります。


 そして、更なる飛躍のためには転職した時が勝負であると、ひそかに思っておりました。大きく自分を変えることができるチャンスがやってくるのです。過去の悪い自分を全て消去できるのであります。そこには新しく生まれ変わった自分があるのです。ですから、転職は決して悪いことではありません。今や終身雇用を謳(うた)う会社は殆んどありません。ただ、転職するには、それなりの覚悟と自分自身を信じることであります。そして、風をよむことも大切であります。勇気を持って決断できるかどうかが鍵となります。


 四国は、平均的に根明(ねあか)の人が多いのであります。小さなことで悩んだり、苦しんだりせず、前向きに生きている人が多いと感じました。私が仕事をしていた時ですが、変り者の部下がおりました。M君ですが仕事に対する熱意はあるものの、インパクトが弱いタイプでした。真面目でコツコツという性格でしたので、仕事をするとストレスをため易い性格なので、日頃より愚痴や不満の多い人でした。よく食事やカラオケに誘い不満を聞いたものでした。


 このM君は薬学部出身なのですが、国家資格がないのであります。しかたないから製薬会社に入社しようと思ったのが動機ではなかったでしょうか。もし仮にそのような状況で入社したとすれば、良い仕事はできません。喜んで仕事ができなければ結果はついてきません。丁度、入社五年目に私と遭遇したのであります。そして、六年目に薬剤師国家試験を受け、見事合格しました。晴れて彼は薬剤師になったのであります。そして、会社を辞め調剤薬局に就職しました。本来の目標が達成されたのであります。私は、戦力が減るから少し困りましたが、喜んで辞表を受け取りました。


 またこんな部下もいました。四国で入社二年目の成績優秀なT君は、機転のきくタイプでしたので香川県の大学病院を担当させました。T君は大学教授からも信頼がありグングン成績を伸ばしました。その結果、この年、最高の評価を与えました。すると、一年後に他支店より首都圏へのオファーがありました。T君のためにはローカルではなく都会の方が必ず成功すると思い、喜んで埼玉県に出しました。そして、翌年の一月の全体会議で最高の賞を受賞したのです。私も彼と同じように喜び祝いました。しかし、人生とは不思議なものであります。最高のMVPを取った途端、周りから冷たくされたのであります。結局、前任者や先輩らの築いた信頼がある地域に、鳴り物入りで担当になった訳ですから、いくらT君が努力して賞を勝ち取ったとしても、周りからは認めてもらえないのです。そして、T君もきっと有頂天になったことでしょう。人の妬みや恨みは恐ろしいものです。T君も、もっと謙虚に振る舞い、周りの人への感謝が足りなかったと思います。


 『徳』でいうなら自分の徳以上のものをもらい、満ち溢れ、のりこぼれたのと同じです。結局、T君は最悪の転落の人生となってしまいました。後悔してもしょうがないのですが、何事も自分の徳以上のものを手に入れることは出来ないのは事実です。


 法華経 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)(第十六章 其の一)に入りたいと思います。釈尊の成仏がいかに遙か昔であったか。それを示す譬(たと)えが「五百塵点劫」(ごひゃくじんてんこう)の譬喩(ひゆ)です。五百千万億那由他阿僧祗(なゆたあそうぎ)という想像もできない遙か昔に釈尊が成仏したことを「久遠実成」(くおんじつじょう)という訳であります。法華経の本門(ほんもん)に入ると「久遠実成の仏」(くおんじつじょうのほとけ)が示されております。久遠の遙か昔に成仏した釈尊は、「久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊」として、「始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊」と区別されております。久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊は、本地を顕したという意味で「久遠の仏」(くおんのほとけ)とされます。「本」(ほん)とは、本地・本源・本体といった意味です。これに対して始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊は、その久遠の本仏が衆生を救うために、衆生に応じて出現した「垂迹の仏」(すいじゃくのほとけ)です。「迹」(しゃく)とは、本体に対する影(映像)であり、仮の姿という意味です。いわゆる「迹仏」(しゃくぶつ)であり、本仏と迹仏の関係は、「天の月」と「池の月」に譬(たと)えられています。実体の月と、池に映った月のような違いがあります。法華経前半十四品(ほん)を迹門(しゃくもん)、後半の十四品(ほん)を本門(ほんもん)と立て分けているのも、この「迹仏」(しゃくぶつ)と「本仏」(ほんぶつ)の違いに基づくものであります。


 如来寿量(にょらいじゅりょう)とは、「如来の寿命を量る」という意味です。如来の永遠の生命、その大生命力を我が身のうえに湧現(ゆげん)するのです。寿量品が説く「永遠の生命」には無限の生命力、無限の智慧(ちえ)、無限の慈悲(じひ)を具えて、生きとし生けるものを支えている宇宙生命それ自体です。それこそが、釈尊の本地であり、あらゆる仏の本体であると明かしているのが寿量品(じゅりょうぼん)です。


