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世界平和を
大樹
すばらしき人生40

四月は新年度のスタートとなります。全てのものが新しい環境へと変化してまいります。

自分を変えるためには、丁度よい機会かもしれません。世の中は諸行無常と申しまして、

常に変化しております。いつまでも変わらない自分など有り得ません。従いまして、今ま

での自分の短所を長所へと変革できる大きな転換期となるでしょう。もう一度、自分とい

うものを足元から見ることで、客観的な視点から本来あるべき姿を想像することがとても

大切と考えます。そして、この世の中で不可能なことなど有りません。大きく飛躍するた

め日々の努力・研鑽が極めて重要となってまいります。不可能を可能にできるよう、自分

自身を信じてチャレンジして下さい。


 先月は春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆大菩薩二十八回忌法要会にお参りを頂きありがとうございました。今、自分がこの世に生きているという事実は、ご両親、ご先祖さまのお蔭であります。私たちは、ご先祖さまへの感謝と供養を忘れてはいけません。そして、今月の四月八日に釈尊降誕祭(花まつり)を開催いたします。尊い法華経を説かれたお釈迦さまの誕生日であります。多くの信者の皆さまとお祝いしたいと思います。万障お繰り合わせの上、皆さまのご参詣をお待ち申し上げます。


 人生『七転び八起き』と申しまして、何度、失敗しても、諦めずに立ち上がることの譬(たと)えであります。どれだけ失敗しても構わないのであります。失敗から学べば必ず成就できるのです。一番、哀れな人間は失敗経験の無い人であります。無菌室育ちでは、世に出ればすぐ感染してしまいます。打たれ弱いと申しますか、一度失敗すると、そこから抜け出せなくなってしまうのです。ですから、失敗は成功のもとと申しまして、失敗を恐れずにチャレンジすることが、とても重要となります。


 時として、人間は失敗を避けたいという逃避の念で、高い目標のバーを下げ、低い目標にしてしまうケースがあります。自らの成長を自らの手で止めてしまうのであります。非常に残念なことであります。しかし、それは失敗を恐れるが故の安全策なのであります。一時的には回避したかのように思えますが、実は大きな問題を抱えてしまうのです。無理難題が迫ってきたら、いつでも回避するという悪い習慣が身についてしまいます。従いまして、失敗を恐れず果敢にチャレンジすれば、何時かは必ず成功するということを忘れてはならないのです。


 以前、こんな部下がおりました。非常に前向きなH君ですが、何事もポジティブに捉え努力を惜しまない性格でした。何時でも、何処でも常に100%全開モードであります。そんなH君をMRから課長に昇格をさせ、更なる期待を掛けました。思ったように業績もグングン伸び順風満帆でした。日頃より自己啓発を積極的に行ない、外資系なので英会話の通信教育を受け将来性もありました。しかし、組織変更があり四国の高知県と愛媛県の二県を担当することとなりました。非常に難しいドクターも多く、ついに広大なエリアを担当することにギブアップしてしまいました。そして、会社を辞めることになりました。誠に残念なことですが、本人が出来ないのであれば仕方ありません。


 そして、糖尿病に関連する外資系メーカーに転職したのであります。しかし、一年、二年と時間が経過しましたが、その会社の糖尿病薬が出てきませんでした。いよいよ待ちに待った新薬が出てきたのですが、思ったほどの効果のある薬剤ではありませんでした。そんなことがあり失望し、その会社を退職しました。そして、再度、弊社に復職してきたのであります。


 当時は糖尿病領域の新薬が目白押しに収載され、各社力を入れ始めた時期でした。そのため会社を辞める人が多く、再度、獲得するために復職制度ができました。そんな中、偶然にもH君は前と同じ役職の課長職で戻れました。何という波瀾万丈な人生でしょうか。


