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世界平和を
大樹
すばらしき人生43

いよいよ本格的な夏がやって参ります。熱中症対策は万全でしょうか。小まめな水分補給が欠かせません。今年に入り例年の気象状況と違うような感じがします。おそらく四十度を超す地域が増えると思います。信者の皆様には、くれぐれもご自愛下さいます様お願いいたします。


 七月といえば七夕まつりが全国で繰り広げられます。また、八月に開催する所もあり、さまざまです。そして、各地で花火大会が開催されます。世界一大きい花火は四尺玉です。とても迫力があります。日本の文化の素晴らしさをしみじみ感じます。この夏の風物詩など伝統を守ることはとても大切であります。日本に平和が続く限り次世代に引き継がれることでしょう。


 教祖祭には多くの信者の皆様にお参りを頂きまして、ありがとうございました。日常必需品の景品を準備させて頂き、皆様には抽選会で盛り上がったこと、心より感謝しております。八月には盆施餓鬼先祖大法要会を開催いたします。私たちは、常日頃より先祖への感謝と供養を忘れてはいけません。どうか多くの信者の皆様のご参詣を、心よりお待ち申し上げます。


 さて、私がサラリーマンの時でした。個性的なドクターがおられました。とにかくカラオケが好きで好きで、どうしようもないぐらい大好きなE先生でした。私たち製薬メーカーのMR(営業)はユーザーに認められ信頼されなければなりません。従いまして、カラオケのお供も仕事の内であります。そして、E先生はスナックやラウンジにはあまり興味がありませんでした。どちらかといえば、カラオケボックスで歌を歌い、自分の歌声に酔いしれてしまうタイプでした。要するにナルシスト的な要素がとても強い方でした。普段はカラオケを四時間歌います。そして、更に延長三十分を追加することが多くありました。会社からは応援を二名出しE先生と四名でのカラオケとなります。一時間に十五曲のペースですので、四時間半で六十八曲前後、歌う計算になります。そうすると一人、十七曲前後を歌わないといけません。結構、ハードな仕事であります。そして、最悪のケースになりますとE先生と二人という場合もあります。それは半分しごきに近いような状況すら感じますが、最終的にドクターが満足してくれなければ、何の意味もありません。一生懸命精進することが何より大切であると実感しました。


 仕事とはいっても遊びの話だけでは通用しません。相手への信頼を勝ち取るために、自分のできることの最大限を発揮することです。それが理にかなっているか、否かは相手次第なのです。どんな相手に対しても対応できる引出しを多く持っている人が最終的に勝ち組になるでしょう。


 法華経の法師功徳品(ほっしくどくほん)(第十九章)では、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」が中心的なテーマです。眼(げん)・耳(じ)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根が清浄(せいじょう)になる功徳を説いております。六根とは「小宇宙」の我が生命と「大宇宙」との接点です。大宇宙と小宇宙が「関係」する入り口であり、また出口です。この六根が清浄になるということは、自分の生命が大宇宙と完全に「調和」し、そのリズムに合致していくことです。


 だから、悠々(ゆうゆう)と行き詰まらない力が湧いてくる。大宇宙に闊歩(かっぽ)してゆく自在の大生命となる。これが「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」であり「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」です。


 私たちは環境に負けない強い生命力を持つことが大切であります。「強い」人は「幸福」であります。ただし、「強さ」というのは相対的なものです。環境と自分の生命力との「関係」です。生命力が弱いと、つまらないことにもイライラし、左右され、行き詰まり、不幸を感じます。しかし、生命力が拡大すれば、少々のことでは問題を感じず、行き詰まらなくなってゆくのです。


 法華経とは、何があっても行き詰まらない宇宙大の生命力を教えた経です。無限に湧いてくる大生命力を全人類に与えるのが。この仏法です。ゆえに、妙法への「信心が強い」人こそ、最高に「強い」人であり、最高に「幸福」な人であります。


