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世界平和を
大樹
すばらしき人生41

五月に入りますと気候もよく活動的な季節となります。生きとし生けるもの全ての生命力を感じております。また、ゴールデンウィークもあり、レジャーに家族サービスにと夢が膨らみます。ただ問題なのは、休みが多く会社に行くのが嫌になってしまう人もおります。有意義に過ごすためには、どんなに小さな目標でも良いから持つことが大切です。人間は常に原点回帰することが必要であります。一度、リセットして考え方を整理するのも良いのではないでしょうか。


 表紙の写真は『知立まつり』西町の山車(だし)です。二年に一度の本祭りであります。この写真をよく見ると一番高い所にいる人が器用に電線を持ち上げて、山車(だし)を移動させます。とても緊迫感や躍動感があり、あらためて日本文化の壮大さを感じております。


 先月は、釈尊降誕祭(花まつり)を執り行いました。信者の皆様には、お参りを頂きありがとうございました。この日はみんなで、お釈迦さまの誕生を祝う日でございます。私たちは、縁あって法華経に出会うことができました。これは偶然ではなく必然なのです。前世からの深い因縁でもって今世も信仰していると云えるのです。本当に有難いことであると思っております。


 さて、私がサラリーマンの時でした。Yさんは京都の有名国立大学の出身であります。とても頭の良い部下でありました。そのYさんが香川県の大学病院を担当しておりました。それで、第一内科(内分泌)の現教授(当時准教授)のI先生との面談の内容をOJT(上司同行)しました。I先生は大阪の有名国立大学のご出身ですが、Yさんの大学と比べますと見劣りします。彼の仕事内容を観察すると、YさんはI准教授を上から目線で会話をしておりました。非常にまずいことであります。MRは相手から情報を引き出すというスタンスでないといけないのであります。しかし、Yさんは、有名大学卒というプライドが大きな弊害となってしまいました。


 また、愛媛県の大学病院を担当していたMさんも同様のタイプでした。大阪の有名な国立大学を卒業しエリートそのものでした。しかし、彼も教授とのコミュニケーションが上手く取れませんでした。彼も上から目線であったのが大きな原因であります。いずれのケースにしろ、私たちは、仕事をさせて頂いているという基本的なことを忘れてはいけないのであります。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるように、信頼関係が出来ていると勘違いした結果がもたらした不始末です。常に基本を忘れてはいけないのであります。


 私たちは、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のごとく、稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということです。先ずは、人間は常に謙虚であれ。そして、信頼される性格と人柄が何より大切であります。その上で、真面目に正直に正確にタイムリーに実行できないといけないのであります。


 確かに高学力というのは重要な要素です。しかし、そういう姿を出さないのがプロであります。そして、大事な情報をさりげなく入手するテクニックが必要であります。スピーディでスマートでストロングな人材を開発しなければいけません。


 人生は一生勉強です。生涯教育なのであります。どんなことでも学びはできます。学ぼうと思う気持ちが無いと進歩はありません。そして、どんな苦労もやがて自分のためになると信じて生きることが、とても大切であると思っております。


 分別功徳品(ぶんべつくどくほん)(第十七章)に入りたいと思います。妙法広宣流布(みょうほうこうせんるふ)に邁進(まいしん)する人の人生がどるなるのか、それが説かれているのが分別功徳品(ぶんべつくどくほん)です。功徳とは、「利益(りやく)」のことであり、善い行い(善行(ぜんこう))には、福徳(ふくとく)を生じさせる「徳」が具わっております。そのことを「功徳(くどく)」ともいいます。


 要するに、善の「行動」そのものに「功徳」が具わっているということです。決して他から与えられるものではない。自分自身の生命の中から、自分自身の行動によって、泉のごとく滾々(こんこん)と湧いてくる。それが「功徳(くどく)」なのであります。


