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世界平和を
大樹
すばらしき人生42

六月は入梅の季節となります。例年、空梅雨の傾向は強くなっておりますが、最近では局地的なゲリラ豪雨のようにまとめて降るケースが増えております。勿論、大自然にとって恵みの雨は無くてはなりません。ただ、地球温暖化がもたらす負の影響が懸念されるところであります。集中豪雨には十分ご注意を頂きたいと思います。


 今年も早いもので半年が過ぎようとしております。何もしていないのですが、ただ漫然と月日が経過することに、何の疑問も持たないようになってくる自分が情けないのですが、何もないということは、裏を返せば、何も大きな問題がなく、大我無く過ごせている証拠であると思います。何もなく平凡な生活ほど、つくづく有難いと思わなければいけないのであります。普通に生かされていることに感謝をしなければいけません。


 この度は、九州熊本、阿蘇地区での甚大な大規模地震でお亡くなりになられた方々のご冥福を祈ると共に被災に遭われた方々へのお見舞いを申し上げます。


 私は、今回の地震で東日本大震災を思い出しました。あの忌々しい地震は津波と共に多くの方々の命を奪いました。平成二十三年三月十一日(金)午後二時四十六分に発生しました。あの時、私は会社の本社で仕事をしておりました。千代田区丸の内二丁目のオフィスの十二階です。震度六弱で、とても強く、また、とても長く横揺れが続きました。正直、立っていられる状況ではありませんでした。私は、過去これほど大きな地震に遭遇した経験はありませんでした。社屋ビルは免震構造のため、いつまでも揺れております。


 震度五を超えますと、全ての鉄道は止まってしまいます。私は、家のことが心配になりタクシーに乗り込み四時前に帰宅をしました。家具が三センチほど動いた程度で割れたり破損した被害も無く難を逃れることができました。


 ところが、運の悪いことに、娘が就職活動中で日本橋馬喰(ばくろ)町にいることを聞き、即、迎えに行きました。日本橋まで自宅から五キロ程度の距離なので、三十分も有れば迎えに行けると思い家を出ましたが、地震の影響もあり渋滞で一時間以上かかりました。そして、連絡しようにも携帯電話が繋がらないのであります。十回掛けて一回繋がるかどうかといったような状況でした。なんとか馬黒(ばくろ)町のエネオスを目指し迎えに行くことができました。しかし、今度は、家に帰る際に大渋滞に巻き込まれてしまいました。実際、車よりも歩いたほうが早い状況でした。まあ、これは想定内でしたので仕方がありません。結局、帰りは五時間以上かかってしまいました。地震直後には自転車が飛ぶように売れたそうです。家族に怪我や家の破損が無かっただけでも幸いであります。何もなかったことに大いに感謝した次第であります。


 岐阜県笠松町の蓮国寺(れんこくじ)に大きな黒御影の立派なお墓があります。教祖・杉山辰子先生のお墓であります。毎年、祥月命日の前月に宣教師一同でお墓参りをさせて頂きます。教祖さまの墓前でお経をあげさせて頂き、法公会の原点であります教祖さまに更なる感謝することを決意して参りました。


 皆さまのお楽しみの教祖祭を二十六日に開催いたします。乞うご期待であります。今年も例年の如く、豪華賞品を始めキッチン用品まで日常生活に欠かせないものを、選りすぐり準備させて頂きます。どうか、多くの信者の皆さまのご参詣をお待ち申し上げております。


 私がサラリーマンの時のことですが、二才年上の部下がいました。そのWさんは生真面目な性格で、丁寧というより、要領が悪いタイプでした。年の割には口下手で無口なほうでした。仕事の効率が悪いので、どうしても落ちこぼれのグループに入ってしまいます。私は、そういう性格のWさんの人間改革を試みました。基本的には、報・連・相を徹底的に実行させ、体得させることです。この基本をマスターすれば誰かが必ず助けてくれるのです。小我に執着し意地を張っている一匹狼では、何も会社に貢献できません。