 幸福とは、環境と自分の生命力との「関係」で決まる。悪い環境に支配されたら不幸。悪い環境でも、こちらが支配し左右していけば幸福です。だから、「生命力の強い人が幸福」といえるのです。それを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」というのです。広宣流布に励む人、すなわち「法師(ほっし)」は、生命が浄化され、強化される。「生命の偉大化」です。これが法師の功徳です。


 法師功徳品では冒頭、釈尊が「常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)」に呼びかけます。「爾(そ)の時、仏は常精進菩薩摩訶薩(じょうしょうじんぼさつまかさつ)に告(つ)げたまわく、『若(も)し、善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)は、是(こ)の法華経を受持(じゅじ)し、若(も)しくは読み、若(も)しくは誦(じゅ)し、若(も)しくは解説(げせつ)し、若(も)しくは書写(しょしゃ)せば、是(こ)の人は当(まさ)に八百の眼(まなこ)の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意(い)の功徳を得(う)べし。是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆な清浄(しょうじょう)ならしめん』」と始まります。


 ここで、法華経を「受持(じゅじ)し」「読み」「誦(じゅ)し(暗唱し)」「解説(げせつ)し」「書写する」という五種の修行が出てきます。「受持」とは不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信心(しんじん)です。御本尊を奉り、広宣流布に邁進(まいしん)することが「受持」です。それが「常精進(じょうしょうじん)」です。日々、広宣流布であり、生涯、広宣流布であるのです。その信心によって、六根清浄(ろっこんしょうじょう)になってゆく。


 眼根清浄(げんこんしょうじょう)ですが、「是(こ)の善男子・善女人は、父母の生(しょう)ずる所の清浄の肉眼(にくげん)もて、三千大千世界の内外(ないげ)のあらゆる山・林・河・海を見るところ、下阿鼻地獄(しもあびじごく)に至り、上有頂天(かみうちょうてん)に至り、また其の中の一切衆生(いっさいしゅじょう)を見、及び業(ごう)の因縁・果報の生処(しょうしょ)、悉(ことごと)く見、悉(ことごと)く知らん」とあります。


 これは父母からもらったこの「肉眼(にくがん)」で、宇宙のどんな山林も河も海も見えるし、下は阿鼻地獄(あびじごく)から上は有頂天(うちょうてん)(天界の最高位)までの全ての衆生を見て、その過去世、未来世まで見抜けるというのです。いわゆる洞察力です。見えない心を『見抜く』力なのです。


 「眼根清浄(げんこんしょうじょう)」について、重ねて釈尊が説いた偈(げ)に、こうあります。「若(も)し大衆の中に於いて 無所畏(むしょい)の心を以て 是の法華経を説かば 汝(なんじ)は其の功徳を聴け」これは、大衆の中に飛び込み、畏(おそ)れるところなしの心で、布教していく時に、眼根清浄(げんこんしょうじょう)の功徳を得るのです。必ず「智慧(ちえ)の眼(まなこ)」が開けてくるのです。


 「耳根清浄(じこんしょうじょう)」の人は、世界のあらゆる声を聴くことができると説いております。地獄の衆生のうめき声から、仏が衆生を救う慈悲の声まで、世界には、ありとあらゆる声が満ちている。「耳根(じこん)の功徳」を得た人は、それをことごとく聞くことができる。「声」を聞いて、生命の本質が聞き分けられるということです。また、仏の獅子吼(ししく)を聞けるということは最高の幸福です。魔(ま)を打ち破ってゆく大音声(だいおんじょう)なのです。


 法師功徳品(ほっしくどくほん)には「其(そ)の耳は聡利(そうり)なるが故に 悉(ことごと)く能(よ)く分別(ぶんべつ)して知らん」とあります。生命の境涯を聞き分けられることなのです。「聡利(そうり)」とは「聡明(そうめい)」と同じ意味ですが、「聡」の字にも「耳」が入っている。「耳」が聡(さと)いことを「聡」といい、「目」が明察(めいさつ)できることを「明」という。従いまして、「耳根清浄」とは『心の声』を聞く能力なのであります。