 人間というものは、背負うべきものがあれば強く、逞しく、勇ましくなれるのであります。まさに、『七転び八起き』の人生です。


 不屈の精神で失敗を恐れず前向きに生きることの重要性を改めて思いました。そして、全てに信念を持って貫けば、そこには必ず『成功』がついてくるのです。また、守るものがあるということも大きな要素となります。自分を信じて、最後までやり通すことが大切ではないでしょうか。


 法華経 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)(第十六章 其の二)寿量品で久遠実成(くおんじつじょう)が明かされます。そして仏は、全宇宙、「どこにでも常住(じょうじゅう)し」衆生を救うためなら「どこへでも出現する」仏だと考えられます。だからこそ「今」「ここに」つまり娑婆世界(しゃばせかい)が『久遠(くおん)の仏(ほとけ)』の常住する浄土(じょうど)といえます。そして、仏が『未来においても常住する』ことが明かされております。「私が、もと菩薩(ぼさつ)の道を実践して成就した寿命は、今なお尽きていない。更に五百塵点劫(ごひゃくじんてんこう)に倍して続くであろう」と述べられます。「衆生を救う」という観点からいえば、過去よりもむしろ未来の方に寿量品(じゅりょうぼん)の本意(ほんい)があります。


 何があろうとも、生きて生きて生き抜くのが寿量品(じゅりょうぼん)のこころです。人生、何が確実かといえば「いつかは必ず死ぬ」ことほど確実なことは無い。しかし、人間は、一番確実な「死」から目をそらそうとしている。「死」というものを真剣に考えないといけないのであります。


 私たちは正しい生死観(しょうじかん)を持たないといけないのであります。「死」があるからこそ「今」を大切に生きようとするのです。現代文明は「死を忘れた文明」といわれております。「生死(しょうじ)」という根本的な概念を避けていては、その日暮らしの堕落(だらく)に陥ってしまう。死を意識するか否かが、人間と動物の違いです。死を意識することによって、人間は人間になった。人類にとって「死」とは単なるマイナスではなく、むしろ人間を「永遠なるもの」に向けて行くプラスの力をもっているのです。


 寿量品(じゅりょうぼん)の「方便現涅槃」(ほうべんげんねはん)という重要な法理(ほうり)が示されているが、その法理の一つの意味もそこにある。「方便(ほうべん)をもって涅槃(ねはん)を現(げん)ず」というのは、簡単にいうと「死(し)は方便(ほうべん)」ということです。方便というのは「手段(しゅだん)」ということですから、「死(し)は手段(しゅだん)」という意味になります。では、何の手段なのか、というと「人間に永遠の仏を求めさせるため」の手段ということになります。


 「方便現涅槃」(ほうべんげんねはん)の意義(いぎ)は「良医病子」(ろういびょうし)の譬(たと)えを見れば、もっとはっきりするでしょう。良医(ろうい)である父親が留守の時に、子供たちが毒を飲み、地を転げまわって苦しんでいた。そこで良医(ろうい)は、良薬(ろうやく)を調合(ちょうごう)して与えたが、毒が深くまわって本心を失った子供たちは飲もうとしなかった。そこで良医(ろうい)は、その子供たちを救うために一計を案じ、良薬(ろうやく)を置き残して旅立ちます。そして旅先から使いをやって「父は死んだ」と伝えます。これを聞いて、子供たちは嘆(なげ)き悲しみ、「ああ、もう何も頼るものがない」と苦しんで、やっと目が覚めるわけであります。「そうだ、お父さんが残してくれた薬があった。あれを飲もう」と。そして、たちまち病が治ります。父は、子供たちが皆、健康になったことを聞いて、すぐに帰ってきて皆の前に姿を現します。という譬(たと)えであります。


 良医(ろうい)は仏(ほとけ)、良医(ろうい)が旅先で亡くなるようにしたことは、仏の入滅(にゅうめつ)を意味しております。また子供たちは末法(まっぽう)の衆生(しゅじょう)であり良薬(ろうやく)とは南無妙法蓮華経であり使いとは地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)である。つまり、仏の入滅後の衆生を救う良薬(ろうやく)である南無妙法蓮華経が寿量品(じゅりょうぼん)に説かれているのです。