 指導するにあたり、やはり年上の方ですから、謙虚な物腰で優しく対応することであります。上司・部下というトップダウンではそっぽを向いてしまいます。そして、相手に気づいて頂くよう、粘り強く丁寧に教育をしないといけません。単刀直入では人間関係を壊してしまいます。従いまして、物事を客観視してもらい、今の自分と比較してもらうように側面からアプローチすることがとても重要です。そうすれば、素直な気持ちになり、どうしたらよいのか気づくことができます。人は他人から注意されても素直に反省できないものです。だから、今の自分の活動が方針に則しているか、否かを気づかせることが極めて重要であります。


 それでは、法華経の随喜功徳品(ずいきくどくほん)(第十八章)に入りたいと思います。随喜功徳品(ずいきくどくほん)では「随喜(ずいき)」すれば「功徳(くどく)」があるということです。「喜んで」信心(しんじん)してゆけば、その分、大功徳があるということを教えております。信心する心が一番大切なのであります。前章の分別功徳品より、いよいよ「流通分(るつうぶん)」に入ります。「流通(るつう)」とは「流れを通わしめる」という意味です。まさに広宣流布のことであります。


 ところで「随喜」とは、「随順慶喜」の意義です。信髄して歓喜することです。「随」とは「信心」のことといってよいと思います。


 本章では有名な「五十展転(てんでん)」が説かれております。五十展転(てんでん)の功徳は絶大であります。このように説かれております。まず弥勒菩薩(みろくぼさつ)が「この法華経を聞いて随喜(ずいき)する者には、どんな功徳がありますか」と質問します。仏が答えます。如来滅後に法華経を聞いて随喜(ずいき)する者がいるとする。それが誰であり、年寄りでも、若者でも、町へ行き、田舎に行き、静かな所、にぎやかな所、いろんな所へ行って、父母、親族、友人、知人に対して、聞いた教えを、自分の力に応じて説く(随力演説(ずいりきえんぜつ))とする。そうすると、聞いた人々は、また随喜して、次の人に教えを語る。それを聞いた人がまた随喜して、教えを語る。このように「展教(てんきょう)」し「展転(てんでん)」していって五十番目の人に至ったとする。五十番目ともなると、随喜といっても、かなり薄まっていると思います。しかし、それでも、その人の功徳は絶大であるというのが「五十展転(てんでん)」の趣旨です。それでは、「八十年の布施(ふせ)」というのは、「四百万憶阿僧祗(まんおくあそうぎ)の世界」に住む、生きとし生ける者に対し、それぞれの欲しがるものを、何でも与える人がいたとします。金、銀、瑠璃(るり)、瑪瑙(めのう)、珊瑚(さんご)など、もろもろの宝を与え、立派な乗り物を与え、七宝で飾った宮殿を与える。八十年間、それを続ける。このように、「物」を与えるだけでなく、この人は、衆生がだんだん年老いてきて、髪が白くなり、しわが増え、死期が近づいてきたのを見て、仏法を教えるわけです。物を与えるのは「財施(ざいせ)」。法を教えるのは「法施(ほうせ)」です。物だけでは、どんなに豊かになっても、「老」そして、「死」という人生の根本問題を、どうすることもできない。そこに、法を教える必要性があるのです。もちろん、この大長者が衆生に教えた大法は、法華経以前の教えです。そこで教えを聞いた衆生は、皆、阿羅漢(あらかん)の悟りなどを得ます。声聞の悟りです。これだけの「財施(ざいせ)」と「法施(ほうせ)」をした人の功徳というのは、「どうだ、弥勒(みろく)よ、どう思う。大変な功徳と思うか」。仏がそう聞きます。弥勒は「この人の功徳は、はなはだ多くて、無量無辺(むりょうむへん)です」と答えます。


 すると仏は、「この人のその大功徳よりも、先ほど言った『五十番目の人が法華経の一偈(いちげ)を聞いて、随喜(ずいき)した功徳』のほうが、もっと大きいのだ」と説くのです。その、「百倍、千倍、百千万億倍」の、それ以上の無量の大功徳があるというわけです。