 「鼻根清浄(びこんしょうじょう)」については、「是(こ)の法華(ほっけ)を持(たも)たん者は 香(か)を開(か)いで悉(ことごと)く能(よ)く知らん」とあります。あらゆる香りを嗅ぎ分ける力を説いております。ともあれ、その人には、その人ならではの香りがある。「心の香り」「生命の香り」があるのです。一心に勉強し、努力し、向上している人には「努力の香り」「鍛錬(たんれん)の香り」がある。反対に、堕落した安逸(あんいつ)な生活をしていれば、何となく全身から、嫌な腐臭(ふしゅう)のようなものがこぼれてくる。それが分かるのが「鼻根清浄(びこんしょうじょう)」なのです。


 「舌根清浄(ぜっこんしょうじょう)」ですが、「若(も)し舌根を以て大衆の中に於いて演説する所(ところ)有(あ)らば、深妙(じんみょう)の声を出(いだ)して、能(よ)く其(そ)の心に入れて、皆な歓喜し快楽せしめん」とあります。「舌の功徳」には二種類あります。一つは「何を食べてもおいしく感じられること」。もう一つは「法を説く、その人の声を聞いて、皆が歓喜すること」です。とにかく「語る」ことであり、「声を出す」こと。そして、人を元気にさせる『声』を出してゆくことです。広宣流布の「声」を聞かせて、歓喜させることなのであります。


 次に「身の功徳」を説いております。「身根清浄(しんこんしょうじょう)」です。「清浄(しょうじょう)の身の浄瑠璃(じょうるり)の如くにして、衆生の見るを喜ぶを得ん」。誰もが見たがるような、気品のある姿になるということです。浄瑠璃(じょうるり)というのは、磨き抜かれた透明な瑠璃(るり)のことです。明鏡(めいきょう)のように、「生命が輝いている」ということでしょう。そういう人が一人いると、周囲まで明るくなるし、さわやかになってゆく。「太陽」のような存在になれるということです。


 「身の功徳」のもう一つは、清浄(せいじょう)な身であるゆえに、『浄(きよ)らかな鏡に一切が映るように、十界のあらゆるものが、その身に映(えい)じる』という功徳です。


 最後に「意根清浄(いこんしょうじょう)」です。経文の「一偈(いちげ)、一句(いっく)」を聞いただけで「無量無辺(むりょうむへん)の義(ぎ)」を分かるようになるとあります。また、その一偈、一句の意義を一ヶ月でも、四ヶ月、一年でも、自在に説いてゆけるし、説くところの法は「皆な実相(じっそう)と相違背(あいいはい)せじ」とあります。この内容が全て宇宙の真理にかなっている。「若(も)し俗間(ぞくけん)の経書(きょうしょ)、治世(じせ)の語言(ごごん)、資生(ししょう)の業(ごう)等を説かんも、皆な正法に順ぜん」とあります。世俗の思想や、政治、経済、産業、生活等のことについて語っても、全て正法にかなっている。それが「意根清浄(いこんしょうじょう)」の功徳なのです。


 結論すれば、六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは「全身これ広宣流布の武器たれ」ということです。不自惜身命で広宣流布をしていく時、限りの無い生命力が全身にしみわたってくる。智慧も湧いてくる。慈愛も湧いてくる。元気も湧き『生きる喜び』が満ち溢れてくる。


 この法華経を根本とするならば、どんな悩みも、全部「価値」に変えていける。「功徳(くどく)」に変えていける。その大生命力を『法師功徳(ほっしくどく)』というのであります。


 教祖・杉山辰子先生は世のため、人のため東奔西走されました。全ては『慈悲』 『誠』 『堪忍』するこであると仰せであります。人に施す気持ちは世界の誰よりも強くお持ちであったと思います。そして、南無妙法蓮華経と唱えることが最も大事ともおっしゃっておられます。そうすれば災難や事故から免れることができるのです。私たちも常日頃より妙法蓮華経の五文字を何時、如何なる時でも唱えるようにすることであります。


 そして、仏の永遠の生命を知る必要があります。三世を生きているということを理解し、現世だけを生きればよいという考えを捨てることです。そして、輝く来世に向け、今を一生懸命生きることであります。そうすれば必ずや『すばらしき人生』に到達できるのであります。


合 掌


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