 この「永遠の生命」が、妙法(みょうほう)であり、如来(にょらい)であり、法性(ほっしょう)であり、十界三千(じゅっかいさんぜん)の諸法を貫く法の「南無妙法蓮華経」なのであります。寿量品の「永遠の生命」こそが、この生死(しょうじ)の苦しみをいやす「良薬」(ろうやく)なのであります。


 成仏の原因と結果は、仏因(ぶついん)・仏果(ぶつか)と云います。つまり九界(きゅうかい)の修行(因(いん))によって、仏界(ぶっかい)の悟り(果(か))を得るという成仏の『軌道』(きどう)といえます。方便品(ほうべんぼん)の諸法実相(しょほうじっそう)の文(もん)によって、仏界(ぶっかい)と九界(きゅうかい)が同じく十如実相(じゅうにょじっそう)の当体(とうたい)であると明かされました。そして、仏界(ぶっかい)と九界(きゅうかい)が「同性」(どうしょう)であるとはいっても、この両者が「釈尊の一身に即して」どのような関係にあるかは、迹門(しゃくもん)では、はっきりと説明されていません。それが本門に入ると、いわば『九界(きゅうかい)を離れない仏』こそ、釈尊の真実の境涯(きょうがい)(本地(ほんち))であると明かしております。「無始(むし)の本仏(ほんぶつ)」を知らしめるために、法華経の本門(ほんもん)はあるのです。


 十界(じゅっかい)というのは、地獄界(じごくかい)から仏界(ぶっかい)という自分自身にもともと具わった境涯であります。あるとき突如として仏に成ったのではないし、仏になったとたんに九界(きゅうかい)の生命がなくなる訳でもありません。しかも、この十界(じゅっかい)のことを、十法界(じゅっぽうかい)ともいいます。法界(ほうかい)とは、いわば全宇宙のことです。十界という全宇宙が本来、大生命体であり、巨大な仏なのです。無始無終(むしむしゅう)(永遠)で慈悲(じひ)の活動を続けているのです。だからこそ、十界(じゅっかい)のどの衆生であっても、その仏と一体です。一体だと「自覚」すれば仏なのです。一切衆生に、そう「自覚」させるために、仏法は存在するのです。ところが人々は、小我(しょうが)に執着して、狭き心のままで苦しんでいる。その無明(むみょう)を叩(たた)き破って、大生命の太陽を昇らせるために法華経があるのです。


 それでは釈尊の教えは、自分が悟った「永遠の法」(えいえんのほう)を万人に悟らせることに目的があった。釈尊の死後も、その「法」を師とせよと教えた。そして、こう語りました。「自らを島(しま)とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(ほう)を島(しま)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と。いわゆる「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」であります。ここで大事なことは、法(ほう)と仏(ほとけ)の関係です。「法」には「教え」という意味も含めて、さまざまな意味がありますが、結論からいうと、釈尊が「法」(ほう)と読んでいるものは、実は「久遠の仏」(くおんのほとけ)の生命なのです。「久遠の仏」の法身(ほうしん)(法(ほう)を体(たい)とする仏身(ぶっしん))のことと考えられます。少し飛躍しますが、釈尊が「永遠の法」(えいえんのほう)を悟ったということは、「永遠の仏」を自身の内に見た、ということが考えられます。法華経から見るならば、「法(ほう)を依(よ)りどころとせよ」という教えは、根本的には、「永遠の仏」(えいえんのほとけ)を師とせよ、との遺言であったのです。何より釈尊自身が、その「永遠の仏」を師として悟りを開いたのです。「自らをたよりとせよ」ということは、「心の師」となれということです。信心して信心して信心に生き抜けということであります。その自分は「依(よ)りどころ」となる。


 南無妙法蓮華経は法(ほう)であるが、同時に仏身(ぶっしん)であるということが大事なところであります。「法」(ほう)といっても「人(仏)を離れた法は、「理」(り)だけの存在であります。仏の智慧を生かして人のためになるということが「事の一念」(じのいちねん)となるのであります。


 教祖・杉山辰子先生は、人のためになることを実践するようにと『慈悲』 『誠』 『堪忍』という大きなテーマを与えて下さいました。一念三千(いちねんさんぜん)の哲理は、「善根(ぜんこん)を積(つ)むべし」とあるように「良い種(たね)を蒔(ま)く」ことから始まります。簡単に人のためになるといっても、とても難しいことであります。しかし、自分にできる範囲で人に奉仕をすることは可能であります。そして、素直な気持ちで見返りを求めない無償の愛を注ぐことが極めて重要ではないでしょうか。


 法華経は『心が変われば一切(いっさい)が変わる』という、宇宙的真理に目覚めさせてくれる。人々が助け合い、励まし合って生きる、慈悲(じひ)の浄土(じょうど)を現出(げんしゅつ)させる力がある。


 私たちは、この有難い教えに巡り合えた。そして、それは偶然ではなく必然であったのです。前世より法華経に触れていたという縁によって、今世も導いて頂けるのであります。その為にも、今ある命を大切にし、自分を高める努力が大事であります。継続的に精進することで『すばらしき人生』へと進んで下さい。


合 掌


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