 第五十番目の人は、文字通り解釈すれば、自分が随喜(ずいき)するだけで人には語っていない。他の人に語る「他化(けた)」の行動は無いのです。それにもかかわらず。それだけの功徳がある。もっと歓喜(かんき)し、「化他流通(けたるつう)」に励む人の功徳は「無量無辺阿僧祇(むりょうむへんあそうぎ)にして、比(くら)ぶることを得可(うべ)からず(比べられない)」と説いてある。


 五十展転(てんでん)の説法の後、三段に分けて功徳が説かれております。第一は必ず物質的な幸福を得ること。第二は指導者となる福徳です。経文には誘うくらいでも、少しでも人に勧めたら、帝釈(たいしゃく)、梵天(ぼんてん)、転輪聖王(てんりんじょうおう)になる。第三に智慧が豊かになり、色心(しきしん)ともに健康をもたらす功徳がある。すなわち、境涯的にも、精神的にも、肉体的にも、そして、智慧も福徳も、すべて人がうらやむほど、自在の境涯になれる。まさに妙法の偉大さを感じます。


 「法華経の一偈(いちげ)」を聞いてとあるが、文底(もんてい)からいえば、「南無妙法蓮華経」ということです。御本尊ということです。御本尊の話を聞いて、「すごいな」「すばらしいな」「ありがたいな」と、思うことで大功徳がある。喜びにあふれ御本尊を拝し、妙法を力に応じ「広宣流布」をする人は、絶対に、祈りとして叶わざることなく、福運として来(きた)らざることなく願いとして所願満足(しょがんまんぞく)にならぬものはない。という文証(もんしょう)です。


 それでは、随喜功徳品(ずいきくどくほん)では、何に「随順(ずいじゅん)」せよと言っているのか。第五十番の人の随喜の功徳が、これほど大きいのだから、「随順する法」も、大長者(八十年の布施をした大長者)の与えた法とは比較にならない大法であることを示唆しております。しかし、経文には「是の法華経を」とありますが、実体が明らかではありません。要するに釈尊は法華経を説いて、何を信じ、何を本尊にせよといっているのか。それらが明らかでない。そこに「文底(もんてい)」の仏法が説かれなければならない理由がある。この品の冒頭に、「如来の滅後に」この教を聞いて、とあった。釈尊がもういない。それでは、衆生はどうすればいいか。釈尊を本尊にせよと法華経ではいっているのか。どこにも、そうはいっていない。そうではなく、釈尊自身を仏になした『仏因(ぶついん)』の法を本尊(ほんぞん)にせよというのが「法華経の心」です。結論からいえば、人法一箇(ひとほういっか)の御本尊に「随順(ずいじゅん)」していく信心(しんじん)が「随(ずい)」であり、その功徳が「随喜功徳(ずいきくどく)」なのであります。


 教祖・杉山辰子さまは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、南無妙法蓮華経と唱えることが、とても大事と仰せでございます。いついかなる時も唱えることの重要性を説いておられます。南無妙法蓮華経には熱いメッセージが込められております。南無妙法蓮華経と唱えれば「心が洗われる」「今を生きているという力が湧く」「人のためになることへの喜びがある」教祖さまには、誰にも負けない『強さがある』、『優しさがある』、『信念がある』、そういう生きる希望と喜びを教えてくれている。そして、教祖さまは『慈悲』 『誠』 『堪忍』の三徳の実践をすることが大事であると仰せでございます。誠に有難い教祖さまです。いや、そのような人格者だから教祖さまなのであります。


 お釈迦さまは、私たちに仏智でもって人間の尊厳を教え、堪忍する心を教え、許す心を教え、人のためになる心を教えております。そして、永遠の生命を生きることを教えております。三世を生きているということを実感することがとても大切であります。そう思えば今を大切に生きられる。そして、これから、もっともっと自分の魂が磨かれる。日々の努力が『すばらしき人生』を運んできてくれる。


合 掌


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