 また、功徳(くどく)とは、現代的にいえば、「価値」であり「価値創造(かちそうぞう)」ということであります。価値の内容は「美(び)」「利(り)」「善(ぜん)」です。その反対は「醜(しゅう)」「害(がい)」「悪(あく)」です。人間の生活は、だれもが、これらの「価値」をめざして生きているのではないでしょうか。働くのも、食べるのも、本を読むのも何らかの「価値」を得ようとしております。誰もが「幸福」を求めているのです。草木も自然に太陽に向かって伸びる。人間も、よりよき生活へと生きている。それは生命の本来の働きであります。意識しようとしまいと、人間は幸福を求め、価値を求め、功徳を求めています。これは、厳然(げんぜん)たる事実であります。


 仏法では、釈尊以来、「利(り)」を否定したことは一度もありません。「功徳(くどく)」を積むことを常に奨励(しょうれい)してきたのが仏法です。もちろん仏法の功徳は、目に見える「現世利益(げんぜりやく)」だけのことではありません。来世に繋(つな)がる「功徳(くどく)」を積むことも大切であります。


 人生は、主観視すれば「我が生命」であり、客観視すれば「我が生活」です。どちらか一方ではありません。例えば「所願満足(しょがんまんぞく)」と仏法では説きますが「所願(しょがん)」は、基本的に客観世界の「我が生活」に関係している。「満足」は主観世界の「我が生命」の満足です。この両者が冥合(みょうごう)すれば「所願満足(しょがんまんぞく)」であり、それが「幸福」であるのです。


 これまでの仏教は、欲望を滅することによって、「幸福」を得ようとしてきました。それに対し、法華経は「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」を説きます。煩悩という「生命エネルギー」を、悪の方向にではなく、善へ方向づけていく智慧(ちえ)を教えております。大いに欲張り、大いに目標を高くして、全生命を燃やしていけと教えているのです。大いに奮起しろ、大いに情熱を燃やしていけ、妙法を根本とすれば、全てが価値創造のエネルギーに変わります。これが法華経の哲学です。ともあれ、「功徳」といい、「罰」といっても、宗教の専売特許ではありません。万人の生活は、「功徳と罰」「価値と反価値」の連続です。そして、「いかなる境遇(きょうぐう)(客観世界)にあろうとも価値創造できる」大生命力を、我が生命(主観世界)に開発するのが法華経の真の目的であります。それが真実の「功徳(くどく)」です。


 寿量品(じゅりょうぼん)の説法を聞いた人々が、それぞれの境涯に応じて、さまざまな功徳を得ました。その功徳を十二段階にわたって分別(ぶんべつ)して(区別して)説いております。そこで分別功徳品(ぶんべつくどくほん)というのです。


 分別功徳品(ぶんべつくどくほん)は、こう始まります。「爾(そ)の時、大会(だいえ)は仏の寿命の劫数(こうしゅ)の長遠(ちょうおん)なること是(かく)の如(ごと)くなるを聞いて、無量無辺阿僧祗(むりょうむへんあそうぎ)の衆生(しゅじょう)は、大饒益(だいにょうやく)を得(え)つ」とあります。これは、その時、ここに集まった大勢の集いは、仏が、その寿命の劫(こう)の数が長いことを、このように説かれたのを聞いて、無量(むりょう)・無辺(むへん)・無数(むすう)の衆生(しゅじょう)は、大いなる利益(りやく)をえた。ということであります。この大饒益(だいにょうやく)の中身については、こう説かれております。『或(ある)いは不退(ふたい)の地(ち)に住(じゅう)し 或(ある)いは陀羅尼(だらに)を得(え) 或(ある)いは無礙(むげ)の楽説(きょうせつ) 万億の旋総持(せんそうじ)あり 或(ある)いは大千界(だいせんかい)の 微塵数(みじんしゅ)の菩薩有って 各各皆能く(おのおのみなよ) 不退の法輪(ほうりん)を転(てん)ず(中略) 是(かく)の如(ごと)き等(ら)の衆生(しゅじょう)は仏寿(ぶつじゅ)の長遠(ちょうおん)なることを聞いて 無量(むりょう)の無漏(むろ) 清浄(しょうじょう)の果報(かほう)を得(後略)』