 釈尊はこれから入滅するという。これは本当のことではなく方便(ほうべん)である。もし如来(にょらい)がいつでもいつまでも世に居るとなれば、衆生に怠(なま)け心が生じ、会(あ)い難(がた)い思いと敬(うやま)いの気持ちは湧(わ)かないであろう。如来(にょらい)の出世には会い難し、と説けば、衆生は恋慕(れんぼ)の情をいだき、仏を渇仰(かつごう)し、善根を植えるだろう。それ故に如来は入滅することなくとも、入滅するというのである。子供たちが、父の死を聞いて嘆き「ことごとく恋慕(れんぼ)を懐(いだ)いて 渇仰(かつごう)のこころ生ず(咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ) 而生渇仰心(にしょうかつごうしん))そして、「一心(いっしん)に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命(しんみょう)を惜(お)しまざれば(一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ) 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう))」となります。その「一心」(いっしん)に応えて、「永遠の仏」が姿を現すということです。それは、自分の「永遠の仏」に目覚めることです。そのカギは仏を求める「一心」(いっしん)にあるのです。「不自惜身命」(ふじしゃくしんみょう)の信心の「心」なのです。その心を失ったら、仏法はない。その心を引き出すために、仏は「入滅」(にゅうめつ)という姿を見せる。これが「方便現涅槃」(ほうべんげんねはん)なのであります。


 寿量品(じゅりょうぼん)は自我偈(じがげ)ともいいます。「自身」が「永遠の仏」なのです。「方便現涅槃」(ほうべんげんねはん)には、釈尊が亡くなった時の状況が反映されているのではないでしょうか。偉大な死が亡くなって、茫然(ぼうぜん)とする弟子たち。これから何を支えに生きていけばよいのか。経典によれば、それは「髪の毛がよだつ」恐ろしいことでした。ある者たちは「髪の毛を乱して泣き、両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒され、のたうち廻り、ころがった」と伝えられています。後世の仏教徒にとっても、釈尊のいない虚しさは大きかったと思います。そうした中、法華経の「方便現涅槃」(ほうべんげんねはん)は、釈尊の表面上の「生と死」にとらわれてはならないと教えました。これを超えた「永遠の仏の生命」に目覚めよと呼びかけたのであります。そして、その「永遠の生命」に目覚めたとたん、それはじつは自分自身の生命の奥深くにもあることに気づく。わが生命の夜明けである訳です。ゆえに寿量品の「自我偈」(じがげ)は、「自」の字で始まり、「身」の字で終わっております。「自身」の自由自在の境涯を説いたのが自我偈(じがげ)なのです。


 自我偈(じがげ)は寿量品(じゅりょうぼん)の要であり、寿量品は仏教全体の魂(たましい)です。仏教全体の究極が「自身」大生命に目覚めよという叫びなのであります。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、南無妙法蓮華経と唱えることが大事と云われております。そして、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・仏智(ぶっち)の六波羅蜜(ろくはらみつ)の修養をし、功徳を積むことがとても大切である。不慮の事故や災難、病気から逃れることができる。そして三徳の実践。始終一貫、功徳を積むべし。と申されております。


 そして、辞世の句に「慈悲深く、堪忍強く、守りならば、誠の道は、ひとり渡れむ」と読まれました。教祖さまの尊い活動は『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践が重要とおっしゃっておられます。一念三千(いちねんさんぜん)の哲理は、「善根を積むべし」とあるように「良い種を蒔く」ことから始まります。


 私たちは『仏のこころ』を生きることが大切であります。それは、三世(さんぜ)を生きるという『永遠(えいえん)の生命(せいめい)』に気づくことが重要となってまいります。過去世・現世・未来世を生きているという考え方で、未来へ希望を持ち、現在をどう尊く生きるかが鍵(かぎ)となるでしょう。そして、すべての皆さまが幸せとなることを心に願い精進すれば必ずや『すばらしき人生』となるでしょう 。


合 掌


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