 この不退(ふたい)の地に住する。「不退」とは退かないことであり、「前へ前へ」と永遠に前進できる境涯です。そして、「陀羅尼(だらに)を得」とは「聞持陀羅尼門(もんじだらにもん)」のことで、聞いた教えを忘れない力を得るということです。そして、「或(ある)いは無礙(むげ)の楽説(きょうせつ)」とは「楽説無礙弁才(きょうせつむげべんざい)」のことです。礙(さわ)りなく、自由自在に、相手の楽(ねが)うところに従って、正法(しょうほう)を説ける力のことです。「万億の旋総持(せんそうじ)」というのは「旋陀羅尼(せんだらに)」ともいいます。「旋(せん)」とは、比重の異なるものが混じり合っているのを旋回(せんかい)させて、遠心力で分離させることをいいます。ものすごい「回転(かいてん)」によって煩悩(ぼんのう)を分離(ぶんり)させ、昇華(しょうか)し、仏の偉大さを示してゆく精神力であると考えられます。「陀羅尼(だらに)」とは善を行ない、悪を止める精神力のことです。本当の安穏(あんのん)な境地(きょうち)は、悪と戦い続ける「大回転(だいかいてん)」の中にあるということです。「能(よ)く不退(ふたい)の法輪(ほうりん)を転(てん)ず」の「法輪(ほうりん)」とは、教えを「回転する輪」に譬(たと)えたものです。仏の教えを退くことなく弘めていこう、清浄(しょうじょう)なる教えをどこまでも伝えてゆこうという信心(しんじん)を表現しております。この後、多くの菩薩(ぼさつ)が八回生まれ変わった後に、この上ない完全な悟りに到達することが述べられます。同様に四回、三回、二回、一回とこの上ない完全な悟りに到達する、と続きます。そして、最後に「多くの衆生が皆、この上ない完全な悟りに到達したいという心を起こした」と、寿量品(じゅりょうぼん)を聞いた功徳(くどく)の紹介が締めくくられます。


 菩薩(ぼさつ)が得る功徳(くどく)が、さまざまに挙げられています。一見これらは「人によって、それぞれの段階の功徳しか得られない」ことを示しているように見えます。しかし、そうではなく、むしろ「どんな人にも功徳を与えられる」寿量品(じゅりょうぼん)の力用(りきよう)の大きさを示しているのです。菩薩行(ぼさつぎょう)によって得られる功徳(くどく)の全てが「寿量品(じゅりょうぼん)への信(しん)」に含まれているのです。


 我が生命は「宇宙の大生命」と一体であり、南無妙法蓮華経の功徳(くどく)とは、文字通り宇宙大に功徳(くどく)である。果(は)てが無い。限界(げんかい)が無い。分別功徳品(ぶんべつくどくほん)には四信(ししん)と五品(ごほん)を始め「如来(にょらい)の寿命の長さを知る功徳(くどく)」すなわち「永遠の生命を知る功徳(くどく)」が説かれているのであります。


 ゆえに、「信心(しんじん)」があれば、乗り越えられない苦難(くなん)などない。むしろ悪は悪として、苦しみは苦しみとして直視(ちょくし)する。そして、断固、戦う。どんな悪や苦難とも「戦える自分自身」を信ずるのです。そういう気持ちになれば、どんなことにも負けない「師子王(ししおう)の大生命力」を我が生命に湧現(ゆげん)できるのであります。


 『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践が大切であります。教祖・杉山辰子先生も常日頃より実践することを推奨されております。『慈悲』とは、博愛(はくあい)の精神で見返りを求めない愛情を注ぐことであります。『誠』とは、いつも素直になれる純白な心を持つことであります。『堪忍』とは、自分の力量を大きくすることであります。すなわち、大きな人間に成れということであります。私たちの日常生活の中に三徳の実践を取り入れることがとても大切であります。


 人生とは、一見、長いようで実は短いものであります。しかし、法華経の考えは、『永遠の生命』があるということを理解することが、とても重要であると説いております。そして、三世(さんぜ)を生きている自分が、そこに存在すると思うことであります。仏法が教えているのは、魂は永遠であるため、今を一生懸命生きることを推奨しております。そうすれば、必ずや『すばらしき人生』に到達できるのであります。


合 掌


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